石巻日日(ひび)新聞は、東日本大震災で、自らの社屋も大被害を受けたにもかかわらず、手書きした新聞を避難所など6箇所に張り出した。
20110426の朝日新聞・朝刊では、そのことを知った米ニュージアムが、これらの壁新聞を展示して、その後永久保存すると報じた。
凄いなあ、と感心させられた。プロ魂か、メデイアに携わる人間としての使命感か。情報を社会にもたらす重要さを、もう骨の髄まで染み込んだ人たちなのだろう。
その記事をここに転載させてもらう。
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手書きの壁新聞
歴史の一ページに
東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県の夕刊紙・石巻日日新聞が発行した壁新聞が、5月2日から米ワシントンのニュース総合博物館ニュージアムで展示される。輪転機が使えず、印刷用ロール紙に油性ペンで手書きした新聞が、ハリケーンで被災しながら発行をつづけ、「地域紙と社会の絆を示した」米紙とともに、報道の歴史に新たな一ペ0ジを開いた。
米ニュージアム収蔵 石巻日日新聞
3月11日午後。その日の編集作業が終わったあとだった。日日新聞の本社は経験したことがない揺れと津波に襲われた。武内宏之・報道部長(53)は、「津波で流されている車の中の人が窓をたたいていた。これが本当に現実なのか--------」と振り返る。
その夜、武内さんと近江弘一社長ら幹部が集まった。停電と断水。輪転機が浸水し、印刷ができない。6人の記者のうち連絡が取れない者もいる。明日、新聞は出せるのか。だが、近江社長の判断は明快だった。「紙とペンがあればいいんだべ。できるべ」。こうして、ロール紙をカッターで切った壁新聞の発行が決まった。
日日新聞は来年、創刊100年を迎える。戦前・戦中の政府の新聞統制で紙の配給が絶たれ、発行停止に追い込まれた時期があったが、武内さんは「先輩記者たちは、自分たちの思いを紙に書いて配ったと聞いた」。100周年を目前に自分たちで発行を止めたくはない---------そんな思いも彼らを駆り立てた。
だが取材用の車が流され、携帯電話も通じない。胸のあたりまで水につかり、災害対策本部で集めた情報のメモを、記者がポリ袋に入れて頭に載せて持ち帰り、それを元に本社で原稿を作るしかなかった。
「情報量は少ない。現場を自分の目で見られず、悔しかった」という壁新聞だが、避難所など6箇所に張り出すと、「なんだなんだ」と被災者がスタッフを囲んだ。「皆、情報に飢えていた。食料、水の次は情報だったかもしれない」と武内さんはいう。
電気が通じた会長宅にパソコンを持ち込み、A4判の「コピー新聞」が出せるようになるまでの6日間、壁新聞発行は続いた。最初の12日付の大見出しは「日本最大級の地震・大津波 正確な情報で行動を!」。最後の17日付は「街に灯り広がる 電気復旧1万戸超す」だった。
彼らの活動を22日付の米紙ワシントン・ポストが取り上げ、ニュージアムのオンラインエディター、シャロン・サヒードさんの目に留まった。サヒードさんは、約300人のニュージアム職員でただ一人、日本語の読み書きができるブライアン・西村・リーさん(49)に知らせた。
韓国系の父を持ち、博多に生まれたリーさんは「電気も水道もガスもない極限的な状況で情報伝達を続けた彼らは、ジャーナリストのかがみだ」と思った。「ここで保管すれば世界中の人に、ジャーナリストとしての彼らの姿勢を見てもらえる」と、壁新聞の寄贈を電子メールで日日新聞に要請。近江社長は「交通が途絶えていてすぐには送れないが、かけているものも探して送る」と快諾した。
4月11日、6日分の壁新聞7枚が郵便でワシントンに届いた。「大きくて、ずっしりだった」とリーさん。ニュージアムの役員らが集まる会議で見せたら、「とても重要な収蔵品になる」と展示が即決された。
ニュージアムでは、2005年にハリケーン・カトリーナの直撃を受け、一時、電子版だけの発行に追い込まれたが3日後に印刷を再開したルイジアナ州ニューオリンズのタイムズ・ピカユーン紙の報道ぶりを紹介する特別展も開かれている。展示の言葉は、日日新聞の報道姿勢に重なる。「新聞の重要さを読者に思い起こさせ、地域紙が社会との間に強い絆を持つことを示した」(ワシントン=勝田敏彦)
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ニュージアム
ニュースとミュージアムをかけた言葉で、ニュース報道に関する資料や映像を収集・紹介する博物館。米ワシントンにあり、米大手メディア関連の非営利団体が中心となって運営する。過去500年間に発行された3万5千点に及ぶ歴史的な新聞の1面記事を収蔵する。1970年にベトナム戦争中に亡くなったカメラマンの沢田教一さんや87年に朝日新聞阪神支局で銃撃された小尻知博記者ら取材で命を落としたジャーナリストを追悼する展示室もある。