20130422の朝、月曜日。毎週月曜日08:30からは、前の週にあった業務上の全ての洗い出しをスタッフ全員で行う定例会だ。
朝飯を終え新聞を読み終え、テーブルを離れようと椅子から立ち上がった時に、腰に電流が走った。懐かしいが、恐れていた電流だ。同時に愕然として跪(ひざまず)き、両手を床についた。この電流が、何を意味し、これから何をもたらせるかを十分解っているだけに、暗然とした。それでも、大事な月曜日、歯を食いしばり腰を折り曲げて出社した。
さかのぼること30年前、35歳の頃、デスクワークの最中に腰に痛みの前兆が遠くからトカトントン(これ、太宰治氏より拝借)、激震に襲われた時には床に屈していた。額に脂汗たらたら。これが、我が生涯、最初の腰痛との遭遇だった。腰をくの字に曲げたままタクシーに乗せられて病院直行。付き添ってくれた先輩は笑っていた。その後、勤めていた会社を辞めることになるが、その辞める遠い、遠い原因がひょっとしてこの腰痛のせいだったのではないか、と今は思う。気力が一時的に萎えたのだろう。
その後10年、45歳の頃に再び強烈な腰痛に襲われた。私は独立していた。この時は、左の足の股の付け根から指先まで完全にマヒした。棒で叩いても痛さを感じなかった。大きな総合病院に入院した。その病院の治療方法はボックス注射と腰痛体操の繰り返しだった。同病の友人が手術で完治した例を医者に告げて同じ処方を訴えたが、病院の方針で受け入れられなかった。
それならば、腰痛は自分で治すしかないと覚悟して、自ら申し出て退院し、それからの私は気合が入っていた。早朝、犬の散歩のついでにベンチや鉄棒のある公園で腹筋、背筋の体操を繰り返した。お陰で、その後は全く腰痛知らず、腰痛を患う知人に偉そうにアドバイスを垂れていた。
そして、2008年のリーマンショック、今から5年前のことだ。規則正しく健康管理をしていた日常が、営業不振、資金繰りに追われて、一気に反転した。弊社にとっても驚天動地の大事件。何度もこの類のショックには果敢に闘い、何とか難を逃れてきたが、このショックは、会社の規模が拡大基調にある最中だっただけに、受けたダメージは深かった。
日常の生活は激変、精神的ストレスが重く、自由に意図的な行動が少なくなった。犬の散歩も余裕なく短時間で引き上げ、考え込むことが多くなった。それだけに運動量が減った。怠惰の始まりだった。
20110310、東日本大震災の前日、スタッフの短君と相模原の物件の内見の帰り、車中で腰に激痛を感じ、仕事を断念して自宅まで送ってもらった。その翌日11日は会社を休んだ。そして地震だ。腰を伸ばすことも、起き上がることもできなかったのに、本棚が今にも倒れそうに揺れているのを、起き上がって押さえた。火事場のバカ(糞)力だ。オシッコは、風呂場まで四つ足で這いつくばって行き、犬のように後ろ足を上げて済ませて、水で流した。かって貯め込んでいた腰周りの腹筋背筋力はこの日までに全てを使い果たしたようだ。
今回の腰痛が発生した22日の前日、4月21日は日曜日で昼から、長女の家でバーベキュをした。私は午前中で仕事を終え、スタッフに、頼むわ悪いなあと言って会社を出た。
朝から、強い寒風が吹き冷たい雨が降っていたので、どうするんだと電話で尋ねたら、予定通り、と強く言い返され、罰悪く感じて尋ねたことを後悔した。
長男は海外に出張中なので、4人の子どものうちの3人の子どもとその相方、それらのカップルの間に生まれた5人の孫が集まっていて大層賑やか。孫たちは従兄妹同士、いつまでも仲良くして欲しいと思う。
男衆は長女の夫の主導で、屋外の屋根のかかった広場で、肉や野菜を焼いた。焼けるたびに室内の子どもや女衆に運んだ。私は焼く手伝いもせず、ただ、ワインや焼酎を飲みながら孫たちと遊んだ。
この時の冷たい風に体はすっかり冷えたのだろう。これが、翌日に腰に火を点けたのだ。それに加えてこの5年間の運動不足だ。東日本大震災の後、腰痛予防の体操や腹筋、背筋のトレーニングにも努力しなかったばかりか、意識もしなかった。自覚が薄れていたのだろう、歩数計が小さい数字を示しても何とも思わなくなっていたのだ。
腰痛の最大の原因は怠惰だ。