2019年11月19日火曜日

2020年 早稲田の挑戦

我が家には、毎月のように母校のW大から学報やら学校での催しのお知らせとか、そんな郵便物が届く。

特に、スポーツに関する速報などは、頭から血が出そうなほど嬉しくなるのは何故か?
家族からも血相が変わると言われる。
それは私の頭のなかに、いまだに、W大時代のクラブ活動での想いが宝物としてがっちり保存しているからだろう。
一目見るだけで、一字読むだけで、このだらしない老体が、不思議なことに50年前後の自分に戻れるのだ、但し脳だけだが。

今回は母校の広報部が創りあげたスポーツに関する特集だった。
その本の最前章に、サッカーの日本代表のキャップテンを務める吉田麻也選手の戦歴に始まって読者に対するメッセージが書かれていて、ピッチ内の選手の動きを見回る吉田選手の凛々しいユニフォーム姿がガァーンと飛び込んできた。
目が手が足が頭が、その全身の神経が緊張シマクッテいる、こんな表現はちょっと子供染(じ)みているかもしれんナア。

その記事を詳細に読むと、彼はこの3月で母校の人間科学部を卒業したとある。
よくやった、と無碍に褒めさせてもらった。
学年も学部も過程も違うけれど、同窓なのが嬉しい、、、、、無力な先輩で申し訳ない。
私が学んだ学部は、先輩や後輩のことを考えて問題あると困るので、敢えて述べることはしない。
在学中なのに、良くないけれど、学ぶことよりもサッカーをすることが大事だった。
この学部は将来面白く立派に成長するだろうとは、学ぶ学科だけで充分理解できた。
社会人になってから、時間の余裕ができたら、大学院にも入る挑戦をしてみたいと思っていた。
振り返れば、それほど勉強してなかった証左だ。

最初の1ページをめくって仰天! 
何是? 吉田選手が母校のスポーツに関する特集記事の一番目なんだ。
そんなことをイの一番に感じた。
感じたことから、吉田佑都選手を私の誇りの一つになった。
何を隠そう、日本代表の選手のなかに、攻守に数多(あまた)の優秀な選手はいる。
そのなかでも、この吉田選手と長友選手のことを選(え)り好(この)んでいる。
選手としての長友選手が好きなのは勿論だが、選手以外の長友選手の行動にも得がたいものがある。
「サッカー長友」の画像検索結果
長友佑都

他の選手たちにだって、別段嫌う要素などあるわけないが、この両選手に対してはサッカーを愛する真の心根が堪らなく私を困らせるのだ。
脳天から脳の隅々までグイグイ、骨格筋肉の真っ只なかまでゴリゴリ、打ち壊された。

吉田選手以外にも、母校W大の選手たちの紹介があった。
この稿に載せられなかった数々の選手のこともできれは掲載しなくては、とお思いでしょうが、ご勘弁させてください。

抽出して取り上げさせてもらったのは次の選手たちだ。
水泳の瀬戸大也、渡辺一平。
フェンシングの加納虹輝、才藤歩夢。
バスケットボールの中田珠未、トライアスロンの古谷純平。
詳しいことは、下の記事を読んでいただけば、何もかもお分かりになるだろう。

実は私も母校ではサッカーを、正式にはア式蹴球部を4年間やる、唯それだけのためにW大を目指した。
決して、立派な選手ではなかった、成果を得られない空しく悲しい「選手」だった。
お前、よくぞこの学校に入学したもんだ、お前みたいな奴はチームの為になるどころか、どうにもならんぞ、しっかりやれよ。
そんなに言う先輩だけではなかった、やれば必ず成果は得られるよ、と励ましてくれる人もいた。
私の本当の実力を知らない4~6年後輩たちのなかに、頑張ったことだけを知らされ、私に興味を持ってくれる人は現われた。
実際4年生になって、公式戦の3試合か4試合には縁にゆかりあり、出場させてもらった。
大過なくプレーをさせて貰った。
我らが4年生の時、昭和48年度のこと、関東大学サッカー選手権と全日本大学サッカー選手権に優勝して、二冠王に輝いた。
私の秘められた宝物だ。
日頃使っている日用品の引き出しに、第21回全日本大学サッカー選手権の優勝を決めた時に貰った金メダルがある。
関東大学サッカー選手権の金メダルはない。
きっと私の貢献度は低かったのだろう、記憶がない。

私には他人には言えない入部のための強い決意があった。
日本にある大学で一番強い学校で練習すること。
誰が何と言おうがそんなことに構っちゃいられない、やれるだけやればそれでイイ、、、そんな儚(はかな)い夢だった。
やれるだけやるとはどういうことか?と聞かれば、
「やれるだけやる、そのことについては誰よりも多感だった、いつも果敢に蹴る走る飛ぶ、くたばったら一休みしてそしてまた蹴る走る飛ぶ、無我夢中かつ真剣でありたい!」答えはこれだけだった。

そんな按配だから、決められた練習が終わっても、誰もが風呂に入るために居なくなっても、我が身はひたすら走って蹴って飛ぶ、独りぼっちになってもくたばらなかった。
ぶら下がったボールに、何回も何回も大きくジャンプしてへディングする。
そうこうしていると係属高校のサッカー部が練習にやってきて、当然のように私も一緒に練習した。
相手は高校生なので、チョッとばかり大学生らしきプレーを見せなくちゃならないのに、大したプレーを見せられなく、それでも恥ずかしくなく過ごした。
高校生たちは、私のことを単純に大学生というだけで楽しく付き合ってくれた。
その時の高校生と不思議な仲良し関係の奴もできた、山梨の男だ。

月曜日はW大の練習の定休日、私にとって貴重な日だ。
そんな日にも私は走った。
東伏見のグラウンドから井の頭公園まで、善福寺公園まで、歩いたり走ったり飛んだり。
走ることだって後ろ向きに進んだり横むいて走ったり、電柱から電柱まで蛙(かえる)飛びだったり、全身力で走ったりプラプラ歩きだったり、上を向いて下を向いて後ろを向いて横を向く、何から何まで遣り繰りした。
後ろ向きに走って、突然前を向いて大きくジャンプしてヘディング、これも度々。

今春(2019)から、後輩で仲の好い小柴さんがサッカー部の総監督に就任してから、鈍間(のろま)な私が、頻繁にグラウンドへ練習や試合を観に行くようになった。
卒業して50年は経つのに、このグラウンドがこんなに懐かしく親しく、喜びを持って行けるのか? 
人工芝になって、50年前の土の臭いは嗅げないけれど、不思議な幸せ者になってしまう。

★早稲田広報が作成してくれたもの以外に、wikipedia、他ネット各種の記事も併せて追加させていただいた。
細字のものがそれに該当する。

私が早稲田広報から引き出した選手だけでなく、多くの選手の紹介もあったが省略させてもらった、すまないことした。





吉田麻也(よしだ まや)
Maya Yoshida.jpg





2018 FIFAワールドカップ ベルギー戦

のように揉まれれば揉まれるほど強い男になってほしい」という両親の想いで「麻也」と名付けられる。
小学校2年生のとき、地元長崎市の南陵FCでサッカーを始める。
小学校6年生の時に兄が見つけた名古屋グランパスのユースセレクションを、家族で名古屋を訪れるついでに受験。
家族はもとより本人も合格すると思っていなかったが合格したため、愛知県みよし市に移住(受験者の中で合格をしたのは70人中、吉田を入れて4人であった)。
その後、近隣の豊田高校普通科に進学。
在学中にユース(U-18)の日本代表に選ばれたため校内でも有名な存在となり、女子たちからは大変モテて黄色い声援を送られた。
また、この時代はキャプテンを務め、選手としてもボランチとして攻守にわたって支える、チームの要といえる存在であった。
2006年全日本ユースではチームを牽引して準優勝に導き、2007年長谷川徹福島新太新川織部とともにトップチームに昇格した。
高校卒業後の2007年早稲田大学人間科学部通信課程に入学している。


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瀬戸大也(せと だいや)



生い立ち、キャリア初期[編集]

毛呂山町立毛呂山中学校からさいたま市埼玉栄高等学校へと進学。
小学生の時から水泳の全国大会に出場経験があり、萩野公介とは少年時代からの好敵手であり、憧れであったとのこと。
個人メドレーバタフライ自由形平泳ぎ背泳ぎといった全ての泳法で全国大会優勝経験を持つ。
イアン・ソープマイケル・フェルプスライアン・ロクテを目標とし、泳法を参考にすることも多い。
毛呂山町立毛呂山中学校2年次に全国JOCジュニアオリンピックカップ水泳競技大会男子400m個人メドレーにて萩野に競り勝ち、当時の日本中学新記録で優勝している。
埼玉栄高等学校時代は、インターハイで400m個人メドレーの三連覇を達成した。
2012年4月、高校3年次のロンドンオリンピック出場を賭けた第88回日本選手権水泳競技大会では400m個人メドレー・200m個人メドレー共に決勝で派遣標準記録を突破するも萩野らに敗れて3位に終わり、オリンピック出場を逸してしまった。
その後、モチベーションは低下し、言葉もマイナス発言が多かったが、萩野の銅メダルの獲得により再び立ち上がる。
5ヶ月後の国民体育大会で4冠を達成した。
その年の暮れに出場した世界短水路選手権イスタンブール)では400m個人メドレーを短水路日本新記録で制し、200m個人メドレーでは短水路日本新記録で準優勝を果たした。

2013年 世界水泳選手権400m個人メドレー優勝

2013年には早稲田大学スポーツ科学部に進学。
第15回世界水泳選手権大会バルセロナ)出場を賭けた第89回日本選手権水泳競技大会では200m・400m個人メドレー共に萩野に次いで2位に入り、世界水泳選手権日本代表に選出された。
その世界水泳選手権大会では200m個人メドレーで7位に終わったものの、最終日の男子400m個人メドレー決勝レースで萩野らに競り勝ち、自己記録を更新して優勝。
この種目では日本人選手として初めての金メダルを獲得した。
彩の国功労賞を受賞。

2014年 バタフライで躍進[編集]

2014年の長水路の大会における成績は個人メドレーよりもバタフライでの活躍が目覚ましかった。
オリンピックや世界水泳選手権といった長水路の世界大会が行われない年であったものの、200mバタフライでは日本選手権・ジャパンオープン・パンパシフィック選手権・アジア競技大会といった主要競技大会にて国内外無敗を誇った。
特にアジア競技大会の金メダルタイムはこの年の世界ランキング1位の記録である。
個人メドレーでも金メダルは獲得できなかったものの、パンパシフィック選手権では200mで、アジア競技大会では400mでそれぞれ銅メダルを獲得している。
また、アジア競技大会では800mフリーリレーにも出場し金メダルを獲得している。
短水路の大会に目を向けると、12月に行われた世界短水路選手権においては400m個人メドレーで短水路日本新記録を樹立したうえで2連覇を達成している。
200m個人メドレーでは短水路日本記録保持者の萩野や短水路世界記録保持者のロクテには及ばなかったものの、自己記録を更新して銅メダルを獲得した。
そして200mバタフライでは短水路日本新記録で銀メダルを獲得した。

2015年 世界水泳選手権400m個人メドレー連覇[編集]

2015年4月に行われた第91回日本選手権の200mバタフライで優勝。200m・400m個人メドレーでは共に萩野に次いで2位となり、3種目で世界選手権の代表メンバーに選出された。
8月の世界水泳カザン)では、200mバタフライ(6位)と200m個人メドレー(14位で準決勝敗退)でメダルを逃したものの、最終日の400m個人メドレーで自己ベストを更新して優勝。
この大会では日本人初の2連覇を達成し、この種目での2016年リオデジャネイロオリンピック代表権を獲得した。

2016年 リオオリンピック400m個人メドレー銅メダル

2016年、リオデジャネイロオリンピック男子400m個人メドレーで銅メダルを獲得。
同種目で萩野が金メダルを獲得し、競泳でのダブル表彰台は60年ぶりの快挙となった。
12月に行われた世界短水路選手権では400m個人メドレー3連覇を達成する等5枚のメダルを獲得した。

2017 - 18年 アジア大会2冠、世界短水路選手権2冠[編集]

2017年、早稲田大学を卒業。同年4月より実質的な“プロ選手”として、全日本空輸(ANA)と所属契約を結ぶ。
練習拠点は早大から国立スポーツ科学センター(JISS)に移す。
この年に開催された世界水泳では、200mバタフライと400m個人メドレーの2種目で銅メダルを獲得した。
ユニバーシアードにも出場し、400m個人メドレーと800mフリーリレー(予選のみの出場)で金メダル、200mバタフライと200m個人メドレーで銀メダルという結果に終わった。
12月11日、世界短水路選手権の200mバタフライを、1分48秒24の短水路世界新記録で制した。
2018年12月15日世界短水路選手権の400m個人メドレーでは、目標としていた世界記録の更新を達成できなかったものの、大会4連覇を達成した。

2019年 世界水泳選手権200m個人メドレー初優勝・3種目でメダル

2019年世界水泳選手権では、200m個人メドレーで1分56秒14をマークして同種目日本人初の金メダルに輝いた。
200mバタフライでも自己ベストを更新して銀メダルを獲得した。
この活躍により東京オリンピック代表内定第1号になった。
さらに400m個人メドレーでも優勝し、1大会で個人種目メダル3個は日本勢初、世界選手権で通算4個目の金メダルも日本勢最多の快挙を成し遂げた。

萩野公介とは幼い頃からライバルであり、友人である。
出会ったのは小3の夏の全国大会で、天才スイマーとして知られていた萩野になかなか勝てず、初めて萩野を破ったのは中2の時の400m個人メドレーだった。
その後、共に日本のトップスイマーに成長したふたりは主に個人メドレーで競うことが多いが、対決について「それが最高に楽しいんですよ。」と語っている。
萩野との関係は、「公介とは、日本での試合の時はふたりでの勝負になりますが、海外で世界と戦う時は本当に戦友みたいなんです。


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渡辺一平(わたなべ いっぺい)



1997年3月18日大分県津久見市出身。
津久見市立津久見小学校津久見市立第一中学校と進む。
中学2年では第33回全国JOCジュニアオリンピックカップに出場した記録が残っている。
2012年、大分県立佐伯鶴城高等学校に進学すると頭角を現し、高校3年の最後に出場した第37回全国JOCジュニアオリンピックカップ春季では100m・200m平泳ぎの二冠を制覇して最優秀選手として表彰された。
また、2014年の南京ユースオリンピックに高校2年で日本代表に選出され、大会では男子200m平泳ぎで優勝して金メダルを獲得した。
2015年4月に早稲田大学スポーツ科学部へ入学。
大学1年目の第91回日本選手権水泳競技大会では5位に敗れてしまい、2015年夏季ユニバーシアード大韓民国光州)への出場を逸した。
2016年、大学2年となり、第92回日本選手権水泳競技大会に出場、男子200m平泳ぎでは予選で2分8秒83の自己ベストタイムを出すと、決勝で2分9秒45を出して2位に入って派遣標準記録も突破したことにより2016年リオデジャネイロオリンピック代表の座を獲得した。
リオオリンピックでは準決勝で2分07秒22のオリンピックレコードを記録した。決勝は6位だった。
2017年、1月に開催された第10回東京都選手権水泳競技大会(北島康介杯2017)の200m平泳ぎ決勝において、2分6秒67の記録を出し、山口観弘が4年以上保持していた世界記録を0秒34更新して世界記録保持者となった。

自己記録

  • 男子200m平泳ぎ - 2分06秒67(2017年1月29日、第10回東京都選手権水泳競技大会・元世界記録)


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加納虹輝(かの こき)


第3回早大アスリート特集:加納虹輝選手

早大アスリート特集第3回目は早稲田大学フェンシング部に所属している加納虹輝選手です。
今年2月に行われたバンクーバーW杯で個人優勝、3月のブエノスアイレスW杯で団体優勝と、世界の舞台で結果を残しており、2020年の東京五輪のメダル獲得が期待されています。
今回のインタビューではオリンピックに懸ける思い、そして加納選手の到達点についてお聞きしました。
フェンシングとの出会いと早大の進学
――フェンシングを始めたきっかけは何でしょうか。
小学校6年生の時に北京五輪で現フェンシング協会の会長である太田雄貴さんが銀メダルを取ったところを見て、その時点でフェンシングというものを知りました。
かっこいいなと思って地元のクラブに行き始めました。
――フェンシングには、フルーレ、エペ、サーブルの3種目がありますが、エペを選んだ理由は何でしょうか。
高校1年生の時までフルーレをやっていて、エペは遊び半分で大会に出ていたのですが、高校1年生の時に出たU17の代表選考会の大会の一つで、なぜかエペで優勝してしまって、そこから徐々にエペに興味を持ち始めました。
――本格的に始めたのはいつからでしょうか。
高校2年生になってからです。
――今までに影響を受けた選手はいましたか
現在男子エペ日本代表のコーチをしている西田祥吾コーチです。
北京五輪にエペで出場されているのですが、僕がエペを始めるときに西田さんの北京五輪の動画がYouTubeに上がっているのを見てエペはかっこいいなと思いました。
それもエペを始めたという理由です。
影響は大きかったですね。
――数ある大学から早稲田大学を選んだ理由は何でしょうか。
高校の時の指導者が早稲田出身で、高校生の時に早大の練習に来ていましたが、その雰囲やOBからの推薦もあり、早大に入学しようと決意しました。
――東京五輪を意識し始めたのはいつ頃からでしたか。
大学1年生の時からシニアの大会に出場し始めていて、2年生の夏に初めて世界選手権に出場した時には、世界ランキングが圏外から17位まで上がっていました。
その頃からオリンピックに行ける可能性が出てきたので、意識し始めました。
――早大の選手の中で刺激を受けた選手はいらっしゃいますか。
1つ上の松山恭助(2019スポ卒=現JTB)先輩ですね。
種目は違いますが、松山先輩のここぞというときの強さや集中力は見ていて驚きますし、簡単に取り入れられるものではありませんが、努力しないといけないと思いながら試合を見ています。
2つの世界大会から得た課題と収穫
――6月に行われたアジア選手権はベスト16で敗退しましたが、この結果はどのように捉えていますか。
その日、調子は悪くなくて上手く調整もできていたのですが、日本人選手同士で当たってしまうと、普段練習していることもあり、手の内が分かっていたので、お互い五分五分の状況で負けてしまったのは、しょうがないなと思いつつも悔しかったです。ただ、調子は悪くなかったので、その後の世界選手権に向けて気持ちをすぐ切り替えました。
――アジア選手権から7月の世界選手権までの間に特別な調整は行っていましたか。
世界選手権の前にロシアで10日間ほど合宿をしたのですが、ロシアはかなりの強豪で、強い選手たちと剣を交えることによって、感覚が研ぎ澄まされていきました。
そこでレベルアップができて、後半は徐々に練習を軽くしていき、コンディションを上げるようにしていました。
――世界選手権の個人戦を振り返っていただけますか
調整がうまく行ってコンディションも万全な状態だったので、ベスト64、32、16を楽に勝てたと言いますか、圧勝することができました。
ベスト8で当たった選手はロシアの選手でしたが、あまり得意とはしていない選手で、強いというのもありますがここはヤマ場だと思っていました。
ここを勝ったら優勝できるのではないかと思っていたのですが、そこを乗り越えられなかった自分の甘さがあったと思います。
――勝ち進むにつれ接戦が多くなっているように感じました。
接戦となった時に意識していることはありますか。
基本的には次の1点をどう取るか、そこだけに集中しているので、接戦や点数はそこまで気にしないように心がけています。
――リーチのある外国人選手を相手にしたときに意識していることはありますか。
まず相手よりも動く。動き負けは絶対にしてはいけないので、ただ動けばいいというわけではないですが、相手よりも動いて自分にチャンスが来るように作っていくことを心掛けています。
――以前持ち味と話されていたスピードで相手を翻弄(ほんろう)する戦略は、世界選手権では発揮できましたか。
そうですね。自分なりにいい感じにはできていました。
ただそれだけ動くにあたって体力も必要になってくるので、ベスト16、8まで勝ち上がってくると、かなりしんどくなってきてしまいます。
そこでも相手より動いていく必要がありますが、世界選手権のベスト8の試合では、後半、特に最後の方は動き負けてしまいました。
――団体戦は2大会とも力を出し切れていなかった印象がありますが、敗因はどこにあると考えていますか。
前半にリードをされてしまう展開が多かったですね。
日本の戦い方として前半リードするということがかなり重要で、そこでリードを取れなかったということが大きいと思います。
その要因として立ち上がり、スロースターターな選手が多いところがあるので、そこが今後の課題です。1試合目、2試合目から出し切って相手を翻弄(ほんろう)していくということが課題だと思っています。
――それでは団体戦の収穫は何だったでしょうか。
アジア選手権の準決勝で中国に負けてしまいました。
中国には今までに何回か当たっていたのですが、大事なアジア選手権で戦法を変えてきて、応えきれませんでした。
戦法を変えてきた時にも自分で考えて対応していけるようになっていかなければならないと思いました。
――団体戦でベンチにいるときは何を考えているのでしょうか。
試合をしている選手を見て、まだ自分が試合をしていない選手であれば、どういう癖があるかを見つつ、チームの雰囲気も重要なので、仲間の選手を応援することを意識していますね。
――団体戦は中国や韓国がライバルとなってくると思うのですが、そこに勝つにはどういったところが必要になるでしょうか。
個々の実力はもう問題ないと思っています。
あとは、団体戦は1試合1試合が個人戦と比べると短いので、短い中で距離や歩調を合わすとか、相手の癖を見抜くとか、早い判断ができるようになる必要があるかなと思います。
「特別な大会」――東京五輪ではメダルを
――オリンピックに対してどのようなイメージをもっていますか。
まだオリンピックに出場したことがないので、どんなものかも分からない上に、出場できるかも分かりませんが、楽しみにしています。
世界選手権やW杯といった今までの世界大会と違って特別な大会だと思いますし、そこでメダルを取ることで注目されます。
人生において出場できて最高でも4、5回だと思うので、少ないチャンスしかなく、貴重な大会だと思っています。
――東京五輪に向け、ステップアップしなければならないことは何でしょうか
東京五輪に出るためには個人戦より団体戦が重要になってくると思うので、団体戦のチーム力をつけることが必要です。
最近は団体戦を練習の中で取りいれました。
それから海外の選手と合宿をして、海外選手との団体の戦い方を学んでいく必要があると感じています。
――今のオフシーズンは何をされているのでしょうか。
フェンシングの練習は世界選手権が終わってから今日(8月6日)まで1回もやっていないのですが、チーム自体は19日までオフということになっているので、その期間はトレーニングをメインにしています。
――最後に東京五輪の意気込みをお聞かせください。
3月で東京五輪の出場が決まるので、そこで団体の出場権をまず獲得することです。そして東京五輪では個人、団体でメダルを獲得できるように頑張っていきたいと思います。


早稲田スポーツ新聞会
記事 小原央 写真:馬塲貴子


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才藤歩夢(さいとう あゆむ)


才藤 歩夢(さいとう あゆむ、1996年9月14日 - )は女子のフェンシング近代五種の選手。マネージメントはスポーツビズ

人物[編集]

  • 東京都練馬区出身。父は近代五種でソウルオリンピックに出場し、ロンドンオリンピックの監督を務めた才藤浩
  • 近代五種は幼少の頃から始まり、中学時代は陸上部の選手として活躍。
  • 埼玉栄高等学校時代はフェンシングを初めて開始。並行に近代五種を取り組んだ。
  • 早稲田大学に入学後、2016年にフェンシングアジアジュニア選手権個人で3位と全日本選手権で個人優勝、2017年に近代五種ワールドカップ混合リレーで2位で偉業となる。
  • 大学を卒業後、2019年4月に同競技の選手宮脇花綸マイナビに入社。
  • 2019年7月マイナビオールスターゲームの第1戦で始球式を披露した。
  • 同年9月に「Team Visa」のメンバーとして加入。
  • 本業だけでなく、ファッションブランドのイベントやメディアに登場。期待する選手である。


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中田珠未(なかだ たまみ)


まだまだ成長中。女子バスケ界期待の星・中田珠未

「日本代表で吸収したことをチームに還元して、大学日本一に貢献したい」

スポーツ科学部 3年 中田 珠未(なかだ・たまみ)

第52回関東大学女子バスケットボール選手権大会。筑波大学戦=写真提供:早稲田スポーツ新聞会
身長182センチという恵まれた体形を生かし、バスケットボール部で活躍中の中田珠未さん。2017年度はユニバーシアード日本代表に選出され、今年は8月からインドネシアで開催されるアジア競技大会の女子日本代表候補メンバーにも残っています。
トッププレーヤーとして忙しいスケジュールをこなしながらも、早大バスケ部員として2014年度以来の全日本大学バスケットボール選手権大会(インカレ)日本一を狙う中田さんに、大学や日本代表のことについて話を聞きました。
――バスケットボールを始めた年齢やきっかけを教えてください。
バスケを始めたのは中学1年生のときです。小学校で金管楽器のバンドに入っていたので中学でも続けようと思っていたのですが、進学先の吹奏楽部では自分の希望する楽器のパートがなく、演奏できないことを知りました。
どうしようか考えていたときに、周りの友達がバスケ部に入部したので一緒に入ることにしました。
ちなみに父はバスケ経験者なのですが、勧められたことはありませんでした。
私を含め初心者が多いチームだったこともあり、身長が170センチ近くあって大きいからという理由だけで1年生のときから試合に出てはいましたが、本格的に始めたと言えるのは中学3年生になってからです。
バスケの強豪校である明星学園に転校し、系列高校の練習に参加するようになったものの、レベルが違いすぎて最初の数カ月は一緒に練習さえできず、体育館の隅っこでドリブル練習など別メニューをこなしていました。
きつすぎて毎日泣いていましたし、辞めたい気持ちもありましたが、もう逃げ出せる環境にはなかったですね。
――早稲田大学にはなぜ入学を決めたのですか?

第52回関東大学女子バスケットボール選手権大会。白鷗大学戦=写真提供:早稲田スポーツ新聞会
実は、父が早稲田大学のバスケ部OB、母はバレーボール部OGなので、早稲田には昔からなじみがあったんです。
兄やいとこも早大生だったので、進学するなら早稲田という思いがありました。
今でもバスケ部OBの方には「小さいときから(私のことを)知っているんだよ」なんてよく言われます。
早稲田の場合は推薦だけでなく、一般入試で入ってきた人も部員にいるところがいいと思っています。
試合に勝つためには技術面と戦術面の両方が機能しないといけないと思うのですが、特に頭を使う戦術面でそのチーム構成が強みを発揮できていて、良い方向に作用していると感じています。
――日本代表候補にも初めて選出されたんですよね。

東伏見キャンパス79号館(STEP22)にて
日本トップレベルの方たちと一緒ということで空気感が違いますし、緊張感もあって常にプレッシャーを感じます。
今までのユニバーシアードやU18などのカテゴリー代表と違って年齢差が大きく、大学生で候補に残っているのは自分を含めて2人だけなんです。
大学と日本代表とではどうしてもレベル差がありますし、大学の練習だと思い通りにできることが、日本代表だと通用しないことも多いですが、かえっていい刺激になっています。
ただ、日本代表候補の練習合宿期間中に大学の練習に参加することがあったのですが、それぞれ異なる戦術にその都度対応しなければならないのが少し大変でした。
――日本代表候補の練習合宿などで忙しそうですが、学生生活はいかがですか?
昨年はユニバーシアードの遠征が多くて授業にあまり出席できず、なかなか単位が取れませんでした。
でも、早稲田は文武両道を大切にしている先生が多いですし、できる限り授業に出席して、課題もしっかりこなすように頑張って取り組んでいます。
きついと感じることもありますが、きちんと卒業したいです。
授業の中ではやっぱり体を動かす実習が好きで、バスケの単位を取りました。
他にも取りたい体育の科目がありますが、楽しみは最後に取っておこうと来年のために温存しています(笑)。
――今年の目標を教えてください。
大学ではインカレ日本一を目指しています。4年生と一緒にチームを引っ張っていく立場になりましたし、日本代表で吸収したことをチームに還元して日本一に貢献したいです。
日本代表では、最後まで残ってアジア競技大会に出場したいという気持ちもありますが、初めてのことなのでとにかく必死です。
高身長にしては走れる、動けるといったように身体能力を評価してもらっていると思っているのですが、自分はまだできないことが多いですし、もっと成長しないといけないと感じています。
バスケを始めたのが遅かった分、技術面や経験値では劣る部分があるものの、その代わりにまだ伸びしろがある、と前向きに捉えて取り組んでいきます。

春に開催された「第52回関東大学女子バスケットボール選手権大会」にて。惜しくも準優勝だったが、中田さん(前列左から3人目)はリバウンド王と敢闘賞を受賞=写真提供:早稲田スポーツ新聞会
――将来の夢を聞かせてください。
高校生の頃までは、小さい子が好きだったので幼稚園教諭を目指していましたが、今はプロの世界とか高いレベルでバスケを頑張りたいという気持ちが強いです。
最近は男子バスケが熱く盛り上がってきているので、女子もその力を借りつつ、負けないようにしたいですね。


第52回関東大学女子バスケットボール選手権大会。山梨学院大学戦=写真提供:早稲田スポーツ新聞会
第708回
【プロフィール】東京都出身。明星学園高等学校卒業。
ポジションはセンター。
身長は182.9センチで現在も成長中。両親と2歳上の兄が181~183センチ、中学生の妹が175センチと、一家そろって高身長だそう。
早大バスケ部OBの父は「バスケ情報をいろいろ提供してくれて、試合にもよく来てくれる」とか。
食べることが好きで、休日には焼き肉の食べ放題や話題のパンケーキを食べに行くことも。
また、温泉などで体のケアも欠かさない。
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古谷純平(ふるや じゅんぺい)

<飛翔 日本トライアスロン選手権>古谷純平(28) 復調兆し 王座へ走る

東京五輪予選で力走する古谷純平=8月16日、東京・お台場海浜公園で
写真
 古谷は苦しんでいた。
昨年まで3年連続で国内ランキング1位。
しかし年明けから両脚のけがや不調が続き、走れども走れども結果が出ない。
ようやく復調の兆しが見え、「今は北條巧がナンバーワンだと思われているけど、日本選手権でしっかりと勝てたらひっくり返せる」と息巻く。
 以前から課題だったランを強化しようと、昨年12月から瞬発力を高める狙いでウエートトレーニングを導入。
スイム、バイク、ランの通常練習も継続し、さらに負荷の高いメニューを上乗せしたのが裏目に出た。
両脚が悲鳴を上げたのは1月。
疲労による慢性的な痛みや右アキレス腱(けん)損傷…。
膝下に力が入らなくなるときもあった。3月にはオーバートレーニング症候群と診断され、夏まで練習量は制限せざるを得なかった。
 「レースが始まる3月に向け、11月くらいからのオフトレーニングがすごく大事。それが思うように運ばなかった」。
だましだまし国際大会に出場するものの、脚の痛みから途中棄権したり、下位に沈んだり。
ライバルたちは好成績を残していく。
焦りがないわけではない。
「でも、練習できないのは仕方ない。今できることを精いっぱいやるしかない」
 我慢の日々が過ぎ、本格的な練習を再開した7月からは、毎月350キロ走り込んだ。
8月の東京五輪予選は35位とはいえ、日本勢で最上位だった。
「調子が上がっている実感はある」。
2015年に優勝して以来、王座が遠ざかっている日本選手権は、存在感を示す絶好の場。
「1回どん底まで下がっている。ここからは上がるしかない」。
まずは日本王者に返り咲き、東京五輪への足掛かりとしたい。 (兼村優希)
 =おわり
<ふるや・じゅんぺい>  三井住友海上所属。2018年ジャカルタ・アジア大会で男子、混合リレーで金メダル。NTTジャパンランキングは18年まで3年連続1位。19年は2位。174センチ、65キロ。28歳。大阪府茨木市出身。