2007年8月16日木曜日
善き人のためのソナタ
8月8日 19:00 テアトル大森で、映画「善き人のためのソナタ」を観てきた。
監督・脚本ーフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマクル
音楽ーガブリエル・ヤレド
出演ーウルリッヒ・ミューエ(ヴィースラー大尉)
マルチィナ・ゲデック(女優=クリスタ)
セバスチャン・コッホ(劇作家=ドライマン)
ウルリッヒ・トゥクール(文化部長=グルビッツ)
1989年、ベルリンの壁が崩壊。その3年後にソビエト連邦は解体して、東西冷戦時代が終焉した。共産圏のなかでは、もっとも経済的な発展を遂げたのが、旧東ドイツ(ドイツ民主共和国)だった。その強固な共産主義体制維持の中枢をなしていたのが、国家保安省(シュタージ)、秘密警察だった。かってナチス時代には、ゲシュタボという監視システムがあった。
撮影には、今は博物館になっている元シュタージの本部が使われた。館内は、当時のまま保存されている。ヴィースラー大尉とグルビッツ文化部長のシーンはここで撮られた。撮影に使われた小物や書類は、一部当時の物で、映画史上このようなことは他に比類ないそうだ。
この映画の面白さとか、何を私たちに語ろうとしているのかは、ストーリーを読んでもらえば十分、理解できます。後の方でプログラムの文章をそのまま転載させていただいたので、確認してください。
私にとっての関心事は、ちょっと違うところから、この映画に興味を持ちました。ヴィースラーは劇作家・ドライマンのアパートから秘かにブレヒトの本を持ち出す。そして、屋根裏部屋でドライマンらの生活の様子を盗聴しながら、ブレヒトの詩集を読む、ヴィースラーの目から一筋の涙が溢れ、頬を伝って零れる。ヴィースラーの視線ははるか遠くをぼんやりと、何に思いを馳せているのか。このシーンから、私が気になっていながら、着手していなかったことを恥じた。
それは、ブレヒトのことだったのです。
学生だった頃、脚本家の牛島さんと知り合い、知り合ったその夜から(サッカーとお酒に費やした時間以外)、四六時中べったり密着の1年半だった。卒業後も、バブル崩壊で会社がピンチに陥るまでは、熱い交流を重ねた。スポーツのことや、その時々に社会で起こった出来事、作家、小説、詩、評論、劇(お芝居)を話し合った。話し合ったと言うほど対等ではなかった。一方的に、私の知らない世界をいっぱい教えてもらっていたのです。その延長戦上に、ブレヒトが出てきていたのです。が、当時ブレヒトという名の人物には、感心が沸かなかった。
牛島さんというのは、牛島孝之さんのことです。かって、脚本の人気作家だった。何らかの理由があってのことだと思うのですが、私と巡り会った時には、半(反)社会人?風な生活ぶりだった。牛島さんの生活上の問題が、いろいろあったのですが、まあマア、なんとか一見穏やかに、治まりをつけることができました。このことについて語るのが、本旨ではない。このことについては、稿をあらためたい。そのときに、牛島さんからブレヒトのことだけは教えてもらわずじまいだった。
今、そのブレヒトが、今回の映画のなかで「詩集」として現れた。
何度も、東京演劇アンサンブルの「ブレヒトの芝居小屋」へ、芝居の打ち合わせやリハーサルに連れて行ってもらったのです。私が不用意に、芝居のことを評したとき、牛島さんは顔を真っ赤にして、私を罵倒した。私を叱り付けたのは、そのときのたった1回きりでした。きっと彼には私の」言辞に許せないものがあったのだろう。芝居人の誇りがそうさせたのだろう。
ブレヒトのことを彼から教えてもらわずじまいのまま、彼は亡くなり、今年の1月に13回忌を娘さんのK子と西田英生(水球)、飯尾昌克(サッカー)、佐藤隆善(ラグビー)、私(サッカー)でおこなった。K子が、「お坊さんから言われているんだ、13回忌までやれば、後はもういいんだって~」、と聞かされて、それならばと有志4人が集まった。昌克が、お金、いっぱいありますから、と言ってくれたので、後半は牛島さんとK子を話のタネにして大いに盛り上がった。
話を元に戻します。そんなに、ブレヒトが身近だったのに、ブレヒトさんが何者で、何をした人なのか、知りたいとも思わないまま、今まで生きてきました。
東京演劇アンサンブルの発足時のこと、広渡常敏さんのこと、入江洋佑さんのこと、洋佑さんの奥さんのこと、若い頃トラックで地方巡演について行ったときのこと、を話してくれました。でも、牛島さんがその劇団で何をしていたのか?役割はなんだったのか?については、聞いたことありませんでした。 牛島さんと知り合って、35年後。牛島さんが亡くなって、まる12年。
別の回路を経て、ブレヒトとお付き合いすることにもなってしまった。というのは、私の会社は、東京T株式会社と不動産事業において共同事業を続けさせていただいているのですが、この東京T株式会社の親会社か関連会社かが、かって東京演劇アンサンブル、「ブレヒトの芝居小屋」を応援していた時期があったそうです。
ここで、ブレヒトがまた登場したのです。
偶然、ブレヒトの芝居小屋のサポート隊長のT氏と私が、酒の席でご対面ということになったのです。そのT社のかってエライ人だったT氏と、現在我が社と進めている共同事業の総括責任者で、今度代表専務取締役になられたM氏とは、水魚の交わり関係だ。M氏は、私のこと、我が社のことをいつも気を使っていただいている。酒の席で何気なくT氏が、東京演劇アンサンブルの話をちょこっと洩らされてから、もうお互いの置かれている立場などはそっちのけで、仕事も何も投げ打って、互いの劇団に関わる思い出話に花が咲いた。この状況をM氏も快く喜んでいただいた。それから、それから、と興がそそるままに、T氏、M氏と私は親密度を高める結果になりました。 そして、「ブレヒト」がこの映画のなかで現れ、かって牛島さんに連れられて行った東京演劇アンサンブルの自前の劇場の名前が「ブレヒトの芝居小屋」で。そのブレヒトさんのことを、何も知らない私がここにいる。これでは、アカンのです。
ブレヒトのことを何も知らないことを恥入らなければならない、のだ。
10月 広渡常敏追悼 ゴーリキー小説による ブルトルト・ブレヒト/作 入江洋佑/演出 林光/音楽 母 が公演される。
観に行く予定です。
それまでに、ブレヒトを学習しておこうと決心しました。
STORY(映画「善き人のためのソナタ」のプログラムより)=1984年の東ベルリン、壁が崩壊する前、DDR(東ドイツ国家)は国民の統制と監視のシステムを強化しようとしていた。劇作家ドライマンの舞台初日。上演後のパーティで国家保安省(ジュタージ)のヘムプフ大臣は、主演女優でドライマンの恋人でもある魅力的なクリスタから目が離せなくなる。党に忠実なヴィースラー大尉は、シュタージ文化部部長グルビッツからドライマンとクリスタの監視および反体制的であることの証拠をつかむよう命じられる。この任務が成功すれば、出世が待っていた。早速ヴィースラーは彼らのアパートに向かい、隣人を脅かして黙認させ、屋根裏に監視室を作り盗聴を始めた。
ある夜、ドライマンの誕生パーティーが開かれ、多くの文化関係者が集まった。DDRから職業活動が禁止されていた演出家イェルスカは、ドライマンに「善き人のためのソナタ」の楽譜を贈る。ヴィースラーは屋根裏部屋で”パーティーは早朝に終わり、ドライマンとクリスタはプレゼントを開けた後セックスした”とその日の報告書を書き終えた。
舞台初日のパーティー以来、その権力で既にクリスタと関係をもっていたヘムプフ大臣は、「君のためだ」と脅かし関係を続けるよう迫っていた。ヴィースラーはアパートのベルを鳴らして自分の恋人が大臣の車から出てくるところを目撃させ、ドライマンを痛めつける。その一方で、毎日の監視を終えて自分の生活に戻る度に混乱していく自分を感じていた。孤独で惨めな生活。思わず灰色のプレハブアパートに娼婦を呼び寄せる。数日後、ヴィースラーはドライマンのアパートから本を持ち出した。そして人生で初めて、ブレヒトを読んだ。
イェルスカが自殺した。彼を偲び、ドライマンは贈られた”善き人のためのソナタ”を弾く。その哀しく美しいピアノの旋律は、屋根裏で盗聴を続けるヴィースラーの心を強く揺すぶり、彼の目から一筋の涙がこぼれる。イェルスカの死にショックを受けたドライマンは、DDRが公表しない、東ドイツの恐ろしく高い自殺率のことを西ドイツのメヂィアに報道させようと雑誌シュビーゲルの記者に連絡を取った。この計画は絶対厳守で進めなくてはならず、クリスタにも知らされなかった。ある日、「クラスメイトと会う」と嘘をついて大臣との密会に向かおうとするクリスタをドライマンが止める。彼女が大臣と関係を持っていること、また秘かに薬中毒に陥っていることを彼は知っていたのだ。追い込まれ逃げるように家を出るクリスタ。ヴィースラーはそんな彼女の前に思わず姿を現し「今のあなたはあなたじゃない」と伝える。クリスタはこの”見知らぬ人間”に不思議と心を動かされ、大臣との約束の場所に行くのを止める。
ドライマンはアパートが監視されていないか確認するため、友人の亡命を装って車で国境を越える計画を立てる。その会話を盗聴したヴィースラーは国境検問所に通報するが「今回だけだ」と見逃す。車は無事に国境を越え、アパートが監視されていないと確信したドライマンはシュピーゲル誌の記者を家に呼ぶ。記者は小さな秘密のタイプライターをケーキの箱に隠して持ち込んだ。ドライマンはそれを玄関の敷居の下に隠す。クリスタは偶然それを目にするが、あえて何も聞こうとしなかった。。匿名の記事がシューピーゲル誌に載ると、緊張が走った。監視の甘さを指摘されたグルビッツは、気まずい立場におかれた。すべてを知りながら、今や偽の報告書を作成しているヴィースラーは、その件について何も知らないし、ドライマンは新しい演劇の準備をしているだけだと伝える。グルビッツはドライマンのアパートを家宅捜索するが、すべての家財をひっくり返しても何も見つけることはできなかった。
クリスタに約束を破られた大臣は、薬物の不正購入を理由に彼女を逮捕させ、刑務所へ連行する。そこでヴィースラーが担当官として尋問にあたることになった。複雑な再会に戸惑いながらもシュピーゲル誌の記事はドライマンによるものであると認めなければ二度と舞台に立つことはできないだろう、と脅かす。クリスタは尋問に屈し、証拠となるタイプライターの隠し場所を教えてしまう。そしてグルビッツは、今度は確信を持ってドライマンのアパートに踏み込み、ドアの敷居を持ち上げさせる。しかしそこには何もなかった。シュタージが到着する直前に、誰か誰かがタイプライターを持ち去ったのだ。しかし罪の意識から部屋を飛び出したクリスタは突進してきたトラックに轢かれ、ドライマンの腕の中で息を引き取る。作戦は中止、そしてヴィースラーはシュタージの郵便部に左遷された。退役するまで蒸気で手紙を開封するだけの無機質な日々。それから4年半後、ヴィースラーはラジオから流れるベルリンの壁崩壊のニュースを耳にする。
1991年ドライマンは自分が完全監視されていたことを知る。アパートの壁紙の裏に張り巡らされたケーブル線やマイクに呆然としたドライマンは、ドイツ統一後、ようやく閲覧できるようになった山積みのシュタージ・ファイルから自分の人生を調査し始めた。報告書の最後には必ずHGWXX/7という署名と赤い指紋が押してあった。そして初めは監視していたのに、最後には自分を守ってくれた男の存在を知る。その日もヴィスラーは道端で黙々と郵便配達をしていた。声をかけようとするドライマン。しかし監視者から反逆分子へと変わったこの男に感謝する。別の方法で~。
ここからは、私が追記した。
この別の方法とは、シュタージ・ファイルから知りえた内容を一冊の本にまとめた。その本の巻頭に、「善き人に感謝を込めて」と銘記し、「ヴィスラーさん、ありがとう」と本人を前にして言えないまま、「善き人ヴィスラー」に感謝の気持ちを込めたのです。
DDR(1949~1989年の旧ドイツ政権)の背景知識=プログラムより。SED(ドイツ社会主義統一党)支配はマルクス=レーニン主義の世界観を基に、ヨーロッパの階級闘争によって確立された。国家保安省(シュタージ)は特定の個人というものを概念的に抹消し、”Others(あちら側の人間)”というカテゴリーの人間を作り、尋問や監視を通じて彼らを国民の憎悪の対象に仕立てあげた。それゆえ逮捕されるということは、敵や敵国などの危険分子と関係をもっていることの証となる。シュタージは自分たちの任務を”Others”たちの生活の隅々まで入り込み、党の要望に応えなくなった者たちを抜本的に変えることだと理解していた。シュタージの若手幹部はポツダム市の秘密警察大学で養成され、諜報がシュタージの任務の中で最も重要度の高いものとされていた。”国家に背く罪”には最大2年間の禁固刑が課されていたが、それは例えば”非合法で国境を行き来した”程度のものだった。”ドイツ民主共和国逃亡”はその計画や試みだけでも罪とされた。東西国境地帯の警備が厳しくなりベルリンの壁が作られると、西側からの逃亡斡旋者が増えたため、DDRは彼らの活動も刑罰対象とし、逃亡援助に関わった者は最大8年間の禁固刑に処した。監視国家DDRにはシュタージ正規局員9万1千人のうち、上級局員1万3千人、加えて13万人が社会全体を監視下に置いていたといわれる。