2019年11月7日木曜日

宍道湖のウナギ・ワカサギ激減

宍道湖のウナギ激減、ネオニコ系農薬が原因か 米科学誌が発表。

20191101の朝日新聞の記事だが、その記事によって、私も貧農の生まれ、そう簡単には済まされない気持ちになった。
この気持ち、頭の隅っこに根付いて離れない。
下記の★以下の文章は、新聞記事をそのまま転載させていただきました。

★島根県の宍道湖(しんじこ)でウナギやワカサギが1990年代に激減したのは、周辺の水田などでネオニコチノイド系の農薬を使ったことが原因の可能性が高いとする論文を、産業技術総合研究所などの研究チームが10月31日付の米科学誌サイエンスに発表した。

この農薬はミツバチを大量死させることなどが知られていたが、川や湖の生態系にも影響を与えている可能性を示したのは初めてという。

産総研 特定フェローの山室真澄・東京大学教授らの調査では、92年にネオニコ系農薬が国内で初めて登録され、実際に使われるようになった93年5月の田植えの時期を境に、宍道湖の動物プランクトンの量が激減。
81~92年と比べ、93~2004年は平均で83%減になったという。

この結果、動物プランクトンをえさにするワカサギは平均240トンほど漁獲量があったのが94年以降、ほとんどとれなくなった。
ウナギの漁獲量も平均年42トンから10・8トンに減った。 




白潟公園


ところで、私の田舎の話に移る。
私の旧家は京都府綴喜郡宇治田原町南切林だ。
今でこそ交通の便が良くなって、住民はそのことに大層喜んでいることでしょう。
ところが、今でこそ大きな声を振り絞って批判できるが、イノシシ(猪)の稲田や野菜への無防備な乱獲には目もあてられなかった。
私が覚えている限り、60年前のこと。
当然、その前から苦しめられていたことだろうから、その歴史は古い。
画像

耕作者に対しては、余りにも酷(ひど)い仕打ちだ。
乱獲された稲田を見て、父は糞っ垂れと自噴していただろうが、幼心の私だって煮えくり返って怒った。
そのような田畑の損害については、父よりも私の方が憤怒度?は高かった。
それから、イノシシの稲田への侵入を妨ぐために、稲田の周りに杭を建て、その杭から杭までを鉄の鉄線で囲った。
65年ほど前のことだ。
「イノシイを防ぐ...」の画像検索結果

イノシシ対策_電気柵段数
ネットで適当なイラストをお借りした

裸の鉄線なので、それに触れたイノシイはその電気から逃れるように尻突(しりど)いた。
でも、その鉄線を引いても完璧ではなく、巧く引き裂(さ)いて入る横着猪も現れた。
そんな横着猪が一頭でもおれば、その知恵に乗っかる卑しい猪も必ずどこかにいる。
昼間は電源をオフにしておくが、夕方近くなるとオンにするために稲田に通う。


こんなのんびりした文調で描くと読者は私のことを、なんと優しい百姓のドラ息子と思われたかもしれない。
とんでもない、私は気の激しい頭に血が昇りやすい百姓の息子だ。
この稿を書き始めた要因は、宍道湖でウナギやワカサギの収穫が激減したのは、ネオニコチノイド系農薬を使ったことが大きな原因なのではないかという発表があったことだ。

それはそれで大変だけれど、私にだって悲しい想いがあるのだ。
それは、稲田や茶畑で、使った薬草の関係で、稲田を周回している用水路からタニシ、シジミ、ドジョウ、ボケ(クチボソ)、小鮒、ハヤなどが著しく減ったことだ。
子供は子供として、この用水路で遊ぶのが楽しみの一つだった。
時には大きな鮒やドジョウを捕まえたこともあった。
母などはシジミを採ることもあった。
稲田を大事一番に考える人々がこの用水路をコンクリートで作り、魚が喜びそうな水路の両脇の草も見事に刈り込まれ、私の秘かな喜びさえ取り除かれた。

話は一気に変わって申し訳ないが、この用水路から自分の稲田に入れ込むその配水弁の仕草、配慮が難しい。
それぞれの稲田の主人たちは近所のお友達、大きな事件になると水利組合では大困り、悪い評判が立ってしまう。
深夜に、水泥棒と言われる奴もたまには現われて、陰では噂話をしたものだ。
梅雨の頃、稲田には水がある程度の量どうしても必要だった。



そしてお茶。
65年前、茶畑に虫よけの薬剤を撒くことは、当然、学校も地元の自治会も真剣に立ち寄り禁止を呼び掛けた。
茶畑の道路に面したところに、立入禁止の赤い札が柵のあっちこっちに貼られた。
その赤い札が、子供心に恐ろしかった。
何も分らない小さな子供だって、その悪臭やもたらす不思議な雰囲気だけで、心はくたばった。
この広大な薬剤散布で、学校帰りの虫捕りや珍しい草いじりなどはできなかった。
この薬剤は、その後性能が改良されて危険なものは使われなくなった。
気の合う茶畑仲間は、ヘリコプターを使っての大規模な薬剤散布をやったが、さすがにそれに関しては世論が許さず、早い目になくなった。

田舎の子供だって、そうは簡単に悲観なんてしないのだ。
幼心に、良かったと安心したのを憶えている。
私が東京の学校へ行く頃には、薬剤散布の方法は全く変ってしまったのだろう。