2009年2月12日木曜日

サバイバル登山って、人生の主役になった感覚!!

下の記事を読んで、こんな山登りもあったのか、と驚いた。私も山登りをちょこちょこするのですが、大した山でもないのに、ハイキング程度なのに、あのモノモノしい装備が気にくわない。確かに高価で精度のいい装備は、そりゃイイにこしたことはないが、山育ちの私には、仰々し過ぎると思う。必要以上の装備は、滑稽だ。決して貧乏人の僻(ひが)みじゃないぞ。

私も、もう少し若ければ服部氏程激しくはできないけれど、少しだけはサバイバル風に、山岳や野原、見知らぬ荒野を彷徨(さまよ)ってみたい思う。服部さん、あなたは私の憧憬の的だ。

子供の頃、毎秋、父母と私たち兄弟3人で、茸(きのこ)狩りに山に出かけた。山の入り口に到着するや、籠(かご)を手に、一目散に山中に散って行くのです。でも末っ子の私と母は、そんなに奥までは進入しない所で、茸や山菜採りをするのです。父や兄たちは、毎年のことだから、各々が自分の秘密の場所をもっている。朝早く山に入って、各自昼は弁当で済ませ、夕方、母と私が待って居るところに、籠の中を雑茸をいっぱいにして戻ってくるのです。立派な松茸もたくさんあった。雑茸は、農家である我が家の一番の繁忙期、茶摘の頃の、食事を簡便にすますための重要な副食(オカズ)なのですから、趣味や好みで山に入っているわけではないのです。蕗(ふき)とゼンマイ、蕨(わらび)、それに雑茸と昆布を混ぜて、保存がきくように塩をいっぱい入れて煮るのです。朝食にはそれだけをご飯にのせて、茶摘の期間中、食べ続けるのです。だから、茸狩りは生活に関わる、重要な仕事なのです。だからこそ真剣勝負なのです。松茸は、親類にもお裾分けしました。兄2人と父らが、茸がいっぱい入っている籠を前にくつろぎながら、遠く指を差しながらあの山のあの峰のあの尾根の、と自分が這いずり回ってきた山の斜面の位置を話していた。6~7時間を、位置を確認しながら広い山域を駆け巡っていたことになるのだ。地図は勿論、道も標識もないところを、どうして行動できるのか、不思議だった。

私は、このように幼少を過ごしているものだから、インストラクターに引率されての山登りは、我が身が軟弱者に感じられて、恥じ入りたく思うことがあります。本当は、そんな山登りなんか参加したくないのだが、たまたま、徳のある先輩たちが、この私を誘ってくれるものですから、このグループとだけは気持ちよく山行をさせてもらっていますが。

楽しい、愉快な山登りの話なのに、私の今の経済状態、経済全般が100年に一度の世界同時不況?では、心に余裕がなく、ここでは、これ以上は盛り上がらない。それが悔しい。後の文章で、服部氏がズルさを感じたと言っている、私も同感だ。そして生と死を真剣に考えることをサボッていたと思う。

今回は服部氏の文章を読んで、机の前で、「サバイバル登山」のイメージトレーニングにしておきましょう。

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20090207

朝日朝刊 (声・主張)

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生+死=命 だから面白い    

服部文祥(ぶんしょう)

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私は「サバイバル登山」をしている。ラジオや時計、ヘッドランプなど、電池で動くものは一切携帯しない。テントも、燃料もコンロもなし。食料は米、みそ、基本調味料のみ。道のない大きな山塊を長時間歩く。イワナや山菜、時にはカエルやヘビまで食べながら、南北の日本アルプスや日高など大きな山脈を一人で縦断する。サバイバル登山とは、私が名付けた。第2次ベビーブームに生を受け、生きることに関しては、何一つ足りないものなく育ってきた。いま思えば、そんなこぎれいで暖かく食べ物があふれた生活に、どこかでやましさを感じていたのだと思う。幼いながら自分がズルをしているような気がしたのだ。

現代文明の防御機能が及ばない環境にあこがれ、登山に傾倒していった理由の一つがそこにある。生きていることをもっと体感したかったのだ。そうして到達したヒマラヤの高峰は、死の香り漂う空間だった。そこにいるだけで、自分が生きていることを強く感じることができた。

だが、私はそんな先鋭的登山から、猟師やマタギのように山々を巡るサバイバル登山へ惹かれていった。いわば日本土着の登山である。山に棲んでいるものや生えているものを取って、自分でさばく、焚き火をおこして獲物を調理し、落ち葉を集めてその上に眠る。私は自分が間違いなく地球の生き物の一種類だと感じて嬉しくなる。

つらいこともある。沢や谷の登下降には、滑落や増水の危険が伴う。いつも空腹なのは当たり前。暑い夜はヤブ蚊に悩まされ、寒い夜は震えて朝を待つ。摂取カロリーが足りないので、濡れて体を冷やすのは命取りだ。雨に降りこめられれば天幕の下でじっとしている。自分を環境に合わせることはできても、環境を自分に合わせることはできない。自然の中に入ることで身に付ける徳があるとすれば、それは「我慢」だと私は思う。

「死の予感」の中で生を実感するのではなく、「手作りの生活」に生きている自分を体験し、生命体としてタフになる。そんなことを私は登山に求めている。

食べるために生き物の命を奪う行為は、少し前まではだれもがやっていたことだ。しかし、現代都市生活ではほとんど経験できなくなってしまった。

「殺す」のは気持ちがいいものではない。専門の場所でまとめてやった方が効率もいいだろう。しかし、体験を手放すと、それにともなう感情まで手放すことになる。効率と快適を追い求めることで、私たちは生きるための根源的な体験と感情を失ってしまったのではないだろうか。

現代文明は時に、死を全面否定しているかのように私の目にはみえる。食べるためや人の生活を支えるために殺している動物の死を隠している。人間の死も隠す。だが、死を否定すると命そのものの存在がなくなってしまう。死ぬ可能性があるから命である。

生+死=命。この法則は絶対であり、死ぬかも知れない中で生きるからこそ、生きているのは面白い。

幼い頃、自分の生活のどこにズルさを感じていたのか。今では少しわかる気がする。頭や体を使わなくても生きていける生活そのものに疑問があったのだ。受験戦争盛んな頃に思春期を迎え、それなりに頭を使っているつもりだった。だが、自分が生きるための判断は、ほとんどしていなかった。自分の人生においてすら、私は「ゲスト」だったのだ。

生きるために考え、生きるために動く。じつはこれが何よりも楽しい頭と体の使い方である。一つの生き物として山に向き合うと、素直に頭と体を使える。そんな生きるための生活そのものが「生きている実感」につながっている。

山に入っているのは私の人生のほんのひとときだが、そのとき私は自分が自分の生において「ホスト」になった感覚を得ている。

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服部文祥

69年生まれ。96年にヒマラヤ・K2登頂。フリーソロでの岩登り、冬の黒部横断など幅広く活動。「岳人」編集部所属。

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