先月の20日(202001)に生まれ故郷に帰った。
懐かしい風がなびき虚(うつ)ろな陽が静かに差す、視野の遠向(おおむ)こうから山々峰々が私の名前を叫ぶ、馴染み深い古里に帰ってきたのだ。
この旅は何の旅なんだろう。
私は何を知りたくて田舎まで帰ってきたのだろうか。
大学時代までは、勉学にしてもサッカーにしても小谷(こたに)あり大谷(おおたに)ありの土砂降りの底辺での生活だった。
社会人になってからは、4年間の在学中ものの見事に校舎に出なかった割りには、上げ下げ急ピッチの充実した人生だった。
深夜バス 横浜発:22時30分 京都着:6時
郷里というのは、京都府綴喜郡宇治田原町南亥子。
京都府と滋賀県の境界(国境)が私の生まれ故郷。
京都から5里、近江の大津から5里、そんなことで昔は5里5里の村と言われていた。
JRの宇治駅から1時間ほど宇治の町を彷徨(さまよ)った、そして天ケ瀬ダムまでなら歩けると覚悟をした。
宇治の町の裏側、金金(きんきん)ぎらぎら、きらびやかではないが豪壮な住宅、きっと何かの大商売で潤った住民のお家(うち)でしょう。
そんな裏町を何の感慨もなく素通りした。
そして、縣(あがた)神社、平等院に向った。
神社名にある「あがた」とは、大和政権が西日本の要地に設けた地域組織のこと。
特に、畿内にあった「あがた」は政治と祭祀に深い関係があり、平等院建立時にはその鎮守となったと伝えられている。
私の高校時代は、男と女の恋が結(ゆ)える神社だと言って、何かと話題にした。
縣(あがた)神社
平等院
平等院は宇治市宇治蓮華に所在する。
皆さんお馴染みの十円銅貨にデザインされているあの寺院だ。
藤原氏ゆかりの仏教寺院、開基は藤原頼通。
堂内の鳳凰堂は国宝だ。
平等院と周辺地域は琵琶湖国定公園指定区域の一つである「宇治川沿岸地域」の中核をなす。
平成6年(1994年)に登録されたユネスコ世界遺産「古都京都の文化財」の構成物件の一つでもある
今回は宇治駅から縣神社、平等院、天ケ瀬ダムを横目に生家まで歩く。
3時間半、距離にしてみれば20キロ以上だろう、健脚が衰えていないことにニンマリ。
55,56年前、生家から田原川・宇治川に沿って、天ケ瀬ダムと平等院の横を通って高校に通った。
天ケ瀬ダムは大林組で、建設中だった。
1964(昭和39)年に完成させた。
後ろの方で書くが、私が高校へ自転車通学していたのは2年生の頃までだ。
出来上がったダム湖のことを、形が平等院の鳳凰堂に似ていることから鳳凰湖と言われるようになった。
近年、通常気象による集中豪雨などで思いも寄らない水害が発生する可能性が指摘されていたから計画された。
そんな危機を回避するべく、国の河川整備事業として、天ケ瀬ダムに日本最大規模のトンネル式放流設備を設けた。
計画から建設工事のスタートまでは、私の頭の能力にはどうしても及び付かないが、随分年月を要したようだ。
天ケ瀬ダム
自転車通学の道程は25キロなり27キロなりだったが、その距離の長短なんて気にもならなかった。
体力、脚力に漲(みなぎ)る力があふれていて、父にも母にも、何~にも相談しなかった、それほど私の脳は澄んでいた。
驚くなかれ、私以外の人は通学バスで、私だけは3年生になるまで自転車だった。
下り坂の部分では通行バスを追い抜いた。
バスの側面を走りながら、バスの中からウォーとかアーとか喚声なのか歓声なのか聞こえてきたことに身が奮った。
3年生になって高校を卒業した次男(治さん)に原動機付のバイク、ホンダのスーパーカブをもらった。
それから、私のサッカー狂いの時代に爆入した。
登校時はそれなりに楽しかったが、下校・帰宅時は不思議な感覚を味わえた。
夏の宵、宇治川を背にする山肌から落ちてくる滝、3ヶ所に蛍が乱舞するのだ。
その光景に、こんないい気持ちを味わえるのは私だけかと現(うつつ)を抜かしている、この俺こそ最高の幸せ者だった。
1968年、私が二十歳のころ、野坂昭如(あきゆき)氏が発表した「火垂(ほた)るの墓」を読んだとき、私の頭の中にはこの宇治川の清流が流れていた。
学業成績についてはどうでも良かったが、こんな気分を味わっているのは私だけだった。
夢遊病者のような不思議な感覚だ。
田舎に向かう由(よし)は無し、19日何気なく深夜バスに乗った。
10日ほど前から歯痛に耐えられなくて、19日に薬屋さんで歯槽膿漏の痛み止めを買い全ての歯茎に塗り手繰(たぐ)った。
塗ったときの痛みは激しく、上下の歯並びをがっちり噛みしめて、いつか必ず治るであろう、と耐えに耐え抜いた。
先ず昼間の10時間、乗車中の8時間、京都駅から故里までの8時間。
この時間内は歯並びを噛みしめたまま、、、、実家に着いた頃にはお陰で、口中の痛みは弱くなっていた。
3日後に横浜の自宅に戻ったときには、すっかり治っていた。
歯医者の松さんの叡智と吾輩の根性がタックルを組んで勝利したのだと思った。
そんなことを、後日歯科院に行ったときに松さんに話して、彼は頗る面白がってくれた。
故郷を想うとき、室生犀星の詩歌をいっつも心の奥の間にしまい込んでいた。
忘れかけていたので、その詩歌を後ろの方に掲げてみた。
だって、私が生まれ育った故郷には、何か大きな事情がなければ戻ることはないだろう。
故郷だって、去るものは追わない、そのように考えていた。
無一文ではなかったが、肌着と小銭だけをバッグに詰め、郷里を後にして東京の大学に向ったとき、本当に郷里には戻ってこないぞと確信していた。
深夜、急行列車の乗車席の窓から見る農家の家の光が強く心に残った。
10%は郷里を後にしたことの寂しさ、あとの90%は闘志満々、どうにでもなれと諦観と闘志とド根性だった。
新幹線に乗るお金はなく、銀河鉄道何とか号、ほぼ11時間の乗降時間なんてへっちゃらだった。
電車に乗ってからは、強く生きるのだぞと自ら我が身を励ました。
田舎へは帰りたくなっても帰れない、でも頭の片隅からは離れようもない。
生家では私には悲喜交交(こもごも)不思議なほど何もなかったが、私以外の者たちには色んなことがあった。
そんな色んなことだって、今から思えば楽しかったようでも悲しかったようでもある。
故里には何人かの友人たちは居ることは居るが、十分に熟年から悲しいかな晩年まで、同期の者たちの死亡のことだってあれこれ噂が多い。
竹馬の友に、そのような命、余命のことなど言えばお叱りをうけるか?
私のような精神的に熟してない人間とは、付き合っても余り面白くないようにも思われるかもしれない。
今回の帰郷は内密に言えば、甥(長男の息子・清ちゃん)に何だかんだとお話しするためだったのだが、考えてみれば、そんなに急いで話さなくてはならない事ばかり、時間を縮めて移動するほどのこともなかった。
結果、2人での細かいお話は何(なん)にも無(な)しのまま。
でも、私自身の今までの成果とこれからのことも考えて、この機会に私の子育ての仕方私の子どもたちの成育ぶりを、この生家の人々のことを考えれば、何か好いことが得られるかもしれないと思った。
結局、空き時間に話すことと言えば、この山岡家の歴史と先祖さまの人柄などを話して、今後の生き方にお勉強にでもなればと思った。
今回の帰郷の理由ではないが、生家に帰った所為(せい)かもしれないが、山岡家の歴史を確認することで、自分の今後の歴史がどうあるべきか、今までの生き方が果たして正しかったのか?そんなことを考えるようになった。
そのことをとことん思索したいとするならば、私以外の人間たちの生き方を調べてみることになるのだろう、、、、、、その総括は、一番最後のコーナーです。
犀星の詩歌の後で、その辺をすがってみた。
それはそれとして、今は犀星の詩歌を楽しんでくださいな。
★ふるさとは 遠くにありて 思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて 異土(いど)の乞食(かたい)と なるとても
帰るところに あるまじき
ひとり都の ゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこに かへらばや
遠きみやこに かへらばや
【小景異情-その二】より
★ 美しき川は流れたり
そのほとりに我はすみぬ
春は春、なつはなつの
花つける堤に坐りて
こまやけき本の情けと愛とを知りぬ
いまもその川のながれ
美しき微風ととも
蒼き波たたへたり
[犀川]より
挟(はさみ)刈り用の茶畑
今は亡き父(勝次)母(ハナ)に祖父母、伯母さんと伯母さんの母と私の幼少時の快楽な生活。
故郷での従兄妹3人とは、今でも快活なお付き合いをさせてもらっている。
何年か前のこと、夫の仕事の都合で資金に窮した従兄妹の1人の住宅について、ウルトラⅭを演じて関係者のみんなに喜ばれたこともあった。
平等院から3時間半かけて歩いてきたものだから、花は用意できなかった。
宝国寺のどこにも人はいなく静か、墓石では父母と祖母が静かに俺を待っていた。
亡くなった人に向かって、私は元気に生きてます心配しないでください、と目を閉じ両手を合わせて深くお辞儀をした。
久しぶりの墓参りだ。
ふらふら歩いて、実家に着いたのが12時半。
甥は自分の母を老人ホームに送って行ったので留守、私は実家の家の裏側から入ってテレビを観ていた。
隣の家の藁ぶき屋根が随分傷んでいることに気づいた。
でも、先月にはロンドンからお客さんが大勢集まってお茶のことイロハを聞いていたらしい、その後、甥はお茶の製造機械を見せてくれないかとの要望に応えたと言っていた。
実家には、お茶の製造に関しては完璧な装置が仕掛けられていた。
裏の家が大きな住宅に建て替えられていた。
その家にはおじいさんとおばあさんが2人のみで暮らしている。
息子夫婦とおじいさんの仲が良くなかったようだ。
そんな事情ならば、何もそんなに大きな家を建てることもなかったんではないか?
各家ごとに、それなりの事情がおありなんでしょう。
私の実家を守っているのは、78歳の長男(彦さん)と奥さん、その子供の甥と甥の子供の4人だけだ。
長男は、私にとっては貴重な人材だ。
小学生のころに、大人顔負けの野良仕事をやったのだから、近所の人々は、兄貴に対して呆気(あっけ)にとられたようで、感心しまくっていた。
その長男の奥さんは、本日老人ホームに仮り住まいを始めた。
奥さんの老化と精神状態が心配だ。
住居は10年ほど前に住宅メーカーで建て替えたので新鮮で気持ちがいい、でも室内は静か過ぎてちょっと面白くない。
発注者は甥だ。
★伯父(康夫さん)のこと。
父の兄(伯父)は戦争で東南アジアの何処かに出兵していて、その出兵先で患った奇病に苦しめられ、実家に帰還後長い闘病の末に亡くなった。
伯父さんの詳しいことは知らないままだ。
戦没者慰霊の塔は亡くなった人の数だけ建てられていて、子供の頃学校行事のひとこまとして訪れたことはある。
その頃からか、反戦の心は目覚めていた。
大きくて立派な慰霊碑は、個々の慰霊碑を見渡すように傲(ごう)然と真正面に立てられていた。
生きていた祖父のことを知らないのは当然だが、父も祖母も何も話してくれなかった。
気丈夫な祖母は望みもしない息子(伯父)の死亡に随分心身ともに堪(こた)えただろうが、生まれながらの強さで踏んばったようだ。
私に対しても、2人の兄貴に対しても伯父のことは何も喋らなかった。
決して幸せな人生ではなかったその伯父さんに合掌、頭を下げた。
花は用意できなかった。
管理人さんの手作業なのだろう、霊地は綺麗にされていて、碑には花が添えられていた。
田植えの終わった水田
★父(勝次)のこと。
いつの頃なのか、父は踏ん張り出した。
このブログを書くことを思いついたのは、「俺は何んぜこのような人間になってしまったのだろう?」からだった。
その答えを得るためには、やはり生まれ故郷で私はどうのように育てられたのか、その詳細を知りたいと思ったからだ。
それに、恥ずかしながら6年前の樹木からの落下事故による高次脳機能障害で、精神状態がすっきりしないのが実情なのだ。
すっきりしないのが腹立たしい。
数ある精神疾患とてんかんがいつ発作するか判らない。
貧乏なんて平気だったのだろうか? 父の頑張り踏ん張りは村の人々を驚かせた。
山岡の本家から譲ってもらった田畑では、理想的な家族を養って活けないと思ったのだろう。
当初、耕作に手を入れていたのは祖父(父の父)が分家をするときにいただいたもの丈だった。
当時、政府が作り上げた特殊な銀行からお金を借り受けて、父は農地の買い上げに走った。
借り入れの金利まで憶えていないが、破格に低利だった。
その買い上げた耕作地は相続を受けた面積以上のもの、借金に苦しみながら完済したことは、父が死んで相続をどうしようかと考えていた際に出てきた書類の中から分った。
長男も私も、そのようなことは何も知らされていなかった。
今のように、何とか銀行とか何とか信用組合とか、そんな名称ではなく、何か国策めいた文字が入り込んだ銀行名だった。
例えば、日本興業銀行のように興業などと、普段余り使わない言葉が銘っていた。
それを、長男と確認した時二人は目を見入って驚いた。
私が何も分からなかった頃のこと、「保、あの水田は近いうちに家(うち)に返ってくるんだよ、そうなると家(うち)は随分助かるんだよ」と話してくれたことを憶えている。
中学校に入って教えられた小作制度のことだった。
生産手段としての土地をもたない農民が、その土地の所有者や占有者から土地の使用権を得て、農作物の生産に従事する制度のことだ。
戦時という異常事態に、食料に困る人を少なくするための国策だったのだろう。
土地の使用者が何かの都合で農作物の生産ができなくなると、その土地を元の所有者に返すことになる。
父はそれを幸運がよぎってきたかのように喜んでいた。
それと私が小学生の頃、茶畑に向う細い上り坂を、父は私を大きな籠に入れて背に担いで登ってくれた。
この籠には、茶摘みの皆さん用の3時のおやつが積まれていた。
そのおやつを壊さないように、手を父の肩に足は籠の中、少しぎこちない恰好で乗った、そんな楽しいこともあった。
学校であったできごとを父に話しても、何の反応もなかった。
父も母も、私の学校での出来栄えには、何の興味もなかったようだ。
3時になると、町役場の屋上のスピーカーから三橋美智也や三波春夫、神戸一郎、美空ひばり、村田英雄の流行歌(はやりうた)を流して呉れる。
おやつをいただきながら、流れる歌を口ずさんだ。
当時、お茶のシーズンの学校の授業は午前中だけだった。
給食もなかった時代だったが、母は子供の面倒をみることなんて、二の次三の次、頭の中はお茶のことばかり。
兄弟3人が朝起きていただくのはテーブルの上にご飯と味噌汁、塩昆布やら何かが置かれていて、それを各人が適当に食べて学校へ行った。
私の家には、東北の何処かの町から、茶摘みさんが2人応援に来てくれていた。
この茶摘みさんは、我が家での仕事が終了すると、他の農家の応援に行った。
生家が1年で一番忙しいのがお茶とお米に関する仕事があるとき、そのときには村ははち切れんばかりに燃えていた。
それに農工具・農耕機械について、新鮮な物を特に好きだった。
上の写真はモデル型式のものをネットでお借りしたが、実際に父たちが作った本物の写真でもあれば、さぞかし、その不格好さに驚かれると思うのだが、生憎手元には何等資料がありません。
今でこそ耕運機と名付けてどこの農村にもあるが、この耕運機は田畑を耕すことやリヤカーを引っ張って農野菜や木材の運搬用にも使われた。
こんな立派な商品が、井関農機とか久保田鉄工とか三菱なんとかから出る前のことだ。
その駆動部分を小学校の同期の寺西鉄工所のおじさんと手作りした。
大きな会社が販売に出す前のことだから、その手作りの苦労には目を瞠るものがあった。
2人はまるで、立派な工作人だった。
仕上がる過程を、私は興味を持っていた。
エンジン部分は普通の発動機を使い、タイヤはスクーター用のものを使っていた。
全体がゴツゴツした鉄骨ぶりから、耕運機があたかも土木機械には見えるが、手頃に使える田畑用の機械にはどうしても見えなかった。
一つ一つの過程で出来上がったものを、2人が試験運転をしていたが、私には十分な農耕機械に出来上がるとは思えなかった。
父は、届けられた請求額を何とかかんとか言いながら、気持ちよく払っているように見えた。
父の母、私の祖母ぐらいしか、その支払いについて文句を言う人は居なかった。
それほど、計画について父の覚悟は強く懸命だった。
耕すことはできず、単純に走ることのみしかできなかった。
その単純に走ることだって、1年かかって走ったのは2回か3回ぐらいだった。
お酒が弱かった。
夏に恒例で行われる盆踊り、世話役から我家に電話があって「お前ところの親父が酒を飲み過ぎて引っくり返っているから、迎えに来てくれ」だった。
わが村での音頭は江州(ごうしゅう)音頭だった。
私と母親でリヤカーを引っ張って迎えに行った。
帰り道に私が「お父さん、本当はそんなに酒が飲めないのに、何でこんなに大酒飲みになるの、俺は平気だけれどお母さんが可愛そうや」と言ったら何も言わずに笑っていた。
私の結婚披露宴だって、「保の結婚式なんだからなあ」と言いながら、1杯だけお酒を飲んでも真っ赤な顔をしていた。
そんな父を持つ我々男3兄弟は、余り酒類には近づかない方が好いのかも知れない。
そんなことを、何故、こんなところで言い出すのか?
私の今までの生活のなかで、19歳でドカタ稼業を覚えてから、よくぞ飲ませていただいたけれど、根本的には余り私の身に酒は好くないような現象が出ているからだ。
私は今夏、72歳の誕生日を迎える。
酒魔って奴に、骨身の節々から脳底まで遣(や)られている。
いただくお酒の量が、私を鬼にさえさせてしまうのだ。
そんな父親だったからだろうか?
私は大学進学を夢見、大学受験に合格して田舎を出てからも父に、4年間の東京での生活費と授業料について、支払いをお願いできなかった。
ある日近所のおじさんに捕まって、変なことを話された。
それは、農業協同組合の組合員たちの旅行で和歌山の温泉に行ったときのこと。
飲めや歌えの大宴会の後、気心知れた者同士でストリップに行った。
「そのときのお前の親父は踊り子さんの一番前の所で、熱心に見ていたよ。その光景が馬鹿らしく見えたよ」だった。
その話を聞いて、瞬間、私は無性に腹が立ってそのおじさんに食って掛かった。
ストリップを見に行って、あっちゃ向いてホイなんかしている奴なんかいるんですか?
いるとしたら、そいつこそ阿呆なんじゃないか!
そんなことを言うあなたも馬鹿の一種ですよ。
その言葉を吐いて、そのおじさんから遠のいた。
東京の大学に入ったらどれほどのお金が必要になるのか、生活費にかかる額はこれぐらいだと言うことを、何故、大学進学を決めたときに言えなかったのか。
父と母は、私に何故聞いてこなかったのか、不思議な出来事=昭和一丁目一番地モノだ。
このことについて、父母とは何も話さないまま。
私が無理して言わなかったのか、父が聞き耳を持っていなかったのか、はっきりしない。
それならば、しょうがないと割り切る私だった。
2年間の浪人時代に得たお金は、今になって合計額がよく分らないが、280万円なのか380万円なのか、そのお金を入金した農業協同組合の貯金通帳を母に渡した。
毎月、私が指示した額を送金してくれと強くお願いした。
4年間、西武新宿線の柳沢駅から歩いて10分くらいのアパートの横にある農協の支店で払い戻しをしていた。
1~3年間はサッカー部の寮、4年目は東伏見駅近くのアパートに戻ってきた。
郷之口の郵便局にいる小中学校同期の福さんが、母の要望を聞いて作業をしてくれていた。
中学校の体育の先生の奥さんも窓口業務をしていたので、この奥さんも何だかんだと面倒をよく見てくれた。
義務教育での同期生は、郵便局にも農協にも小さなお店にもいたし、先生にもなっていた。
母にとって、月々送金する額がどれほどの生活ができるかなんて想像もつかなかった筈だ。
その行為を、長男の奥さんは「山岡家の生活費の一部を工面しながら、保ちゃん(私の名前は保)のために、払ってやっているんだ。元気のいい子ですよ」、世間の人にはそのように話していたそうだ。
そんなことは、神様であろうと仏様であろうと、引っくり返っても絶対有り得ない。
父が残した貯金も本当に少額だったが、兄が百姓作業に使えるものならば、大いにそうして欲しいと言った。
私にも幾分かは呉れとは思わなかった。
その時の長男の表情が余りにも神々しく見えて、私は嬉しかった。
父母と長男の激しい労働に胸を打たれた。
それは伊勢湾台風で痛めつけられた水田の復活作戦だった。
昭和34年9月26日、台風第15号、潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心とし、ほぼ全国にわたって甚大な被害を及ぼした台風。
下に台風の進行方向を示す図面をネットからお借りしたが、伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が特に甚大であり、「伊勢湾台風」と呼ばれることになった。
伊勢湾台風の進行方向
私が小学5年か6年生の時だ。
水田用の大型の貯水(溜)池が氾濫して、上地にあった我が家の水田は当然のこと、溜池から遥かに遠い私の自宅の庭にまで泥水が迫り、家の中にまで水が入ろうとしていた。
このことが、後に自宅を建て替えたく思うようになった始まりだ。
水田に私の体ぐらいの大きな岩が、あっちこっちにあって、水田の表面に覆いかぶさった砂利を1メートルほど切り出して、その存在が見えた。
そのときの家族たちの焦りは、年少者の私には想像も付かないほどだった。
私には仕事を遣りきれるほどの力がないのをよくよく知っていて、私は私が処理できる程度の岩や石を、側に流れる川の土手に投げていた。
作業にかかった1か月ほどで、私が運び込んだ土砂の量はそれなりに大量だった。
この川には、ボケという魚がいつの間にか増えて、弁当のご飯をちびりちびり投げてやると、宝物を拾いに集まってくるようで、見た目には楽しかった。
でも、この魚は見た目に美しくなく、食べられないほどの苦味のある小魚だった。
川の水が綺麗になると、ハヤ(やまめ)や沢蟹が現れた。
長男は中学を卒業して、木津高校の茶業科の特修コースに行っていた。
父の項目のなかで、母のことを一言。
母も父と同じように私が東京の大学に行く際にも、な~んにも説教めいたことは言わなかった。
が、上京のその日、母は目をむいて私のところへやって来て、吐いた。
「保、大学に入って勉強しようがしまいがそれは貴方に任せる、それから金持ちになろうが、出世しようがしまいが、そんなことよりも頼みごとがあるんだ。
税務署、警察、消防署等にはお世話になるようなことは一切しないでくれ。
お兄さんがあんなに百姓仕事に精一杯なんだから、お兄さんの悲しむようなことだけはしないでくれ」。
母のお説教はただそれだけだった。
母のひとこまの忠言の前日、小中学校の同期の小林君が、立派な万年筆を持ってお別れに来てくれた。
彼は中学校を卒業して京阪宇治交通というバス会社に就職していて、それなりの小遣いを持っていたのだろう。
近く遠くの親戚の誰からも何にも貰うことはなかった、、、、、、そんな私に「山岡、頑張ってくれよ」唯一無二の私にとって掛け替えのない友人だ。
しっかりと励ましてくれた。
20年ほど前の地元での同窓会で、偶然会って、その万年筆のプレゼントに対するお礼を述べなかった失礼を詫びた。
父母と私の楽しいことと言えば、3人で出かけたニュージーランド、父とふたりっきりのオーストラリアと私の母校の大学見学だった。
3人とも田舎育ちだから、目立った都会の風景なんかには余り興味を持たなかった。
ニュージーランドの宿泊したホテルの側の果樹園に、まるで自宅周辺と同じ感覚で、果樹園に入り込んで私の名も知らぬ柑橘類を勝手に採ってきた。
お父さん、それは他所(よそ)の人の物だから、勝手に採っちゃ駄目だよと言っても、ただ笑っているだけだった。
それにヘリコプターの乗降だった。
人数の加減で私が、乗降客の順番を手配していたら、1人がどうしても乗れることができなかったので、私は年老いた母が乗りたがらないものだと決めていたら、母はそのことが気に食わなくなったのだろう、せっせせっせと席を確保した。
そうしたら、乗れなくなるのは私だと、諦めざるを得なかった。
他の乗降客から爆笑をかった。
父と私のオーストラリア旅行には、オーストラリアのある大学の大学院に留学していた息子が付き合ってくれたので、これはこれは破天荒だった。
交通信号止まりの際に、息子は父に対して「おじいちゃん、昼は何を食おう」とか「夕飯に何を食おう」の連発で、日本語の分かる人はその会話を聞いて微笑み返してくれたものだ。
父が返答するのは、ラーメン、うどん、そば、寿司だけだった。
孫に答えるにしても、答えられるメニューを知らなかったのだろう。
一緒の部屋に寝て、最初に目が覚めるのは父で、寝床の中で独りまんじゅうを食う、それが済んだら、煙草を吸いだす。
それでも、私はこそっと寝たふりをしていると、ごそごそ歩き出して、私の起床をそそのかす如し。
大きな街路を煙草を吸って歩こうとするので、この国のような文化的な都市では、人前では吸わないものだよと注意すると、父は看板や街路樹の陰で、後ろめたそうに吸っていた。
どんなときにも、煙草は欠かせられないようだった。
ホテルでの食事についても驚かされた。
食い放題飲み放題のレストランでは、要注意千万、私は私の食べる物を皿に盛るどころか、父の挙動に気配りした。
今から振り返ってみて、冷静に判断して、父は此のころから多少は老人症?になりかけていたのではないかと思われる。
今までの父ではなかったのは事実です。
オーストラリアから日本への帰航の際、関西空港への着陸時に、私はそろそろ大阪に着くよと言ったら、そうか!伏見稲荷駅に着くのも早いなあ、なんて言っていた。
父は、目に入る光景が恰も伏見稲荷駅に着くような錯覚をしたのだ。
そのときに、私はハットといつも気づかないものに気づいたような気がした。
軽度な認知症なのか?老人ボケなのか。
私が随分お世話になった母校・都の西北については、父ほど何も知らない人は他にはいないのではないかと言い切れる。
自慢じゃないが、母校のサッカー部のなかで一番下手だっただけではない、都内の全ての大学のサッカー部の人よりも私は下手だった。
気は心と言いますが、気持ちだけは相当ハイレベルの私だったが。
京大と東大、明大以外の大学のことは知らなかった。
授業料や生活費のことについては、私は私の判断のもとで行動していたので、気にすることはない。
でも、三男坊の私が通っていた大学ぐらい見て欲しいと思ったのが、父を東京に呼ぼうとした原因でもあった。
私が授業を受けた14号棟をはじめ構内を案内したが、父は目を丸くするだけで、何の感想も漏らさなかった。
みんな、ええ服を着て、綺麗な女の子も多いでしょうと言ったって、ウンとかスンとかも言わなかった。
学生食堂で大学名の付いたカレーと定食を食った時こそ嬉しそうだった。
このニュージーランドとオーストラリアと私の母校見学について、私には気の利(き)いた話はしなかったが、帰郷後、近所の人や遠い親戚の人たちに対して、「保は、俺には良くわからないが、頑張ってるわ。お金もかかるのに、、、、嬉しかったわ」と笑顔で話していたそうだ。
どうしても書いておかなければいけないことがあった。
長男が一人前になり、山岡家は長男任せでオッケーと言われるようになった頃、悲しいかな父は気が短く怒りっぽくなって、彼方此方(あっちこっち)で事件を起こすようになった。
何も警察沙汰になるまでもないが、山岡家のジジイは五月蠅(うるさ)くてしょうがないとどこの店からも苦情を受けるようになった。
それが、どのように父が言って苦情を受けているのか、その場に居た人間には、大したことないではないかと笑い飛ばせられるような話だった。
軽い認知症症なのか老人ボケなのではないかと感じた時のことを思い出した。
それにしても、農協で郵便局でガソリンスタンドでは華々しいものだった。
それでも、私はのんびり滑稽なことだと思っていた。
現金払いしないで、色んなものを買っても平気だった。
当時、現金払いしなくても、月ごとの付け払いの制度があって、それの常習犯だった。
★長男(彦さん)のこと。
私にとって父母は誰よりも誰よりも貴重で大切な人だけれど、この長男ほど雄姿を冠(かんむり)する得がたい人はいない。
それが、何をどうしてくれた訳ではないが、存在そのものが貴重、稀少なのだ。
私は昭和23年生まれだとすると、長男は戦中の15年か16年の生まれだ。
先程の伊勢湾台風が襲来したのが私が小学の低学年だとすると、長男は高校生になる。
この高校生は、今で言う一般的な高校生ではなく、週に何度か学校に行って、習うものと言えば茶と茶に関することだけを習って帰ってくる。
私の郷里とその周辺の茶業者は、宇治茶をなんとか日本一の銘茶にしたいと思っていた。
お茶に対する魂は、全国のどこの地方よりも強く厳しいものを持っていた。
茶問屋を目指す者は、先ずは茶師(ちゃし)になった。
茶師の主な仕事は茶葉の選択と合組(ごうぐみ=調合のこと)だ。
新茶の時期になると、たくさんの畑のそれぞれに特徴を持つ茶葉を審査して、その中から選び抜いた茶葉を仕入れて合組する。
高級品から低級品、品ぞろえを豊かにして販路を拡張した。
そんな農家の長男に生まれるということは、並大抵の代物(しろもの)では遣り遂げられない試練を背負っているのだ。
そのことを、父は長男に事細かく話したわけではなく、長男は父に聞き質(ただ)したわけではない。
それが、私には不思議なことではあった。
中学生時代、我家に長男の同級生が集まって、先生の悪口やら何やらかんやらと話すのだが、極めて仲良くて不思議な人間関係だなあと感心していた。
その仲間の一人ひとりだって、それなりの職業に携わることになったのも、また楽しからずや、だ。
蒟蒻(こんにゃく)作りの専業者、農協の職員、農業、鉄骨の作業会社の経営、それはそれは華やかな職業で、私にとって不思議だった。
そんな級友を相手に、試験の出来栄えを鵜の目鷹の目でグチャグチャ話すのではなく、極めて冷静に笑い話にしていた。
繰り返すようだが、実家が保有する田畑だけではなく、働き手をなくした農家が持つ田畑についても、その農耕作業を手伝っていた。
その手伝って挙げていた農地だって、私には気が滅入るほどの広さだった。
水田のことは皆さんにもお解かりいただけるが、茶畑などは離農する人については大変なことだった。
離農する人の茶畑の一画が、虫や病気で荒らされた時、整然と区画された周囲の農家は困り、離農する人も酷(ひど)く苦しんだ。
薬害を恐れ殺虫剤をできるだけ使わないようになっていた頃のこと、健全な茶畑の集団の中に、癌が発生したようなのだ。
それまでは、殺虫剤を散布したときには「この畑は危険なので入ることはできません」と書かれた赤い札を掲げた。
離農する人は地代とか何とか?そんなものは気にもしなかった。
そんな事情があって、我が家は費用をかけなくても農耕の面積はどんどん拡がっていった。
こんな農作の作業だって、最初は父親が仕掛けたものを長男がその全てを請け負っていたことになる。
驚くことなかれ、長男が仕事に費やす時間は、朝方太陽が出始める頃から夕方陽が下がり暗闇が出始める頃まで、時間にしてみれば、今の労働者には想像もつかないだろう。
高校生、浪人時代だった私にとっても、心地の悪さまで感じた。
でも、長男は立派な大人で私とは距離の離れた成人になっていた。
★次男(治さん)。
次男が75歳、実家から車で20分ほどの町で暮らしている。
高校を卒業して入った会社は、立派な会社だったと思っているが、次男からは何の説明も受けなかった。
立派なサラリーマンを何年間か遣り遂げ、今は村のあっちこっちの荒地を借りて、何(なん)やさコラサの農作業を踏ん張っている。
この耕作地の見つけ方も凄まじく、荒れ地を見つけたら無謀にもその所有者に会った。
その耕作地に、ありとあらゆる種類の野菜を育てて、農協へ売りに行った。
農協に農産品を持っていける資格を得ていた。
農協では、そのような野菜を種類ごとに分けて、遠く市場に持って行って売却していた。
その売却代金から農協の手数料を除いて、次男の分はそれなりに支払いを受けた。
その農協に持ち込まれる野菜の数と量に驚きで、農業専業家の人たちも吹っ飛ばされた。
アシスタントも余りにも人変わりして、村人たちは驚いた。
次男は将来的な自分の跡取りを目論んでいたようだ。
時には甲乙(でっこみひっこみ)の激しい土地を買って、気の合う工務店の大きな土木機械を借りて、ものの見事に平地にしてみせた。
その平地だって、何をどのように使おうかなんて微塵の計画がないのが、、、、面白い。
次男が実家に現れた時に、甥っこに、すまんが除草剤でも撒いといてくれよ、手間賃は払うからとつれない科白(せりふ)だ。
このことについては、後ろの方で詳しく述べる。
サラリーマン時代は当たり前、辞めてからも農耕作業で作りあげた野菜の品々には、誰が聞いても尻に火がつく。
それでは、その数々の始まり、はじまり。
先ずはミミズだった。
後記に話すように、ミミズの糞が肥料として利用できること、それが次男が飼いだした源だったようだ。
これは、もうかるぞ! 他人言(ひとごと)のように話した。
小さな畑と言えども、そこはミミズいっぱいの耕作地になっていた。
初めてその光景を見たときの私の驚きは、目から鱗(うろこ)モノだった。
そして1年か2年、ミミズは土を食べ、そこに含まれる有機物や微生物、小動物を消化吸収した上で粒状の糞として排泄する。
それによって、土壌形成の上では、特に植物の生育に適した団粒構造の形成に大きな役割を果たしている。
そのため、農業では一般に益虫として扱われ、土壌改良のために利用される。
ミミズは、1日あたり体重の半分から同量程度の餌を摂取し、その糞が良質な肥料や土壌改良剤として利用できることから、積極的に生ごみ等の有機物をミミズの餌として与え、その糞を肥料として利用するミミズ堆肥化という手法がある。
次に白い松茸(まったけ)、へえ!それは人工シメジ作りだった。
次男が横浜の自宅にやってきて、言った言葉が「保、今度は白い松茸を作ってみせるぞ、これは栄養があって高く売れるんだ。これなら、儲かるぞ」だった。
不動産業しか知らない私にとって、兄貴が発する言葉には余りにも凄味が混じっていて、空いた口は塞がらなかった。
ミミズから今度はシメジか?
様子見だけの私にとって、この局面もまた面白いかな!だ。
一般的に白いきのこは毒キノコだと思われている傾向があるが、実際にはそこまで多く混じっている訳ではなく、白いキノコの半分以上が毒を持っていないキノコのようだ。
しかし、他の色調を持ったキノコに比べると白いキノコは毒を含んでいるキノコである確率が少し高い為、毒キノコだと思うことが間違いだとは一概には言えない所もある。
しかも、白いキノコの中には食べると死に至るような非常に強い毒を持った「ドクツルタケ」なども見られる。
その為、野生の白いキノコを見つけて、調べてみたけれど、よく似たキノコが沢山ある、又は特徴がどのキノコにもあてはまらず、何の種類かハッキリしないといった状況になった場合は口にしない方が賢明だとおもわれる。
そのシメジ作りも、いつの間にやら話題からなくなっていった。
次に現れるのはちょっと激し過ぎる。
村の外れの山あり谷ありの荒地を購入して、近所の工務店で使わなくなった土木機械を一時お借りして、その甲乙(でっこみひっこみ)を平地に仕上げた。
何故、そのような難しいことまでやるのか、不思議と言えば多いに不思議だ。
何をやることもなく、甥に対して珠(たま)には除草剤でも撒いておいてくれよ、それなりにお金を払うさかいに、と言ったらしい。
どういうつもりなのか、さっぱりわからんわ、と甥は言っている。
でも一部にはソーラーシステム を構築して、でき上った電気を関西電力に売っているらしい。
そのことで、どのような収支になるのか聞いていない。
そして今は何をやっているのかと思いを巡らしても、案の定畑を借りてささやかな農耕に励んでいるようだ。
次男も父母の言うことには一切気兼ねなく生きていた。
俺は俺の生きがいをやるだけなんだ、、、、そのように見えた。
★ 三男の私は9月で72歳。
ご覧の通りの稼業に力を出し切ったと言えばそれなりに恰好は付くものの、傍(はた)目には大したことのない、普通の男だ。
今は悠々自適な生活をさせてもらっている。
社長職から今は立派なサラリーマンに変わってから、社長も気を使ってくれて、週に4日の出勤、出勤したといっても午前中で終わり。
何度も、「社長、俺はそろそろ終わりにしてもらってもエエよ」と言っても、まあまあ、もう少しやりましょうよと励ましてくれる。
情けないのではないかと心配される方もいるが、ある事故を起こしてからの私の体はこれで十分満足している。
子供は4人、誰も彼もそれなりの住宅を手に入れ、伴侶を得て幸せに暮らしている。
私に科される親としての役割は終わって、ただ皆の今後を楽しみにしている、なんちゅう幸せ者なのだろう。
孫が9人、これも有難いことに元気でいる。
大きい子は高校生に2番目は中学生ら、健やかな心と体を育てて欲しい。
2人の孫はそれなりの中学校、高校で頑張っている。
一番小さい子は我が家で同居、離乳食に突入する時期にいる。
そしてこの私の大学までの学究生活は、二者択一(にしゃたくいつ)の極めて下手な餓鬼だった。
勉強とクラブ活動では、クラブ活動にしか力が入れられなかった。
中学時代はバスケットボールに高校時代はサッカーにエネルギーの全てを注ぎ、勉強に対する気力はクラブ活動の残り滓(かす)でやり過ごした。
中学時代は、学校が自宅よりも近かったために、正規の練習以外にも勝手に学校に行って遊んだものだ。
でも、バスケットには相性が合わなくて、反則反則の連続でチームには迷惑ばかりかけていて、嫌気が差しかけていた。
高校時代は、早い目に学校に行って授業が始まる前に校庭の隙間でボールを蹴った。
壁に蹴ったボールが跳ね返ってくるのを手以外の何処かで止め、次のボールを蹴った。
昼休み、部室の前に集まって皆でボールを蹴ったりヘッディングをしたり、駄弁ったりサッカー雑誌を読んだり。
昼休みが終わって5時間目の授業が始まったときには、私の頭の天頂から湯気が昇り、先生から、廊下で頭を冷してこいとお叱りを受けた。
肝心の練習では、同期生が2人だけだったので、メインは後輩たち主体の試合形式になった。
担任の先生は、京都の教員クラブ・紫光クラブではゴールキーパーで、それなりの立派な人だった。
京都代表チームのキャップテンでもあった。
でも、不思議なことに生徒達には何ら手厳しいことはしなかったし、話さなかった。
この高校生の時代こそ寝るのも惜しんで勉強をしなければならなかったのに、私は卒業さえすれば浪人して何とかすればいいじゃないか、その程度の考えだった。
私の周りには、そんなに厳しいことを言う人はいなく、気楽なもんだった。
そんな時期なのに、我が家は平安的で不気味なほど無味乾燥していた。
そして浪人時代になるが、その気楽さは変わらなかった。
だって、東京の大学でかつ一番サッカーの強い学校と言えば自ずから学校は決まってしまった。
それに、前の方で書いたけれど4年間の授業料と生活費、諸々の費用を誰が負担してくれるのか? 父にも母にも話せなかった。
友人から、頭が狂ったようにぶっちゃけてしまえばいいではないかと言われたけれど、私は自分でどうにかすると決めた。
その費用稼ぎのために、ドカタ稼業をすることだった。
2年間の素浪人で、1年目で半年2年目で半年、しかるべきお金を稼いだ。
このドカタでの半年半年で、親方から焼酎、日本酒、ビールを教えられた。
今の時代、そんな無茶苦茶なことは考えないだろうが、私は立派に大人並みにやり遂げた。
私が入学した学校以外に法政、明治、中央が強くどの大学にも合格した。
入学したもののその4年間は凄まじい学生生活だった。
入学して5月頃には授業料値上げ、首相の米国派遣反対で、キャンパスはロックアウト、2年間は授業なし。
その日々のことをここで表現することはやめます、書きごとを全て終えるためには百万丁の紙量と百万樽の墨が必要だ。
★祖母のナミさん。
200年ほど前のこと、湯屋谷の茶問屋さんから我が家にお嫁に来た。
私が祖母と仲良く話すようになったのは、小学校に入った頃だった。
祖母が60歳前後、無理しないように野良仕事には顔を出していた。
祖父が本家の山岡家から分家する際に、新しい住宅を建ててもらい、それからが我が家・山岡家の始まりになった。
ナミさんの生まれた茶問屋はその地域では立派なお店で、私は祖母と一緒に上等なお世話をしていただいたことを憶えている。
その湯屋谷で緑茶を作り上げた永谷宗円の生家もあり、宇治田原町の指定史跡になっている。
そのことをネットで調べた記事をここに上げさせてもらう。
中国から日本にもたらされた茶は、南宋に渡った栄西が「喫茶養生記」で茶の効能を説いたように、当初は寺院での修行や薬用として飲用されていた。
やがて各地で栽培が広がるが、宇治の特定の茶師は、幕府の許可を得て高品質の碾茶(てんちゃ)の製造を独占していた。
富裕層が好んだ抹茶とは違い、庶民は色が赤黒く味も粗末な「煎じ茶」を飲んでいた。
我が家は番茶を飲んでいた。
そんな中、宗円は15年の歳月をかけて製茶法を研究し、味もすぐれた緑の新しい煎茶(正確には「だし茶」である)を作り上げた。
この宗円が発明した「青製煎茶製法」はその後の日本緑茶の主流となる製法となった。
祖母には随分愛してもらった。
祖母にとって話し相手がいなかったのだろうか、小さい頃は一緒に風呂に入ったこと、祖母は石鹸替わりに糠(ぬか)を小さな袋に詰めて、これが一番よく垢がとれることや、髪の色にもいいんだと言っていた。
祖母の小さな体と私の小さな体が、風呂桶の中でくっついていた。
年少の私は家族の誰よりもお腹が空くのが早く、晩飯前は異常だった。
そんなとき、冬には火鉢や炬燵で餅を焼いてくれた。
嫉妬しやすいことではない本物の「焼き餅」、醤油をまぶし焼き海苔を巻いて食べる。
祖母が焼いてくれた焼き餅を2,3個食べて、夕食まで外に出歩いた。
この焼き餅のおやつが、私にとってどれほど腹ごなしになったことか。
大学に入ってからは、母に送金のお願いをするとき以外、ほとんど実家に連絡しなかった。
そして、祖母が亡くなったことを聞いた。
当時土葬だったので、祖母を宝国寺の墓地まで棺桶に入れて縁に近い者が持った。
若い私が長男、次男と共に提げた。
祖母は母に対して、「ハナ(母)、たまには保にもいい服を買ってあげなよ、次男は長男の服を引き取りそれなりのものを着ているけど」。
母の道理は、長男から次男が、次男から三男が引き取ることになっていて、それは当たり前だ(アタリマエダ)のルールだった。
田舎といえども大きな自動車通りに家が面していて、道路に面して洗濯物を干すので、近所では立派な洗濯干し場だったようだ。
父の仕事着、兄たちと私の服、母の野良着など洗濯物の羅列は、不器用で品がなく凄まじいものだった。
私にとっては、我が家の自慢だった心算だけれど、皆はどう思ったか?
祖母の孫想いは兎に角、私は新しい服を着るのが嫌いで、たまには無理に汚して着ることだってあった。
★ ★ ★
今回のブログの総括です。
そこで、今回のブログを何ゆえに書いたのか? その答えを出さないと、読者は終了を許してくれないだろう。
私の父母と、私の3兄弟はいとも不思議な人間関係の基(もと)に暮らし切ったような気がする。
親が子供たちにする一切の教育とは何ぞや。
あ~せ~こ~せ~が何もなかった不思議な家族だったからだ。
説得の定案は黙(もく)すること、多弁で諭(さと)さないこと。
我が家の家法だなんて、気障って見ても駄目だろうが。
それが、私の身に纏い、父母にお世話にならなくても生きていける、そんな原子なのか素粒子なのかそれが化成して育ったようだ、これが山岡家の永年の糧(かて)、家法だ。
今になって、これが良かったのだ。
働く父の背中を、何か不思議なものが動いているようだった、これが父が私に見せた教育の全てだった。
育ててくれた感謝のために、ニュージーランドやオーストラリア見学の、私がお世話になった大学の見学もした。
私に対しては感謝の一弁もないが、村の人や親戚の人たちには、保はエエ奴や、と言って回ったそうだ。
父母が本当に喜んでくれていたようだったが、本人から聞きたいものだった。