2020年4月2日木曜日

猿橋勝子という生き方

2020・3・22の天声人語では、地球化学者の猿橋勝子氏と地震科学者の石田瑞穂氏さんを登場させた文章だった。
両氏は、地球化学者と地震の科学者だった。
そこで、この天声人語を転載させてもらうことにした。

問題の猿橋勝子さんのことは、ずうっと以前にテレビのクイズ番組で、氏の功績をいくつか挙げられ、さて、この人は誰でしょうという質問があって、それに対する答えを求めるものだった。
回答者はタレント10人ほどいた。
私にとっては何等知識の滓(かす)さえも無く、気楽に棒に振って違うことを考えていた。
正解はある人が得て、その回答者の口から出た「猿橋勝子」という人名だけを憶えた。
初めて耳にした女性の名前だったことに、心の中に仕舞い込んでいた。

心身ともに体育局スポーツ系の私だから、その系統の人ならば人並み以上の知識はあったけれど、科学者・化学者の分類には厭(あ)きれるほど脳足りんだ。
そんな人物だからだろう、女性の化学者の名前なんて知る由もなかった。



★天声人語
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ひとりの女性のはなし。
地球化学者、猿橋勝子。
すぐれた女性科学者をたたえる猿橋賞の創設者だ。
2007年に87歳で亡くなった。
今日はちょうど彼女が生まれて100年にあたる。

雨はどうして降るのだろう。
窓のしずくを眺めながら、そんな疑問を抱く子どもだったそうだ。
高等女学校を出てもさらに進学する女性が限られた時代。
帝国女子理学専門学校で物理を学び、気象研究所に勤めた。

その名を世に知らしめたのは1954年、ビキニ環礁での米国の水爆実験による第五福竜丸事件。
猿橋は海水に「死の灰」がどれほど含まれるかを調べたが、これを認めない科学者がいた。
「女だということでなめられた」。
ひとり渡米して測定精度を証明してみせた。

女性は博士号をとっても「添え物」にされている。
そう訴えて差別に憤然と異をとなえた。
「反発だけでなく、科学者として役に立ちたいとの強い思いからだったのでは」と猿橋賞の受賞者で、日本地震学会の初の女性会長を務めた石田瑞穂さん(76)は話す。

そんな女性科学者に厳しい時代はすでに過去のものになったのか。
残念ながら、医学部の入試差別などを猿橋が聞いたら「きっと怒り狂っていると思いますよ」と石田さん。

ノーベル賞を2度受賞したマリー・キュリーは科学者を「おとぎの国への旅人」と例えた。
きょうもどこかで、未来の旅人たちが「雨って何だろう」といった疑問で頭をいっぱいにしているのを想像する。
彼らの旅に男女の壁はいらない。



★その肝心要(かなめ)の猿田さんてどんな人なのだろうか?とネットで調べてみた。そしたら、以下の文章を得たので、ここに掲げさせてもらった

略歴
東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)を経て、帝国女子理学専門学校(現・東邦大学理学部)を卒業。中央気象台研究部(現・気象庁気象研究所)で三宅泰雄の指導を受けた。
1954年ビキニ事件におけるいわゆる「死の灰」による大気・海洋汚染の研究以後、三宅と大気及び海洋の放射能汚染の調査研究を行い評価された。
その研究成果は1963年部分的核実験禁止条約成立に繋がった。
1957年、東京大学理学博士「天然水中の炭酸物質の行動について」。
 1958年に設立された「日本婦人科学者の会」の創立者のひとり。
1980年、女性で初めて日本学術会議会員に選ばれる。
「女性科学者に明るい未来をの会」を設立。翌1981年エイボン女性大賞を受賞。
1985年、「放射性及び親生元素の海洋化学的研究」によって日本地球化学協会から第13回三宅賞を受賞。
1993年、「長年の海水化学の進歩への貢献」によって日本海水学会から田中賞(功労賞)を受賞。
猿橋賞」に名を残す。
平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)世話人も務めた。
2007年9月29日間質性肺炎のため東京都内の病院で死去。
87歳没。

海洋の放射能汚染調査

1960年、カリフォルニア大学サンディエゴ校スクリップス海洋研究所Scripps Institution of Oceanography)のセオドア・フォルサム博士(Theodore Robert Folsom)らは、南カリフォルニアの海水中のセシウム137の濃度をネイチャー誌に発表した。
一方、三宅、猿橋らは日本近海におけるセシウム137の濃度を報告し、その値はフォルサムらの報告した値よりも10~50倍の高さを示した。
三宅、猿橋らは日米における測定値の差を海流の解析によって説明したが、海水で希釈されるので放射能汚染の心配はないとして核実験の安全性を主張していたアメリカを初めとした科学者からは猿橋らの測定を誤りだとして批判が起こった。
そこで、三宅はアメリカ原子力委員会に同一の海水を用いた日米の相互検定を申し入れ、1962年から1963年の間、猿橋は放射能分析法の相互比較を目的としてスクリップス海洋研究所に招聘され、フォルサムとの間で微量放射性物質に対する分析測定法の精度を競うこととなった。
猿橋の分析は高い精度を示し、フォルサムは猿橋の分析を認め高く評価するようになり、日米の測定法の相互比較の結果は共著として発表されることとなった。

「猿橋勝子という生き方」米沢富美子著

2009-07-04 19:35:56 | Book
1979年1月31日の参院本会議で、時の総理大臣・大平正芳は、市川房枝女史に問い詰められた。
「総理はお嬢さんに、昔から『おなごは勉強せんでいい。可愛い女になれ。そして早くお嫁に行きなさい』と言っておられたそうだが、今もそのお考えか。もしそうなら、婦人問題企画推進本部長は落第だと申し上げざるを得ない」
今年の父の日に寄せられた読売新聞、橋本五郎編集長が紹介していたこの挿話に、私は亡き祖母を思い出した。
勉強なんぞ全く無縁だった私が、所謂進学高校に入学して授業についていくのが精一杯だった頃、祖母は心配して田舎に行くたびに「女は器量が大事。勉強はそろそろ(少し)でよい。めがねをかけたおなごはおいねえ」と孫娘を案じていた。大学に進学して身長が160センチをこえると今度は「大女は嫁のもらいてがなくなるから、臼を背負わせようか」と、またまた心配した。いくらなんでも、相撲取りでもあの臼を抱えられないよ、おばあちゃん・・・。祖母は、10代で祖父と結婚して農家の後を継ぎ、百姓仕事のかたわら次々と6人のこどもを産み、私をはじめ多くの孫にも恵まれた。祖母は運もよく、幸福に恵まれた人だったと思うが、遠い時代の田舎に生きたひとりの女性としての祖母の人生を考える時もある。
猿橋勝子さんという地球科学者がいた。1920年生まれで祖母とほぼ同世代。女性に大学の門が閉ざされていた時代に、一旦は就職しながらも学問への夢をあきらめきれず、41年創立されたばかりの帝国女子理学専門学校(現 東邦大学理学部)に、物理学を学ぶために一期生として入学した。本書は、女性が理系の研究職に進むことすら困難な時代に、海水の放射能汚染や炭酸物質の研究で世界的な業績をあげ、後年は女性科学者を励ます「猿橋賞」を創設した猿橋さんの軌跡を、「非結晶物質基礎物性の理論的研究」 で第4回猿橋賞の受賞者であり、女性の物理学者の先駆者でもある米沢富美子さんによる評伝である。

プロローグは怪獣映画でおなじみの『ゴジラ』製作誕生のきっかけになった、日本の遠洋マグロ漁船・第五福竜丸が1954年に太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁における米国の水爆実験の被災を受けた事件である。著者は、物理学者らしく冷静に爆心地から東京と静岡間の距離がありながらも、さまざまな抵抗を受けて減衰しながら8分かけて進んだ音波が「地を揺るがすような轟音」となって第五福竜丸を襲った事実を、「想像の域を超えている」と感想を述べている。船には、白い灰がまるで雪のように降り積もった。後に「死の灰」と呼ばれるようになる放射能で汚染されている粒を分析して、この粉のような白い灰が一瞬にして粉末にまで破壊され富士山の10倍の高さまで巻き上げられて散ったサンゴ礁だということを解明したのが、猿橋勝子だったのだ。やがて、ビキニ水爆で生成された高濃度の放射性物質は、日本近海にまで及ぶようになあるが、米国は断固としてこれを認めない。猿橋は、日本の科学技術の威信をかけ、米国カルフォルニア大学のスクリップス海洋研究所に就き、海水中の放射能物質の分析の精度が、どちらが高いか競うことになった。勝敗は、放射能汚染、ひいては核実験の危険性を問う日米の争いである。ここで証明されたのは、微量分析の技術では、猿橋は世界のトップクラスということだった。

研究者には、独創的な発見をするタイプと、こつこつと地道な実験結果を緻密に積み上げるタイプがいる。猿橋は、後者である。学生の理系離れが心配され、特に日本では理系で活躍する女性研究者はまだまだ少ないが、実はこういった研究職はむしろ女性に向いていると思う。猿橋は、厳しくも研究者として彼女を導いた三宅泰雄という恩師にも恵まれたが、何よりも努力家でありひたむきな人だった。理論的研究をすすめるのは、数学が弱いと感じれば夜間の予備校に通い、化学を勉強し直そうと考えれば洋書を借りて読破する。ここまであの時代に女性が研究者として頑張れた原動力はどこからわいてくるのだろうか。科学への興味と関心、研究へのあくなき探究心、「核兵器がもたらす災害を最も知るのは科学者であり、それを全人類に伝える」ための科学者としての使命と義務感、そして世間の女性への偏見と差別が拍車をかけた面もなきにしもあらずと推測する。猿橋は、男女平等を声高に叫ぶのでなく、たとえ自分への処遇や研究環境が望ましくなくとも、成果を見せることで女性を差別する根拠がないことを相手に気づかせるという哲学をもっていた。そして、もうひとつの哲学は恩師から学んだ「科学者は、同時に哲学者でなければならない」。世界唯一の被爆国の日本人として、科学が諸刃の剣であり、その功と罪を実感していたのだろう。

「女性科学者に明るい未来をの会」を1980年設立。さらに私財1500万円を投じて1990年に「公益信託・女性自然科学者研究基金」で会の財政基盤を安定させた。現在、28名の女性科学者が「猿橋賞」を受賞することによって、人生がかわり研究者として飛躍することができたという。猿橋は、81年にエイボン女性大賞を受賞し、米国で出版された「20世紀・女性科学者たち」の10名に選ばれた。

大平首相は厳しい追及に政治家ではなく、父としてこう答えた。
『女に学問は要らない。早く嫁に行け』という言葉は、ご批判をいただく余地が十分にあると思いますが、早く嫁に行って、全体として女の幸せを追求してもらいたいという父親の気持ちをお汲み取りいただきたい。 婦人は男性より物事に誠実でございます。道義の感覚に鋭敏でございます。とりわけ子供をもうけるなどという手応えのある人生経験は男にはできないことでございます。私は女性を尊敬致しております。」

猿橋勝子は、生涯独身だった。その理由を、著者は同世代の若者がみな戦争にとられてしまったからだと考えている。米沢富美子さんのお母様は、数学が抜群にできその才能をのばすために先生がたから勧められた女子高等師範学校進学の夢も、親戚の長老の「女に学問は不要」というたったひと言で泣く泣くあきらめた。独身で研究に没頭した猿橋と娘に自分の夢を託した母。その背景は、どちらも「女に学問はいらぬ」という日本の古き社会的風潮だ。もしも叶うなら、あの時代に田舎で生まれ土に還った祖母に今会って伝えたい。「女に学問はいらぬ」と言った私への慈しみへの感謝の気持ちと、やっぱり女も学問はあった方が素敵だということを。