黄檗宗総本山満福寺 新年法要
大学の入学試験では、私にとって日本史が重要な科目だった。
英語はそれなりに頑張って、国語は新聞をよく読むことに専念した。
日本史は英語や国語の成績が拙かった時に、何とか穴埋めをできるだけの力をつけていたかった。
日本史においてはどんな問題が出ようが、悪くて90点、うまくいけば95点から100点をどうしても取りたかった。
余り粋(いき)がって書いているわけではない。
それほどの自信があった。
英語はそれなりに勉強した、が、悔しいけれど、65点から70点しかとれない。
国語は、参考書なんて買うなんて考えたことはない。
どうにかなる、と思っていた。
新聞をよく読んで、漢字、文節・文章の綴り方、文字の使い方、それに、どんな文章でも、作意や文意を理解できたら、それでイイと考えていた。
そこで、今日の話題は日本史の黄檗宗の話だ。
宇治の黄檗山満福寺は黄檗宗の総本山。
本山を開いたのは隠元さん。
隠元(インゲン)さんが中国から持ち込んだ豆が、インゲンだった。
この豆が子供の頃から、私の好物の一つだったから、勉強とは関係なく、隠元さんが私の頭の中で抜き差しならぬモノになってしまった。
この黄檗宗は日本における仏教の宗派で、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つ。
臨済宗や曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は明朝風様式を伝えている。
だから、読経などは聞き取れないと聞く。
本山を開いたのは隠元さん。
隠元(インゲン)さんが中国から持ち込んだ豆が、インゲンだった。
この豆が子供の頃から、私の好物の一つだったから、勉強とは関係なく、隠元さんが私の頭の中で抜き差しならぬモノになってしまった。
この黄檗宗は日本における仏教の宗派で、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つ。
臨済宗や曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は明朝風様式を伝えている。
だから、読経などは聞き取れないと聞く。
私の郷里は京都府綴喜郡宇治田原町、通っていた高校は府立城南高校。
そんなこともあって、京阪電鉄の黄檗駅にある満福寺が教科書にあったので興味が沸いた。
先にも書いたが、黄檗宗の総本山の満福寺のことだ。
宇治川や宇治の地について、由々しい昔話はよく聞かされたが、私の耳は馬耳東風、何も面白くなかった。
今から50年前の高校生で、隠元さんのことを学んだのは、人名と禅宗だという程度。
それ以上のことは、学習しなかった。
そして、2006年の11月。
廉(やす)く買える古本屋で買った本が、さだまさしの「解夏(げげ)」。
この本を読んでいて、黄檗宗の寺の名前が出てきた。
その寺は長崎の三福寺といわれている崇福寺、福済寺、興福寺。
ネットで調べたら、日本各地、本山の満福寺だけではなく、あっちこっちに同派の寺があること知った。
な~んだ、京都宇治の満福寺だけではないんだ。
学習が足りなかったことに、不満だけが残った。
ネットで解夏のことを調べた。
解夏とは仏教の僧が夏に行う安居という修行が終わる時をいう。
対語は結夏。
舞台はさだまさし氏の故郷、長崎。
ベーチェット病を発症した若者が、次第に視力を失っていく過程の苦悩、そこから立ち直っていくまでを描いた、青年男女のお話だ。
サッカー部の練習がない日に、独りでこっそりに観に行った。
私以外に参拝者がいなくて、ちょっと寂しかった。
お寺の人は、何か?変な奴やあな、ぐらいに思っただろう。
他所の寺とは何かが、ちょっと違うぞとは思ったが、その違うことがここで書けない。
私の頭は、その程度に、ボケットしていたのだろう。