含蓄のある記事を見つけてしまった。モノの見方が甘い私には、朝日新聞は、何もかも教えてくれる教本です。
前の文で、教本なんて文字を選んでしまった、その瞬間に、あるシーンを思い出した。本題は、ちょっと後回しにして、その思い出したシ-ンについて書かせてもらうことにする。
私の息子のことです。
息子は、正月休みが終わって、再度オマーンに戻る。石油プラントを建設するために向う旅支度中、私は、息子が大型カバンに入れている2冊の本に目が留まった。2冊とも高校の化学の教科書であった。多分自分で高校時代に使っていたと思われる古びた教科書と、今回の帰省時に買い求めたと思われる新品の教科書だった。
大学時代は、土木学科だったので、物理だ、土だ、水だと言っていた。大学院時代は環境だ、と言っていた。入社した会社は、石油プラント建築を専業にしている。遊びにやってくる友人に「仕事は、物理じゃないんだよ、化学なんだよ」と言っているのをよく耳にした。足りない化学の勉強のために、息子は努力しているのだ、と感心させられた。父に似ず、学習意欲の強い、いい奴だ。
これから本題に入ります。
勝者は何もとらない 2007年1月10日 朝日(夕 )
ヘミングウェーには、「勝者には何もやるな」という短編集がある。「Winner take nothing」というその原題を直訳すれば、「勝者は何もとらない」か。
7日、高校ラグビーの決勝を見ながら、ふとそのフレーズが頭をかすめた。
勝負の行方が見えた試合終了直前、19点をリードした東海大仰星は左ウイングに足を引きずった選手を入れた。
準々決勝で右足首脱臼骨折の重傷を負ったこの選手のために、勝ち進んで最後の1分間でもピッチに立たせてやりたい。チームはその思いで一丸になった。
「勝負や相手には失礼かもしれないが、教育の一環として出してあげたかった」。監督はそう言った。
気持ちはわかる。しかし、と思う。
東福岡は、歩くのもままならない選手にぎょっとしたに違いない。彼をかばって仰星の守りが左側に偏った隙間から、この日唯一のトライをあげた。これを、最後まで試合をあきらめなかった証として、東福岡は素直に受け止められたろうか。
この選手がもし密集に巻き込まれたらというけがへの心配も、決勝を貫いていた透明な緊張感に水を差した。選手交代に、相手チームへの視線は感じ取れなかった。
仰星は今季の公式戦を無敗で終えた。敗者の誇りや競技への敬意をどう考えるか。それはけがの選手を最後に登場させる以上に教育的な題材になったはずだ。
勝者は勝利だけ。それ以外のものまでとってはいけないのだ。
2007年1月11日木曜日
2007年1月10日水曜日
ゴン ありがとう 感謝してる。
ゴン 永眠。我が家の守護神だった。
昨年11月中旬、ゴンの腰が立たなくなって、家族全員、ぎょっとした。永年付き合ってくれているM獣医さんに相談したら、「大型犬は多にして、そういうことはあるのです。小型犬よりも大型犬の方が間接を弱めることが多いのです。大型犬の8割方、関節をやられるのです」というもっともらしい説明。それで、腰を持ち上げる介護用品を買い求めた。その介護用品を使っての散歩を1週間ほど続けていたら、ゴンは自らの力で歩こうとしだした。神様、仏様、お天道様、有り難うございました、天にも昇る、喜びだった。
ところが、じゃ。俺のような不信心な心得の奴を、神様、仏様、お天道様、はそう簡単に赦しては、頂けなかった。
今月の6日。いつものように散歩に出かけようと声をかけても、ゲージから出て来ようともしない。抱きかかえて外へ出しても、その場にヘタリコンダまま、動こうとしない。ゴンの容態が急変した。唯、腰が立たないだけではなく、生きる意欲が減退しているように思われて、私は涙ぐんでしまった。ゴンを前に、俺自身も生きる力が抜けていく。情けないぞ、そんなに弱気になって、どうするんだ。今後どのようにゴンを介護してやれるのだ? 共に 強く、生きよう、と改めて覚悟した。
8日、私がゴンの腹に手を廻してお尻を持ち上げ、前脚だけで5メートル程前進、おしっこを一度しただけ。缶詰の肉と、ドライフーズを少し、自分の力で喰った。
9日、表情は、昨日よりもイイように思われた。昨日と同じだけ前進、おしっことウンコをした。我等家族全員で拍手、よかったね、と一時の安堵。おしっこが赤茶色で、臭いが強い。でも、最高級の缶詰の肉を、食おうとしない。手で少しずつ口の中に入れても、嬉しがらない。むしろ、迷惑そうなのだ、それが、私には非常に辛い。私は、不安で、心細く、おろおろするだけで、何をしてやればいいのか、さっぱり分からない。
10日、今朝9時頃、永眠した。
昨夜初めてのオムツをした。朝、オムツから糞尿が溢れていたので、お風呂で下半身を洗った。ベッドに戻して、食事を上げようとしても、口にしなかった。水はスプーン5杯ぐらいしか飲めなかった。
友人から、昨夜、頑張れなんて言うな、感謝をこめて、安らかに眠れるように、お祈りするのだ、とアドバイスを受けた。家族にその通りに話した。
ゴンの死を迎え、思い出が、知らず知らずのうちに、次から次と蘇ってくるんだ。
ゴンの10歳の誕生日(04 2 28)に記した文章です。
ゴンが生後2ヶ月ぐらいで我が家に来たのは、今から丁度10年前。当時、我が家には凄まじい嵐が吹き荒れていた。
何と言っても嵐の中心は次女のHさんだった。
ゴンが我が家にやってきた時は、私45歳、女房K・41歳、長女M・16歳・高校1年生、長男S・14歳・中学2年生、次女H・12歳・小学6年生、三女SO・8歳・小学2年生。
その頃を思い出ししてみよう。
長女は多感な中学時代を苦しく耐えながら、K先生の指導のもと、SA女子大の付属高校に目出度く入学、長女なりに女子高校生として頑張りだした。
長男はサッカー部の顧問とは折り合いが良好ではなく、でも部友には滅茶恵まれ、サッカーと受験勉強に充実した生活を過ごしていた。
問題は次女のHさんだった。
自分は親からの愛情薄い、可哀想な存在だと一人合点をしていたのだろうか、私よりも女房である母・Kになんでもかんでも逆らっていた時分だ。
母・KはKで何事についても、筋の通った常識派、かつ、間違いをけっして許さない正義派。家庭内での口論や諍いは絶えなかった。学校での生活態度についても悪い評判ばかりが聞こえてくる。私たち両親は、肝を冷やりとさせられることばかりだった。
そんな時期に犬を飼おうということになった。
ほんとは、その時よりも随分前から子供達の間で、犬を飼いたいと話していたのを聞いていた。せめて三女が小学校に入ったら考えようと、女房・Kと相談していた。
そんな、ある夜。だから10年前の夜。
スナックで飲んでいた時のこと、ママと犬の話になった。私は即自宅に電話をして、犬を飼おうと思うのだが?と、家族の全員に賛否を採ってくれないかとKに話した。ママはスナック経営と犬の販売を兼業していた。私の希望は大型犬。ちっちゃくてちょろちょろする犬は神経質そうで御免被りたい。頭のいい奴、馬鹿な犬で余計な苦労はしたくない。そんな理由で犬種は私とママで、ラブラドールレトリバーに決めた。色は?黒がいい、白がいいと意見は散発したが、結局は馴染み深い茶毛にした。
我が家に来た時は、両手の上に載るほど、ネズミと猫の中間程の大きさ。可愛くて 可愛くて、見る者の全てに愛くるしい感覚を与えてくれた。生まれたままだから、当然のことながら行儀作法は何も身につけてはいなかった。けれど、そんな生後2ヶ月の犬でも、畳の部屋には入るなと教えたら、その時から畳の部屋には絶対入らなかった。小便と糞のシモ処理を教えるのに1週間はかかった。部屋の中で糞をしそうな時、小便しそうなふりをした時には、手身近にあるタオルや新聞紙を持って走って行って受けてやった。いつも、滑り込みセーフで、てんやわんやの大騒動。ほとんどこの仕事はKがやってくれた。
ゴンは生まれながらに腸が弱く、定食にしているドッグフード以外のちょっと変わったものを食った時は、必ず下痢をした。乳製品や油を含んだものには、滅法弱い。ゴンの健康に関しては、この弱い腸対策のみで、その他飼い主として頭を悩ましたことは何もない。
名前はどうしよう?
俺には腹案があった、名前はゴンだ。住んでいるのが権太坂、当時のコマーシャルでタンスにゴン、日本のA代表でジュビロ磐田の中山がゴン、もうゴンしかない。家族の誰も反対しなかった。
それからの毎日、朝一番の散歩はこの俺様の担当で、私とゴンの特権だ、と家族に認知させた。。
雨の日も雪の日も、ゴンと私は幸せな時間を共有することになった。
強い雨の日はビニールで体を纏って家を出るのだが、途中で着崩れしてだらしない風体、終いには剥がれて濡れっぱなし。
ゴンは夜の間は家の中に居るので、朝、散歩のために家を飛び出すさまは、喜びに満ち溢れている。散歩の後の楽しい朝飯のことも、当然予測しているのであろう。雨の日も冷たい風の吹きすさぶ日も、ゴンは喜んで家を飛び出す。
仕事を前にして気分の高揚している私、元気いっぱいのゴン。嬉しそうなゴン、おのずから私も幸せな気分になる。仕事を控えての朝一番にとって、私の心身に及ぼす影響は絶大だ。
いい糞をした時はホットするが、軟らかい糞をした時は心配になる。最初の頃下痢でもした日には一日中気になって、仕事中でも家に電話することがあって、Kに笑われたこともしばしば。
子供が小さかった頃、あなたは子供の健康をちょっとも気に掛けなかった癖に、どうしたの? 又、ゴンとの散歩によって思わん喜びを味わうことにもなった。
散歩中、どこのお家の庭にもさまざまな庭木や手入れの行き届いた花壇、この頃は色鮮やかに配色をこらした寄せ植え鉢が、俺とゴンの目を楽しませてくれる。季節ごとに咲くように、一年を通して絶やさないように工夫されている。
~ ここまで。
追筆、私達家族はゴンに感謝することがいっぱいあります楽しかった
った思い出、ゴンが我々に教えてくれたことを、後日、あらためて
書かせていただきますので、その節はよろしくお願いします。
今日(10日)は、今後のことの打ち合わせのため、今、会社を出
て自宅に向います。
昨年11月中旬、ゴンの腰が立たなくなって、家族全員、ぎょっとした。永年付き合ってくれているM獣医さんに相談したら、「大型犬は多にして、そういうことはあるのです。小型犬よりも大型犬の方が間接を弱めることが多いのです。大型犬の8割方、関節をやられるのです」というもっともらしい説明。それで、腰を持ち上げる介護用品を買い求めた。その介護用品を使っての散歩を1週間ほど続けていたら、ゴンは自らの力で歩こうとしだした。神様、仏様、お天道様、有り難うございました、天にも昇る、喜びだった。
ところが、じゃ。俺のような不信心な心得の奴を、神様、仏様、お天道様、はそう簡単に赦しては、頂けなかった。
今月の6日。いつものように散歩に出かけようと声をかけても、ゲージから出て来ようともしない。抱きかかえて外へ出しても、その場にヘタリコンダまま、動こうとしない。ゴンの容態が急変した。唯、腰が立たないだけではなく、生きる意欲が減退しているように思われて、私は涙ぐんでしまった。ゴンを前に、俺自身も生きる力が抜けていく。情けないぞ、そんなに弱気になって、どうするんだ。今後どのようにゴンを介護してやれるのだ? 共に 強く、生きよう、と改めて覚悟した。
8日、私がゴンの腹に手を廻してお尻を持ち上げ、前脚だけで5メートル程前進、おしっこを一度しただけ。缶詰の肉と、ドライフーズを少し、自分の力で喰った。
9日、表情は、昨日よりもイイように思われた。昨日と同じだけ前進、おしっことウンコをした。我等家族全員で拍手、よかったね、と一時の安堵。おしっこが赤茶色で、臭いが強い。でも、最高級の缶詰の肉を、食おうとしない。手で少しずつ口の中に入れても、嬉しがらない。むしろ、迷惑そうなのだ、それが、私には非常に辛い。私は、不安で、心細く、おろおろするだけで、何をしてやればいいのか、さっぱり分からない。
10日、今朝9時頃、永眠した。
昨夜初めてのオムツをした。朝、オムツから糞尿が溢れていたので、お風呂で下半身を洗った。ベッドに戻して、食事を上げようとしても、口にしなかった。水はスプーン5杯ぐらいしか飲めなかった。
友人から、昨夜、頑張れなんて言うな、感謝をこめて、安らかに眠れるように、お祈りするのだ、とアドバイスを受けた。家族にその通りに話した。
ゴンの死を迎え、思い出が、知らず知らずのうちに、次から次と蘇ってくるんだ。
ゴンの10歳の誕生日(04 2 28)に記した文章です。
ゴンが生後2ヶ月ぐらいで我が家に来たのは、今から丁度10年前。当時、我が家には凄まじい嵐が吹き荒れていた。
何と言っても嵐の中心は次女のHさんだった。
ゴンが我が家にやってきた時は、私45歳、女房K・41歳、長女M・16歳・高校1年生、長男S・14歳・中学2年生、次女H・12歳・小学6年生、三女SO・8歳・小学2年生。
その頃を思い出ししてみよう。
長女は多感な中学時代を苦しく耐えながら、K先生の指導のもと、SA女子大の付属高校に目出度く入学、長女なりに女子高校生として頑張りだした。
長男はサッカー部の顧問とは折り合いが良好ではなく、でも部友には滅茶恵まれ、サッカーと受験勉強に充実した生活を過ごしていた。
問題は次女のHさんだった。
自分は親からの愛情薄い、可哀想な存在だと一人合点をしていたのだろうか、私よりも女房である母・Kになんでもかんでも逆らっていた時分だ。
母・KはKで何事についても、筋の通った常識派、かつ、間違いをけっして許さない正義派。家庭内での口論や諍いは絶えなかった。学校での生活態度についても悪い評判ばかりが聞こえてくる。私たち両親は、肝を冷やりとさせられることばかりだった。
そんな時期に犬を飼おうということになった。
ほんとは、その時よりも随分前から子供達の間で、犬を飼いたいと話していたのを聞いていた。せめて三女が小学校に入ったら考えようと、女房・Kと相談していた。
そんな、ある夜。だから10年前の夜。
スナックで飲んでいた時のこと、ママと犬の話になった。私は即自宅に電話をして、犬を飼おうと思うのだが?と、家族の全員に賛否を採ってくれないかとKに話した。ママはスナック経営と犬の販売を兼業していた。私の希望は大型犬。ちっちゃくてちょろちょろする犬は神経質そうで御免被りたい。頭のいい奴、馬鹿な犬で余計な苦労はしたくない。そんな理由で犬種は私とママで、ラブラドールレトリバーに決めた。色は?黒がいい、白がいいと意見は散発したが、結局は馴染み深い茶毛にした。
我が家に来た時は、両手の上に載るほど、ネズミと猫の中間程の大きさ。可愛くて 可愛くて、見る者の全てに愛くるしい感覚を与えてくれた。生まれたままだから、当然のことながら行儀作法は何も身につけてはいなかった。けれど、そんな生後2ヶ月の犬でも、畳の部屋には入るなと教えたら、その時から畳の部屋には絶対入らなかった。小便と糞のシモ処理を教えるのに1週間はかかった。部屋の中で糞をしそうな時、小便しそうなふりをした時には、手身近にあるタオルや新聞紙を持って走って行って受けてやった。いつも、滑り込みセーフで、てんやわんやの大騒動。ほとんどこの仕事はKがやってくれた。
ゴンは生まれながらに腸が弱く、定食にしているドッグフード以外のちょっと変わったものを食った時は、必ず下痢をした。乳製品や油を含んだものには、滅法弱い。ゴンの健康に関しては、この弱い腸対策のみで、その他飼い主として頭を悩ましたことは何もない。
名前はどうしよう?
俺には腹案があった、名前はゴンだ。住んでいるのが権太坂、当時のコマーシャルでタンスにゴン、日本のA代表でジュビロ磐田の中山がゴン、もうゴンしかない。家族の誰も反対しなかった。
それからの毎日、朝一番の散歩はこの俺様の担当で、私とゴンの特権だ、と家族に認知させた。。
雨の日も雪の日も、ゴンと私は幸せな時間を共有することになった。
強い雨の日はビニールで体を纏って家を出るのだが、途中で着崩れしてだらしない風体、終いには剥がれて濡れっぱなし。
ゴンは夜の間は家の中に居るので、朝、散歩のために家を飛び出すさまは、喜びに満ち溢れている。散歩の後の楽しい朝飯のことも、当然予測しているのであろう。雨の日も冷たい風の吹きすさぶ日も、ゴンは喜んで家を飛び出す。
仕事を前にして気分の高揚している私、元気いっぱいのゴン。嬉しそうなゴン、おのずから私も幸せな気分になる。仕事を控えての朝一番にとって、私の心身に及ぼす影響は絶大だ。
いい糞をした時はホットするが、軟らかい糞をした時は心配になる。最初の頃下痢でもした日には一日中気になって、仕事中でも家に電話することがあって、Kに笑われたこともしばしば。
子供が小さかった頃、あなたは子供の健康をちょっとも気に掛けなかった癖に、どうしたの? 又、ゴンとの散歩によって思わん喜びを味わうことにもなった。
散歩中、どこのお家の庭にもさまざまな庭木や手入れの行き届いた花壇、この頃は色鮮やかに配色をこらした寄せ植え鉢が、俺とゴンの目を楽しませてくれる。季節ごとに咲くように、一年を通して絶やさないように工夫されている。
~ ここまで。
追筆、私達家族はゴンに感謝することがいっぱいあります楽しかった
った思い出、ゴンが我々に教えてくれたことを、後日、あらためて
書かせていただきますので、その節はよろしくお願いします。
今日(10日)は、今後のことの打ち合わせのため、今、会社を出
て自宅に向います。
2007年1月7日日曜日
カラマーゾフの兄弟、4回目の読書進行中
物欲の権化のような父、放蕩無頼な情熱漢の長男、冷徹な知性人の次男、敬虔な修道者の三男、女。愛憎の地獄図絵。あ~ァ! 神様も参加しきたぞ、こわ~い。
私、現在、「カラマーの兄弟」の4回目の読書進行中です。3回目は、今から6年前のことだから、ストーリーについては、割と憶えているのだが、読了後の感想が明瞭でなく、まして、感想を文字などにして表現できるどころか、「なんじゃ、こりゃ!」と思ったのは、前2回の読了時と同じだった。
ところがじゃ、今回は違うのです。
文章が難解で、すっきり理解できないところは、繰り返し読んだり、後戻りしながら読み返したり、おや?と思ったときはじっくり時間をかけて読むように努めているせいか、今のところ、理解しながら進行中です。読書する環境が初めて整ったのか、私自身の頭の中が変わってきたのか、今までとは違うのです。
私には、「カラマー兄弟」を読みたくなる、不思議な周期があって、読みたいなあ!とちょっとでも思いつくと、もうそのまま重症患者になってしまうのです。その読みたいと思いつく時には、共通していることがあります。日々の暮らしのなかで、身の周りが異状にざわついていて、私もつられて異常に精神が高揚している時に、発生した熱帯低気圧が、急に台風になり嵐になるのです。そして、本屋さんに駆け込むのです。
フョードル(父):「イワン(次男)、答えてみろ、神はあるのか、ないのか?ただ、まじめにだぞ!俺は今まじめにやりたいんだ」
次男 「ありませんよ、神はありません」
父:「アリョーシカ(三男)、神はあるか?」
三男:「神はあります」
父:「イワン、不死はあるのか、何かせめてほんの少しでもいいんだが?」
次男:「不死もありません」
父:「全然か?」
次男:「全然」
父:「つまり、まったくの無か、それとも何かしらあるのか、なんだ。ことによると、何かしらあるんじゃないかな?とにかく何もないってわけはあるまい!」
イワン:「まったくの無ですよ」
父:「アリョーシカ、不死はあるのか?」
三男:「あります」
父:「神も不死もか?」
三男:「神も不死もです。神のうちに不死もまた存するのです」
(注)これは、作中の一部の会話なのですがこのようにして、一つひとつに、こだわり続けるのです。
父と息子3人とそれに係わる女性たち、金と欲、神の存在と信仰、人間の尊厳、放蕩と知性、女と男、真理と不信、真実と不実、侮辱と屈辱が入り乱れてストーリーは進む。神と人間の根本問題を据え置いた、屈指の名作と言われているだけに、私、充実しています。
私、現在、「カラマーの兄弟」の4回目の読書進行中です。3回目は、今から6年前のことだから、ストーリーについては、割と憶えているのだが、読了後の感想が明瞭でなく、まして、感想を文字などにして表現できるどころか、「なんじゃ、こりゃ!」と思ったのは、前2回の読了時と同じだった。
ところがじゃ、今回は違うのです。
文章が難解で、すっきり理解できないところは、繰り返し読んだり、後戻りしながら読み返したり、おや?と思ったときはじっくり時間をかけて読むように努めているせいか、今のところ、理解しながら進行中です。読書する環境が初めて整ったのか、私自身の頭の中が変わってきたのか、今までとは違うのです。
私には、「カラマー兄弟」を読みたくなる、不思議な周期があって、読みたいなあ!とちょっとでも思いつくと、もうそのまま重症患者になってしまうのです。その読みたいと思いつく時には、共通していることがあります。日々の暮らしのなかで、身の周りが異状にざわついていて、私もつられて異常に精神が高揚している時に、発生した熱帯低気圧が、急に台風になり嵐になるのです。そして、本屋さんに駆け込むのです。
フョードル(父):「イワン(次男)、答えてみろ、神はあるのか、ないのか?ただ、まじめにだぞ!俺は今まじめにやりたいんだ」
次男 「ありませんよ、神はありません」
父:「アリョーシカ(三男)、神はあるか?」
三男:「神はあります」
父:「イワン、不死はあるのか、何かせめてほんの少しでもいいんだが?」
次男:「不死もありません」
父:「全然か?」
次男:「全然」
父:「つまり、まったくの無か、それとも何かしらあるのか、なんだ。ことによると、何かしらあるんじゃないかな?とにかく何もないってわけはあるまい!」
イワン:「まったくの無ですよ」
父:「アリョーシカ、不死はあるのか?」
三男:「あります」
父:「神も不死もか?」
三男:「神も不死もです。神のうちに不死もまた存するのです」
(注)これは、作中の一部の会話なのですがこのようにして、一つひとつに、こだわり続けるのです。
父と息子3人とそれに係わる女性たち、金と欲、神の存在と信仰、人間の尊厳、放蕩と知性、女と男、真理と不信、真実と不実、侮辱と屈辱が入り乱れてストーリーは進む。神と人間の根本問題を据え置いた、屈指の名作と言われているだけに、私、充実しています。
2007年1月5日金曜日
皆様 あけおめ。今年も頑張ろうヨ
07年 アーバンビルドの営業活動骨子
07 01 01 山岡 保
07年の年頭にあたって、皆さんに明けましておめでとう、と言った後、何らかのメッセージを出さなくてはいかんと思いつき、文章を綴っている。07年の日本経済を予測する、何冊かの経済誌(紙)のなかから、よく解り易くまとめてあったものを見つけたので、後の方で転載した。
下記の内容を総括すると、昨年同様、強気で業容を拡大することが可能だ、ということのようだ。でも、我が社は規模が大きくなっているだけに、各部における慎重深さは昨年以上だ。財務面は尚一層慎重に、ということだ。「慎重(繊細)かつ大胆」は我が社の創業以来、一番気を配ってきたことだ。
営業面では、仕入れは、多彩な情報から広範に積極的に行う、商品化に知恵を最大限駆使する、商品化してから売却までの滞留期間を短縮する、商品化の多様化を図る、企画の多様化を模索する、などは従来通りだ。
昨年入社したスタッフは、流石、我が社の目に適った、大なる可能性を秘めている者達だと思う。会社の成長は、君たちスタッフの成長なくしては考えられないのです。若きリーダーの出現を期待する。日々精進して欲しい。昨年ことあるごとに喋ってきたことだけれど、新しく参加してくれたスタッフが、一人前になったら、もう一度スタッフの募集を企てる。今度は営業のみ5~10人程度だ。今年の夏前後か秋にかけて行う心算だ。
社長の私は、野心家だ。スタッフの皆も野心家になって欲しい。そのためには、「俺は、野心家だ」と誰に対しても、憚ることなく、大きい声で吼えるのだ。「俺は、野心家だ」と。
野村證券金融経済研究所 シニアエコノミスト 木内 登英氏
寄稿日:2006 12 13
2006年年初までの高成長軌道は一巡し、日本経済は現在軽微な踊り場局面にあると考えられる。
軽い踊り場を生じさせた最大の要因は、世界経済の変調を映した外需の鈍化であろう。しかし、国内経済に大きな不均衡が未だ見出されないなか、景気が失速に至る可能性は低い。
戦後最長に達した景気回復期間は、2007年もなお記録を伸ばし続けると考えられる。
2007年前半の輸出環境の改善を契機に国内景気は踊り場を脱し、同年後半には再び増勢を強めると見込まれる。
軽い踊り場を乗り越えた後には、個人の経済活動が次第に活性化し、また政府の経済政策が企業活動に好影響を与える。
今次景気回復の後半戦とも言える新たな局面へと日本経済は移行していこう。
野村證券金融経済研究所は、2006年度の実質GDP成長率を+1.8%、2007年度については+2.2%と予測した。
今年も、あの易者・塚原先生(昭和23年生まれ。私と同じ大学同じクラブの先輩です。現在、福島県喜多方市にて水産業を営む)がのたまう。その内容は以下のごとし。 私は、木星のプラスの星で、今年は「財成」らしい。「財成」とは、12年に1回しか回ってこない。やること全てがお金になる絶好の機会だそうです、大いに稼ぎましょう、ということ。運気横溢、年まわりがかってないほど、いいらしいです。 来年は、「安定」。よって、今年、来年のうちに、会社の基盤固めをきっちり、行いなさい、ということのようです。そのあとの3年は、大殺界です、要注意です。陰影に突入。その後、延滞、停止に向う。この時期は、何事につけても、慎重に行動せよ、と言うことだそうだ。
07 01 01 山岡 保
07年の年頭にあたって、皆さんに明けましておめでとう、と言った後、何らかのメッセージを出さなくてはいかんと思いつき、文章を綴っている。07年の日本経済を予測する、何冊かの経済誌(紙)のなかから、よく解り易くまとめてあったものを見つけたので、後の方で転載した。
下記の内容を総括すると、昨年同様、強気で業容を拡大することが可能だ、ということのようだ。でも、我が社は規模が大きくなっているだけに、各部における慎重深さは昨年以上だ。財務面は尚一層慎重に、ということだ。「慎重(繊細)かつ大胆」は我が社の創業以来、一番気を配ってきたことだ。
営業面では、仕入れは、多彩な情報から広範に積極的に行う、商品化に知恵を最大限駆使する、商品化してから売却までの滞留期間を短縮する、商品化の多様化を図る、企画の多様化を模索する、などは従来通りだ。
昨年入社したスタッフは、流石、我が社の目に適った、大なる可能性を秘めている者達だと思う。会社の成長は、君たちスタッフの成長なくしては考えられないのです。若きリーダーの出現を期待する。日々精進して欲しい。昨年ことあるごとに喋ってきたことだけれど、新しく参加してくれたスタッフが、一人前になったら、もう一度スタッフの募集を企てる。今度は営業のみ5~10人程度だ。今年の夏前後か秋にかけて行う心算だ。
社長の私は、野心家だ。スタッフの皆も野心家になって欲しい。そのためには、「俺は、野心家だ」と誰に対しても、憚ることなく、大きい声で吼えるのだ。「俺は、野心家だ」と。
野村證券金融経済研究所 シニアエコノミスト 木内 登英氏
寄稿日:2006 12 13
2006年年初までの高成長軌道は一巡し、日本経済は現在軽微な踊り場局面にあると考えられる。
軽い踊り場を生じさせた最大の要因は、世界経済の変調を映した外需の鈍化であろう。しかし、国内経済に大きな不均衡が未だ見出されないなか、景気が失速に至る可能性は低い。
戦後最長に達した景気回復期間は、2007年もなお記録を伸ばし続けると考えられる。
2007年前半の輸出環境の改善を契機に国内景気は踊り場を脱し、同年後半には再び増勢を強めると見込まれる。
軽い踊り場を乗り越えた後には、個人の経済活動が次第に活性化し、また政府の経済政策が企業活動に好影響を与える。
今次景気回復の後半戦とも言える新たな局面へと日本経済は移行していこう。
野村證券金融経済研究所は、2006年度の実質GDP成長率を+1.8%、2007年度については+2.2%と予測した。
今年も、あの易者・塚原先生(昭和23年生まれ。私と同じ大学同じクラブの先輩です。現在、福島県喜多方市にて水産業を営む)がのたまう。その内容は以下のごとし。 私は、木星のプラスの星で、今年は「財成」らしい。「財成」とは、12年に1回しか回ってこない。やること全てがお金になる絶好の機会だそうです、大いに稼ぎましょう、ということ。運気横溢、年まわりがかってないほど、いいらしいです。 来年は、「安定」。よって、今年、来年のうちに、会社の基盤固めをきっちり、行いなさい、ということのようです。そのあとの3年は、大殺界です、要注意です。陰影に突入。その後、延滞、停止に向う。この時期は、何事につけても、慎重に行動せよ、と言うことだそうだ。
箱根駅伝
母校の名を口にして、叫ぶと、胸がきゅっととなるのは、何故?。
母校の名を叫ぶと、何故、胸に熱いものが込み上げてきて、心臓が激しく高鳴り、きゅっと締め付けられ、息苦しくなるのだろうか。今だに? 卒業して、35年も経過したというのに。私だけが、ちょっとおかしいのか? 競走に賭けるアスリートの熱い思いが、私の心を共振するのだろう。学生時代 体育会に所属していたものだから、所属していなかった人よりも、当然、母校の名を叫んだ回数は多いと思う、その後遺症か。 今まで、この箱根駅伝で、何度母校の名を叫び、選手を励ましてきたことだろう。ほぼ33年間神奈川県に住み続けている。最初の3年間は大磯町、その後は権太坂、横浜市は保土ヶ谷。毎年の正月の2、3日は箱根駅伝を必ず応援することにしている。往路は鶴見を過ぎたら、復路は戸塚を過ぎたら、自宅を出る。その時がきたら、盃と徳利から手を離し、自然に、手袋、コートと準備に入る。初めの頃は夫婦だけ、それからは子供が加わって3人になり、4人になり、5人になり、それからは、子供が一人欠け、二人欠け、今度は犬が加わり、この頃は犬も老いのため欠場、今回は孫と私の二人っきり。嫌がった孫も、選手がやってくると、頑張れ、頑張れの大応援団。
第83回東京箱根間往復大学駅伝は、順大が6年ぶり11度目の総合優勝を果たした。 * 最優秀選手には(MVP)は5区で区間新をだした今井正人(順大)と1区でやはり区間記録を更新した佐藤悠基(東海大)。今井は3年連続MVPだ
* 早大シード権 5年ぶり
* 日大 15年ぶり2位
* 1位順大 2位日大 3位東海大 4位日体大 5位東洋大 6位早大
今井選手の活躍ぶり(2007年1月3日 朝日)より
誰もが苦しむ5区をむしろ楽しむように突き進む。トップをいく東海大と4分9秒あった差をひっくり返し逆に1分42秒の差をつけ、2年連続で往路優勝のテープを切った。「4分の差はちょっと届かないかな」。5位でタスキを受けた今井はそう思った。しかし、9,5キロの大平台で東海大との差は2分15秒、14キロ過ぎの小涌園では40秒に縮まり、順位も2位へ。16キロで東海大をかわした。2年生のときに11人、3年で5人、4年で4人を抜き去り、3年連続の区間賞。昨年作った区間記録を25秒縮めた。標高差約860メートルを駆け上がる走りの極意は何か。今井は「怖がらず、気持ちにブレーキをかけずに走ることですね」と説く。山登りの場合、前傾にこだわるあまり、腰まで引けてしまうものだが、今井の場合は、それがない。常に最短をたどるコース取りも熟練の域だ。「山登りは自分を成長させてくれた」と言う今井は卒業後、トヨタ自動車九州に就職する。バルセロナ五輪銀メダルの森下広一監督のもと、今度はマラソンという頂を目指す。
母校の名を叫ぶと、何故、胸に熱いものが込み上げてきて、心臓が激しく高鳴り、きゅっと締め付けられ、息苦しくなるのだろうか。今だに? 卒業して、35年も経過したというのに。私だけが、ちょっとおかしいのか? 競走に賭けるアスリートの熱い思いが、私の心を共振するのだろう。学生時代 体育会に所属していたものだから、所属していなかった人よりも、当然、母校の名を叫んだ回数は多いと思う、その後遺症か。 今まで、この箱根駅伝で、何度母校の名を叫び、選手を励ましてきたことだろう。ほぼ33年間神奈川県に住み続けている。最初の3年間は大磯町、その後は権太坂、横浜市は保土ヶ谷。毎年の正月の2、3日は箱根駅伝を必ず応援することにしている。往路は鶴見を過ぎたら、復路は戸塚を過ぎたら、自宅を出る。その時がきたら、盃と徳利から手を離し、自然に、手袋、コートと準備に入る。初めの頃は夫婦だけ、それからは子供が加わって3人になり、4人になり、5人になり、それからは、子供が一人欠け、二人欠け、今度は犬が加わり、この頃は犬も老いのため欠場、今回は孫と私の二人っきり。嫌がった孫も、選手がやってくると、頑張れ、頑張れの大応援団。
第83回東京箱根間往復大学駅伝は、順大が6年ぶり11度目の総合優勝を果たした。 * 最優秀選手には(MVP)は5区で区間新をだした今井正人(順大)と1区でやはり区間記録を更新した佐藤悠基(東海大)。今井は3年連続MVPだ
* 早大シード権 5年ぶり
* 日大 15年ぶり2位
* 1位順大 2位日大 3位東海大 4位日体大 5位東洋大 6位早大
今井選手の活躍ぶり(2007年1月3日 朝日)より
誰もが苦しむ5区をむしろ楽しむように突き進む。トップをいく東海大と4分9秒あった差をひっくり返し逆に1分42秒の差をつけ、2年連続で往路優勝のテープを切った。「4分の差はちょっと届かないかな」。5位でタスキを受けた今井はそう思った。しかし、9,5キロの大平台で東海大との差は2分15秒、14キロ過ぎの小涌園では40秒に縮まり、順位も2位へ。16キロで東海大をかわした。2年生のときに11人、3年で5人、4年で4人を抜き去り、3年連続の区間賞。昨年作った区間記録を25秒縮めた。標高差約860メートルを駆け上がる走りの極意は何か。今井は「怖がらず、気持ちにブレーキをかけずに走ることですね」と説く。山登りの場合、前傾にこだわるあまり、腰まで引けてしまうものだが、今井の場合は、それがない。常に最短をたどるコース取りも熟練の域だ。「山登りは自分を成長させてくれた」と言う今井は卒業後、トヨタ自動車九州に就職する。バルセロナ五輪銀メダルの森下広一監督のもと、今度はマラソンという頂を目指す。
2007年1月4日木曜日
川が好き 川にうつった 空がすき
*がんと向き合い3年 15歳 最期の言葉 「みんなありがとう。ぼくは往きます」
小児ガンと3年向き合った山口県周南市立狩野中3年の有国遊雲君(15)が、今月、生涯を閉じた。迫り来る死を両親と語り合いながら生き抜いた遊雲君の最期の言葉は、周囲への感謝だった。
川が好き 川にうつった 空も好き
地元の清流を詠んだ句が国土交通省の河川愛護の標語に選ばれ、地元有志が碑を建ててくれた。
抗がん剤は効かなくなりつつあったが、遊雲君は、抗がん剤の治療を望んだ。「支えてくれた人に何が返せるか。世の中の役にたちたい」との思いからだ。だが、今月2日の未明。母の手を握りしめた。「お母さん、ありがとう。みんなにもありがとうって言ってね」。その夜、「ぼくは往きます」と言い残し、3日午前、息を引き取った。
小児ガンと3年向き合った山口県周南市立狩野中3年の有国遊雲君(15)が、今月、生涯を閉じた。迫り来る死を両親と語り合いながら生き抜いた遊雲君の最期の言葉は、周囲への感謝だった。
川が好き 川にうつった 空も好き
地元の清流を詠んだ句が国土交通省の河川愛護の標語に選ばれ、地元有志が碑を建ててくれた。
抗がん剤は効かなくなりつつあったが、遊雲君は、抗がん剤の治療を望んだ。「支えてくれた人に何が返せるか。世の中の役にたちたい」との思いからだ。だが、今月2日の未明。母の手を握りしめた。「お母さん、ありがとう。みんなにもありがとうって言ってね」。その夜、「ぼくは往きます」と言い残し、3日午前、息を引き取った。
フセイン元イラク大統領 絞首刑
フセイン元大統領(イラク)、死刑執行
イラクのサダム・フセイン元大統領(69)の死刑が30日、バグダッドで執行された。米英が主導したイラク戦争で、旧政権が崩壊してから、3年半。約四半世紀にわたり独裁体制を敷いた旧指導者は、26日の死刑確定から4日後に絞首刑となった。イラク政府は旧体制と決別を強調し、復興に向けた国民の統合を呼びかけたが、激しい宗派対立で治安状況が改善する見通しは立ってない。
自他共に認める、ヒューマニストのこの私が、フセインの死刑執行を当たり前のことだと認めているのです。いや、自然的です。
国の政治を掌る執行責任者(為政者)は、先ずは、国民全ての生命の安全を確保することではないのか? 国民の一人一人が、安全で、安心して、将来の豊かさを確信して暮らせるような状況を作りだすことではないのか。当然、諸外国とも協調しながら国益も考えなければならない。そこで、以前、私は私のブログで、朝日新聞の天声人語の記事を利用したその文章を又、ここで使わせて頂くことにする。
ここから~
230年前に独立した時、アメリカは北米大陸の中の、新しい一つの国でしかなかった。初代大統領となったワシントンは、3期目には立候補しないことを表明した後、議会で決別の演説をした。「ある特定の国々に対して永続的で根深い反感をもったり、他の特定の国々に対して深い愛着をもったりせず、かわりに、すべての国に対して正当で友好的な感情を育むことが何よりも重要である」(井上一馬・編著『後世に伝える言葉』小学館)。 生まれたての国の未来を案ずる切実な思いが伝わってくる。超大国としてではなく、世界の中の一つの国として、建国の父の精神を思い起こす好機だ。~ここまで
* 注 今、現在のブッシュ大統領は、初代大統領のワシントンの考えとは、全く逆方向に進んでしまった。ワシントンさんは、さぞかし草葉の陰で嘆いていらっしゃることでしょう。このイラクのフセインを、かってイラン・イラク戦争において、欧米は支援した。今度は、手の裏を反す様にイラクそのものの国潰しを行った。歴史的にも、アメリカは、ブッシュは、破廉恥な国、破廉恥な大統領に成!り!果!て!て!し!ま!わ!れ!た。
誰が言ったのか知らないけれど、人間一人の命の重みは、地球よりも重いと。この意味が分からない人は、政治執行者になる資格がない、と同時に間違っても絶対になってはいけない。冒頭、フセインが絞首刑で死んだと知って、そんなことは当たり前だと記したのは、いろいろあるフセインの悪政のなかで、クルド地域における毒ガス兵器による住民殺害、キルクークにおけるクルド人やトルクメ人虐殺、特定の宗派に対する容赦ない弾圧を知ると、こんな奴、早くこの世から抹殺しなければならない、と思っていた。 自由はなくとも暮らしは安定する「独裁社会」か、それとも、明日の命もしれない混乱の「民主化」か、と選択を求められたら、必ず「民主化」です、と手を挙げるだろう。独裁社会で、社会が少しばかり安定していても、差別されたり、弾圧されたり、虐げられた人々が存在する事実に、注目しなければならない。一部の体制側の人には、結構、都合いいものだろうが、そんな国家なんて砂上の楼閣に過ぎない。そんな定理を、イラクはあらためて世界中に知らしめた。このことと、同じ意味で、同じだけ重要なことは、米国のブッシュも同罪だということです。
サダム・フセイン元イラク大統領(2006年12月31日 朝日)
1937年4月28日、バグダッドの北約150キロのティクリートに生まれた。20歳でアラブ民族主義を掲げるバース党に入党。59年、当時の首相暗殺計画に加わったとして死刑判決を受け亡命。63年に帰国。68年のクーデターで指導的役割を演じ、79年に大統領に就任。80年から88年までイラン・イラク戦争。末期に国内のクルド人を化学兵器で攻撃した。90年、クウェートに侵攻し併合を宣言するが、翌91年の湾岸戦争で米国を主力とする多国籍軍に敗れた。イラクの大量破壊兵器廃棄のための国連査察を拒否し98年に米英軍の空爆を受ける。03年には米国から亡命を求められが拒否し、イラク戦争に。政権は崩壊、逃亡中の同年12月に米軍に拘束された。
イラクのサダム・フセイン元大統領(69)の死刑が30日、バグダッドで執行された。米英が主導したイラク戦争で、旧政権が崩壊してから、3年半。約四半世紀にわたり独裁体制を敷いた旧指導者は、26日の死刑確定から4日後に絞首刑となった。イラク政府は旧体制と決別を強調し、復興に向けた国民の統合を呼びかけたが、激しい宗派対立で治安状況が改善する見通しは立ってない。
自他共に認める、ヒューマニストのこの私が、フセインの死刑執行を当たり前のことだと認めているのです。いや、自然的です。
国の政治を掌る執行責任者(為政者)は、先ずは、国民全ての生命の安全を確保することではないのか? 国民の一人一人が、安全で、安心して、将来の豊かさを確信して暮らせるような状況を作りだすことではないのか。当然、諸外国とも協調しながら国益も考えなければならない。そこで、以前、私は私のブログで、朝日新聞の天声人語の記事を利用したその文章を又、ここで使わせて頂くことにする。
ここから~
230年前に独立した時、アメリカは北米大陸の中の、新しい一つの国でしかなかった。初代大統領となったワシントンは、3期目には立候補しないことを表明した後、議会で決別の演説をした。「ある特定の国々に対して永続的で根深い反感をもったり、他の特定の国々に対して深い愛着をもったりせず、かわりに、すべての国に対して正当で友好的な感情を育むことが何よりも重要である」(井上一馬・編著『後世に伝える言葉』小学館)。 生まれたての国の未来を案ずる切実な思いが伝わってくる。超大国としてではなく、世界の中の一つの国として、建国の父の精神を思い起こす好機だ。~ここまで
* 注 今、現在のブッシュ大統領は、初代大統領のワシントンの考えとは、全く逆方向に進んでしまった。ワシントンさんは、さぞかし草葉の陰で嘆いていらっしゃることでしょう。このイラクのフセインを、かってイラン・イラク戦争において、欧米は支援した。今度は、手の裏を反す様にイラクそのものの国潰しを行った。歴史的にも、アメリカは、ブッシュは、破廉恥な国、破廉恥な大統領に成!り!果!て!て!し!ま!わ!れ!た。
誰が言ったのか知らないけれど、人間一人の命の重みは、地球よりも重いと。この意味が分からない人は、政治執行者になる資格がない、と同時に間違っても絶対になってはいけない。冒頭、フセインが絞首刑で死んだと知って、そんなことは当たり前だと記したのは、いろいろあるフセインの悪政のなかで、クルド地域における毒ガス兵器による住民殺害、キルクークにおけるクルド人やトルクメ人虐殺、特定の宗派に対する容赦ない弾圧を知ると、こんな奴、早くこの世から抹殺しなければならない、と思っていた。 自由はなくとも暮らしは安定する「独裁社会」か、それとも、明日の命もしれない混乱の「民主化」か、と選択を求められたら、必ず「民主化」です、と手を挙げるだろう。独裁社会で、社会が少しばかり安定していても、差別されたり、弾圧されたり、虐げられた人々が存在する事実に、注目しなければならない。一部の体制側の人には、結構、都合いいものだろうが、そんな国家なんて砂上の楼閣に過ぎない。そんな定理を、イラクはあらためて世界中に知らしめた。このことと、同じ意味で、同じだけ重要なことは、米国のブッシュも同罪だということです。
サダム・フセイン元イラク大統領(2006年12月31日 朝日)
1937年4月28日、バグダッドの北約150キロのティクリートに生まれた。20歳でアラブ民族主義を掲げるバース党に入党。59年、当時の首相暗殺計画に加わったとして死刑判決を受け亡命。63年に帰国。68年のクーデターで指導的役割を演じ、79年に大統領に就任。80年から88年までイラン・イラク戦争。末期に国内のクルド人を化学兵器で攻撃した。90年、クウェートに侵攻し併合を宣言するが、翌91年の湾岸戦争で米国を主力とする多国籍軍に敗れた。イラクの大量破壊兵器廃棄のための国連査察を拒否し98年に米英軍の空爆を受ける。03年には米国から亡命を求められが拒否し、イラク戦争に。政権は崩壊、逃亡中の同年12月に米軍に拘束された。
登録:
投稿 (Atom)