2020年5月23日土曜日

不思議な情動らしきもの

3日前の夕刻、我が家より200メートル傍に住む私の孫「名は楓(かえで)・中2」がやって来て、ジイージイ、ピアノを少し使わせてよと言って、玄関に入るやいなや鍵盤に指をあてた。
ブラームスの「ラプソディー」、ショパンの「子犬のワルツ」、それに名前のよくわからない曲を、何かに取り付かれたような勢いで、又彼女の表情には真剣さが押し詰まっているように感じた。
情と動が脳波になって、情は鋭敏に、動は繊細に脳を駆け巡った。
そして間抜けな脳髄を、情緒なのか?快、不快の念なのか交叉しながら走り抜けた。
音楽知らずの私の脳はこんがらがっていた。

二階から下りてきたもう一人の孫「名は紡(つむぎ)・幼」が、ピアノを弾く楓の周りを、時には嵐に狂ったように強く激しく全身をくねらせ、時には草原を彷徨う微風のように静かに、前後左右上下にリズムをつけて体をひねった。
微風に身を任せて舞う蝶々のようでもトンボのようでもあった。
時には鬼気迫るコーモリのようでもあった。
そんな不思議な時と風の流れが、楓の指が動く限り、いつまでもいつまでも続いていた。
これじゃ紡の体がくたばってしまうのではないかと心配した。

私はその光景を眺めながら、ひょっとしてこの光景は「不思議な情動らしきもの」というのではないかと感じていた。
情とは、感情が刺激されて生ずる想念。
抑えがたい愛情?の感情だと言われる。
例えば「情の炎を燃やす」ように剛然と使われることもある。

暫くして、楓がバタンと指を止め、有難うございましたと言って帰っていった。
この言葉の中には、よーく皆さん聞いていただいた、そんなニュアンスが込められていたように感じられた。
紡の家族はいままでの激しい攻防のような光景を忘れたかのように、家族お揃いで二階に上っていった。

私は今までの30分ばかりは何だったのだろう?と思いながら、焼酎を飲んだ。
こんな不思議なことこそ、幸せと言うものなのだろうか。
こういうことが、私にとってシ・ア・ワ・セ・というものなのだろう、嬉しく思った。
静かな幸福感に包まれながら、もう1杯~もう1杯と言いながらコップ酒を続けた。
翌日、南道路の向かいの人から、昨夜はピアノの好演奏を聞かせてもらって良い気分を味わせてもらった、有難うと楓ちゃんに言っておいて、その表情は豊だった。