2017年8月24日木曜日

涙腺が軽く緩くなってしもうた

生まれながらの生理か、長年の艱難辛苦の成果か?
この頃、不思議に涙っぽくなることがある。
原因は、来月に迎える誕生日のせいだろうか。

誕生日そのものは、好きでも嫌いでもない、が、私にとっては誉れ高い日ではある。
誕生したのは、1948年(昭和23年)9月24日。
晴れて、69歳になる。

1945(昭和20年)8月14日は、日本政府が、ポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日。
そして翌日の8月15日は、玉音放送により、日本の降伏が国民に公表された日だ。
そして昭和23年の私の誕生ということになる。
昭和23年には、帝銀事件、太宰治の自殺。

1947年(昭和22年)~1949年(昭和24年)に生まれた810万人を「団塊の世代」と呼ばれた。この3年間に毎年270万人が出生した。
この「団塊」とは、堺屋太一の小説「団塊の世代」(1976年)の題名が定着したものだ。終戦後、帰還してきた元兵隊たちが、この先の夢多い時代に向けて出生が大いに進んだということだ。
この時代に生まれた人たちの中で、中卒のままで大企業の職場に就職した人のことを、「金の卵」と言われた。
私は、そんな団塊の世代の真っただ中に生まれた。父母の想いは確認しなかったのでよく解らないが、祖母は、長男、次男についでの私こそ、娘っ子を望んだようだ。
そして、山岡家の立派な三人息子が勢ぞろいした。小さな村では、好くできた息子さんたちと褒められた。

そんな生まれ方をしたせい?なのか。
私は小さい頃から涙が出やすい性格になってしまった。このことについては、何故なのか?然るべき人に会えた時、その賢人に聞いてみたいと思っている。
69歳の誕生日を前にして、この感覚が烈しくなってきた。
最近の憂慮すべき事故(高次脳機能障害)のせいだろうか。
はっきりしておこう、わけもなく涙が出ることはない。
悲しい、つらい、不安といった感情がつのって、涙がこぼれるということでもない。

テレビドラマでも映画でも、親子の問題や恋人関係はしかり、とくにスポーツの一場面の喜怒哀楽に、微妙に感応するのだ。スポーツにおいては、勝ったときも、負けたときも、勝負にこだわりなく涙ぐんでしまう。出る涙の量は、多くなった。
読書においても、人と話しているときも同じことだ。
新聞記事一つだって、可笑しくなるほど、感極まって、涙がでてしまうのは、何がどのようになって仕舞うのか。

今、何是このようなことを書きだしたのかと言いますと、遠い以前に読んだ本を、今、再読し始めたが、何年か前に読んだ時に味わった感想が、今、以前と同じ想いを味わえなくなってしまっている。
深読みをしてしまうのか。最初読んだ時に味わった感覚と、違うように思ってしまう。
行間が読めないだけではなく、ストーリーの先読みの面白さを味わえない。
年の端(は)のせいか。

それに輪をかけたように、語感って奴か、言葉のもつ微妙な感じや言葉に対する感覚が、特にこの数年で可笑しく狂ってしまったようなのだ。
読解力、感性の衰えも考えてみた。

同じように、見た目、聞くことでの私の反応が、以前と違うのが可笑しい。他人に話す時も、何故か頭の天辺に血がのぼってしまって、何を言いたいのか、自分でさえ解らなくなってしまうのだ。