2007年8月27日月曜日

62年目の夏が逝く

1188195792.jpgポリチィカ

にっぽん 早野 透(本社コラムニスト) 

2007年8月20日 朝日朝刊 月曜コラム

さきの参院選のさなか、自民党の衆院議員の家に取材の電話をした。彼は応援演説に出かけて不在、彼の妻とひとしきり話をした。「私、こんどは自民党に投票したくない。何だか戦争のにおいがしていやだわ」。争点は、年金問題だけではなかった。果たして、安倍自民党は一敗地にまみれた。今回、書いておきたいのは安倍首相の「続投」政局のごたごたのことではない。敗戦から62年目のこの夏、「戦後」という時代を支えるのに大きな役割を果たした人々が次々と逝ってしまった。人は死に、時代は変わっていくとしても、あまりに悲しい夏である。

劇画家上村一夫は、若い男女の哀切な物語「同棲時代」で一世を風靡した。彼にもうひとつ「関東平野わが青春漂流記」という名作がある。そこに、1日に逝った作詞家阿久 悠が詩を寄せている。

ぼくらの八月十五日は 

白い光の夏祭り

オンボロラジオをとり囲み

天子様の声をきく

空は真青に晴れわたり

ジーッと音する あぶら蝉

スイッとかすめる赤とんぼ

子らはほっぺた紅らめる    (以下 略)

上村は千葉の疎開先で、阿久は淡路島で、10歳に満たぬ子供として敗戦を迎えた。上村は劇画「関東平野~」で、阿久は小説「瀬戸内少年野球団」で、少年の目で見たその時代をいきいきと描いた。それは「戦争のにおい」から解き放たれた「白い光の夏祭り」だった。

上村にとって、「戦後」は「性のめざめ」だった。阿久には「野球」と「民主主義」だった。2人はのちに東京の広告会社で席を並べ友情を結ぶ。「関東平野~」には若き日の阿久が登場する。上村は1986年、46歳で死に、阿久は美しい歌を残して70歳で死ぬ。ときあたかも、「戦後」を覆そうともくろむ若き首相が居座っている。

がんの病床にいた作家小田 実の75歳の死の知らせは、参院選の開票が進んで、安倍の敗北がはっきりした7月30日未明だった。小田にとって、「戦後」は「平和」だった。少年の日、小田は3回の大阪空襲を体験した。飛行機雲の暗闇、渦巻く火災、黒焦げの死体。敗戦1日前の8月14日の最後の空襲は、すでに日本の降伏が決まった後。地をはいずりながら死んだ人々は、虫けらの死、無用の死、「難死」だった。以後、小田がふつうの人々の視点から「平和」を考える原点となる。

小田のベトナム反戦の行動と思索を小説化した最後の他大著「終わらない旅」(新潮社)には、なぜ反戦運動を始めたのかが書いてある。「まともな心をもつ人間なら黙って見ていられない戦争だったからだと思うね。あの戦争に反対するに、人は左翼である必要ないし、偉大な思想を抱く必要もない」。ふつうの人がふつうの感覚で、「戦争はいやだ」ということ。戦争になれば、ふつうの人も被害者になるばかりではなく、戦地に行って加害者になりうること。まともな心を失えば、「特攻」とか「玉砕」とかに突き進んでしまうこと。それを繰り返さぬ決意として憲法9条ができたこと。こんなふうに「平和」を説いた小田は「市民の巨人」だった。

小田は妻を「人生の同行者」と呼ぶ。その玄順恵(ヒョンスンヒエ)が小田の死後、「私の祖国は世界です」(岩波書店)という本を出した。神戸に育った在日の彼女が朝鮮半島の分裂に直面、小田とともに世界に目覚めていく。「国籍は個人に関係なく各国が勝手につくった目に見えない鉄条網」だった。

小田は「同行者」の本の後書きに「おおらかで懐の深かった日本が偏狭な愛国心に毒された「美しい国」になりつつあるようにみえる」と書き残した。小田はいまわのきわに、今度の選挙をどう思ったか。ふつうの人々の「まともな心」が若き首相の「美しい国」に「戦争のにおい」をかぎとった結果と信じて逝ったのではないか。

小田の葬儀の後、もう若いとはいえな反戦運動の仲間が炎天下、10分のデモをした。せみ時雨のなか、「We shall overcome someday」と歌った。歩きながら涙する人もいた。

この夏、「戦後」の日本政治の大きな存在だった二人も去った。6月28日、元首相宮沢喜一死去、87歳。7月18日、日本共産党の指導者宮本顕治が死去、98歳。宮沢は、吉田 茂、池田勇人の流れをくんで「戦後」をつくった人物だった。時代の波にゆさぶられながらも、「海外で再び武力行使はしない」という護憲の防波堤であり続けた。葬儀は献花だけ、弔辞もなく、娘さんが「父はにべもない人」とユーモラスなあいさつをした。

宮本は、政治犯獄中12年、戦前の天皇制国家の弾圧と戦い抜き、戦後は共産党を議会政治の中で発展させた人だった。暴力革命よりも「護憲」を選んだ。不破哲三の弔辞につづいて長男があいさつした。「父はまことに豪胆、明治生まれの気骨を示し続けた。大変な愛国者で、父の場合は日の丸君が代というわけにはいきませんので、愛国心のシンボルは富士山でした。いつも選挙ポスターの図柄を富士山にすることを主張したのを覚えています」

テレビから、阿久が愛した高校野球の歓声が聞こえてくる。この夏、民心の奥底で何かが動いた。(敬称略)