2017 2 1
9:50~
横浜駅の近くにある映画館で、「沈黙ーサイレンス」を観てきた。
上映時間は09:50から12:40、約3時間。
60歳以上の入館料は、廉くなると聞いていたので、保険証を持参した。
工事中の事故から、自動車免許書をゴミにした。
ところが、どっこい。
本日の上映は初日なので、自動的に特別価額になっていた。
1100円だ。
このブログの題名を、何故、『またしても「沈黙」』になったのか?と思われるかもしれない。
ハッキリそのブログの日時を言えなのは、仕事中の怪我の後遺症かもしれない。
記憶力が乏しい!!
頭の芯が狂ってしまった。
この映画の原作を、5、6年前に熟読した。
ストーリーが激しく、問題にしていることが余りにも惨(むご)く、キリストを信じる人々にこれほどまでに厳しいのは、どうしてなのか?
感動に溢れ、落ち着いて他人に話せなかった。
長崎の隠れキリシタン、、、、、、、、。
私には、登場する役者ほど頑張れないし、頑張る魂はない。
最初、この本を読んだときに、映画化されたならば、イの一番に私は観たかった。
でも、1971年、篠田正浩監督による映画化はされていた。
そんなこと、露ほども知らなかった。
今回、こんな激しい物語を、外国監督がどのように映画化をするのだろうか?そっちの方にも、関心が深かった。
珍しく、ストーリーはよく憶えているので、今回は、どのように映像化するのか、そっちの方に関心は強かった。
名も知らぬ外国の俳優たち、それに窪塚洋介にイッセー尾形ら、日本の俳優たちも、どのような演技を見せてくれるのか、期待で胸がワクワクしていた。
※ 以上の文章は、昨日映画を観てからのものです。
ネットより。
遠藤周作の小説「沈黙」を。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』などの巨匠マーテイン・スコセッシ』が映画化した歴史ドラマ。
17世紀、キリシタン弾圧の嵐が吹き荒れる江戸時代初期の日本を舞台に、来日した宣教師の衝撃の体験を描き出す。
『アメイジング・スパイダーマン』シリーズなどのアンドリュー・ガーフィールドをはじめ窪塚洋介や浅野忠信ら日米のキャストが共演。
信仰を禁じられ、苦悩する人々の姿に胸が痛む。
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★「沈黙」の問題提起 今こそ(朝日新聞より)
遠藤周作(1923~96)の原作を映画化した「沈黙ーサイレンスー」の公開を機に、遠藤の長男でフジテレビ専務取締役の遠藤龍之介さんと、遠藤に師事した作家で「三田文学」元編集長の加藤宗哉さんが対談した。
映画化を手がけたのは、「タクシードライバー」などで知られるマーティン・スコセッシ監督。龍之介さんは、映画化にあたって内容に注文をつけることは一切しなかったという。
「父が生前よく言ったのは、映像化は娘を嫁に出すようなものだから、実家の親がああだこうだと言うのはおかしいと。ましてや息子が言うのは変ですからね」。
遠藤の代表作「沈黙は」は、キリシタン禁制下の日本に潜入したポルトガルの司祭ロドリゴが、厳しい拷問にさらされる日本人信徒たちを目の当たりにして、棄教を迫られ苦悩する物語。映画はおおむね原作に忠実に展開するが、原作にない、ある印象的な場面が終盤にある。
公開に先んじて映画を見た加藤さんは、その場面について「まさに鬼才だと思った」と言う。「遠藤先生が作品にこめた思いを、たった一つの場面ですくい上げている。見事だった」。
映画が完成した昨年は、遠藤周作の没後20年、そして「沈黙」刊行から50年という年。だがスクリーンで展開する物語に、古びた印象はない。
「『沈黙』では、イエズス会で絶対的な善であるキリスト教が、江戸初期の日本では忌むべきものとして迫害される。憎悪が逆転する」と龍之介さん。「今の社会が、これが善でこれは悪という二分法のようになりつつあるなか、非常に現代的な問題提起になっていると感じた」。
「9・11も、いわば宗教対立の問題でもあった」と加藤さん。「異なる価値観の対立、宗教対立の問題が深刻になっている今こそ、遠藤文学が読まれる意味があるのではないか。
(柏崎 歓)
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2017 1 24の朝日新聞天声人語より
東京都文京区の住宅街に「切支丹屋敷跡」と書かれた碑がある。通り過ぎそうになるほどめだたない。異教を禁じた江戸幕府が拷問の末に棄教させた宣教師らをこの屋敷に幽閉した。
17世紀の日本に潜入し、捕らわれたジュゼッペ・キアラ神父もそのひとり。80代で亡くなるまで40年暮らした。遠藤周作氏は彼をモデルに小説「沈黙」を書いた。米巨匠スコセッシ監督によって映画化された。信者や神父に対するむごい拷問の場面に観客席で思わず呼吸が乱れた。
キアラは牢屋で数々の責めを受ける。先に日本で捕われ、棄教したかっての師フェレイラがこう迫る。「お前たちが苦しめられても神は黙っているではないか」
身を裂くような葛藤のはてに踏み絵に足を置いてしまう。岡本三右衛門という名と妻を与えられ、江戸の切支丹屋敷に押し込められる。
彼の墓碑は東京都調布市のカトリック教会の一角にたたずむ。そばの資料館ガエタノ・コンブリ館長(86)は日本に来て60年余り。昨春、イタリア・シチリア島にあるキアラの故郷を訪ねた。現地で見た肖像画には「日本で布教に努めたが、住民からとがった竹で首を刺されて帰天した」と説明文があった。キアラが棄教者ではなく殉教者と語り継がれてきたことに驚いた。
「転んだことをキアラは後悔しながら暮らした。でも信仰は最期まで捨てなかったのでしょう」とコンブリさん。「転びバテレン」の汚名に耐えたキアラが晩年まで胸に隠し続けた矜持に思いをはせた。
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以前に読んだことで、あらすじやその他についてよく憶えているが、やはり、この稿ではあらためてあらすじや、感じたことを筆記しようと思った。
幸いにして、この本のあらすじをネットで見つけた。
その原稿を拝借する。
★あらすじ
島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。
フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルベは日本に潜入すべくマカオに立寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。
キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは、隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。
幕府に処刑され、殉教する信者たちを前に、ガルベは思わず彼らの元に駆け寄って命を落とす。
ロドリゴは、ひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通すのみであった。
逃亡するロドリゴはやがてキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。
連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにあった。
長崎奉行所でロドリゴは棄教した師のフェレイラと出会い、さらにかっては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は、意味を持つのかという命題を突きつけられる。
奉行所の門前では、キチジローが何度も何度もロドリゴに会わせて欲しいと泣き叫んでは、追い返される。
ロドリゴはその彼に軽蔑しか感じない。
ロドリゴはその彼に軽蔑しか感じない。
神の栄光に満ちた殉教を、期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラは語りかける
その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。
その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾などではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。
自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。
夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。
すり減った銅版に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。
そのとき踏絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。
踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つための十字架を背負ったのだ」と語りかける。
踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つための十字架を背負ったのだ」と語りかける。
こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。
イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。
「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」
「弱いものが強いものよりもくるしまなかったと、誰が言えるのか」
「弱いものが強いものよりもくるしまなかったと、誰が言えるのか」
踏絵を踏むことで、初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。