2020年6月12日金曜日

霙(みぞれ)

今回は渡辺淳一氏の̚医科系物語4編を読んだ。
今年2,3月から感染が始まった新型コロナウイルスの、私自身の自粛生活の活かし型だった。
角川文庫の中古本。
安売りチェーン店でこの本を含めて渡辺淳一シリーズ7冊を手当たり次第に買った。

書名には中の1小説の題名である「霙(みぞれ)」とあったので、迷うことなく買った。
この霙をネットで調べた。
ブリタニカ国際大百科事典では、雪と雨が同時に混ざる降水。
氷雨(ひさめ)ともいう。
気温が非常に低いときには起こらず,地上気温が 0~5℃で見られることが多い。冬の初めと終わりに多い。
天気予報では「雨または雪」「雪または雨」と表現することが多い。
これで霙の意味は解ったものの、どんな小説になるのだろうかと興味が沸いた。

渡辺氏は北海道立札幌医科大の整形外科に勤務していた優れた研究家であり、執刀者であった。
札幌医大はのちに心臓移植で有名になり、日本中の目は、この北方の単科医科大にむけられた。
この心臓移植によるのは「ダブル・ハート」で、その一々がよく理解できて十分面白かった。
単純に面白かった,、、、では許されないかもしれない。

彼の作品は、激しく動く女性と男性の生と性、芸術的なもの、文化的なもの、都会と地方的なもの、政権や政治に絡む偉人たち、そんなものをよく読んだ者にとって豊かな気持ちになる。
大学の時に、「光と影」を読み、この作家は今後どのような人になられるだろうかと、夢を注いだ。
直木賞を受賞した「光と影」で、私の脳の一部に、渡辺淳一はこびりついてしまった。
それに「花埋み」だ。

この医科系4編の小説について、解説のなかで文芸評論家の小松伸六(コマツ・シンロク)氏の文章を見つけたので、その文章をそのまま転載させてもらった。
これさえしておけば、後日、何があっても直ぐに思い浮かべることができる。


先ずは★「死化粧」。
「死化粧」は、作者の生命圏に近いところで書かれている出世作である。
一定のモデルがあるのかどうかは知らないが、主人公の「私」は作者と等身大のドッペル・ゲンガー(分身)とみてまちがいない。
前半の残酷とおもわれるほどの脳手術と解剖の記録は、その濃密なリアリティからいっても、最も優れている場面ではないかとおもう。
手術後、母のもとに集まる集団の周辺の人たちもよく書けており、良心的な若い医者の真剣な姿と、それにやりきれなさを感ずるらしい「私」とが対照的にとらえられており、効果的である。
後半の、葬式という死者の土俗的行事ともいえるフォクロア風な行事の記録も、私にはもの珍しい以上の印象をもった。
作者は前半の近代性(脳外科)と後半の伝習性(葬式)とを相照応しながら描いたものと推定するのだが、この作家の描写力は強烈である。
第54回芥川賞候補作。

山岡=「ドッペル・ゲンガー」のことはよく理解できていない。
自分自身の生き写し(分身)。
簡単に説明するともう1人の自分が目の前に現れるという怪奇現象であるとネットで調べたがよく解っていません。
フォクロマ? これこそ理解できない。


★「訪れ」。
「訪れ」は、作者が、この受賞パーテイに出席したとき、函館出身の高名な評論家で、すでにガンに侵されていたK氏に会ったときの一瞬をとらえているが、こんな鮮やかなスナップ・ショットはないとおもわれる。
K氏とは亀井勝一郎だが、青春と人生を語り、愛の無常をとき、死を説いたはずの脱俗的亀井氏だが、いぜんとして生に執着していたことが、作者とのつかの間の会話に鮮明に浮かんでくる。
このK氏の読者であった胃ガン患者の宇井晋作の苦悩や、老妻を殴りつける修羅場もすさまじい。
K氏の死を「乱世を生き抜いた強国の魂」と書いたO氏の追悼文も、この作品を読むと、いかにもむなしい。
このように読んでくると「訪れ」は偶然破壊の一種の風刺作品とみられるところもあるのだが、私などには、むしろ、死と直面したときの人間の悲しみを描いた作品として心にのこるのである。


★「ダブル・ハート」
「ダブル・ハート」は1968年8月8日、北海道立札幌医科大学和田胸部外科で行われた、世界で三十例目の心臓移植手術を頭におかれて読まれるといいとおもう。
渡辺氏は、この作品とは別個のドキュメント「小説心臓移植」(文芸春秋社)を発表しているが「ダブル・ハート」のほうが、小説の完成度からいっても、はるかにすぐれている。
この作品の主任教授津野英介のモデルは、和田教授であることはわかるし、津野教授という人間もよく書けている。
ダブル・ハート法が画期的なアイデアであるかどうかは、素人の私にはわからないが、少壮研究家にとって、「心臓なんてただのポンプにすぎない。ハートは心臓じゃなくて脳なんだ」という加害者がわの論理はそれなりに筋がとおっていて、よくわかるのである。
ここから現在、医学の最大の問題になっている「死の定義」もでてくるのだが、被害者である患者、ないし、心臓提供者がわの心情の論理は、一切黙殺されている。
ここに医学者の思い上がりがあり、人間無視の傲慢さがある。
里子の夫の死亡時刻は、それなまさに「殺された時刻」である。
ここで作者は、医はこれでいいのであろうか?と抗議している。
それが「ダブル・ハート」だ。
つまりこの作品は、事件小説の形をとっているが、生体実験の可否を問う「医師の良心」を潜在的テーマとして、追及している問題作なのである。
移植手術自体は成功(?)したが、移植患者も死んでしまうことを、里子夫人に告げて殿村医師が大学病院を去る気持ちになるという最後は、ちょっと弱いのだが、短編である以上、これは仕方のないものとおもう。
外科教室の動きが、生彩ある筆に描いてあり、いわゆる「白い巨塔」のインサイド・ストオリーとしてもおもしろい。
しかし四作のなかで「ダブル・ハート」は求心的でなく外延的な方向をもつ作品として、異質のものをもっているように、私にはおもわれた。


★「霙(みぞれ)」
「霙(みぞれ)」は、文句のない秀作だ。
主人公の医師柏木圭介を通して、脳性麻痺などの重症児を収容している「あすなろ学園」の生態を活写しているわけだが、ある病室で「すべての子が大小便のたれ流しだから一時間ごとに下を調べる必要があり、大便までできるのは8名しかいない」という客観的現実の提出だけでも私は暗い気持ちにおそわれる。

足で折り紙を折っている津田とみ子が、鶴とはいえず、「----つうーーー」としかいえない、そうした生々しい描写が全体にあふれ、身体障害者を描いた作品をずいぶん読んでいる私だが、これほどリアリテイをもって迫ってくる作品はなかった。
このとみ子をひきとった母親が、一緒に鉄道にとびこみ自殺をしてしまうのも哀れだ。
また親たちが重症児を、自ら生んだことを忘れ、社会や政府の責任にしてしまう被害者(?)の思い上がりも作者は鋭くついている。
この作品には、虚妄のフイックションは一切ない。
あるのは作者の生身の悲しみと、生身のいきどおりだ。
この作品は、文学外の読者にも、ひとりでも多く読まれることを希望する。