2016年5月17日火曜日

何??、、、、、板東俘虜収容所


何!!  そんな板東俘虜収容所だったの?

板東俘虜収容所・ロケ地の門


日本軍の俘虜(ふりょ)となったドイツ兵の収容所が、驚くことなかれ、四国の徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)にあったことを、ある小説を読んで、知った。

外国人俘虜の収容所があったことなんて、私には大きな驚きだった。

私は、京都府と滋賀県の国境、山奥の山奥で、教育なんてきっちり受けていなかった。
父からも母からも、ナーンにも教えられなかった。

よく調べると、日本の何処にもこの類の俘虜収容所はあったらしいが、この収容所はその運営に関して、特に、注目することが多かった。
施設の中だけのことではなく、管理者の日本人と捕虜との交流が、ミ!ン!シ!ュ!テ!キだった。
珍しいことに、地元の女性との恋愛もあった。

そこにきて、収容施設内での人間関係は、崇高でレベルが高かった。

村や町の人々との交流には、涙が溢れることが多々あって、私は人間が変わったように、ドイツと日本の両国の虜(とりこ)になった。
交流や運営が、公正で民主的、文化的、学問的で、食文化も先鋭だった。

このブログを書き始めた動機は、この小説の読後感想の心算だった。
が、そんなことよりも、想いもしなかった収容所の内容に心を奪われた。
これが、書き出しの源泉だ。

本の題名から、醸し出す内容が、融和で仄々(ほのぼの)とするものだったので、書店の中で10ページほど読んだ。

ところが、ドッコイ、不思議だった。
日本軍の持つ、強固で荒々しく緊迫的なものは、どこにも見えずに、美しい交流そのものだった。
悲哀っぽく、心身が鋳(い)たまる箇所は、なかった。

日本のどこにもある、古本を廉価で販売するチェーン店で、いい加減に買った。
東戸塚駅前の店だった。

こんな施設に、ちょ~っとも関心を寄せないまま、餓鬼大将からバスケットボール、サッカーと、少年から青年、成年になった。

そして、今や、悲しい老人になってしまった。
私は、昭和23年9月の生まれで67歳、日本国は敗戦後71年。

その私が、ここにきて、このショック。

今まで、何も知らないで過ごしてきたことが、嘘のような本当の話だ。

この小説は、潮出版社の「ハンスの林檎」、著者は村上政彦氏だ。
この書名の「ハンスの林檎」は、ドイツで長らく使われてきた私生活での標語?だ。
それは後々、解説させてもらおう。

ハンスの林檎
「ハンスの林檎」

板東俘虜収容所

収容所長の松江大佐


以下は、ネットの記事をそのまま参考にさせてもらった。

徳島県、旧板野郡板東町の「板東俘虜収容所」を読んでいただければ、詳細に知ることが可能です。

第一次世界世界大戦期に、ドイツの極東根拠地の中国の青島(チンタオ)で、日本軍の捕虜となったドイツ兵4715名のうち、約1000名を1917年から1920年まで収容した。

この収容所は2年と10か月使用された。



指揮棒を持って強烈な個性で指揮をとっているベートーベンの心像。
ベートーベンの「第九」交響曲は、1918年6月1日、板東において日本で初めて演奏された。


概要

1917年に丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、合計約1000名の捕虜が収容された。

収容所長は松江豊寿陸軍中佐(1917年以後は大佐)。
松江大佐は、捕虜らの自主活動を奨励した。

今日に至るまで日本で最も有名な捕虜収容所であり、捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で、友好的な処置を行ったとして知られている。


先の小説では、ドイツ人捕虜と日本人の交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまで両国の発展を促したと評価されている。




板東俘虜収容所は、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生産工場も有し、農園では野菜を栽培。

また捕虜の多くが志願兵となった元民間兵で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々であった。

彼らは自らの技術を生かして製作した”作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露した。

文化活動も盛んで、同収容所内ノオーケストラは高い評価を受けた。
今日でも日本で大晦日に決まって演奏される、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのも、板東収容所である。

建築の知識を生かして捕虜らが建てた小さな橋(ドイツ橋)は、今でも現地に保存されている。




金銭

戦時中、日本にいたドイツ人民間人らは、経済活動は禁じられていたものの、生活の自由は保障されていた。

彼らは捕虜となったドイツ人らに援助委員会を介しての物品、金銭援助を行い、本や楽器のための寄付活動も組織した。

捕虜たちは階級差はあるものの、日本兵と同様に給料を受領。
更には周辺地での労働や、親類、以前の勤務先からの振り込みなどを通じてお金を調達した。

1917年までドイツ政府は将校に月給とクリスマスボーナスも支給していた。

収容所内には日本人が経営する売店もあり、彼らは自由に買い物ができた。
また収容所を出入りする商人からも同様に買い物ができ、アルコール類も生活必需品と同様に入手可能だった。
板東収容所内にはレストランも完備されていた。



連絡手段

手紙や小包は没収、破棄されることもあった。
郵便物の発着送は検閲官の管理下にあったが、手続きは大変煩雑であった。

発送は許可されたものはわずかで、規則を順守する形で送られるか、もしくは郵送手段が全て禁止されていた。
使用言語が日本語・ドイツ語以外のもの(ハンガリー語など)は郵送は認められなかった。


文化活動

演劇団、人形劇団、オーケストラ、スポーツチームなどが結成された。
彼ら捕虜の多くが、もともと民間人の志願兵であったため、技術を生かして様々な自治活動を行った。

彼らは収容所内の自治活動に参加。
菜園管理や動物の飼育、厨房(酒保)やベーカリー(パン屋)も経営していた。

また、捕虜らに向けた授業や講演会が多数行われ、東アジア文化コースと題して日本語や中国語の授業も行われた。

収容所内に設けられた印刷所では、その他にもディ・バラッケ、『(兵営)や(兵舎)の意味』と呼ばれる瓦版(ニュースペーパー)の刊行、語学教科書やガイドブック、実用書などが発行された。

音楽に通じた捕虜の何人かは、収容所内外で地元民へ西洋楽器のレッスンを行った


1919年12月末より翌20年1月末にかけて、ヴェルサイユ条約の締結により、捕虜の本国送還が行われた。約170人が日本に残り、収容所で培った技術で生計をたて、肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営んだ。

現在よく知られているユーハイムカール・ユーハイム)やローマイヤアウグスト・ローマイヤー)、そしてフロインドリーブなどは日本に残留したドイツ兵によって創立されたものである。

一方本国ドイツに帰国した者たちは、荒廃し貧困にあえぐ戦後の状況の中、“青島から帰還した英雄”と歓迎された。収容所の中で“極東文化”に興味を持った者が後にドイツで日本学者、中国学者となる事例もあり、日本語や中国語の教科書が出版されドイツで普及するなど、収容所の影響は学問分野にもみられる。



※著者より、書名・「ハンスの林檎」について。
書名に”林檎”を用いたのは、ドイツを旅して、ドイツ人の生活に触れてみて、どの家庭でも、庭に林檎の木を植えていることは、地方によっては男の子が生まれた時に記念樹として林檎を植える風習があることだと知った。
ルターの「あした世界が滅びても、僕は林檎の木を植える」という言葉が実感できたことによる、とあった。