私には大学時代のクラブを通じて50年以上仲の好い友人がいる。
その彼の家を訪れた30年ほど前のこと、洋間にあった書棚に、金石範氏の「火山島」が何巻かあった。
全7巻だったようだ。
その時、あれはどんな本なのと聞いた私に、彼は静かな口調で韓国では難しいことがあったんだ、それが済州島でな。
私の父もその影響を受けて嫌な想いをしたもんだ、と答えた。
特にそれを「4・3事件」という。
1948年4月3日、南北分断に反対する勢力が武装蜂起した。
官憲らの容赦ない鎮圧が数年続き、数万の島民が虐殺された。
その鎮圧を避けるために幾数万の島民は、日本をそれも対馬を目指した。
友人の父はその4月3日に済州島を去ったのか、その前後だったのか、そのことは聞き忘れた。
とんでもない厳しい航行だったようだ。
友人の父は済州島に住んでいたので、亡くなった際の納骨はその地の墓地で行われた。
私も友人は一緒に行こうと行ってくれたので、同行した。
今から50年前、済州島では土葬が常だった。
友人の父は大阪で亡くなったから、大阪で火葬された骨だけを持参して、人の形に墓地を掘って、あたかも寝ればこのような形になるんだろう、と言って骨をそれらしく置き、そこに砂をかけた。
墓場を準備された人、骨を置いた人、お坊さんは凄く緊張に慎重だった。
私は今まで得たことのない心配りを、知らず知らずにしていた。
仕上がった墓は、半円球の上ばったものだ。
納骨の仕方も日本とは随分違ったと思われた。
繰り返します、韓国の人たちは、凄く丁寧で緻密なやり方だったことに目を奪われた、
そして、今回の朝日新聞の記事に繋がってくる。
「4・3事件」と言われた事件の犠牲者の冥福を祈るための記事だったので、新聞から切りとって、机の隅っこに放(ほう)りぱなしにしてあった。
その記事をそのまま下に転載させていただいた。
そこで唐突に思いついたことは、来年は東京オリンピックがあるのでサボってはいられない。
ならば翌々年の1921年の夏過ぎにでも対馬に行ってみたくなった。
友人がそれほどまで、痛み苦しんでいる「対馬と韓国」のことを、実際に身をそこに納めてこそ、真に理解できるのだろう。
済州島のことは知ったが、対馬については何も解らない、このことに身がよじれる。
★いつかの朝日新聞・朝刊の 社説余滴 中野 晃(あきら)
対馬と済州島を結ぶ碑
国境の海が広がる。
対岸の韓国・釜山(ぷさん)からわずか50キロ。
対馬(長崎県)の北端、佐護湾の海浜に「供養塔」と刻まれた四角い石碑が立つ。
9月の日曜日、日韓の市民約60人が集まり、記者も手をあわせ。
韓国の済州島(チェジュド)で約70年前にあった「4・3事件」の犠牲者の冥福を祈るためだ。
石碑は、対馬市の江藤幸治(ゆきはる)(62)が12年前に建て、追悼を重ねてきた。
その前年、亡父に海岸の岩場に連れ出された。
終戦の数年後、連日のように水死体が漂着、火葬して弔ったが、数が増え、穴を掘って埋葬したという。
あわせて数百体に及び、着衣から韓国の人と解ったそうだ。
「歴史を伝えた」父は間もなく他界しした。
対馬から潮流をさかのぼると、済州島沖に連なる。
1948年4月3日、南北分断に反対する勢力が武装蜂起。
官憲の容赦ない鎮圧が数年間続き、数万の島民が虐殺された。
体を縛られて海に投げられた人も大勢おり、対馬にも流れ着いたとみられる。
「済州4・3犠牲者遺族会」の宗承文(ソンスンムン)会長(70)は約20年前に対馬を訪れ、漂着した遺体を取材した地元紙の記者に会った。
数珠つなぎにされ、柿渋で染めた済州島特有の着衣だったと聞き、目が潤んだ。
いにしえから朝鮮半島との交易の窓口になり、今は釜山と航路で結ばれる対馬も、こじれる日韓関係のあおりで韓国からの観光客の姿はまばらだ。
慰霊祭は、国境をこえた関係者の尽力で実現した。
宗さんは「政治と離れて、対馬でも慰霊祭が続き、痛ましい歴史多くの人に伝わって欲しい」と話した。
開催を呼びかけたのは奈良県に住む詩人の金時鐘(キムシジョン)さん(90)。
4・3事件で官憲に追われ、生きるため、済州島から大阪へ逃れた。
日本が支配した植民地朝鮮で生まれ育ち、解放後は南北分断の憂き目を味わった金さんは「歴史の共有」が日韓関係をほぐす鍵と説く。
密接に絡んでいながら日本で知られていないことがあまりにも多いと嘆く。
金さんは「韓日の民心をほぐす慈しみの塔」を建てた江藤さんの手を握り、頭を下げた。
心をひとつにする実直な取り組みの大切さを、国境の島で学んだ。
(社会社説担当)
済州島四・三事件
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| 済州島四・三事件 |

済州島の地図
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| 場所 | 済州島 |
| 日付 | 1948年4月 - 1949年5月 |
| 標的 | 済州島の島民 |
| 攻撃手段 | 反乱の鎮圧 |
| 死亡者 | 14000 - 30000人[1]、或いは全ての戦闘で死亡した国民の5分の1[2] |
| 犯人 | 南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者など |
| 動機 | 国家警察および韓国でのみ開催された選挙に対する抗議を鎮圧すること |
南朝鮮当局側は事件に
南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による大
粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された
[5]。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた
[5]。
特に上述の西北青年会は
反共を掲げて島民に対する弾圧を重ね、警察組織を背景に島民の反乱組織の壊滅を図った。島民の不満を背景に力を増していた南朝鮮労働党は、1948年4月3日、島民を中心とした武装蜂起を起こした
[4]。
済州島民の蜂起と韓国による鎮圧[編集]
1948年に入ると、南朝鮮当局が南側単独選挙を行うことを決断し、島内では選挙を前に激しい左右両派の対立がはじまった。その中で、単独選挙に反対する左派島民の武装蜂起が
4月3日に起こった。警察および右派から12名、武装蜂起側からは2名の死者が出た。
済州島民の蜂起に対して、韓国本土から鎮圧軍として陸軍が派遣されるにあたり、政府の方針に反抗した部隊による反乱が生じ(
麗水・順天事件)、韓国本土でも戦闘が行われた。この混乱により済州島の住民を中心に、戦闘から逃れて日本へ渡る者が多数生じ、これが
在日朝鮮・韓国人の先祖の多くを占めるともされる
[6][7][8]。済州島では韓国軍などにより蜂起したものは弾圧されたが、人民遊撃隊の残存勢力は
ゲリラ戦で対抗するようになったため、治安部隊は潜伏している遊撃隊員と彼らに同調する島民の処刑・粛清を行った。これは、
8月15日の
大韓民国成立後も韓国軍(この時正式発足)によって継続して行われた。韓国軍は、島民の住む村を襲うと若者達を連れ出して殺害するとともに、少女達を連れ出しては、2週間に渡って輪姦、虐待を繰り返した後に惨殺したと言われている
[5]。
歴史的に権力闘争に敗れた
両班の流刑地・左遷地だったことなどから朝鮮半島から差別され、また貧しかった済州島民は当時の日本政府の防止策をかいくぐって日本へ出稼ぎに行き、定住する人々もいた。
韓国併合後、
日本統治時代の初期に同じく日本政府の禁止を破って朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦後、その3分の2程は帰国したが、四・三事件発生後は再び
日本などへ避難し、そのまま
在日朝鮮人となった人々も多い。日本へ逃れた島民は
大阪市などに済州島民コミュニティを形成したが、彼らは済州島出身者以外の韓国・朝鮮人コミュニティからは距離を置いた。済州島では事件前(1948年)に28万人
[12]いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減したとされる
[13]。
木村光彦(
青山学院大学)によると、済州島四・三事件及び
麗水・順天事件を政府は鎮圧したが、その後共産主義者の反政府活動及び保守派の主導権争いのために政情不安定に陥り、経済的困難の深刻化もあり、結果「たくさんの朝鮮人が海をわたり、日本にひそかに入国」し、正確な数を把握することは出来ないが1946年~1949年にかけて、検挙・強制送還された密入国者数は5万人近く(
森田芳夫「戦後における在日朝鮮人の人口現象」『朝鮮学報』第47号)に達し、未検挙者をその3倍~4倍と計算すると、密入国者総数は20万人~25万人規模となり、済州島からは済州島四・三事件直後に2万人が「日本に脱出した」とされる
[14]。野口裕之(
産経新聞政治部専門委員)は、韓国保守政権及び過去の暴露を恐れる加害者の思惑が絡み合い済州島四・三事件の真相は葬られているが、「不都合な狂気の殺戮史解明にまともに取り組めば」「事件で大量の密航難民が日本に押し寄せ、居座った正史も知るところとなろう」「膨大な数の在日韓国・朝鮮人の中で、済州島出身者が圧倒的な割合を占めるのは事件後、難民となり日本に逃れ、そのまま移住した非合法・合法の人々数千人(数万人説アリ)が原因である」と述べている
[15][16]。
この事件を初めて発表した在日韓国人作家の
金石範は2015年4月1日に第1回
済州四・三平和賞を授賞したが、授賞に際しては右翼団体の妨害もあった。
現在の韓国政府の対応[編集]
長年「反共」を
国是に掲げてきた韓国では、責任の追及が公的になされていない。また、事件を語ることがタブー視されてきたため、事件の詳細は未解明である。
事件から逃れて日本に渡った済州島出身の
在日韓国人は、その恐ろしい体験から「また酷い目にあわされるのではないか」と祖国へ数十年も訪れることのない人々も多かったが、韓国政府が反省の態度を示し始めたことで、60年ぶりに祖国を訪れる決心をした人物も現れ始めた
[18]。
しかし、その後の保守派の
李明博政権(2008年2月25日~2013年2月24日)、
朴槿恵政権(2013年2月25日~2017年3月10日)の時代には進展は見られなかった。むしろ2010年以後は中国観光客の増加と中国人による済州島不動産買い占め懸念が問題化し、過去の事件は忘れられつつあった。
2017年5月10日に大統領に就任した
文在寅は、就任後初めての4・3事件犠牲者追念日である2018年4月3日の追悼式に2006年の
盧武鉉以来、大統領として12年ぶりに出席した。
文在寅大統領は追念辞で「私は今日、その(
金大中政権と
盧武鉉政権の取り組みの)土台の上に4.3の完全な解決を目指し揺らぎなく進むことを約束します。これ以上4.3の真相究明と名誉回復が中断したり、後退することは無いでしょう。それと共に4.3の真実はどんな勢力も否定することのできない明らかな歴史の事実として、位置付けられたことを宣言します。国家権力が加えた暴力の真実をきちんと明らかにし犠牲となった方たちの怒りを解き名誉を回復するようにします。このために遺骸の発掘事業も悔いが残らないよう最後まで続けて行きます。遺族たちと生存犠牲者たちの傷と痛みを治癒するための政府としての措置に最善を尽くす反面、賠償・補償と国家トラウマセンターの建設など立法が必要な事項は国会と積極的に協議いたします。」と事件の完全解決に意欲を示した。
文大統領はまた、「未だに4.3の真実を無視する人々がいます。未だに古い理念の屈折した目で4.3を眺める人々がいます。未だに韓国の古い理念が作り出した憎悪と敵対の言葉が溢れています。もう私たちは痛みの歴史を直視できなければなりません。不幸な歴史を直視することは国と国のあいだでだけ必要なことではありません。私たち自らも4.3を直視できなければなりません。古い理念の枠に考えを閉じ込めることから逃れなければなりません。」「恒久的な平和と人権に向かう4.3の熱望は決して眠ることはないでしょう。それは大統領である私に与えられた歴史的な責務でもあります。今日の追念式が4.3の英霊たちと犠牲者たちに慰安となり、わが国民たちにとっては新しい歴史の出発点になることを願います。」と強調した
[19][出典無効][20]。
事件から71年目となる2019年3月4日、軍と警察が初めて公式に謝罪の意を表明した
[21]