2009年4月24日金曜日

桜の森の満開の下

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桜の森の満開の下

坂口安吾(作)/広渡常敏(脚本・演出)/東京演劇アンサンブル(公演)

ブレヒトの芝居小屋

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昨日、ブレヒトの芝居小屋で、原作・坂口安吾の「桜の森の満開の下」を観に行く予定だった。招待を受けていたのです。ところが当日昼に、主演の俳優さんが事故を起こして、急遽休演になった。残念無念。

1990年ニューヨーク、1991年ソウル、1999年ロンドン、ウラン・ウデ、2005年ダブリンコーク、ベルファストで海外公演されてきた東京演劇アンサンブルの代表作だとパンフレットに記載されていた。

小説は既に読んでいたので、どのように演出がなされるか、多少なりとも私にはイメージが湧いていた。でも、だ。広渡さんの演出はどうなるのか、想像が想像を生み、この日が待ち遠しかった。

学生時代に、安吾の本を「日本文化私観」「堕落路」「白痴」と続々と集中して読んだ、そしてすっかり安吾ファンになってしまった。それからは、短編、とりわけ歴史物、探偵物を楽しませてもらったのですが、長編には苦いものが残った。冬の裏日本の海岸を、それは確か新潟だったか秋田だったか、安吾さんとおぼしき主人公が、冷たい海風に吹かれながら覚束ない足取りで歩いていた。外套を纏ってどこまでも、どこまでも。海は黒く、空はどんよりと低く暗い。何故か、そんな場面だけは覚えている。物語は全体に陰鬱で、登場する人物は誰もが重い苦しみを抱えていた。そんな光景がダ~ラダラ長く続いて、楽しいこと、面白いことの何もない物語だった。評論家が言うには、安吾には長編の秀作は少なかったようだ。でも、当時の私は安吾をもっと知りたいと思っていたので、作品のできばえの良し悪しなんか関係なく、物足りなさや面白みの少ないことにも、その時は逆に刺激的だったのかもしれない。

そんな安吾作品のなかで、「桜の森の満開の下」こそ私を最大に面白くさせてくれた作品だった。冬が終わって、春になった。桜に限らないが、花はときには羞恥な思いを彷彿させたり、隠微な香りを漂わせる。雄蕊(おしべ)と雌蕊(めしべ)、花弁と花芯、そして蜜。男と女が何かに憑かれたように狂態を演じる舞台としては、桜の森の満開の下というのはうってつけだ。妖しく美しい女性と、人を何人も殺してきた鬼のような山賊が桜の花びらが風に散るなかで、男女のめくるめく情念の世界を、美と残酷、欲望を描いた物語だ。

頂いた資料からは、この物語を妖しげな旋律とともに演じられることになっていた。

楽しみにしていただけあって、休演は悔しい。残念だ。東京演劇アンサンブルの代表作だから、必ず演(や)ってくれるであろう次回を、楽しみに待とう。

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頂いたパンフレットの劇評をここに紹介しておこう。

ジェイン・コイル(アイリッシュ・タイムズ)  2005 03

優雅な題名に騙されてはいけない。この1時間の素晴らしい作品のなかで、美と残酷が共存しているのだから。東京演劇アンサンブルの舞台は、私たちがよく耳にする日本の能や歌舞伎の伝統からはるかに離れ、ブレヒトやベケットといったヨーロッパの近現代劇作家の影響を強く受けている。

広渡常敏の躍如とした儀式化された演出のもと、はっとするほど端麗な男女が、中世の寓話をもとに書かれた坂口安吾の原作にある詩的な響きを生き生きと伝えている。

孤独と拒絶、愛と欲望、社会のはみ出し者という立場、女性の性的な力、変化する男女の役割といったテーマが、きらびやかな装置、衣裳、忘れがたい音楽といった枠組みのなかでよく考えられ表現されている。

そしてその間ずっと、桜の花びらが舞い、渦巻き、徐々に激しく強い嵐となり、やがて不遇な山賊と彼の戦利品であるぞっとするような女を飲み込んでしまう。

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坂口安吾が亡くなってから50年が過ぎ、彼の作品の著作権は失効しており、「青空文庫」で楽しめます。

ここに、「青空文庫」の坂口安吾の「桜の森の満開の下」を添付させていただいたので、未読の方はお楽しみください。

坂口安吾 「桜の森の満開の下」