映画「三たびの海峡」で主人公を演じた当時=1995年
万年ヒラのサラリーマンであるハマちゃんは、上司の佐々木課長に教わった釣りにすっかりハマ?ってしまう。その入れ込み方がまさに釣りバカ状態。ある日ハマちゃんが釣りに誘った初老の男性が「スーさん」だった。ところが、このスーさんの正体は、ハマちゃんが勤める会社『鈴木建設』の社長・鈴木一之助だったのである。味わい深い社長サンだ。このシリーズの何本かを正月映画として観た。この社長とハマちゃんを中心に、それぞれの家族や社員が繰りなすドタバタ劇が、「釣りバカ日誌」として人気シリーズになった。
その社長さんに扮していた三国連太郎が、14日に亡くなった。この三国連太郎という男の翳(かげ)に魅(ひ)かれ、不思議な人間だと、ずうっと思っていた。人に歴史あり、その歴史が顔を作る。被差別部落で育った。この俳優の原風景はどのようなものなのだろうか、と思い続けていた。大学時代に観た「飢餓海峡」が頭から離れない。戦後の暗いどさくさの世を生き延びるために殺人を犯し、果てには会社の経営者になる冷徹な人間を演じた。
釣りバカ日誌11
20130417の朝日朝刊・文化に石飛徳樹氏の「三国連太郎さんを悼む」の文章が載っていた。それをそのまま転載させてもらった。この文章の中に、私が気にかけていた三国連太郎の心象の一部を垣間(かいま)見えた。
14日に亡くなった俳優の三国連太郎さんは90年の人生を、差別や不条理が存在する社会への怒りをもって生き抜いた。その怒りが、俳優としての破格の大きさになって結実していた。
「三国さんは自分たち俳優を遊芸民と称していた」。民俗学者の沖浦和光さん(86)は振り返る。中世以降、芸能に携わる人々は、何も生産しない民としてしばしば差別を受けていた。
長年親しかった三国さんとは「『芸能と差別』の深層」(ちくま文庫)という対談集を出している。「観客を魅了したあの名演技は、闇の部分が多い複雑な実人生の投影であることが分かります」この本の中で三国さんは、「親父の田舎」の由緒について触れている。
「中学の頃からなぜ自分がのけ者にされるのか理不尽に感じていたと話していた。役者になってから、柳田国男や折口信夫をはじめ観阿弥・世阿弥など芸能史について幅広く勉強されていました」
三国さんの思い入れが特に強かった映画は、今村昌平監督の「神々の深き欲望」(1968年)だったという。「沖縄の土着的な文化と近代化の間に起こる差別を、初めてまともに描いた作品だと思う。三国さんは、監督が完璧主義で納得いくまでOKを出さず、撮影に1年半かかった、と話していた」
戦時下に日本へ強制連行された朝鮮人に扮した95年の「三たびの海峡」も三国さんらしい映画の一本だ。神山征二郎監督(71)は言う。「皇民化教育の時代に育ち、青春を送った人だから、戦争に対する憎悪はすさまじいものがあった。抑圧されている者の怒りが、単に役柄を演じている以上の迫力でひしひしと感じられた」
脚本の読み込みも尋常ではなかった。「撮影のある日は毎朝、赤鉛筆で直した台本を見せられた。そこまでこだわる俳優は、ほかに会ったことがない。若い頃の苦労が俳優としての生き方の強いバネになっていたのでは」
神山監督は、日本にはいないタイプの器の大きな俳優だったとも話す。「なぜ戦争が駄目なのか、という大きな思想をきちんと語れる方だった。マーロン・ブランドをほうふつさせる」
ブランドの持つ存在感や威厳は、確かに三国さんに近いものがある。アカデミー賞主演男優賞に決まりながら受賞を拒否したが、その理由は「ハリウッドの少数民族への差別」だった。
「三国さんがもっと活躍できる幅の広さを今の日本映画が持てていなかった」と神山さんは残念がった。
「神々の深き欲望」の三国連太郎(左)=日活提供