2020年8月10日月曜日

後輩が夢枕に立った!

私が大学を卒業したのは昭和48年の3月、ほぼ50年前になる。
昭和23年9月の生まれなので、24歳だったと思うが、詳しいことを理解しないままなので、多分そうだろうと思われる。
大学を目指したのは、唯(ただ)サッカーをやるためだった。

だから、できるモノならば、大学界最高の学校に行きたいと自分の能力とは関係なくひた走った。
結果、目論んでいたその学校に何とか合格できたものだから、嬉しさ溢れてその学校に入った。
怖いもの知らずの、生意気な少年だった。
その学校のことを、今後の文章に「都の西北」と名付けていきたい。
ラッキーにも法政、明治、中央大学にも受かったものの、当てにしていた学校に受かれば、申し訳なく思う。
都の西北のサッカー部に4年間在籍したことはしたが、私はサッカー部の「屁(へ)の突っ張り」にもならない役立たずのまま、でも立派な先輩や後輩に恵まれて何とか遣りきれたとと言えば、遣りきれた。
大学の豊かな歴史と面倒見のいい先輩がいてくれたこと、それからそれから卒業してからもいい後輩たちとの交流があったからこそ、今のこの私がいられるのだろう。

今回ブログを書きたいと思いついたのは、不思議なこと、都の西北のサッカー部の一年後輩が、一週間前の真夜中、私の夢の中に現れたのだ。
卒業後何にも連絡など取ったこともない秋田県出身のキーパーからだった。
この夢のあらましを「夢枕物語り」とする。
この夢枕物語りを語る前に、私自身のどうしても話さなくてはならない事情があるので、そのことを話させてください。
私の家族には特別な事情があったのです、その事情に何食わぬ勢いで進んでいった。

心豊かな先輩や、何をどう理解したのか私に微笑みかけてくれる後輩たちに感謝しながらも、私の心の内には得も言われる魔物がいたのも事実だった。
その魔物と共生すること、背に負った浪人中の負荷、そんな青春の憂愁に染められていた。
この青春の憂愁をここで詳細に記述するわけにはいかない。
きっと2,3年後に私の生まれから、現在に至るまでの歴史を纏めるつもりでいるので、その巻までお待ち願いたい。
その一部は下記のことだ。
大学のサッカー部の人たちは一般的にどのようにして学生生活をしているのかその生活そのものは当然、学費や生活費の遣り繰りはどうなっているのだろうか。
どれだけ予算付けているのか、当方は考えたこともなく露ほども想像なしに、大学進学を決めてしまった。
京都からは当然遠く、隣の宇治からも随分離れた素寒貧な村に育った。
この田舎のことや私の家族の特殊な事情を話さなくては、話にならない。
不思議なことに、私自身が両親に相談もしないまま、受験シーズンに入った。

永谷宗円生家
永谷宗円の生家

郷里・京都府綴喜郡宇治田原町では、鎌倉時代に茶の栽培がはじまり、江戸時代に「永谷宗円」が現代の緑茶製法の礎となる青製煎茶製法を開発した。
よって、永谷宗円のことを日本緑茶の祖と言われている。
我家は祖父が分家をして山岡家は生まれた。
当時分家の時にいただいた田畑だけでは裕福に暮らせないと腹をくくった父は当時の金融業からお金を借りて、自分の代になって倍以上の田畑を耕作するほどまでに成長した。
父が亡くなって、兄と私で不動産の権利証なぞをチェックしていて、新しく取得した田畑や、銀行との間で交わした金銭消費貸借契約書を見つけて、二人は吃驚して確認できた。
上記のことを克明に描き切ってみたいとおもっている。

家族と入学金、授業料、生活費、その他について、何も相談することなく自力で賄った。
世間の一般学生は兎に角、私は家族のお世話にならなくて自ら稼ぎ出し、その金で4年間を遣り繰りして見せる。
2年間の浪人生活、半分を学習に半分を土方(どかた)稼業で稼いだ。
農協の貯金通帳に積み上げた貯金は480万円か370万円?定かではないが何とか4年間は親からの仕送りなしでやりきれるだけの自信はあった。
こんな無鉄砲なことを思いついたのは流石だと思う。
入学してみんなと一緒に練習しても、そのレベルの低さには「インド人も吃驚」どころの騒ぎではなかった。
このサッカーに関する技術力の低さは、私の頭をグルグル巻きにした。
そんな4年間、先輩のほとんどの人は、私の頭を割り切って理解してくれそうにはなかった。
そして、私の脳構造は反比例して悪化していった。

そんな学生時代の4年生の時に、秋田県出身のキーパーに田舎に来ないかと誘われて、キーパーの生家に泊めてもらい、秋田の有名どころをキーパーの父に連れてもらった。
生家でゆっくりしていた時に、私はお金も何もない癖に、私の実家はお茶の生産農家なので、来年、新茶ができたころ送らせてもらいますよ、と言った。
その言ったことを決行することなく、50年近く放(ほう)りっ放う(ぱな)しにしてしまった。
今回のキーパーの夢枕物語りは、そのことなのだ。
それを思いついたのかどうかは分からないが、ヤマオカさん、まさか忘れてはいないでしょうね、と言う意味だったようなのだ。
この夢を見た時の私の驚き様は並みではなかった。
体の全てが、電気をかけられたように振るいだし、トイレに行って水をがぶ飲みした。