2006年10月21日土曜日

安吾さん、お久しぶり

坂口安吾さんが、昨日、天声人語に




18歳から24歳まで、私は、精神的に放浪生活状態だった。二十歳まで、素浪人月影兵庫(当時のテレビドラマのタイトルです。私は、当時、自分のことを、このように言いふらしていました)だった。


1日24時間のうち土方「どかた=肉体労働,若しくは肉体労働者のこと」3分の1、勉強24分の1、享楽3分1、あとは惰眠の生活だった。


経済的には貧乏だったが自立はしていた。


精神はさ迷いながらも、充実感はあった。生きている実感は強かった。


坂口安吾さんの本を初めて手にしたときは、彼の強烈な個性に驚かされた。


瞬間、密着したくなりました。天国の彼は、嫌な顔をしただろうが。


堕落論、日本文化私観、短編小説、探偵物は特に面白かった。でも自伝風小説に、付き合うには苦労した。どだい、面白くなかった。


お馴染みの、ロイド眼鏡をかけて卓袱台の原稿にむかう安吾さんの写真は、すっかり、私の脳裏に焼き付けられた。


裏日本の冬の海岸、荒波を背に、寒風に吹かれて歩く、マンとのオジサンがとっても好きになってしまった。


「法隆寺なんか、糞喰らえだ」なんて、安吾さん風に言っちゃっては、お蔭様で、いい酒を飲まして頂いた。


反骨精神、山盛り。


肝っ玉の小さい私に、勇気をいっぱい与えてくれました。


大学での4年間、私の精神の心棒だった。文庫本は少なかった。単行本は古本屋で買い漁った。





安吾さんとほぼ同時期の作家が、何故か、当時の私を虜にしてくれました



太宰 治さんの人間としての優しさ、弱さに泣かされた。


織田作之助の市井の人情戯作物に笑わされた。


田中英光には漕艇選手の純愛シリーズに心ときめかされ、後、労働争議からの脱落・失望に、同情させられた。


太宰 治さんからは、井伏鱒二さん、亀井勝一郎、奥野健夫、三島由紀夫、を紹介して頂きました?。




その安吾さんが、天声人語に登場したものだから、書き写しておこうと思った。



天声人語 2006年10月20日 朝刊


「走高跳 坂口 一米五七 一等」。後に作家となる坂口安吾は、1924年、大正13年の秋に東京で開かれた全国中等学校陸上競技大会で優勝した。それを伝える本紙からの抜粋だ。この日は大雨で、助走路の状態が悪かったという。他の選手たちが左足で踏み切るところは、水たまりになっていた。「私はそうでないところでふみきるから、楽々と勝った」。安吾は右足からの踏み切りだった。「「世界新記録病」『坂口安吾全集』筑摩書房9.運動に熱中していた17歳のころの、青春の記録だ。安吾は、ちょうど100年前の1906年10月20日に新潟市で生まれた。













新潟市は今年、生誕100周年を記念して「安吾賞」を創設した。安吾のように、反骨精神で社会に挑戦し、感動や勇気を与えた個人や団体が対象で、劇作家の野田秀樹さんが初の受賞者となった。戦後、「堕落論」などで注目された安吾の反骨ぶりは、並大抵ではない。「表現されねばならないことは、ただ一つ、自由の確立というだけ」と述べている。自由の確立とは、権威や組織に頼ることなく、自らの意思で生きることだろう。結果については、すべて自らが背負う覚悟が要る。安吾は、凡人ならたじろぐこの厳しい世界に、ずいっと入ってゆく。それは、まずまねのできないことだ。しかし、誰の人生にも、ひょっとしたらそんな瞬間はあったのではないか。そう感じさせるところが、安吾の生と文学にはあるようだ。なにものかに管理される社会が続く限り、安吾は読み継がれてゆくだろう。

                       以上