2006年9月30日土曜日

小(子)魚は、大型鯉にいじめられている?

小(子)魚は、大型鯉にいじめられている?  

 昨今、横浜市内に流れるどの川にも、鯉が、もうぎりぎりまで大きくなった鯉が、群れをなしているのをよく見かけます。

異常な光景だと思うのは私だけではないと思う。     

 

鯉は住む環境によって、広ければ広いだけ大きくなって、狭ければそれなりの大きさまで大きくなって、それ以上は大きくならないものなのですか? 


目黒の田中角栄邸の鯉は、今、川で泳いでいる鯉ほど大きくなかった。


よっしゃ、ヨッシャと幾らロッキードから貰ったお金で上等の餌を与えられても。




私が子供の頃、川辺の水際には草が茂っていて、そこはちょうど魚の棲家になっていて、人間どもからの隠れ家? だ。


その棲家をカゴやザルで漁ったものです。


シジミから、タニシ、ハヤ、ドンコ、ゲンゴロー、ドジョウ、ボケ(正式な名称ではないと思われる)、トンボのヤゴなど、たくさん捕れた。


夏には、水泳場になった。


潜った。


岩場でのウグイの手掴みは、もっとも得意とした。村じゅうの子供達の誰よりも上手だった。


素潜りだから、潜っていられる時間はせいぜい1分以内だ。両手を合わせて網のように広げ、獲物の身動きできる範囲を狭めていく、最後には魚を手で岩に押し当てるようにして捕まえるのです。


網(田舎では、カスミと言った)をかけた。


網を横切ろうとした魚は、網目に首を突っ込むと、もう逃げられない。


もう一つ漁獲法があった。ガラス製とポリ製のものがあって、その容器のなかの餌を食いに来た魚は一旦入ってしまうと出られないような仕組みになっている。


その容器のことを、田舎ではモンドリと言っていた。正式な名称は知らない。


川は、私の幼少時の成長過程において、欠くことのできないフィールドだった。




コンクリートの堤防の上から、眺めるだけになってしまった川。


私達の暮らしから遠ざかってしまった、風景の中のモノとしての川。そこに、大きな鯉の登場。


水質がよくなったのですよと言いたいのか、はたまた水質はまだまだだけれども、こんなに鯉が生きているのだから、もうセーフの段階にきているんですよ、のキャンペーンに利用されているのではないか。いや利用している奴がきっと居るのではないか、と詮索したくなる。




私は小《子》魚や、いろんな虫たちのことが気になるのです。


川上に向って大きな口を開けた大きな鯉に、みんな吸い込まれてしまいそう。間引きが必要なのではないか? と思う。


もともとの、かってそうだったような、自然な生態系をとり戻すべきではないのか。


たまに釣りをしている人を見つけては、その釣り人に声を掛けるのです。


「お願いですからそんな小さい魚を釣っていないで、あのデッカイ鯉を釣ってください」


何もかも飲み込んでしまいそうな鯉が腹立たしいのです。


大きい鯉だけが堂々と、でしゃばるんじゃねえ~よ


(おじさんは、怒っている!のだ)


大きい鯉だけが加護されていいわけない。スマンなあ!鯉さん、あなたに、罪はないんだが。




さあ みなさん!! 


竿に釣り糸を、糸に釣り針を、その針にミミヅかウドンを付ければ、高度なテクニックは必要ない。


飯粒だってオッケーだ。


難なく釣れますよ。


大漁、間違いなしだ。




これ、よくないこと? 法に触れること? 


読者のみなさん、私に、どうすればいいのかを教えてください。


以前、鎌倉で(鯉を捕ってはいけません)の看板を見たことはあるのです。


この看板の意図する、法的根拠は、如何に? 


今から38年前、田舎を出る際、今は亡き母が、ゼッタイ警察のお世話になることだけはしないでくれ、と言われた。


そのことが頭から抜けない。


学生運動ではうまく逃げ切った。私がお縄頂戴されないように、どうか、この私の挙げたコブシの収め方を教えてください。


社業においても、私生活においても、厳格に法令順守を行っています。




さすが、良識ある行政庁では、コンクリート一辺倒の護岸工事から、遠い昔の姿に戻そうとする気運が高まってきて、現実に、土と草に生い茂った岸辺が復活している所がある。


嬉しいことです。


川岸に人が近づきやすくなり、川も普段の我々の生活のなかに戻ってきようとしてきたのです。


で、そこでだ。


川の中、水の中はどうだろう? 小魚やいろんな虫たちはどうだ? 大きな鯉に脅えている。


冒頭の課題に再び戻る。


生物の連環は、理解できても、それにしても、大きい鯉が多過ぎるのではないでしょうか。


水中にも、普通の生活が蘇って欲しい。




志ある研究家殿、学術的な調査をお願いしたい。