2017年8月17日木曜日
桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝
自宅を2017年7月に改装した。
2階に我が三女夫婦の家族が住むことになったので、それに伴う工事だ。
結果、義母(妻の母)と我々夫婦、そして三女夫婦とその子供の4代が住むことに。年老いた義母のゆっくりのんびり動作、それにヤンチャ真っ盛りの孫が、狭い家の中を奔り回っている。嬉しい家庭内の雰囲気だ。
その影響を受けて、私の生活部分にも多少の工事が発生した。
私は私の部屋を今まで、放蕩無頼、放縦奔放、使いっ放し状態で、妻には酷く迷惑をかけた。結果、悔しいけれど、私の占有空間は狭くなってしまった。力不足が目だってきたのか?
ベッドやそれ以外は、どうでも良かったが、やりたい放題にしていた本棚だけは狭(せば)まり、長いお付き合いの大工さんに新たに作ってもらった。
吾輩の領域が狭まったのだから、本の置ける部分は当然狭まった。
そりゃ、しょうがない。
そこで、市販されている本箱では拉致がいかず、大工さんに、無理やりお願いして、本にとって窮屈極まりないモノをお願いし、気前よく仕上げてくれた。
今,家庭内での私の仕事は、太宰治、田中英光、織田作之助、坂口安吾、壇一雄。
島尾敏雄、島尾ミホ。
高橋和巳、柴田翔。野間宏、宮沢賢治、大西巨人、野坂昭如。本多勝一。
ドストエフスキー、トロストイなど外国の各小説家の作品。
その他のノンフィクション作品から女性作家のあの人この人らの著作を纏めているところだ。
そこで、私なりの決心をした。
春秋に富む、20歳位から気に入って取り込んだ本、どうしても捨てられない本は、3000冊ほどまで増えていた。
サッカー部の寮に残したり、後輩や友人にあげた本は、2000冊以上だ。
青雲の志衰えず69歳、読む本は鰻(うなぎ)のぼり。
だから、それでも、それらをそのまま保存するわけにはいかず、20%を誰かにあげることにした。
本箱の横幅1メートル、1段の高さが32センチで10段、1段の奥行き30センチ、天井まで取れるだけ取ってもらった。
果たして、この本棚に何冊並べられるものか、そんなことを考えながら、残す本と他人様にあげる本の区別をしているところだ。
この選別が難しい。
私の小さな頭にも領域があって、好みの各氏その他の作家等が、私の頭の中に牛耳っている。烈しく生きている。
作業中、それらの作家等が私の頭の中に入り乱れた。
壊れそうもなく、枯れることもなく、作家の名を見るだけで、又本の題名を見るだけで詳細まで思いだされる。
そこで、前記した決心のことに触れよう。
これからは、新旧、新たに本を買うことを控えようと思っている。
それよりも、今までに読んだ本を読み返そう。全て読み返すまでは、新たに買うまいという決心だ。
思わぬ事故で、脳の組織、生理が今まで通りではないことを、強く意識している。
今までの40~50年に読みきった本の中で、気に入っている本、800冊をこれから再読するのだが、生憎の怪我の影響があってか?どうか解からないが、読解力が落ちてしまったことを実感していて、上手く読みきれるか、それが心配だ。
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ところが、何故か?
どういう訳か?
昨日、長部日出雄 著の『「桜桃とキリスト」 もう一つの太宰治伝』を古本屋チェーン・ブックオフで買ってしまった。
題名から、太宰治のことかと考えると、冷静に冷静にと思ってはいたが、気づかないうちに買ってしまった。
太宰治のことを考えると、頭が可笑しくなってしまう。
著者は、この作品で第15回和辻哲郎文化賞を一般部門で受賞した。その前に、大佛次郎賞も受賞した。
作家・長部日出雄氏のことは、名前こそ知ってはいたものの、著書の一つも知らなかった。あんなに太宰治のことを好み、太宰の作品をガッチリ読んだのに、その太宰治のことをこれほど愛した同郷の文士である長部日出雄氏の本を何も読んでいないなんて、これほど不思議なことはない。
この作品について、和辻哲郎文化賞の選考委員である梅原 猛氏と陳 舜臣氏、中野 孝次氏の言葉を、この本の中からここにお借りした。
読書が進む毎(ごと)に、ページをめくる度(たび)に、私の太宰治熱は限りなく温度を上げ挙げ、私が、何年も昔の太宰治青年に戻っていくのが、怖いぐらい。
そして、この書の著作者の長部日出雄さんの私の能力では描きがたい才能に、ビリビリしながら、脳が活かれ?逝かれ?てしまった。
太宰を題材にしたものは、野原一夫の「太宰治と聖書」、北村薫の「太宰治の辞書」、田中英光の「師 太宰治」、檀一雄の「太宰の魅力」と「わが青春の秘密」、山岸外史の「太宰治おぼえがき」、亀井勝一郎の「無頼派の祈りーー太宰治」が私の本箱の太宰治コーナーに陣取っている。
★そんな、こんなで、この書を私なりに粗筋を書き溜めようとおもった。
それが、この稿の一番最後の部分だ。
○梅原 猛
太宰治は玉川上水での心中事件によって大いに耳目を集め、太宰文学が論じられるときにはこの事件が評価の障害になったが、長部氏のこの著書によってやっと太宰文学が心中事件を離れて客観的に論じられるようになったといってよいであろう。
長谷部氏は太宰治と同郷の作家であり、太宰治を深く尊敬し、太宰の文学を愛読した。長谷部氏は、彼を若き日に夢中にさせた太宰についてこの書で深く問うのである。この書はあらゆる資料を読み、太宰の人生と関わったいろいろな人に直に面接し、太宰のことを聞いて書かれたものであろうが、全編に太宰治とは何ぞやという問いが、自己とは何ぞやという問いとからんで、一本はっきりした線として貫いている。
この作品を読んでいちばん喜ばれたのは美知子夫人であろう。太宰の骨を穴に入れた後にそっと号泣する美知子夫人を描いた一文はもっとも感動的である。
○陳 舜臣
多角の天才児太宰治は、どの角度からも書けるという意味では、書きやすい対象であり、それだけではすまないという意味では書きにくい対象である。「もう一つの太宰治伝」という副題を前作「辻音楽師の唄」につづいて、この作品でも用いている。私はこれを長谷部日出雄氏の謙遜と受け取っている。
津島美知子さんの、天と地を揺るがすほどの慟哭の声でしめくくったのだから、しばらくはこれをこえる太宰治伝は出ないであろう。
つぎはこの世代をえがくのに、太宰治がいかに引用されるか、美知子さんのうけついだテキストを、正しく伝える一つの文献となることを願ってやまない。
○中野 孝次
作家研究の方法として昔からよくないとされてきたのは、伝記を片手にテキストを読み、テキストを片手に伝記をさぐるというやり方である。ところが長谷部氏が太宰治に迫るために用いたのは、まさにこのよくないとされた方法である。にもかかわらず、それが太宰治という文学者像を描く場合には最適の方法であることを長部氏のこ0の評伝は示しているのに、わたしは感嘆した。
その理由は一つしかない。長部氏の太宰治を愛することの深さ、関心の持続、研究の周到さがそれである。
わたしは何よりも長部氏の太宰文学の読みの深さに感嘆した。決して激せず、やわらかく、平静に、太宰文学の文章の急所をときほぐしているのでわたしのように太宰文学の門外漢である読み手にも、太宰の個性と魅力はよくわかった。
さらにもう一つ驚嘆したのは、太宰治の伝記的事実の調査の徹底して行きとどいているこれらの全部に目を通して、生涯のときどきを調べ、その中に太宰を置き、その中からどうやって作品が生み出されたかを、氏は克明に追っていく。ために読者はあたかも生ける太宰治を目のあたりさながら、その文学創造の現場に立ちあう思いがある。
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この作品の目次を掲げてみた。
第一章 出会い
第二章 アリアドネの糸
第三章 恋文
第四章 出発
第五章 新しい生活
第六章 最初の読者
第七章 変身
第八章 生きたキリスト
第九章 「美談」の韻律
第十章 地上の国と天上の国
第十一章 Last one
第十二章 銃後の覚悟
第十三章 最高の喜劇作者
第十四章 桜桃のかなしみ
第十五章 最後の逆説
第十六章 地上の別れ
そして、各目次の中の内容をできるだけ、書けるだけ書いてみようと思ったが、書の細かいところまでが、心に響き、何をこのブログに書けばいいのか、解からなくなってなってしまった。
纏める力が弱ってしまったようだ。
繰り返す、我輩流の粗筋を書いてみようと思いがけたが、無理だ。
文芸春秋刊の『「桜桃とキリスト」 もう一つの太宰治伝』。著者・長部日出雄を手に入れてください。どうしても入手できなければ、幾らでもお貸しします。
★今後、この本の中で気ままに思いついたことを書き続けていきますので、よろしく。
文章は、私の拙文はほんの一部、大半は本書のままを使わせてもらった。
★出会い。
長部氏と太宰治と井伏鱒二、お嫁さん候補・石原美知子さん。
長部氏が新制中学2年の初夏。
学校の帰途、古本屋の棚に一冊だけあった「お伽草紙」を手に取り、その夜一晩で読み終えて、無類の面白さに取り憑かれ、作品をつぎつぎに追いかけていった。
そして、太宰治の師である井伏鱒二の存在を知った。
その井伏氏の友人の協力があって、花嫁さん候補(美知子)が発生した。
井伏鱒二の友人の櫂があって、見つけられた太宰のお嫁さん候補の素性なり家族のことがそれはそれは細やかに詳述されていて、新しく知ったことが多かった。並々ならぬお人であった。
その花嫁候補は、ふとしたことから、太宰治のことを、井伏鱒二から井伏の友人に宛てた手紙が毛筆の小さい楷書で書かれた封書が美知子の住む家の状差しに差してあったのを見た。
筆跡のなだらかさで、美知子の母を感嘆させた井伏鱒二は、四十一歳になったこの年の2月、「ジョン満次郎漂流記」で第6回の直木賞をうけ、一見地味な作風に若干の脚光をあてられた時期であったが、かりにそれがなかったとしても、会って信頼感を覚えぬ人はまずめったにいないであろう。真摯で朴訥の持ち主である。
山梨県立甲府高等女学校から、東京女子高等師範学校文科を卒業し、このとき山梨県立都留高等女学校の教師として、地理と歴史を受け持ち、寮の舎監も務めていた二十七歳の美知子は、それまで太宰治の作品はもちろん、名前を知らなかった。
★『道化の華』
--「ここを過ぎて悲しみの市(まち)。」
友はみな、僕からはなれ、かなしき眼もて僕を眺める。友よ、僕と語れ、僕を笑え。ああ、友はむなしく顔をそむける。友よ、僕に問え。僕はなんでも知らせよう。僕はこの手もて、園を水にしづめた。僕は悪魔の傲慢さもて、われよみがえるとも園は死ね、と願ったのだ。もっと言はうか。ああ、けれども友は、ただかなしき眼もて僕を眺める。--
一字一字、一行一行、食い入るように読む者に、まず感じられるのは、語り手であってかつ主人公の「僕」が、友達のすべてに見捨てられ、だれにも理解してもらえない重大な秘密を隠し持つ、はなはだ孤独な存在だ、ということである。
★『富獄百景』
石原美知子が青函連絡船の三等船室で、太宰治の本を魅入られるように読んだ日から1ヶ月以上の日が流れた9月16日。
太宰治は、井伏鱒二夫婦とともに、三ツ峠へ登った。三ツ峠は標高1786メートル、晴れていれば頂上から真正面に富士山が眺められ、さらに八ヶ岳と南北のアルプス奥秩父の山々まで、一望に収められる。
登ったのは、三ッ峠のとなりに並ぶ標高1525メートルの御坂峠からであった。
茶屋のドテラは短く、私の毛脛(けずね)は、一尺以上も露出して、しかもそれに茶屋の老爺から借りたゴム底の地下足袋をはいたので、われながらむさ苦しく、少し工夫して、角帯をしめ、茶店の壁にかかっていた古い麦藁帽をかぶってみたのであるが、いよいよ変で、井伏氏は、人のなりふりを決して軽蔑しない人であるが、このときだけは流石に少し、気の毒そうな顔をして、男は、しかし、身なりなんか気にしないほうがいい、と小声で呟いて私をいたはってくれたのを、私は忘れない。とかくして頂上に着いたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台といふ、断崖の縁に立ってみても、いつこうに眺望がきかない。何も見えない。井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた。いかにも、つまらなそうであった。---
この「放屁なされた」が、事実だったのか?
太宰の嘘まみれだったのか?それが問題だ。太宰治は訪ねてきた友人に、「いや、たしかになさいました」と言って、さらにこう付け加えた。「一つだけでなくて、二つなさいました。微かになさいました。あのとき、山小屋の髭のじいさんも、くすっと笑いました」
これ、私には嘘っぽく思えてしょうがない。
「ロマネスク」に出てくる言葉で言えば、人間万事嘘は誠。まさに創作の魔術、恐るべし、である。
そして、太宰治は石原美知子さんとお見合いすることになる。
それから月見草だ。
そして、新雪の富士を見たあと、山を歩き回って、両の手のひら一杯に、月見草の種をとって来た「私」が、それを茶店の裏庭に播いて、----「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね、ここへお洗濯の水なんか捨てちゃいけないよ。』娘さんは、うなづいた。
百科事典によれば、月見草は「白い花」で、夕方咲いて朝しぼみ、大きな黄色の花で俗に月見草とか宵待草と呼ばれるオオマツヨイグサは、夏の夕方から翌朝まで咲きつづけ、太陽の光を浴びて萎れる、とされている。
が、この「富獄百景」では、かくのように書かれている。ちょっとばかい、可笑しな物語だ。
バスの女車掌が、きょうは富士がよく見えますね、といった好天の日中、車窓の外を通り過ぎた風景のなかから、「私の目には、いま、ちらりとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った」「3778米の富士の山と立派に明対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった」としたのは本当だろうかーーーーという疑問である。
この話は、太宰治の得意中の得意、戯作、嘘の塊だ。
初代と別れた。
井伏鱒二の知り合いである斉藤文二郎の紹介で石原美知子と会うことになる。井伏鱒二は太宰治に付添って、御坂峠からバスで甲府に向かった。甲府に着くと、斉藤夫人の案内で、水門町の石原家に向かった。
客間に通され、挨拶が終わって、少しすると、井伏と斉藤夫人は席を立った。夫人がそうするよう井伏に囁いたからである。そのときの太宰の様子を、「目のたまが吊り上って、両手をだらんと垂れていた。緊張のあまり、からだの力が抜けていたのかもわからない」と井伏は書いている。
私は娘さん(石原美知子)の顔を見なかった。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、
「おや、富士。」と呟いて、私の背後の長押(なげし)を見あげた。私も、からだを捻(ね)じ曲げて、うしろの長押を見あげた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられていた。まっしろい水蓮の花に似ていた。私は、それを見とどけ、また、ゆっくりからだを捻じ戻すとき、娘さんを、ちらっと見た。きめた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。あの富士は、ありがたかった。----
石原美知子の父は、甲府の徽典館(きてんかん)から、一高、東大に進んで、地質学を専攻し、卒業後、官吏から教育界に転じて、山口、島根、山形の各建立中学校の校長を歴任し、広島高師の講師を最後に退官したあと、出身地である山梨県の嘱託に招かれ、県内の地質と動植物の研究調査にあたっていた。美知子の兄・左源太は東大医学部。
父は、翌6年、脳溢血で志望、兄の左源太も間もなく病気でなくなる。
石原左源太と太宰治のあいだに、少なからぬ共通点があるのを感じとっておられるに違いない。『虚構の彷徨・ダス・ゲマイネ』に描かれた世界は、まったく理解に苦しむほど縁遠いものではなかった。
美知子は著書を読んだだけで、「会わぬさきからただ彼の天分に眩惑されていた」と回想の文章に書いている。
★『アリアドネの糸』
井伏鱒二は、土着性とモダニズムというまったく懸け離れた、両極端のものを結びつける独創的な発明によって、前人未踏の玄妙なユーモアと雰囲気を醸し出すことに成功したのである。
そのころのわが国の文学を三分していた、自然主義的な私小説と、プロレタリア文学と、モダニズム文学のいずれにも、どこか居心地の悪さや反発を覚えて、全面的には同化しきれずにいた文学青年が、井伏文学の核心をなすユニークな文体の磁力に引きつけられて、門下に集まった必然の成り行きともいえよう。
お嫁さん候補の美知子さんの印象は、一語に要約していえば、強烈な「知性」である。そのころの女性では数少ない例外に属した「インテリ」といっていいかもしれない。
じっさいに井伏門下の高田英之介が、新聞記者になって甲府に赴任するという機縁がなければ、太宰治と石原美知子が結び可能性は、皆無に等しい。
「アリアドネの糸」という譬喩がある。
クレタ王ミノスの娘アリアドネは、地下の迷宮に棲んで人人を苦しめる半人半牛のミノタウロスを退治に行く英雄テセウスに、怪物を突く剣と一個の糸玉をあたえた。糸玉は、いったんその内部へ入り込んだが最後、何人も脱け出せなくなる迷路の出口を見出すためのものである。
首尾よく怪物を退治したテセウスは、糸玉の糸を辿って、迷宮から脱出し、アリアドネをともなって海を渡る途中、眠っている彼女を島に置き去りにして、自分だけ故郷へ帰ってしまった。
悲嘆にくれているところへ、ディオニュソスが現れて、アリアドネを妻にした。人間の英雄に捨てられたかわりに、彼女は神の夫を得ることができたーーーー。
このギリシャ神話に発して、「アリアドネの糸」という言葉は、迷宮のごとき難問を解く方法を意味するようになった。
さまざまな偶然が重なり合って無数に屈折する迷路を通り抜けて、太宰治と石原美知子を奇跡的に結んだ赤い糸は、まさにアリアドネの糸であったといってよい。
★『満願』
実生活では、鎌倉への心中行と自殺行、麻薬中毒による錯乱と入院、小山初代との離別ーーー等がつづいた時期を、暗鬱な「死」の時代とすれば、「満願」は中期の明るく澄んだ「生」の時代の出発点となった。
ーーーこれは、いまから四年前への話である。私が伊豆の三島の知り合いのうちの2階で一夏を暮らし、ロマネスクといふ小説を書いていたころの話である。或る夜、酔いながら自転車に乗りまちを走って、怪我をした。右足のくるぶしの上のほうを裂いた。疵は深いものではなかったが、それでも酒を飲んでいたために、出血がたいへんで、あわててお医者に駆けつけた。まち医者は三十二歳の、大きくふとり、西郷隆盛に似ていた。たいへん酔っていた。私の同じくらいにふらふら酔って診察室に現れたので、私は、をかしかった。治療を受けながら、私がくすくす笑ってしまった。すると、お医者さんもくすくす笑い出し、たうとうたまりかねて、ふたり声を合わせて大笑いした。-----
井伏が御坂峠に滞在をはじめた八月上旬、石原美知子は東北、北海道への旅に出て、青森の成田本店で太宰治の『虚構の彷徨・ダス・ゲ・マイネ』を買い求め、夜の青函連絡船の船室で、紙の折り目を一頁ずつ刃物で切り開きつつ読み進んでいる。
私は、毎日、少しづつ小説書きすすめて居ります。もう二、三日でいま書いている小説「姥捨』書きあがる筈で、これを新潮に送り、それからすぐ、文芸春秋に送るのを書かうと存じております。リアルな私小説は、もうとうぶん書きたくなくなりました。フイクションの、あかるい題材をのみ選ぶつもりでいます。
★『晩年』
青函連絡船の出帆の時間まで、たまたま入った青森の本屋で、名前だけ知らされていた太宰治の作品集「虚構の彷徨・ダス・ゲ・マイネ」を発見した石原美知子は、甲府の自宅出の見合いで初めて本人と顔を合わせたあと、こんどは版元から送られてきた第一創作集の「晩年」を手にすることになった。
太宰治は、和服姿の半身像で、極度に痩せて憔悴し、深く落ち窪んだ眼窩(がんか)が、まるで二つの黒い空洞のような濃い翳になっていて、甚だしく陰惨な感じがする。
檀一夫の追想によれば、光線の加減でことさら歪んで荒廃した風貌に見える写真を、処女出版の本の口絵にするよう、強く執着したのは、太宰本人であった。
読者の多くが初めて目にする作者の顔は、まさに幽鬼の相である。
★『雲』
撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり
(ヴェルレエヌ)
これは若い友人のランボーを拳銃で撃って投獄された詩人が、獄中で悔悟と懺悔のすえ、劇的な回心を体験し、神に帰依するにいたる過程において著した詩集「智慧」のなかで、もっとも罪深き者こそ神に撰ばれるという逆説からもたらせる「恍惚」と、しかし自分は果たして神の愛に価するであろうか、という「不安」の二つを、同時に重ね合わせて告白した箇所だ。
死のうと思っていた。今年の正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であった。
私が悪いことをしないで帰ったら、妻は笑顔をもって迎えた。
その日その日を引きずられて暮らしているだけであった。下宿屋で、たつた独りして酒を飲み、独りで酔い、そうしてこそこそ蒲団を延べて寝る夜はことにつらかった。夢をさへ見なかった。疲れ切っていた。何をするにも物憂かった。「汲み取り便所は如何に改善すべきか?」といふ書物を買って来て本気に研究したこともあった。彼はその当時、従来の人糞の処置には可なりまいっていた。
新宿の歩道の上で、こぶしほどの石塊(いしころ)がのろのろ這って歩いているのを見たのだ。石が這って歩いているな。ただそう思っていた。しかし、その石塊は彼のまへを歩いている薄汚い子供が、糸で結んで引き摺っているのだといふことが直ぐに判った。
子供に欺かれたのが淋しいのではない。そんな天変地異をも平気で受け入れ得た彼自身の自棄(やけ)が淋しかったのだ。
もともと『晩年』の出版を実現させた最大の功労者は壇一雄で、それを推し進める過程で版元にたいし、切り札のように口にしたのが、--きっと太宰は、やりますよ。
だから、いまのうちに出してください、という言葉であった。
壇一雄は、太宰治は自殺を選ぶだろうと考えて、そのように言ったのだろう。
文芸評論家の浅見淵は、古谷綱武のサロンで帝大の角帽をかぶって学生服を着た青白い顔の太宰治を初めて見かけ、早稲田の同期の尾崎一雄、井伏鱒二らと同人誌で小説と批評を書いた。
外交官の子で旧制成城高校で同級だった大岡昇平と富永次郎、さらに中原中也、河上徹太郎らと古谷綱武は古谷の自宅で、鷹揚な話し合いを楽しんだ。この同人誌に太宰治を推薦した今官一は、太宰治の『魚腹記』の原稿を見てその見事な出来栄えに感嘆した。
また、壇は古谷に勧められて読んだ太宰治の『魚服記』と『思い出』に強く心を惹かれた。
そして、「君はーーーー」といったん口籠ったあと、「天才ですよ。沢山書いて欲しいな」太宰治はしばらく身悶える風情を示したのち、断崖から身を投じる調子で、「書く」と答えた。
中畑慶吉の計らいで、挙式用の黒羽二重の紋付と袴、それに加えて上等のな絹物の着物一式がとどけられていた。これが翌日、美知子にいささか心外の感を抱かせることになる。式の相談をしたとき、自分はこの通りの着た切り雀なのだから、そちらも普段着でいい、とくり返しいった。1月8日の当日、井伏宅に行ってみると、太宰には黒紋付付きの一揃いが用意されていた。
結婚式は、新郎新婦に媒酌の井伏鱒二夫婦、津島家の名代として中畑慶吉、それに東京での後見役北芳四郎、石原家の名代として東京在住の山田貞一と宇多子(三姉)夫妻と斉藤せい夫人の計9人によって行われた。
★『黄金風景』
新生活に入って、美知子の表現によればまるで「待ち構えていたように」、太宰がさっそくはじめたのは、『黄金風景』の口述であった。
太宰は『黄金風景』という題名につづけて、
海の岸辺に緑なす樫の木、その樫の木に黄金
の細き鎖の結ばれて
ーープウシキンーー
という題銘(エピグラフ)を書かせ、どうだ、いいだろう、と美知子にいった。
太宰治にはまた、同業者のまえに、まずぜひとも感心させなければならない対象があった。口述筆記のペンを走らせている新妻の美知子である。
御坂峠を境にして、太宰の作品が、文章も会話も飛躍的に進歩したのは、そんな風に高い教養と世間的な常識を兼ね備えた人びとを、いちばん身近な読者として意識するようになったからだ。
その新たな挑戦においても、見事に成功を収めたに違いないのは、以後おいおいにはっきりしてくる。
太宰治の机上に、米粒のような細字でぎっしり書き込まれた部厚い手紙のようなものが置かれ、いままでそれを読んでいた様子であったから、何ですか、と聞くと、戦地から友達が小説を書いて送ってきたので、原稿用紙に清書して雑誌社に紹介するんだ、と説明した。--あとで判明するが、それは田中英光の「なべ鶴」であった。
新生活に入り、太宰治は「待ち構えていたように」まず「黄金風景」の口述筆記を美知子にさせた。貧しくても、一生大事に努めます。以上は平凡の言葉でございますが、私がこののち、どんな人の前でも、はっきり言えることでございますし、また、神様のまえでも、少しの含羞もなしに誓言できます。何卒、ご信頼ください。
このような気持ちの働きからであろう。
太宰治が仕事を終え、晩酌を六、七合飲んで、ぶっ倒れるように寝てしまったあと、---近隣みな寝静まった井戸端で、汚れものの片付けなどしていると、太宰が始終口にする「侘しい」というのは、こういうことかと思った。
★『桜桃』
子供より親が大事、と思いたい。子供のために、などと古風な道学者みたいな事を殊勝らしく考えてみても、何、子供よりその親のほうが弱いのだ。
わが家において、父と母はさながら子供たちの下男下女の趣を呈し、夏の夕食時など大汗をかき、どこにいちばん汗をかくかという話になった時、母は少しまじめな顔になり、
「この、お乳とお乳のあいだに、----涙の谷、-----」
涙の谷。
父は黙して、食事をつづけた。
父である私は、人と接する時も、小説を書く時も、ほとんど必死で楽しい雰囲気を創る事にに努力する。人は、太宰という作家もこのごろは軽薄である。面白さだけで読者を釣る、すこぶる安易、と私はさげすむ。
人間が、人間に奉仕するというのは、悪い事であろうか。
私は家庭においても絶えず冗談をいい、一部の読者、批評家の想像を裏切り、私の部屋の畳は新しく、夫婦はいたわり、尊敬しあい、父も母も負けずに子供をかわいがり、子供たちも父母に陽気によくなつく。
しかし、それは外見。母の胸は、涙の谷、父の寝汗もいよいよひどく、七歳の長女と一歳の次女は人並みだが、四歳の長男はまだ一語も話せず、痩せこけていて少しも成長しない。母は時々、この子を固く抱きしめる。父はしばしば発作的に、この子を抱いて川に飛び込み、死んでしまいたく思う、
はっきり言おう。実はこの小説、夫婦喧嘩の小説なのである。「涙の谷」。そういわれて、夫はひがんだ。議論をすれば負けるにきまっている。沈黙した。泣いているのは、お前だけではない。おれだって、子供のことは考えている。自分の家庭は大事だと思っている。しかし、どうしてもそこまで手が廻らないのだ。
桜桃が出た。私の家では子供にぜいたくなものを食べさせない。持って帰って、蔓を糸でつなぎ、子供の首にかけてやったら、桜桃は珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。
★自殺
1948年(昭和23年)6月13日、夜半、山崎富栄と玉川上水に入水。
連日にわたる大捜索のすえ、太宰の満三十九歳の誕生日にあたる19日の午前六時五十分ごろに発見され引き揚げられた。
二人が投身したとおもわれる場所の土手の上に、小さな茶色の瓶と、もっと小さな青色の薬瓶と、小型の硝子皿が残されているのが発見され、富栄のほうは青酸カリを飲んで入水したものと推定された。
散歩して玉川上水のそばを通るとき、この川は人喰川というんだ。飛び込んだが最後、死体は絶対に揚がってこないんだ、と同行する人にたびたび話していた太宰は、死ぬならここーーーーと決めていて、いつの間にかそれが固定観念化し、死出の旅に出ると決めたときの行動は、なかばオートマティックなものになっていたのかもしれない。
太宰と富栄は、赤い腰紐で二人の腰のあたりをしっかり結びつけ、富栄が上、太宰が下になる恰好で、土手を滑り落ちたものと推定される。
薙ぎ倒された雑草の下から剥き出しにされた赤土に、そうおもわせる重い負荷がかかった形跡があり、さらにその両側に、下駄で抉られたような二条の痕跡があった。
この二条の痕跡については、色々な意見が培った。
が、筆者の長谷部日出雄氏が次のように理解していた。
筆者はその色々な意見に同意しない。これまで述べてきた経緯と、遺書の文句からして、太宰がはっきり覚悟を決めていたのは明らかだ。無理心中説や他殺説が成立する予知は、まったくない。
ただ、滑り落ちていく途中、あ! この死に方はよくない、と、一瞬、神の啓示のような、底知れず深い覚醒があって、ぐっと踏み止ろうとした意志の力が、二条の溝となって、地に強く刻み込まれたのではなかろうかーーー、筆者はそのように想像する。
★死の原因
死の原因は、かれが自分にとって苦悩の殆ど全部であり、究極の難題であるとしたイエスの「己れを愛するがごとく、汝の隣人を愛せ」という言葉と、作中では主人公の願望とされているけれど、じつは自分自身が墓碑銘に望んでいた「かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった!」という文句が、幾重にも固く絡み合って、どうしても解きほぐせなくなってしまったところに求められる。
キリストの汝等己を愛するが如く隣人を愛せよという言葉をへんに頑固に思い込んでしまっているらしい。私はきっと違った解釈をしているのではなかろうか。あれはもっと別な意味があるのではなかろうか。
そう考えた時、汝を愛するが如くという言葉が思い出される。やはり汝も愛さなければいけない。汝を嫌って、あるいは汝を虐げて人を愛するのでは、自殺よりほかはないのが当然だといふことを、かすかに気がついてきましたが、然しそれはただ理解です。
★葬儀
引き揚げられた遺体のうち、太宰のほうは、堀の内の火葬場で荼毘に付され、6月21日、豊島與志雄を葬儀委員長、井伏鱒二を副委員長として、自宅で文壇と出版界の人びと三百人が参列する告別式が行われた。
7月18日、生前からの望みが実現された三鷹市下連雀の黄檗宗霊泉山禅林寺への埋葬の日、田中英光は、美知子夫人の好意で持たせてもらった骨箱をまえに抱き、なかの骨壷がコトコト立てる音を、耳と体の双方で感じながら、墓地の細い通路を進んで行った。
太宰が可愛がり、太宰を尊敬していた田中英光にとって、感極まり心地だったのだろう。この二人の関係を知ってしまってから、私は田中英光の本を読み漁った。
田中英光が太宰治に読んで欲しいと持ち込んできた本。それは、ロサンゼルスオリンピックに漕艇選手として参加した時の、恋愛小説を、太宰治が題名を「オリンポスの果実」として発行され、大いに評判を得た。
田中英光は早大の学生だった。この題名変更にしても、太宰の曲がりならぬ才能が発揮されている。
太宰さん、あなたは、自殺してはならなかった、なにがあっても生きていてほしかった、あなたが現在の苦痛を、必死で切り抜けられたならば、きっと世界文学史上にのこる、大作家になれるひとであったはずなのにーーーーーー。
骨箱は田中から美知子夫人に、それから葬儀社の係りに渡され、深さ三尺ほどの穴に入れられた。その瞬間、田中はかたわらから号泣が湧き上がるのを聞いた。
太宰を、この世で最高の作家にしようとして、とくにその晩年は、あらゆる心痛と苦難と犠牲に耐え、献身的に支えつづけてきた美知子の、天と地を揺るがすほどの慟哭の声であった。
田中英光は横浜護謨会社に入社、その後戦争に追いやられ、帰国後は日本国有鉄道に入社して労働組合運動に邁進した。
そして、太宰治の墓の前で自殺をはかった。私の本箱に、この田中英光の全集は太宰治の全集の真横に陣取っている。太宰治には会い難いところがあるが、同じ早稲田の運動部上がりの私にとって、田中英光さんには会ってみたかった。