2006年12月10日日曜日

今、社員旅行中だ。グアムだってヨ

今、社員旅行中です。


 

当社では、毎年、12月初旬に社員旅行を行っている。直接の担当者は、この2 3年は若手の元気者だ。その以前には、(オジサンばかり)会社だったので、幹事は皆を驚かせる企画が立てられなくて、(まあ、しょうがないか)コースばかりだった。旅行社との、日程、行き先、費用、行き先での時間の過ごし方、を打ち合わせているその側で、聞き耳を立てるスタッフたち。楽しいことの打ち合わせは、私にも、心なごませてくれる。グアムに決めたようだ。


グアム島は、日本から約2,500キロメートルの距離にあり、飛行時間は約3時間余り。日本から一番近いアメリカです。


 

2006年12月8日~11日 3泊4日


滞在:パシフィック・アイランド・クラブ グアム


タモン湾に面し広大な87,000㎡の敷地に島内最大のウォーターパークがある。


 

私は、来年、アメリカにリフォームの勉強に行くので、今回は辞退した。


 

社員旅行の、全ての目的は社員の慰労である。仕事の事をすっかり忘れて遊ぶことだ。


会社負担は、社員は全額、社員の夫や妻は実費の1/2、義務教育期間中の子供は0。フィアンセ、愛人は全額個人負担。


 

私からは、大いに遊んで、楽しんできてくれることを、願うばかりだ。


行って、来おうい!!


 

後日の報告編をお楽しみに

2006年12月8日金曜日

茨木のり子さんの遺稿 来年詩集に

夫への愛 40編

気骨の人 別の一面




茨木のり子さんの遺稿が、来年詩集として出版されると新聞記事で読んだ。


よかった。嬉しかった。


忘れかけようとしていた、茨木のり子さんが紙面といえども私の前に再び現れてくれたことに、喜んでいる。


私は、大学生だった4年間、東京は武蔵野、東伏見のグラウンドを核に直径2キロメートルの範囲内で浮遊? 暮らしていた。



東伏見は、入学時は、東京都北多摩郡東伏見町だった。それから確か3年生の時に、東京都保谷市東伏見になり、現在は東京都西東京市だ。 

 

朝から晩まで、サッカー漬け生活だった。当時毎日といってもいいほど会っていた牛島孝之さんから、彼女のことを教えてもらった。牛島さんは、あたかも自分の恋人のように話してくれた。


(注)後日、牛島さんのことについて、記述する機会はあろうかと思われますが、今回は、素通りです。


「茨木のり子さんは、詩人です。何に対しても、端然として毅然、気骨の人。この人の詩にガ~ンとやられてからは、私は盲目的な読者になりました。時々、グラウンドにも現れるのですよ。私はそのことも気になって、毎日、ラグビーとサッカーを見に来ているんですよ」とも言っていた。


牛島さんから彼女の詩集を借りて読ましてもらった。その時は、唯、強い女性だと思った。


当時の私は、詩集を読むなんて柄に合わないと、ハナカラ決めてかかっていた。詩集を手にするだけで恥ずかしかったのです。何故って聞かれても、当時若者だった、私の心情は複雑でした。


それから、約35年経った。私の蔵書に茨木のり子さんの詩集は増えた。読後の感じ方も随分変わってきたように、思う。


その茨木のり子さんが、今年2月に79歳で亡くなった。


死を知った時、彼女の体の状態などお構いもなしに、もう茨木のり子さんの詩を楽しめないのか、と、咄嗟に不肖のファンは悲しんだ。私は恥じた、不埒な読者、詩不適確者かもと。




40編の遺稿が見つかった。「歳月」と題した詩集にまとめられ、来年2月の命日に出版される。夫と二人の世界、だそうだ。




2006年12月4日の朝日(夕)より


「新婚の夜のけだるさのなか


わたしは思わず呟いた


どちらが先に逝くのかしら


わたしとあなたと」 (『その時より』)



今年6月 東京都西東京市の自宅の書斎で、甥の治さんが「Y」と書かれた箱を見つけた。「Y」は75年に死別した夫・三浦安信サンの頭文字。中には錆びたクリップで留められた原稿の束があり、掲載順も記されていた。 

 

治さんが作品の存在を聞いたのは数年前だった。「なぜ生きているうちにださないの」と聞くと、(照れくさいのよ)と笑った。出版元になった花神社の大久保憲一さんには「最後の詩集はよろしく」とだけ、頼んであったという。


今年2月17日、茨木さんは友人に配る別れの手紙を用意したあと、くも膜下出血で亡くなった。


「本人にとって本質的なことはすべて、死ぬ前に肩がついていた気がします」。治さんはそう振り返る。


戦後の世のあり方を問いかけた代表作とは違い、(歳月)は安信さんへの思いや男女の心の機微を描く。安信さんが夢枕に立つ「夢」、夫が入院する前に最後の食事を囲んだ思い出の「最後の晩餐」、通勤路に足跡を見出そうとする「駅」。


大久保さんは「人間がこんなにも深い愛情を持っていて、それを惜しげもなく詩にできた才能に心を打たれた」と話す。


23歳だった茨木さんが8歳年上の医師だった安信さんと結婚したのは49年だった。私生活について多くを語らなかったが、取材に訪れた学生に「(自分の世界を持つことを)夫が理解してくれ、育てようとしてくれた。上等の男性でした」と話したこともある。安信さんを亡くした後は、共に過ごした家で、ひとり暮らした。


死後、寝室の枕元で小さな木箱が見つかった。何度も触った後があり、安信さんの戒名と「骨」が数かけ入っていたという。

2006年12月2日土曜日

樋口一葉の心意気


天声人語を読んで、筆者はうまいこと書くなァ、と感心した。5千円札の絵模様になった樋口一葉さんの人となりを、5千円札と他の札との使われ方の違いをもって、表されている。  

やっぱり、この記事も一つマイ・ポケットさせて頂こう。




以下 天声人語からの抜粋より


2006年11月23日は、二十と四年で世を去った作家・樋口一葉の命日だ。


短く、しかし強く生きた一葉の生涯をたどると、改めてその際立った心意気が思い出される。


「人情かみの如しうすく、~ 世はいかさまにならんとすらん~わがこころざしは国家の大本にあり」



「たけくらべ」では、吉原の遊郭という独特な場所の周辺に生きる人々の思いを見事に描き出した。森鴎外主宰の雑誌「めさまし草」の合評蘭に「たけくらべ」に関する一節がある。「この人の筆の下には、灰を撒きて花を開かす手段あるを知り得たり、~この人にまことの詩人といふ称をおくることを惜しまざるなり」

22歳の年の日記にこう記した。


他の札と違って、5千円は札束にはなじまないようだ。使われる時も1枚だけのことが多い。一葉は、札になっても一葉か。それが、やや切なくもあり、あの心意気の高さにはふさわしいようでもあった。

2006年12月1日金曜日

私は、私の会社を、『社会民主主義会社』にしたい。

会社の財務内容がよくなったこと、これから5年間でやらなくてはならないこと。

                 
①     会社の財務を良くした方が、何故いいの?
何故、会社を良くしなければならないの?

会社がよくなったら、どうなるの?

誰のために、良くするの?

こんな疑問を、誰でも持つものです。

会社は、株主が出資した資本金を利用して、企業活動を行っている。利益をあげて、株主が出資してくれたお金に対して、配当金を支払い、税金を支払って社会還元する。

利益があげられないと、必然的に財務状態が悪くなり、株主に対する配当金が少ししか払えなかったり、全く配当金が払えないことになる。金融機関からの評価も悪くなる。そうすると希望する額の融資金が受けられない。資金不足に陥る。事業の展開が貧困にならざるをえない。やりたい事業をうらめしく眺めることしかできない。 当社のように、自己資金が少なくて借入依存度が高い会社は、内外における突発性の政変・経済の変化によって、市場が大きく揺れる、その時のリスクは高く、危険だ。債務を保証している私も不安だ。よって、会社は、どんなことがあっても、いい会社にするしかないのです。ほどほどに、なんてことは許されない。

*     役員(社長・専務・取締役)と株主と社員の相互理解を得ながら、社員にとっての会社《会社にとっての社員》、株主にとっての会社(会社にとって株主)の認識を深めたい。

②会社が良くなったら、社長、特に創業者は、会社をどういう方向に舵を取りたく思うのですか?


人によるが、世の社長はこういう事態に面した場合に、大体二通りの方向性を露わにすることがある。

《会社温存型》 自分の給料をほどほどに抑えて、会社に利益をどんどん上げさせ、株主には配当金、税金(社会還元)を支払って、内部留保金を増やそうとする。 会社を大きくして、沢山の人に雇用の機会を用意する。チャンスがあれば、上場を目指し、社員に上場のうまみを、味わらせてやりたいと思う。創業者、社員にとって、とにかく、会社の今までやってきたこと、今後やり通そうとしていることを、社会に認めてもらいたいと思う。会社は、永続するものだと考える。会社の将来と、自分の将来を見据えて、仕事に励む。会社の成長と、社員としての人間的成長を喜びとする。



《社長個人だけ温存型(身内もふくめて)》 社長を含めた身内のスタッフの給料を、会社に利益が出ない限界ぎりぎりまで上げる。結果、会社には利益が出ないようにする。 自分の女房か娘を、バカ息子を役員にして、給料を支払う。儲けられる時に儲けておこう、後の事は重要じゃない。個人資産を増やすことを第一に考える。社員を使い捨て感覚で使用する。給料体系を、フルコミッション、歩合給偏重になりがち。

*山岡は《会社温存型》を目指したい。 


 ③今、私が置かれている状況
以下 税理士の五浦氏の見解より A ,*氏・+氏の株式持分について、*氏は純資産価額方式、+氏は配当還元方式による評価であることに留意せよ。 

  B , 土地保有特定会社    現状では、税法上の大会社に該当するため、総資産に対して70%以上の土地保有率をもって土地保有特定会社となり、同族株主の株の評価が純資産価額方式に限定されている。 土地の保有割合を下げることにより類似業種比準方式を選択できる。

(注)当社は、不動産会社で、土地を仕入れて付加価値を付けて売却する。そのような事業展開を行っているゆえ、土地の保有比率を下げるわけには、いかない。

そこで*氏の株式の評価はどうなるの?上記のA Bにより、同族株主の評価、純資産価額方式によると前期末:@?円《1株》?*?=?円この数字を見て社員はどう思うのか、社長にとって、どういう意味があるのか? 社員は=ひぇー、それがどうしたの? 俺にとって、私にとって、何か、ええことでもあるの? 社長は=ヒャー、それどういうこっちゃ。 ????? それ、俺に呉れるの? なんか、ええことあるのか?

そこで、税理士の五浦さんの、コメントより。

「山岡さんが、ここで、何も準備も用意もしないで、死んだら、この???が相続税評価対象額になるのですよ。山岡さんの私財については、仕事柄知り得ています。全財産を処分しても処理しきれないでしょうね。奥さん、子供は家を追われるように出て行くしかない。このまま、やり続けていれば、会社は益々よくなり、社長が年を重ねていく。こんな危険なことはないですぞ」。

④今、社員が置かれている状況
社長の株式の評価が??? 俺には関係ない。そんなこと、知っちゃおらんよ、と思うのが社員各自の実感だろう。でも、じっくり考えたら、俺達社員が働いた成果でもあるんだよな、と思い巡らしてもいいのではないのか。社長は、社員からのそんな声を待っている。社長は、借入金の連帯保証を重ねる。この債務を背負うプレッシャーは、並みたいてのものではないことも、よく理解して欲しい。でも、山岡はちょっと変な部類の人間だから、会社運営の楽しみと苦しみを、チャラにして、それなりに楽しくやってるんだからええのだ、と割り切ってくれても、いいのだ、よ。 そこで、山岡は、この評価を、これまで頑張ってくれた社員、これから頑張ろうとしてくれている社員に、お裾分けできないか、と思い当った。でも、今のままでは、どうにも、何もしてやれないのが実情だ。 社員は、今後の取締役会で、社員の株主しての利益分配方式を検討するので、その検討結果が出るまで、待っていて欲しい。

⑤上場できたら?
上場しなくても、頑張っている企業は幾らもある。例えば、リクルート、サントリー、ロッテ、竹中工務店などがそうです。これらの会社は経営トップの強力なリーダーシップの下、株式市場から資金調達を行わなくても自らの生み出すキャッシュフローを基に事業拡大しています。また、「上場企業」という肩書きがなくても、これまでの実績から十分に社会的信用を得ています。私達の会社では、このような会社の真似はできません。よって、上場するしかないと考えている。上場するためには、どの証券取引所にも、上場実質審査基準がある。以下の通りです。このことは、本来、なにも上場の為に行うことではないことばかりなんだが。

1、企業の継続性及び収益性 2、企業経営の健全性

3、企業内容等の開示の適正性

4、その他公益又は投資者保護

について審査され、証券取引所が承認しなければ、上場はできない。

私の会社、私達の会社から、公器としての会社になるわけだから、高いハードルを越えなければならないのは、当然だろう。

社員に対しては、働くことにおいて、社員を守ること、会社が当然しなくちゃならないこと、備えなくてはならないこと、労使に対して、すごく緊張維持できる環境を整備しなければならないことが多いのです。

会社は誰のもの? の根源的質問についての、必然的解答は《上場を目指す》と結論を下す。

 
 何故なら、会社は良くなったけど、社員には具体的にはメリットがない。株主だって少しぐらい高い評価(配当金)を受けたところで、物足りない。会社の大発展の夢を実現したいと思っている、役員・株主・社員には欲求不満が募るばかりです。

この不満を解消するには、上場することが、一番手っ取り早く、直接効果のでる方法だ。

とは言え、上場を達成するには、今期、来期、再来期、その次の期、その次の期の次の期の、業績を計画通りに実行しなければならないのです。その強い決意を共有されなければ、実行は無理だ。社員のため、会社のため、社長のため、どんなことがあっても、上場するしかないのです。 上場できれば、会社、社員、株主にも、エエことがあるのですか? 問題は、ココなのです。

株式上場のメリット

・     財務面・資金調達の能力の強化・     知名度・対外的信用力の向上

・     社内管理体制の整備

・     株式流通性の向上、株式価値の顕在化、増大

・     従業員へのインセンティブ

株式上場の主な留意点

・     企業内容の開示義務、説明責任の増大

・     証券取引法、会計基準、その他法令への対応

・     事務量・経費の増加、人件費の増加

・     コンプライアンスの強化

社員に対しては~決められた株数を発行しなければならないから、前もって、社員持ち株会(山岡自身はこのやり方は、スカン)とか、何らかの方法で各社員に株を保有してもらい、その株の市場評価次第では、差益をゲットできる。ストックオプションなどで、会社が良くなれば良くなるだけ、株価が上がって、より以上のゲットが可能になる方式も検討してみたい。上場できたら、流通性のある株になるから、資産としても十二分だ。これが、大きいのです。これだけを目的に上場を目指す社もあるぐらいだ。当社はそんなアホな集団ではない。

上場すると、市場から資金が集められ、会社の財務的な運営は進めやすくなる。又、研究費、将来を見越した投資が可能になる。調達した資金を事業に投資することにより上場していない会社よりも成長のスピードをあげることができる。
全ての活動において、何事に対しても、ひるむことなく堂々と対処できる。(当社は上場できなくても、堂々とやってきたし、今後も堂々とやらなければならない)他社との業務提携がスムーズに進められる。 社員の募集がやり易くなる。いい人材が集まり易くなる。

⑥上場は通過点だ
社会的に認証され、益々公器としての役割が重くなる。だが、社会的に認められたといえ、最低限の基準をクリアーした程度に過ぎず、もっと高いステージでの活躍を求めてチャレンジしたい。我が社は、あらゆる情報を、根源的変革を視点に、最適利用を考え、加工し、高付加価値の環境創造をお客様に提供している。この活動のさらなる飛躍を目指している。

荒ぶる魂を持つ熱き若者たちが、雄叫びをあげて、勇猛果敢に前進するのだ。

私たちは、横浜で一番元気のいい会社だ

2006年11月22日水曜日

ドフトエフスキーが、本屋さんから消えた?

 



私には持病がある。何かの拍子にやってくる「ドフトエフスキー病」です。無性に、ドフトエフスキーを読みたくなるのです。 

太宰 治が、トカ トン トン と表現したような感じで近づいてくる。きたかな、と思いきや、今度は突然急に。それも、(カラマーゾフの兄弟)を。そろそろかな、と予感がしていた矢先、もう全く完全な病人状態になってしまった。


(カラマーゾフの兄弟)を最初に読んだのは、大学3年生夏合宿の前後1ヶ月で。


大学生の間には、代表的なロシア文学はだいたい読破した。


大学4年間のうち2年間は、校舎はロックアウトされていて中には入れなかった。クラス討論とそのあとのデモで忙しかった。昼間は本物の体育会のサッカー部員だった。



 

 

2回目は37歳の秋、某電鉄系レジャー施設運営企業を9年7ヶ月勤めて退社した時。それまで勤めていた会社の社長さんは、日本体?協!とか日本オ?ン!ック#員会とかの組織の要職について、鼻息荒い二代目だった。この人、ちょっと胡散臭いぞ、と思ったときには、辞表提出済みだった。その約25年後、この二代目は事業家としては、悲しい結末をもかえることになった。事業家としては、落第だった。逮捕まで、されちゃった。



 

 

3回目は、53歳の時、平成13年だ。


バブル崩壊後、我が社は荒波に呑み込まれる寸前の難破船状態だったが、なんとかほぼ10年を経て(ゼロ)の位置にたどりつけるようになった、その頃だ。難破船時には、以前の社員は皆、恐れを感じて去って行った。専務と私以外は、新しく参加してくれた社員のみになった。



 

 

今回、再発したのは4回目。平成18年11月だ。58歳の今だ。



 

 

「ドフトエフスキー病」が発症するときは、自分の内に何かが、起こっているときなのです。



 

 

居ても立ってもいられなくなって、チェーン店になっている古本屋さんに、(カラマーゾフの兄弟)を買い求めに行った。以前に読んだ本は私の本棚を探せばあるのだろうが、今回は活字の大きい本で読みたかったのです。


その店には(カラマーゾフの兄弟)が見つからなかった。


(カラマーゾフの兄弟)だけではなく、古典的な名作といわれる本の類が、何も、何処を探しても、見つからない。現代作家の著作物は、棚に溢れているのに。


商売にならないのだろうか?誰も古典的な作品を買おうとしないのだろうか?


古典的名著は、もう読まれないの?


読んだ本を、古本屋には持ち込まないで、自分の書庫にしまいこんでいるのだろうか。


どうなっているのだろう? 不思議だ?



 

 

私は、腑に落ちないまま、次の古本屋に行く覚悟をして、その店を出た。


が、しかし、もう一軒の古本屋にも無かった。学生街の古本屋にでも行けば、あるのだろうか、とも考えたが、そんなところへ行く時間がない。


古本屋さんで買い求めるのは諦めた。


しょうがないから、宮部みゆきさん、桐野夏生さん。長編、ダーク、ブレイブ ストーリーを買わせていただきました。


けっして、ドフトエフスキーさんの代打ではありませんから。私は、あなたたちの真剣な読者ですから、あしからず。



この数年間のうちに、本を買うのは古本屋さんで、という習慣が知らず知らずのうちに、身についてしまったようだ。そう言えば、駅前の情報誌やコミックをメインにしている本屋さん以外の、総合的に品そろえしている本屋さんには、永いこと行ってないことに、驚いた。



古本屋さんからは、間違いなく、ドフトエフスキーさん、トルストイ、チェーホフさんもいなくなっちゃいました。



 

 

新刊なら、本屋さんにあるの?



 

 

2006年11月21日


横浜駅ビルのなかにある、横浜では有名な本屋さんに行ってみた。さすが、有名な本屋さんだけあって、「カラマーゾフの兄弟」はあった。全て文庫本になっていた。買った。経済的に多少余裕ができたことと、小さい字では疲れるので、大きい字の本を手に入れたかったのだが、もうそんな本はなかった。やっぱり、この店にも、古典的名作といわれている本は少なかった。




宮部さん、桐野さんの次には、憧れのドフトエフスキーさんの苦悩の世界に突入するぞ。



 

 

この苦悩の世界が、たまらないのです。


この苦悩が人を成長させるのだろう。

k取締役が、アニサキスを土産に、出社した。

アニサキス君が、会社にやってきた   


弊社取締役のk氏が、「俺、胃ガンにやられているようなので、明日朝、病院に行ってくるわ」。「胃がんでも、胃潰瘍でもしょうがないんや、あれだけ、不摂生してりゃ。なあ、せやろう」と言う会話で、前日は仕事を終了した。


習慣になっている、仕事上がりのビール一杯もなしに帰社した。


私に対しては、そのように言ったが、他のスタッフには、2 3日前に食った刺身にやられたようだ、と打ち明けていたようです。生来の刺身好き、身体防御精神希薄、とん馬な衛生知識、そのうえ、食い意地が張ってりゃ、胃袋に何らかの変調が発生しても、何等不思議なことではない。


翌日昼過ぎ、k取締役は出社した。ポケットから出した小さな容器を皆の前に突き出した。透明の小さな容器には、何やら、白い小動物が泳いでいる。


容器の中のご主人様は、恐れ多くも、アニサキス君では、ありませんか。お医者さんもなかなか気が利くじゃないか。ちゃんと、お土産物にして、帰らすなんて。


大事に、育てましょう。なんて言う輩まででてきた。


会議室のテーブルにでも、置いとけばいいのに、と思ったのだが。


死んでしまっちゃ、面白くない、とk取締役は捨ててしまいました。

2006年11月21日火曜日

私の育った、宇治田原の里のご紹介

私の育った、宇治田原の里のご紹介。

  宇治平等院の裏を流れる宇治川をさかのぼっていくと、天ケ瀬ダムがある。源流は琵琶湖だ。川に沿ってダムを見下ろすような道が蛇行している。この道こそ、その昔、ここで紹介している私のふるさとの、京都、大阪に通じる唯一の出入り口でした。高校に、マフラーをカットしたホンダのスーパーカブに乗って、レーサー気取りで、通った。もう少し川をさかのぼっていくと、宇治川は、瀬田川と田原川に分かれる。その支流である田原川に沿った道を進むと、我がふるさと、宇治田原町に入ります。河岸段丘の少しばかりの平地を、山々がぐるりと取り囲んでいる。

ここで私は生まれ、20歳まで過ごした。


(2006年10月14日 京都新聞の記事より)


和みのまち 

大規模集団園を造成 

 京都府綴喜郡宇治田原町は今年町制50周年を迎えた。田原村と宇治田原村が合併で宇治田原町が誕生して半世紀。住宅や工業団地の開発が進む町はいま、茶文化をキ-ワードにした(和みのまち)を目指している。  

 

府南部のほぼ中央東に位置し、人口1万249人(10月1日 現在)。南東部に修験の山・鷲峰山がそびえ、中心部を田原川が流れる。町内各地区には由緒ある寺社や史跡が多く、豊かな歴史を今に伝える。また、緑茶製法の発祥の地として、町挙げて茶を通した国際交流など茶文化の発展に力をいれてきた。


史跡・伝統  豊かな歴史 今に伝え 

 古くは奈良と京都、近江を結ぶ要所だった宇治田原町は、由緒ある寺社や史跡をもち、文化財が数多く残る。同町で国の重要文化財に指定されている八件のうち、禅定寺所有は七件を数える。本尊(木造十一面観音立像)、平安時代―江戸時代の同寺伝来の古文書「禅定寺文書」などで、藤原道長から頼道に伝えられた領地が同寺に寄進されたことなどが文書に残るという。正寿院(同町奥山田)の「木造不動明王坐像」も国の重要文化財で鎌倉初期の仏師、快慶の作とされる。  

 

神社では、こぶとりの神で知られる猿丸神社(同町禅定寺)が有名で、緑茶製法を開発した同町出身者の永谷宗円を祭る茶宗明神社もある。


一方、各地区には今も古来の風習が伝わる。落ち武者の隠れ里とされてきた高尾地区に女人禁制の小正月行事「縁たたき」が残り、奥山田地区には、「ねりこみばやし」が代々受け継がれている。酒を飲ませたウナギを滝つぼに放流する一風変わった雨乞い行事は、湯屋谷地区で毎年開催される。


農林業 

日本緑茶発祥の地である宇治田原町は、江戸時代に永谷宗円が「永谷式煎茶」を生み出して以来、茶作りの歴史を積み重ねてきた。町内に広がる茶園の総面積約二百三十ヘクタールで、生産農家は約五百七十戸。年間の生産量は約四百トンに上る。春の茶摘みの時期には茶園のあっちこっちで、青々とした茶の芽を摘み取る摘み子たちの姿が見られ、初夏の新茶作りの最盛期には、町内の製茶工場から茶の甘い香りが漂う。

緑茶と並ぶ同町の特産品が「古老柿」だ。皮をむいたつるのこ柿という渋柿を山里の寒風にさらし、甘く柔らかな「古老柿」に仕上げる。晩秋のころには稲刈りの済んだ田んぼに古老柿作りための柿屋が立ち並び、何万個ものつるのこ柿が干してある風景は、昔から続く宇治田原の風物詩だ。


町は本年度から、町内に大規模な集団茶園を造成する事業を始めた。移りゆく時代とともに、茶業を取り巻く環境も変わってきたなかで、緑茶発祥の地として茶文化を支え続けてきた町は、これからも茶の歴史に新しいページを付け加えていく。



教育・文化   

宇治田原町は「地産地消」をキーワードに、地元産の食材を生かした食育に力を注いでいる。新茶のシーズンには、町立保育園や小学校の子供達が町内の茶園で茶摘を体験し給食には新茶を使ったかき揚げや茶の芽の炊き込みご飯など、郷土色豊かなメニューが出る。小学校では、茶やキュウリなどの生産農家を講師に招いた授業や休耕田を利用した米の栽培体験など、学校と地域が一体となって食の大切さを学んでいる。茶を通した国際交流も盛んで2004年から茶発祥の地といわれる中国雲南省との交流事業を進めている。04年からは町内の三小学校の児童が摘んだ茶を同省に贈り、友好を深めてきた。食を通してふるさとの文化に親しみ、茶を通して世界の文化を知る試みが続いている。


産業  

緑豊かな茶畑に囲まれて、平屋の工場が立ち並ぶ宇治田原工業団地。1988年、府内初の民間開発による工業団地としてオープンした。総面積約80ヘクタールの広大な敷地の中に、約50の製作場や工場が立ち並び、府内有数の工場団地に発展してきた。オープン当時は金属プレスの工場が多かったが、時代とともに業種も移り変わり、今は紙加工や印刷技術、食品関係の工場が多く入居している。半導体部品や精密機械の組み立てなど、先端技術を支える企業の進出も目立つ。

同工業団地に隣接する緑苑坂地区にも、2002年に緑苑坂テクノパークがオープンした。約10ヘクタールの敷地には学校給食共同調理場や印刷工場などが入居し、現在も新たな企業が工場を建築中だ。



産業の発展が進む一方で、同町は環境保全の取り組みにも力を入れている。今年8月には、町内に生息する府の絶滅寸前種や絶滅危惧種などの野生動植物800種の生態をまとめた(宇治田原町レッドデータブック)を発行した。地域に残された豊かな自然という財産を町はこれからも守っていく。