2019年11月15日金曜日

東野圭吾 映画「手紙」

20191112の午後、何気なく点けたテレビで観たのがこの映画=「手紙」だ。
あんまり込(こ)み過ぎて、難しいストリーになった映画や芝居を観るのが好きでない。
でも、暫らく観ただけで私にだって観やすい映画だったので、とことんテレビの前で座ってしまった。
恥ずかしながら、最終場面では口元までに流した涙で、顔中べちょべちょに濡らしてしまった。

『手紙』2

スタッフ


監督生野慈朗
製作宇野康秀 、 大澤茂樹 、 高瀬哲 、 細野義朗 、 日下孝明 、 常田照雄
プロデューサー朴木浩美 、 橋口一成
アソシエイトプロデューサー水上繁雄 、 角田豊
原作東野圭吾
脚本安倍照雄 、 清水友佳子
企画永江信昭 、 熱田俊治
音楽佐藤直紀
音楽プロデューサー志田博英
美術山崎輝
装置佐藤信透
編集川島章正
録音北村峰晴
スクリプター長坂由起子
スチール竹内健二 、 長浜谷晋
エグゼクティブプロデューサー河井信哉 、 星野有香 、 大村正一郎 、 松山彦蔵
助監督高橋正弥
照明礒野雅宏
ラインプロデューサー新津岳人
監督補川原圭敬
衣裳中山邦夫


★概要とあらすじ
東野圭吾のロングセラー小説を映画化した社会派人間ドラマ。
私自身は、このような経験をしたわけではないのに、何故こんなにまで、こだわって観てしまったのか、不思議なものだ。

直貴(山田孝之)の兄(玉山鉄二)は、弟の学費欲しさに盗みに入った屋敷で誤って人を殺し服役中だった。
何是、そこまで弟の学費欲しさになったのか、金の在り処(か)を探している丁度その時に、家の住民が帰ってきた。
何とか巧い具合に逃げ遂(おお)せたら、話はこんなに嫌なことが起こらなかったのに、大きな声で反抗する老婆を格闘の最中に、魔が差したのか、老婆を殺してしまうことになった。
それから、悲しい時間が過ぎ去ることになった。

弟は大学進学をあきらめ、工場で働く直貴の夢は幼なじみの祐輔(尾上寛之)とお笑いでプロになることだった。
だが、毎月刑務所から届く兄の手紙が彼を現実に引き戻す。
そんな彼を食堂で働く由美子(沢尻エリカ)が見惚(と)れていく。
お笑いでプロになることを諦め、工場で働くことにした。
そこに現れた、工場の本社の会長が、「今の君の苦しみをひっくるめて君の兄さんの犯した罪なんだ」と話す。
このようなことは、小学生ぐらいの頃に観てボロボロ泣いた覚えはあったけど内容はほとんど忘れていた。
弟は、重い重い重い。
辛い辛い辛い。
泣く泣く泣く。

玉山鉄二さん演じる兄が殺人を犯したゆえ、人生を狂わされた山田孝之さん演じる弟の日々。
兄は兄で弟のために大学費用と思ってたわけだし、弟は全く悪くないのは100も承知だけれど、会長の言う通りでもある。
沢尻エリカさんが演じる由美子はそこを受けいれ、弟に手を差し伸べてくれる素敵な人物だった。

どんなに努力しても隠してもそれがバレて差別されたら兄に当たりたくなるのも分かる。兄と弟の関係も破綻してないからより辛い。
加害者とその親族に共感したいけど、周りの気持ちも対応も分かるから辛い。
甘栗のくだりでなんかもう私のメンタルは崩れかけてたし、手紙を受け取ったり書いたりしてる時の兄の表情もそうだし、もうラストの方はもう涙がとまらなかった。

弟と漫才コンビを組もうとしていた友人が、突然弟と会うことになった。
そこで話されたことは、久しぶりに千葉でコンビを組んでくれないかとのことだった。
その部隊の場所が千葉だったからだ。
兄が無期懲役に服しているのは千葉刑務所だった。
友人は、この千葉刑務所のことをどのように発したのか、その表現はされていなかった。

加害者とその親族の視点と心情、周りの対応の描写が痛い程伝わってくる。
そこに、山田孝之さん、玉山鉄二さん、沢尻エリカさんの繊細な演技力が素晴らしすぎる。
それぞれの表情と沢尻エリカさんの関西弁もよかった。

千葉に行く前に弟は被害者の家に、今までのことを仏壇を前に、息子さんを前に、きちんと謝りたかったのだ。
被害者の息子さんは、時間も経ったものだから、混迷していたことに対しては何とか整理できた。
だから、君の兄のことについて恨みは果かないものがあるが、君については何も想うことはない。
よって、何も無かったものとしてくれ、と話した。

この物語の繋がりは手紙で、タイトルの『手紙』そのもの。

東野圭吾さんって本当に色々な作品を書けるから凄い。
この作品と『秘密』と『容疑者Xの献身』は同じくらい重かった。


2019年11月7日木曜日

宍道湖のウナギ・ワカサギ激減

宍道湖のウナギ激減、ネオニコ系農薬が原因か 米科学誌が発表。

20191101の朝日新聞の記事だが、その記事によって、私も貧農の生まれ、そう簡単には済まされない気持ちになった。
この気持ち、頭の隅っこに根付いて離れない。
下記の★以下の文章は、新聞記事をそのまま転載させていただきました。

★島根県の宍道湖(しんじこ)でウナギやワカサギが1990年代に激減したのは、周辺の水田などでネオニコチノイド系の農薬を使ったことが原因の可能性が高いとする論文を、産業技術総合研究所などの研究チームが10月31日付の米科学誌サイエンスに発表した。

この農薬はミツバチを大量死させることなどが知られていたが、川や湖の生態系にも影響を与えている可能性を示したのは初めてという。

産総研 特定フェローの山室真澄・東京大学教授らの調査では、92年にネオニコ系農薬が国内で初めて登録され、実際に使われるようになった93年5月の田植えの時期を境に、宍道湖の動物プランクトンの量が激減。
81~92年と比べ、93~2004年は平均で83%減になったという。

この結果、動物プランクトンをえさにするワカサギは平均240トンほど漁獲量があったのが94年以降、ほとんどとれなくなった。
ウナギの漁獲量も平均年42トンから10・8トンに減った。 




白潟公園


ところで、私の田舎の話に移る。
私の旧家は京都府綴喜郡宇治田原町南切林だ。
今でこそ交通の便が良くなって、住民はそのことに大層喜んでいることでしょう。
ところが、今でこそ大きな声を振り絞って批判できるが、イノシシ(猪)の稲田や野菜への無防備な乱獲には目もあてられなかった。
私が覚えている限り、60年前のこと。
当然、その前から苦しめられていたことだろうから、その歴史は古い。
画像

耕作者に対しては、余りにも酷(ひど)い仕打ちだ。
乱獲された稲田を見て、父は糞っ垂れと自噴していただろうが、幼心の私だって煮えくり返って怒った。
そのような田畑の損害については、父よりも私の方が憤怒度?は高かった。
それから、イノシシの稲田への侵入を妨ぐために、稲田の周りに杭を建て、その杭から杭までを鉄の鉄線で囲った。
65年ほど前のことだ。
「イノシイを防ぐ...」の画像検索結果

イノシシ対策_電気柵段数
ネットで適当なイラストをお借りした

裸の鉄線なので、それに触れたイノシイはその電気から逃れるように尻突(しりど)いた。
でも、その鉄線を引いても完璧ではなく、巧く引き裂(さ)いて入る横着猪も現れた。
そんな横着猪が一頭でもおれば、その知恵に乗っかる卑しい猪も必ずどこかにいる。
昼間は電源をオフにしておくが、夕方近くなるとオンにするために稲田に通う。


こんなのんびりした文調で描くと読者は私のことを、なんと優しい百姓のドラ息子と思われたかもしれない。
とんでもない、私は気の激しい頭に血が昇りやすい百姓の息子だ。
この稿を書き始めた要因は、宍道湖でウナギやワカサギの収穫が激減したのは、ネオニコチノイド系農薬を使ったことが大きな原因なのではないかという発表があったことだ。

それはそれで大変だけれど、私にだって悲しい想いがあるのだ。
それは、稲田や茶畑で、使った薬草の関係で、稲田を周回している用水路からタニシ、シジミ、ドジョウ、ボケ(クチボソ)、小鮒、ハヤなどが著しく減ったことだ。
子供は子供として、この用水路で遊ぶのが楽しみの一つだった。
時には大きな鮒やドジョウを捕まえたこともあった。
母などはシジミを採ることもあった。
稲田を大事一番に考える人々がこの用水路をコンクリートで作り、魚が喜びそうな水路の両脇の草も見事に刈り込まれ、私の秘かな喜びさえ取り除かれた。

話は一気に変わって申し訳ないが、この用水路から自分の稲田に入れ込むその配水弁の仕草、配慮が難しい。
それぞれの稲田の主人たちは近所のお友達、大きな事件になると水利組合では大困り、悪い評判が立ってしまう。
深夜に、水泥棒と言われる奴もたまには現われて、陰では噂話をしたものだ。
梅雨の頃、稲田には水がある程度の量どうしても必要だった。



そしてお茶。
65年前、茶畑に虫よけの薬剤を撒くことは、当然、学校も地元の自治会も真剣に立ち寄り禁止を呼び掛けた。
茶畑の道路に面したところに、立入禁止の赤い札が柵のあっちこっちに貼られた。
その赤い札が、子供心に恐ろしかった。
何も分らない小さな子供だって、その悪臭やもたらす不思議な雰囲気だけで、心はくたばった。
この広大な薬剤散布で、学校帰りの虫捕りや珍しい草いじりなどはできなかった。
この薬剤は、その後性能が改良されて危険なものは使われなくなった。
気の合う茶畑仲間は、ヘリコプターを使っての大規模な薬剤散布をやったが、さすがにそれに関しては世論が許さず、早い目になくなった。

田舎の子供だって、そうは簡単に悲観なんてしないのだ。
幼心に、良かったと安心したのを憶えている。
私が東京の学校へ行く頃には、薬剤散布の方法は全く変ってしまったのだろう。





2019年10月31日木曜日

対馬と済州島

私には大学時代のクラブを通じて50年以上仲の好い友人がいる。
その彼の家を訪れた30年ほど前のこと、洋間にあった書棚に、金石範氏の「火山島」が何巻かあった。
全7巻だったようだ。
その時、あれはどんな本なのと聞いた私に、彼は静かな口調で韓国では難しいことがあったんだ、それが済州島でな。
私の父もその影響を受けて嫌な想いをしたもんだ、と答えた。

特にそれを「4・3事件」という。
1948年4月3日、南北分断に反対する勢力が武装蜂起した。
官憲らの容赦ない鎮圧が数年続き、数万の島民が虐殺された。
その鎮圧を避けるために幾数万の島民は、日本をそれも対馬を目指した。
友人の父はその4月3日に済州島を去ったのか、その前後だったのか、そのことは聞き忘れた。
とんでもない厳しい航行だったようだ。
クリックすると新しいウィンドウで開きます

友人の父は済州島に住んでいたので、亡くなった際の納骨はその地の墓地で行われた。
私も友人は一緒に行こうと行ってくれたので、同行した。
今から50年前、済州島では土葬が常だった。
友人の父は大阪で亡くなったから、大阪で火葬された骨だけを持参して、人の形に墓地を掘って、あたかも寝ればこのような形になるんだろう、と言って骨をそれらしく置き、そこに砂をかけた。
墓場を準備された人、骨を置いた人、お坊さんは凄く緊張に慎重だった。
私は今まで得たことのない心配りを、知らず知らずにしていた。
仕上がった墓は、半円球の上ばったものだ。

納骨の仕方も日本とは随分違ったと思われた。
繰り返します、韓国の人たちは、凄く丁寧で緻密なやり方だったことに目を奪われた、

そして、今回の朝日新聞の記事に繋がってくる。
「4・3事件」と言われた事件の犠牲者の冥福を祈るための記事だったので、新聞から切りとって、机の隅っこに放(ほう)りぱなしにしてあった。
その記事をそのまま下に転載させていただいた。

そこで唐突に思いついたことは、来年は東京オリンピックがあるのでサボってはいられない。
ならば翌々年の1921年の夏過ぎにでも対馬に行ってみたくなった。
友人がそれほどまで、痛み苦しんでいる「対馬と韓国」のことを、実際に身をそこに納めてこそ、真に理解できるのだろう。
済州島のことは知ったが、対馬については何も解らない、このことに身がよじれる。


Tsushima island ja.png
★いつかの朝日新聞・朝刊の 社説余滴 中野 晃(あきら)
対馬と済州島を結ぶ碑
国境の海が広がる。
対岸の韓国・釜山(ぷさん)からわずか50キロ。
対馬(長崎県)の北端、佐護湾の海浜に「供養塔」と刻まれた四角い石碑が立つ。

9月の日曜日、日韓の市民約60人が集まり、記者も手をあわせ。
韓国の済州島(チェジュド)で約70年前にあった「4・3事件」の犠牲者の冥福を祈るためだ。

石碑は、対馬市の江藤幸治(ゆきはる)(62)が12年前に建て、追悼を重ねてきた。

その前年、亡父に海岸の岩場に連れ出された。

終戦の数年後、連日のように水死体が漂着、火葬して弔ったが、数が増え、穴を掘って埋葬したという。
あわせて数百体に及び、着衣から韓国の人と解ったそうだ。
「歴史を伝えた」父は間もなく他界しした。
対馬から潮流をさかのぼると、済州島沖に連なる。

1948年4月3日、南北分断に反対する勢力が武装蜂起。
官憲の容赦ない鎮圧が数年間続き、数万の島民が虐殺された。
体を縛られて海に投げられた人も大勢おり、対馬にも流れ着いたとみられる。

「済州4・3犠牲者遺族会」の宗承文(ソンスンムン)会長(70)は約20年前に対馬を訪れ、漂着した遺体を取材した地元紙の記者に会った。
数珠つなぎにされ、柿渋で染めた済州島特有の着衣だったと聞き、目が潤んだ。

いにしえから朝鮮半島との交易の窓口になり、今は釜山と航路で結ばれる対馬も、こじれる日韓関係のあおりで韓国からの観光客の姿はまばらだ。

慰霊祭は、国境をこえた関係者の尽力で実現した。
宗さんは「政治と離れて、対馬でも慰霊祭が続き、痛ましい歴史多くの人に伝わって欲しい」と話した。

開催を呼びかけたのは奈良県に住む詩人の金時鐘(キムシジョン)さん(90)。
4・3事件で官憲に追われ、生きるため、済州島から大阪へ逃れた。

日本が支配した植民地朝鮮で生まれ育ち、解放後は南北分断の憂き目を味わった金さんは「歴史の共有」が日韓関係をほぐす鍵と説く。
密接に絡んでいながら日本で知られていないことがあまりにも多いと嘆く。

金さんは「韓日の民心をほぐす慈しみの塔」を建てた江藤さんの手を握り、頭を下げた。
心をひとつにする実直な取り組みの大切さを、国境の島で学んだ。

(社会社説担当)



済州島四・三事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動検索に移動
済州島四・三事件
Jeju SK.png
済州島の地図
場所済州島
日付1948年4月 - 1949年5月
標的済州島の島民
攻撃手段反乱の鎮圧
死亡者14000 - 30000人[1]、或いは全ての戦闘で死亡した国民の5分の1[2]
犯人南朝鮮国防警備隊韓国軍韓国警察朝鮮半島李承晩支持者など
動機国家警察および韓国でのみ開催された選挙に対する抗議を鎮圧すること
済州島四・三事件
Jeju Massacre.jpg
処刑直前の済州島民
(1948年5月)[3]
各種表記
ハングル제주 4•3 사건
漢字濟州 4•3 事件
発音チェジュ サ サム サコン
日本語読み:さいしゅう よんさん じけん
英語Jeju massacre
テンプレートを表示
済州島四・三事件(チェジュドよんさんじけん)は、1948年4月3日在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮済州島で起こった島民の蜂起に伴い、南朝鮮国防警備隊韓国軍韓国警察朝鮮半島李承晩支持者などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す[4]
南朝鮮当局側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された[5]。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた[5]

背景[編集]

事件の現場となった済州島
済州島(1948年9月以降の地図)
洞窟に横たわる犠牲者の遺体(再現)
済州四・三中文面犠牲者慰霊碑(西帰浦市
1945年9月2日日本連合国に降伏すると、朝鮮半島アメリカ軍ソ連軍によって北緯38度線で南北分割占領され、軍政が敷かれた。この占領統治の間に、南部には親米の李承晩政権、北部には抗日パルチザンを称する金日成北朝鮮労働党政権が、それぞれ米ソの力を背景に基盤を固めつつあった。1945年9月10日朝鮮建国準備委員会支部が済州島にも創設され、まもなく、済州島人民委員会と改められた[4]1947年3月1日、済州市内で南北統一された自主独立国家の樹立を訴えるデモを行っていた島民に対して警察が発砲し、島民6名が殺害される事件が起きた[4]。この事件を機に3月10日、抗議の全島ゼネストが決行された。これを契機として、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁は警察官や北部・平安道から逃げてきた若者を組織した右翼青年団体「西北青年会」を済州島に送り込み、白色テロが行われるようになった。
特に上述の西北青年会は反共を掲げて島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした[4]

済州島民の蜂起と韓国による鎮圧[編集]

1948年に入ると、南朝鮮当局が南側単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起が4月3日に起こった。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。
済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されるにあたり、政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(麗水・順天事件)、韓国本土でも戦闘が行われた。この混乱により済州島の住民を中心に、戦闘から逃れて日本へ渡る者が多数生じ、これが在日朝鮮・韓国人の先祖の多くを占めるともされる[6][7][8]。済州島では韓国軍などにより蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊の残存勢力はゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、8月15日大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われている[5]
1948年9月に金日成は朝鮮統一国家を標榜する朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。1949年12月24日には、朝鮮半島南側で韓国軍は住民虐殺事件(聞慶虐殺事件)を引き起こし、共産主義者による犯行であると情報操作した[9]
1950年に米軍から朝鮮半島を解放すべく朝鮮人民軍が進撃し朝鮮戦争となると「朝鮮労働党党員狩り」は熾烈さを極め、1954年9月21日までに3万人、完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される。また、保導連盟事件が起きると本土と同様に刑務所で1200人が殺害された[10]。海上に投棄されていた遺骸は日本人によって引き上げられ、対馬の寺院に安置されている[11]
歴史的に権力闘争に敗れた両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮半島から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び日本などへ避難し、そのまま在日朝鮮人となった人々も多い。日本へ逃れた島民は大阪市などに済州島民コミュニティを形成したが、彼らは済州島出身者以外の韓国・朝鮮人コミュニティからは距離を置いた。済州島では事件前(1948年)に28万人[12]いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる[13]木村光彦青山学院大学)によると、済州島四・三事件及び麗水・順天事件を政府は鎮圧したが、その後共産主義者の反政府活動及び保守派の主導権争いのために政情不安定に陥り、経済的困難の深刻化もあり、結果「たくさんの朝鮮人が海をわたり、日本にひそかに入国」し、正確な数を把握することは出来ないが1946年~1949年にかけて、検挙・強制送還された密入国者数は5万人近く(森田芳夫「戦後における在日朝鮮人の人口現象」『朝鮮学報』第47号)に達し、未検挙者をその3倍~4倍と計算すると、密入国者総数は20万人~25万人規模となり、済州島からは済州島四・三事件直後に2万人が「日本に脱出した」とされる[14]。野口裕之(産経新聞政治部専門委員)は、韓国保守政権及び過去の暴露を恐れる加害者の思惑が絡み合い済州島四・三事件の真相は葬られているが、「不都合な狂気の殺戮史解明にまともに取り組めば」「事件で大量の密航難民が日本に押し寄せ、居座った正史も知るところとなろう」「膨大な数の在日韓国・朝鮮人の中で、済州島出身者が圧倒的な割合を占めるのは事件後、難民となり日本に逃れ、そのまま移住した非合法・合法の人々数千人(数万人説アリ)が原因である」と述べている[15][16]
この事件を初めて発表した在日韓国人作家の金石範は2015年4月1日に第1回済州四・三平和賞を授賞したが、授賞に際しては右翼団体の妨害もあった。

現在の韓国政府の対応[編集]

長年「反共」を国是に掲げてきた韓国では、責任の追及が公的になされていない。また、事件を語ることがタブー視されてきたため、事件の詳細は未解明である。
2000年に金大中政権のもとで4.3真相究明特別法が制定され、4.3委員会が設置された。 21世紀になって、2003年2月25日に韓国大統領に就任した盧武鉉は、自国の歴史清算事業を進め、2003年10月に行われた事件に関する島民との懇談会で初めて謝罪し、済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復委員会を設置した。さらに2006年同日の犠牲者慰霊祭に大統領として初めて出席し、島民に対して正式に謝罪するとともに事件の真相解明を宣言した[17]
事件から逃れて日本に渡った済州島出身の在日韓国人は、その恐ろしい体験から「また酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かったが、韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めた[18]
しかし、その後の保守派の李明博政権(2008年2月25日~2013年2月24日)、朴槿恵政権(2013年2月25日~2017年3月10日)の時代には進展は見られなかった。むしろ2010年以後は中国観光客の増加と中国人による済州島不動産買い占め懸念が問題化し、過去の事件は忘れられつつあった。
2017年5月10日に大統領に就任した文在寅は、就任後初めての4・3事件犠牲者追念日である2018年4月3日の追悼式に2006年の盧武鉉以来、大統領として12年ぶりに出席した。
文在寅大統領は追念辞で「私は今日、その(金大中政権と盧武鉉政権の取り組みの)土台の上に4.3の完全な解決を目指し揺らぎなく進むことを約束します。これ以上4.3の真相究明と名誉回復が中断したり、後退することは無いでしょう。それと共に4.3の真実はどんな勢力も否定することのできない明らかな歴史の事実として、位置付けられたことを宣言します。国家権力が加えた暴力の真実をきちんと明らかにし犠牲となった方たちの怒りを解き名誉を回復するようにします。このために遺骸の発掘事業も悔いが残らないよう最後まで続けて行きます。遺族たちと生存犠牲者たちの傷と痛みを治癒するための政府としての措置に最善を尽くす反面、賠償・補償と国家トラウマセンターの建設など立法が必要な事項は国会と積極的に協議いたします。」と事件の完全解決に意欲を示した。
文大統領はまた、「未だに4.3の真実を無視する人々がいます。未だに古い理念の屈折した目で4.3を眺める人々がいます。未だに韓国の古い理念が作り出した憎悪と敵対の言葉が溢れています。もう私たちは痛みの歴史を直視できなければなりません。不幸な歴史を直視することは国と国のあいだでだけ必要なことではありません。私たち自らも4.3を直視できなければなりません。古い理念の枠に考えを閉じ込めることから逃れなければなりません。」「恒久的な平和と人権に向かう4.3の熱望は決して眠ることはないでしょう。それは大統領である私に与えられた歴史的な責務でもあります。今日の追念式が4.3の英霊たちと犠牲者たちに慰安となり、わが国民たちにとっては新しい歴史の出発点になることを願います。」と強調した[19][出典無効][20]
事件から71年目となる2019年3月4日、軍と警察が初めて公式に謝罪の意を表明した[21]