2020年5月6日水曜日

総持寺のことこの人に聞け



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ライター:河野 哲弥

總持寺のことなら、この人に聞け!



鶴見区鶴見にある總持寺(そうじじ)は、全国に約1万5000寺の関連寺院を持つ、曹洞宗(そうとうしゅう)の大本山である。
しかし、現在の地に移転してきたのは、1911(明治44)年のこと。
それまでは、石川県の能登地方にあった。

さて、移転の経緯について同寺へ取材を申し込んだところ、宗門代表の管長は一定の期間で交代するため、当時の様子を直接知っているわけではないという。
「鶴見区文化協会に詳しい方がいるので、そちらに聞いてみては」とのこと。
 

ということで、同協会の齋藤美枝(さいとうみえ)さんと總持寺で待ち合わせ
 
この齋藤さん。受付に挨拶すると、まるで我が家のように總持寺について詳しく説明してくれた。
それもそのはず。

齋藤さんは、移転100年を記念して出版した『鶴見 總持寺物語』の著者であり、總持寺研究の第一人者といっても過言ではない方なのだ。
普段は、同寺のボランティアガイドなども務めているという。
 

頂いた著書や資料など
 
齋藤さんは、今までの研究を振り返って、「ここは修行の場なので、誰も總持寺が鶴見に移転してきた経緯などについては詳しくないようです。

だから、全国の関係寺院に直接伺ったり、資料を細かく付き合わせたりしながら、長い時間をかけて一つ一つ明らかにしていきました」と話す。

顔パスなのもうなずける。

もう、齋藤さんに全てお任せしちゃうことにしよう。
まずは、非公開部も含めて、總持寺とはどんなお寺なのかを、説明していただくことになった。

「単位」の語源ともいわれる、僧侶の修行の場



そもそも曹洞宗とは、1226(嘉禄2)年に帰国した道元(どうげん)禅師の「教え」を後に体系化したもので、いつごろ始まったものなのかは定かではない。
ただし道元は1244(寛元2)年、現在の福井県吉田郡に、修行道場ともいえる永平寺を建てたと伝えられている。

一方、道元禅師から数えて4代目にあたる瑩山(けいざん)禅師は1321(元亨元)年、石川県にあった諸嶽寺(しょがくじ)を諸嶽山總持寺と改め、曹洞宗の礎を築いた。
そのため、この二寺がともに、曹洞宗の大本山となっているようだ。
 

曹洞宗では、この二者を「両祖」としている(總持寺のサイトより)
 
時は下って、1898(明治31)年。

後者の總持寺は大火災に遭い、投稿にあったように、鶴見へ移転することになった。
その理由と移転前の様子が今回の主眼なのだが、今は、ずんずん進んでいく齋藤さんの後を追うことにしよう。
 

まずは「大僧堂」へ

さて、禅宗の特徴は、「坐禅」に代表されるような僧の厳しい修行にある。
ここ「大僧堂」は、まさにその道場となっている。
隣接する衆寮(しゅりょう)では坐禅体験も行えるそうである。
 

畳約一畳のスペースが各僧に与えられる
 

寝起きや食事もここで行う
 
齋藤さんによれば、このスペースは「単(たん)」と呼ばれ、学校などで用いられる「単位」の語源となっているとの説も。

この木の部分は、各僧が食器や枕などを置く神聖な場所であり、絶対に触ってはいけないとのこと。ちなみに、各僧が「単」に上がるときは、ここを飛び越えるそうだ。


 

 

移転の歴史を説明するパネル展示は、非公開部分に


 
次は、本堂(佛殿)の隣に位置する「大祖堂(だいそどう)」へ。
1965(昭和40)年という比較的最近の完成となるが、比喩ではなく実際に「千畳敷」を誇る、巨大な建築物である。
この地下に、今回の投稿に対する答えが隠されていた。
 

佛殿の真下を通る地下廊下を抜け、図の右上へ移動
 

年表と写真を使ったパネル展示が出現した
 
これによると、移転前のこの場所には、同じ曹洞宗の「成願寺(じょうがんじ)」が建てられていた模様。

ちなみに同寺は、現在の場所、總持寺の東端に移設された。
 

移転前の現在地の様子
 

齋藤さんの『鶴見 總持寺物語』からも一部拝借
 
齋藤さんによれば、能登の總持寺が火災に遭ったのを機に、関連寺院から「交通の便が良い関東に移転しては」という要望が上がったそうだ。

こうした声を受け、千葉や八王子などの候補地の中から、高台にあって四方を望める「鶴見ヶ丘」に白羽の矢が立ったという。

その理由としては、当時は陸路だけでなく、海路も重要な交通手段であったから。

横浜港に近い鶴見は、その後に行われた移転工事に際し、資材を運ぶのに便利だったのである。
関係者や参拝者の利便は、言うまでもない。

一方、当の「成願寺」は、このプランに賛成したのだろうか。

ここは、齋藤さんの著書を引用することにしよう。
いわく、「来たよ!(總持寺)」「わかっている。よろしい(成願寺)」の二つ返事だったそうだ。
 

『鶴見 總持寺物語』より、原典は『鶴見ヶ丘』という歴史書
 

移転に尽力した石川禅師の肖像画が飾られる、「紫雲臺(しうんたい)」の様子
 
またその背景には、当時の京浜電鉄(現京浜急行)社長、雨宮敬次郎氏の進言もあったようである。

本格的な門前町ができることによる経済効果を考えてのことだったのだろう。
ちなみに、かつて存在していたこれらの町並みは、電鉄各社の線路拡張工事によって、その姿を消すことになった。このため現在では、付近に土産物店などがない、全国でも珍しい景色が広がっている。
 

鶴見駅と国道駅の間には、「本山駅」もあった
 
それにしても、なぜこのような貴重な資料が、非公開の場所に飾られているのだろう。
齋藤さんよると、2013(平成25)年の「つるみ夢ひろばin總持寺」では、公開したとのこと。

これだけのパネルを飾ることができる場所が見つからず、今に至るらしい。

「多くの方にご覧いただきたいたいので、何とかしたいとは思うけど」と、各方面の調整やスペース確保の難しさに、頭を悩ませているそうだ。

開かれた總持寺を目指して



こうした中、總持寺や齋藤さんら鶴見区文化協会が取り組んでいる、新たな試みもある。
總持寺が行う「諸堂拝観」は、各日10時、11時、午後1時、午後3時の4回、1時間程度の内覧を行うもので、特別な行事がある場合は拝観中止となる。
なお、「大祖堂」の展示パネルも内覧コースには含まれている。

また、毎年11月3日(祝)文化の日、總持寺の境内を舞台として催されるイベントが、「つるみ夢ひろばin總持寺」。
ステージパーフォーマンスや特別展示、東日本大震災被災復興支援や輪島市を含む各種物産展などが登場。
こちらも見逃せない。
 

2013年の同イベントチラシ
 

5万人余の人出でにぎわった「つるみ夢ひろばin總持寺」(2013年)
 
「總持寺」というと、開かずの踏切や盆踊りのイメージが強く、そのほかのことについてあまり知らないという人も多いのではないだろうか。

上述の試みは、曹洞宗が選んで移転してきた鶴見の街と、その歴史に触れるまたとない機会でもある。ぜひ、参加してみてはいかがだろうか。


―終わり―