2018年5月8日火曜日

衣笠祥雄(さちお)



私、今夏9月で70歳。
歳(とし)の所為(せい)なのか?、何故か? 偉大な人たちや賢人たちに、異常に関心を持つようになってしまった。
関心とは、感心して歓心することだ。
ハシタナイ言い方になるかもしれないが、幸せな気分になる。

「所為か」はセイカであって、ショイではない。
このヘッピリ腰の私だからなのか、この歳だからなのか、偉大な勇者や賢者の誇りに寄り添い、その人たちに袖撫ぜして欲しいと思うことがある。
衣笠祥雄は、京都府の出身で平安高校の野球部だ。
京都府と言っても、京都市東山区馬町の出身だ。
私だって、京都府綴喜郡宇治田原町の維孝館中学校の出身。同級生で、田舎一の野球マンの堀君が進学したのも、衣笠選手と同じ平安高校だった。
堀君は投手だった。
平安高校の校名はよくよく知ってはいたものの、同級生までがその学校の野球部に入るとは、思ってはいなかった。

私は今夏で70歳になる。だから、堀君と衣笠選手とは同じグランドで同時に練習をしていたのではないか。
小中の9年間、一緒に学んだ者にとって、何とか頑張って、レギュラーになってくれればと願った。
彼の高校時代の諸処については、私も自身のサッカー狂にウツツを抜かしていたものだから、詳しくは知らない。
京都市立洛東中学校の野球部。ショートの守備を志望したが、下手糞だったので捕手をやらされた。広島に入団した当時は捕手だった。それから三塁を守った。
1965年、契約金1000万円、年俸120万円。

なぜ、衣笠祥雄は広島カープの監督になれないのか、ということについてネットで知り得たことをここに書く。

その理由については諸説飛び交っている。
「本人が固く辞退している」
「球団オーナー筋との確執」
「チームでの人望がない」など。
あるいは、「ハーフという出自が災いして差別を受けている」
「国民栄誉賞受賞の経歴が足かせになっている」などといったものだ。
実際のところ、球団オーナーとの確執は、ファンの間でも信じられている話ですが、さらに、この中で理由になるとすれば、「本人が辞退」+「国民栄誉賞受賞の経歴」が考えられる。

衣笠は、在日米軍のアフリカ系アメリカ人と日本人の母の間に生まれた。
私は昭和23年生まれで、星野仙一、衣笠さんと同じ団塊の世代だ。


★2008 4月25日(水)の朝日新聞・朝刊の1面と17面=球界の反応、35面=評伝をここに転載させてもらう。1面の天声人語も転載させてもらった。
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「鉄人」衣笠さん死去
2215試合連続出場 日本記録


プロ野球広島東洋カープで1987年に当時の連続試合出場の世界記録を塗り替え「鉄人」と呼ばれた衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)さんが23日、上行結腸がんのため死去した。
71歳だった。
葬儀の日程は公表していない。2017年1月まで朝日新聞社嘱託を務めた。
14年夏に体調を崩し、入院した。
当初は周囲に心配をかけまいと入院したことをふせていた。その後も闘病生活を続けながら、プロ野球や大リーグの後輩選手を温かい目で書きつづった。

京都府の出身で、地元の平安高(現龍谷大平安)の3年時に春夏の甲子園に出場し、ともに8強入りした。
65年、広島に入団。
強打の三塁手として活躍し、広島の5度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。
球団として初のリーグ優勝を果たした75年、山本浩二さん(71)らとともに「赤ヘル軍団」と呼ばれた主役の一人だった。
70年からは連続試合出場を重ね、87年6月に当時の大リーグ記録2130試合を超えた。
同年の現役引退まで2215試合に記録を伸ばし、今も日本のプロ野球記録として残る。


1987年6月13日、2131試合連続出場の世界記録を達成し、花束を手にする衣笠祥雄さん=広島市民球場

96年に大リーグ・オリオールズのカル・リプケンさん(57)に記録を抜かれる際は式典に出席し、祝福した。
同年、野球殿堂入り。
通算2543安打、504本塁打、1448打点、266盗塁。走攻守、3拍子そろった選手だった。背番号「3」は広島の永久欠番になっている。

「お手本だった」
山本浩二さんは一番の思いでは「初優勝した年(1975年)のオールスター戦で2人が2打席連続本塁打」と述懐。
「休みたいと思っても、彼がそばにいる限り休むことは許されなかった。最高のライバルであり、チームメートであり、お手本になる選手だった」

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(天声人語)

ヤマ場で主軸打者が三振すればファンはむろん怒る。ため息もつく。
だがカープの衣笠祥雄選手の三振は違った。むしろ球場が沸く。
「衣笠なら仕方がない」。
赤いヘルメットを宙に飛ばしながらのフルスイング。
生涯に1587もの三振を記録した。

独特の三振哲学を持つ。
巧打より長打にこだわり、勝負に出たときの空振りを自ら「攻撃的三振」と呼んだ。
見逃しの三振は「情けない」と嫌った。

死球を受け骨折した翌日も痛みをこらえて出場した。
スランプに陥れば、「連続出場記録のためだけに出ているのか」とヤジを浴びた。
それでも「カラリと晴れ上がる青空は必ず来る」と自分に言い聞かせ、2215試合連続出場の偉業を打ち立てた。

引退後、本紙嘱託としてコラム「鉄人の目」を担当した。
左右の人さし指だけでキーをたたく独特の打法。
ひらがなが多い。
句読点は少ない。
ただその原稿は、後輩を勇気づける言葉であふれていた。

「来たらクビだ」。
二十数年前、衣笠さんの険しい表情を大写しにしたポスターが朝日新聞社内に貼り出された。
休日消化を促す呼びかけだった。
骨折しても出場を選んだ当人に「休め」と言われると、素直に「休まなきゃいけないな」と思うから不思議である。

球界でも、連続出場記録よりむしろ、休むことの大切さが言われるようになって久しい。「選手に無理をさせるな」「故障に泣く人を減らせ」。
オンとオフの重要さを球界に訴え続けた鉄人は、そんな言葉を残して旅立った。

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野球愛 フルスイング

衣笠祥雄さん死去

「2215」。
現在でも衣笠祥雄さんが持つ連続試合出場記録はプロ野球最多として輝く。
体に近い内角球を恐れず、フルスイングでファンを魅了した選手だった。
死球は歴代3位の161個で、三振は当時最多(現在9位)の1587個を数えた。
野球界は星野仙一さんに続き、また一人、1970~80年代を彩ったスターを失った。

入団2年目まで1軍と2軍を行ったり来たりで、スカウトから「このままだとクビだ」と脅かされた。
しかし、3年目からコーチに就任した根本陸夫さんの助言で長所は長打力だと再認識し、6年目にはコーチの関根潤三さんと深夜にまで及ぶ猛練習でスイングを磨いた。

選手として23年間のうち、打率が3割を超えたのは1度。それは入団20年目のことだった。
現役を引退した後も、晩年は闘病生活をしながら最後まで「鉄人」らしく、野球界に携わった。


1980年、近鉄との日本シリーズ第7戦の7回に左越え2点本塁打を放ち、一塁を回る衣笠祥雄さん




1980年、巨人ー広島の14回戦で、1247試合連続出場の日本記録を達成し、王貞治さんから花束を受け取る衣笠祥雄さん

1975年から監督として広島の黄金期を築いた古葉竹識さんは「涙が出ました。サチが私より先に逝くとはーーーーー」とショックを隠しきれない様子。
2月ごろに会った時、体調を心配して声をかけたら衣笠さんは「大丈夫」と答えたという。
「骨折した時も『絶対出たい』と言ってきて。
だから、『大事なところで使う』と代打で使ったんです』と当時を振り返った。

広島のOB会長を務める安仁屋宗八さんは「まさかと耳を疑った。入団時はバッテリーを組んだこともあった。
三塁転向後はエラーでよく足を引っ張られたが、『必ず打って取り返すから』と言われた。いつまでも元気でいて欲しかった」と語った。
大下剛史さんは「寂しい。二遊間を組んで敏之(三村)が逝って、今度はサチ。
これで初優勝メンバーの内野手は私とホプキンスだけになってしまった」。

広島の後輩たちは「本当に優しい人だった」と口をそろえた。
大野豊さんは「マウンドによく声をかけに来ていただいた。怒られたことは一度もない。いつも元気づけられた」という。
北別府学さんは「ピンチの時にも頑張れと背中を押してもらった。あの笑顔は忘れられない」と思い出を語った。
達川光男・現ソフトバンクコーチは「キヌさんは『痛いとかかゆいとか言うからけがになる。黙っていたら分からん』と言っていた」と語った。
小早川毅彦さんは「プロとしての厳しさ、責任感を教わり感謝しきれない。若手のお手本だった」。

広島の緒方孝市監督は2016年に25年ぶりのリーグ優勝を決めた際、「ここから常勝の強いカープを築いてくれ」と言われたという。「優勝、日本一の報告をするためにも全員で戦っていきたい」と語った。

歴代3位の1766試合連続出場記録を持つ阪神の金本知憲監督は「カープの先輩であるキヌさんから、休まないということに関していちばん影響を受けた。中心選手は常にグラウンドに立っていないといけないことを、無言で示した人だった」と振り返った。

かってのライバルたちも、衣笠さんの死を悼んだ。
元巨人監督の長嶋茂雄さんは「巨人戦で死球を受けた時には、カープのベンチを自らなだめながら笑顔で一塁へ向かう姿が忘れれられません。芯が強く、優しい心を持っているいい男、ナイスガイでした」とコメントを発表した。

王貞治・現ソフトバンク会長は「闘争心をもって戦う中では珍しいタイプの選手だった。敵ではあるが、それを超えた形で話ができる人。もっともっと話がしたかった」と惜しんだ。

楽天の梨田昌孝監督は「79,80年の日本シリーズで対戦した」と近鉄時代の対戦をなつかしみ、「衣笠さんの辛抱強い姿を見て、今の広島の礎が築かれたのだと思う」。

日本代表の稲葉篤紀監督は「会うたびに『頑張れよ』と笑顔で声をかけていただいた。まさか、という思い」と話した。
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情熱を言葉に
  こだわりぬいた

衣笠祥雄さんは現役を引退した1987年オフに朝日新聞社嘱託となり、29年間にわたって名物コラム「鉄人の目」などを執筆した。

親しい記者の手ほどきを受け、自ら文章をつづることにこだわった。手書きからワープロになると、ゴルフに行く際も持参し、宿泊先でキーボードを打つ練習をしていたという。

文章を書く作業が長年の習慣になっていたようで、70歳になった2017年1月で契約を終えた後も、頻繁に自身の考えをまとめて野球担当記者にメールで送ってくださっていた。

開幕直後の今月2日に届いた文章が「遺稿」となった。「パ・リーグは西武が走りそう」などとシーズンを占った内容を、「鉄人の目」の最終回として、読者の皆様にも紹介したい。

今年2月28日には、同学年の高嶋仁・智弁和歌山高監督、中村順司・名商大総監督と野球談義をしてもらった。今夏で100回大会を迎える高校野球の紙上企画として実現した。

体調が万全でない中、衣笠さんはどんどん話をリードして下さった。「我々は個性派世代だね」「だけど、入り口は一緒。基本です。迷ったら帰るところがあるから個性も発揮できる」「今の選手には野球をもっと楽しんで欲しい」。持論を熱く語った。

最後の最後まで、野球に対する情熱、愛情にあふれた人だった。

(編集委員・安藤嘉浩)
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鉄人の目

長い戦いも最初が大切
今月2日に届いた最後のメール

プロ野球が開幕した。2月1日のキャンプインから各監督、コーチ、選手は開幕時に最高の状態を作るために頑張ってきた。
長いシーズンの一部とはいえ、最初の一歩は大切なものだ。

オープン戦1位の巨人が開幕カードで阪神に勝ち越し。
4年目の岡本が2試合連続本塁打と、いよいよ頭角を現してきた。
打線のつながりという面では工夫が欲しい感じもあるが、この若者の成長を楽しみたい。

調子が上がらなかった広島も中日に3連勝した。
中日には自信を持って戦っている感じで、今年もこのカードで星を稼ぎそうだ。
パ・リーグは西武が日本ハムに3連勝と勢いがつきそうな勝ち方だった。

次の3連戦もファンにとっては見逃せないカードになる。
先発が6人確保されているのか。不安を抱えているのか。各チームの台所事情が見えてくるはずだ。

セ・リーグは広島が今年も走り始めるのか。どこが迫っていけるのか。
パ・リーグは西武がソフトバンクに勝ち越すようだと、一気に走りそうな勢いを感じる。まだ始まったばかりとはいえ、大切な勢いが連日続いている。

(元朝日新聞社嘱託)

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優しき鉄人
衣笠さん 心配り 仲間に敵に

1980年8月の巨人―広島14回戦。連続試合出場1247試合の当時の日本新記録を達成した衣笠祥雄さん

プロ野球の広島カープで連続試合出場記録を樹立し、引退後は野球解説者を務めた衣笠祥雄さんが逝った。
71歳だった。
記録と言う数字に追われながら、1970年、80年代のカープを支えた一人。
人なつっこい笑顔が印象的だった「鉄人」の突然の旅立ちに、悲しみが広がった。

評伝
「江夏豊の21球」の時の衣笠祥雄さんの姿が、やはりまぶたから離れない。
1979年だった。広島と近鉄の日本シリーズ第7戦。
リリーフエースの江夏は、ピンチをむかえていた。1点リードの9回裏1,3塁。広島の古葉竹識(たけし)監督は池谷公二郎と北別府学にブルペンでの投球練習を命じた。
延長戦も想定しなければならない。監督としては当然の判断だ。
が、江夏の表情が変わった。「何しとるんや。おれに、よう任さんというのか」。

そんな気持ちを衣笠さんだけが察知したのだ。無死満塁になり、マウンドへ行った。「お前がやらないのなら、おれも辞めてやる」。瞬時に言った。これで江夏は落ち着いた。
ピンチからの脱出は、この衣笠さんの一言がなければ生まれなかった。
デリケートな人だった。
極めて繊細で人の心を思いやるアスリートだった。

「鉄人」と呼ばれた。
連続試合出場の記録を持っていたからだ。
79年8月1日の巨人戦で西本聖から死球を受け、左の肩甲骨を骨折した。しかし、次の試合で代打で登場し、連続試合出場は続いた。この試合の打席は江川卓に対し、フルスイングでの三振だった。

「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のため。それにしても江川君の球は速かった」。試合後、そう話した。
次の試合はフル出場し、ファンを驚かせた。

実は連続出場記録にこだわった人ではない。逆にこの記録にしばられた人だといってもいい。

87年に大リーグのルー・ゲーリッグが持っていた記録を抜いた。
が、力が衰えながら記録を更新しなければならないことに、自分自身、納得がいっていなかった。
96年だった。カル・リプケンが衣笠さんの記録を抜いた。そのお祝いに渡米する直前、ホテルのバーでご一緒したことがあった。
「自分の判断で記録を止めることができなかったんだ。やっとリプケンにバトンを渡せたよ」。なんともいえない笑顔だった。

引退してからは、朝日新聞社嘱託として、評論活動をお願いしていた。
普通、野球評論家の原稿は聞き書きするのが当たり前なのだが、衣笠さんは必ずご自分で書いてきた。行数を守っていただけないので、削るのに苦労するのだが、野球に対する愛情と誠実さがひしひしと伝わってきた。

記者の食事会にもつきあってくださり、若い記者の質問にも、気楽に答えてくださった。偉ぶったところの全くない存在だった。

(元朝日新聞編集委員・西村欣也)




1979年の日本シリーズ第7戦で、広島は近鉄を破り初の日本一を達成

赤ヘル打線、広島に勇気
衣笠祥雄さんのプロ野球人生は、被爆地・広島とともにあった。

衣笠さんは、1965年に入団。
当時球団は50年の創設以来Aクラス入りを果たせず、低迷を続けていた。
次第に頭角を現した衣笠さんは山本浩二さんらと「赤ヘル打線」の中軸を担い、75年にはチームをセ・リーグ初優勝に導き、79,80年には2年連続日本一を果たす原動力になった。

衣笠さんにとって、原爆ドームと道を挟んで向かい合う旧広島市民球場は特別な場所だった。
「野球を思う存分できることは、戦争で志半ばで倒れた人もいることを思えば、なんと幸せなことだろう」。こう思いをはせていたと自著で打ち明けている。

4歳の時に被爆し、体験を伝えている伊藤正雄さん(77)=広島市佐伯区=は、苦しい時にも、フルスイングする姿が印象に残っている。「『なにくそ』と頑張る姿に勇気づけられた」




1996年、大リーグのリプケン選手(手前)が連続試合出場の新記録を達成した試合で始球式をつとめた衣笠さん

リプケンさん「友で誇り」
大リーグで2632試合連続出場の記録を持つカル・リプケンさん(57)は衣笠さんの悲報に対し、朝日新聞にコメントした。

「愛する野球に臨む覚悟や気持ちについて、衣笠さんと私は同じ考え方を持っていた。彼と育んだ友情は、私にとってかけがえのない価値があり、親友でいられることを誇りに思っていた。偉大な選手であり、衣笠さんから感じる器の大きさを尊敬していた。本当に悲しい」。



江夏さん「早すぎた」
1979、80年に衣笠さんと一緒に広島の日本一連覇に貢献した左腕・江夏豊さん(69)は「いずれ誰しも行く道だけれど、早すぎた。
3日ぐらい前に電話で話したところだった。その時はまあまあ元気だったよ。
19日に横浜の試合でしゃべっていて、声が出ていなかったから、『声出とらんぞ。無理するな』と。
そしたら『わかった、わかった』と言っていた。ちょっとの間、1人で寂しいけど、すぐに追いかけるから」と話した。






2018年4月21日土曜日

農山漁村電気導入促進法の制定

3月に高橋和巳氏の「散華」の再読を終えて、先回のブログ(4月17日)を書き上げている最中に、4月4日の朝日新聞の夕刊で下の記事にでくわした。
余りにも、「散華」と関係の深い内容に縁を感じた。

「散華」は、大型の電気会社が自社で作った電気を各地に伝導するために、土地の購入や賃借をして、鉄塔やその他の施設を作るための行動を起こしていた。
その電気会社の地上げ担当者と、電気会社が用地として狙う孤島に一人で生きる老人との戦時中における思想や行動について、激しい戦いが生まれた。

電力会社の社員は、戦時中は「回転特攻隊」、老人は武士道の伝統をひく「ファシスト」。
この二人の交渉ごとから、国を想う気風・気概や精神内容についての戦い。
それらの経緯がメインテーマだ。
その内容に遮二無二になってしまった。
学校を卒業してから10年後、「高橋和巳」教に嵌(は)まってしまった私には、貴重な本の一つだった。

この電力会社の社名は本の中では記されていない。でも、可笑しな私は、今回の新聞記事と同じで、中国電力ではないか、と勝手に考えてしまった。
そうすると、私が読んだ「散華」とこの新聞記事がつながって、余計面白いのではないかと妄想した。
ヤマオカのそういうところが面白インや、と友人からいつも言われてきた。

「散華」の粗筋や読後感想を描いて、その余韻に慕っていた。
そんな時に、この新聞記事が私の目の前に現れたものだから、古新聞として捨てるわけにはいかない。
自宅の我が物コーナーに置いてあったのを改めて読んで、その内容に関心させられた。

そして現在は2018年。
2011年(平成23年)3月11日、東日本大震災から1時間後に、高さ14~15メートルの津波に襲われ、福島第一原子力発電所が大きな災害を受けた。
1万人近くの人が亡くなったり行方不明の人たちが生まれた。
災害の種類は多く、被害は膨大だ。
そこで、今、人々の関心は日本全国にある原子力発電所の安全問題に駆られている。
現在の与党である自民党や公明党でも批判者が増えていて、野党ははっきり原発0(ゼロ)を目指している。
私は勿論、ゼロ派の一員だ。

そんな時期での、「散華」であり「小水力発電」、そして「原発の是非」だ。



 1952年(昭和27年)
農山漁村電気導入促進法の制定

小水力発電 自治の原動力に

銀行の大卒の初任給が1万5千円だった1950年代半ば、年100万円の利益をあげる事業が中国地方の農山村約50か所で成り立っていた。

小水力発電である。
農協などに限って政府の融資による発電所建設と電力会社への売電を認めた。
52年制定の農山漁村電気導入促進法のお陰だった。
その実現に奔走したのが中国電力の前身、中国配電の元取締役・織田史郎さん、日本初の五輪金メダリスト・織田幹夫さんの兄である。

「農村を豊かにして食糧増産を」。
戦後の食糧難打開のため織田さんは、のちに参院議長に9年在住、「天皇」と呼ばれた重宗雄三議員を頼る。
発電機などを製造する明電舎の社長を戦前から務める懇意の人物だ。
その後ろ盾を得て議員立法による売電の仕組みができたが、当時の通産官僚は「電気事業者に不当な負担を課さない」との一項を紛れ込ませていた。
これを盾に織田さんの古巣の中国電力以外は買おうとせず、小水力発電は中国地方が中心になる。

織田さんは全国の地形図から発電の敵地を探し、現地を歩いた。
水資源の活用を説いたが、原油価額が1バレル=2ドル弱の時代だ。
霞ヶ関の官僚は冷淡だった。
「石油だと1キロワット時あたり2円で発電できる。4~5円かかる小水力は不要です」。
織田さんは怒った。
「石油はいま安い。しかし、小水力なら高くても金は地元に落ちるじゃないか」

                  ★

戦前、電力会社は採算の合わない農山村に送電せず、各地の町村は小水力発電所を建てて地域に電気を供給した。

宮崎県南部の南那珂郡十六ヶ町村組合は発電事業の利益を財源に大正末期から高等女学校を経営した。
住民の払う電気料金が教育に生かされた格好だ。
銀行の初任給が70円だった36~40年には毎年8千円を電灯・電柱の数に応じて加盟町村に分配している。

戦後、郡北部の町村の合併で誕生した日南市を先頭に組合は、九州配電へ戦時中強制統合された事業を戻すよう政府与党に要求した。
日南市教委生涯学習課長を最後に3月退職した岡本武憲さん(60)は「特産の飫肥(おび)杉を輸出して盛んに外貨を稼いだ時期。
地域経済に勢いがあるから国にもモノが言えたのでしょう」。

9電力体制の成立後は九州電力と3年間交渉したが叶(かな)わず、九電が5500万円を組合に支払うことで62年に決着する。
その配分金を含む約1億円を投じて日南市は文化センター建設を決め、翌々年の東京五輪の舞台・国立代々木競技場を手がけた建築家丹下健三さんに設計を依頼した。
小水力発電の記念碑といえる建物は今も現役だ。

「小水力は半永久的な地域の資産です。織田史郎が70年前に造った発電機も手入れさえすれば回る」。
そう指摘する全国小水力利用推進協議会の代表理事沖武宏さん(76)は、冒頭の売電システムを考えた織田さんが創業者の広島・イームル工業の元専務だ。

 
「地形図を広げて小水力発電の適地を探すのが楽しみ」と語る織田史郎さん
(1979年)

                     ★

小水力利用のモデルケースとして沖さんは岡山県西粟倉村を挙げる。
人口1500足らず、森林が95%を占める。66年、農協名義で村が小水力発電を始めた。

2012年、再生可能エネルギーによる電気の買い取りを電力会社に義務づける制度(FIT)が創設される。
これに伴って設備を更新し、売電単価は約5倍、収入は年7千万円に増えた。
村の税収の半分に相当する。
売電収入を積み立てた基金から1億円を繰り出し、官製ファンドなどからの借入金も合わせて第2発電所を建設する計画だ。

村産業観光課主幹の白籏佳三さん(55)は「売電収入が増えたら地方交付税は減らされますが、ひも付きでない財源がある意味は大きい」。

補助金を活用し、村は木質バイオマスにも取り込む。
山に放置されるC級材が燃料の薪ボイラーを温泉施設3ヶ所に設けた。
運営を担うベンチャー・sonrakuの社長井筒耕平さん(42)の夢は各戸に薪ボイラー1台。「山村だから可能なことです」。

村は木質チップバイオマスボイラーを新設して地域熱供給に乗り出す。
燃料は製材の過程で出る端材だ。総延長4キロ弱の熱導管を巡らせて小中学校や子ども館の暖房・給湯に充てる。
目標は再生可能エネルギーによる100%自給である



岡山県西粟倉村の改修前の小水力発電所。建屋は開業当初のまま。水車に水を送る水圧管が背後の斜面に見える=2013年、村提供


日南市文化センターのモチーフは日南海岸の天然記念物「鬼の洗濯板」=宮崎県日南市


視察に訪れた男性に薪ボイラーについて説明する井筒耕平さん=岡山県西粟倉村

(田中啓介)



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★私ごときことではありますが、中国配電の元取締役の織田史郎さんの兄、織田幹夫さんは私がお世話になった大学の教授でもあった。
今から約50年前、織田教授の体育系理論の授業を受けて、その試験を受けた。

授業と言ったって、自分の競技者としての思い出話が60%で、残りの時間はそれなりのものだった。ユーモアに溢れた授業は楽しかった。

1,2年生の時はキャンバスの全部がロックアウトしていたので、まっとうな授業は受けていない。
だから、3,4年生のときのことだろう、試験の出来はどうだったのか、私自身でさえわからないが、何故か「優」をつけてくれた。
教授はサッカー部の理事でもあったので、答案用紙に「サッカー部です、いつも有難うございます」と記したのがよかったのだろうか!

広島県安芸郡海田町出身。
1928年、アムステルダム五輪で、アジア人としても日本人としても初めてのオリンピックで金メダル。
その後、彼のことを「陸上の神様」とか「日本陸上界の父」とか言われた。
早大時代に「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」と長すぎる競技名を「三段跳」と訳した。
彼の後、三段跳は1932年に南部忠平、1936年に田島直人が連続して金メダルを獲得した。


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2018年4月17日火曜日

散華(さんげ)  

先月、高橋和巳作品集6《河出書房新社》の「散華」を読んだ。
散華の読み方は「さんげ」。

先ずは散華とは何ぞやと思った。
いつものようにネットで調べてみる。
散華とは、ネット・ウィキペディアで花を散布すること。
仏教では仏を供養するために華を散布する。
また華を散らす意味から転じて、死亡すること、特に若くして戦死することの婉曲表現として使われている。
仏や菩薩が来迎した際に、讃嘆するために大衆や天部の神により華を降ろしたという故事にちなんで行われる、とあった。

昨年4月に「堕落」を読んでからの高橋和巳シリーズだ。
大学を終えて10年ほどした頃、シッチャ気(き)?になって読んだ。
シッチャ気って、俺の田舎の方便かな?と字引で調べたが、出てこなかった。
このシッチャ気は、標準語では「遮二無二(しゃにむに)」なのだろうか。
大学中は戯作文学類に酔っていたので、高橋和巳モノまで手を出すことはできなかった。
サラリーマンになって10年、高橋和巳作品集全9巻のうち6巻までを中古品で買うことができた。
7,8,9巻は私には難しかった。

「悲の器」「邪宗門」「我が心は石にあらず」「我が解体」「堕落」「白く塗りたる墓」を読んで、それから底知れずどっぷり嵌(はま)り込んでしまった。

友人と酒を飲んで読書の話をするときに、私は恥ずることなく、高橋和巳のことを話した。
私の傾向は、戯作文学から高橋和巳に移ったのだ。
純真、清純、清澄 反権力的な高橋和巳の信奉者になってしまった。
熱狂的なデカダン派だった私は、いつの間にか高橋和巳教に変わってしまったのだ。


★あらすじ
注=本書「散華」の文章から、多くそのまま使わせてもらった。それらをダイジェストして仕上げた。

電力会社の社員である大家次郎の仕事は、送電線設置に向けた地上げ交渉だった。
正確に言えば、用地の提供を渋る地権者に保証金を積んで翻意させることだ。
電力会社では、補償課長の西尾、補佐・大家および課員・水野の3名には、電線を将来架橋される自動車鉄橋に埋め込む可能性を考慮して、鳴門海峡ならびに明石海峡に張るべき電線の基点となる大鉄塔建設のための土地買収を命じられた。
大家次郎のことを、以後大家と称する。

この3人でまず造船会社をめぐって、将来建造されるべき最豪華客船の高さをはじめ、汽船会社で海峡の就航可能の幅を確かめ、本社に連絡して、予定鉄塔の高度・位置・底辺面積を再確認する。

仕事は土地買収のためのあわただしい出張だ。
頑迷な淡路島の*村の村会議員を相手に、鳴門海峡に面する丘陵の一画を買収する折衝は長引いた。
村役場のわきにある真言宗の寺院の一室に陣取り、一人ずつ交替に、3日間、村会議員と対面し続けた。

土地を提供することがこの僻地の発展にいかに貢献するか、日本最高の大鉄塔が観光資源としてどんなに膨大な利益を将来に約束するか、また国家的見地からも、この計画は早急に実現されねばならない、と訴えた。

夜、海浜の料亭に移され、芸者入りの宴会を行った。
そして課長が「どうやら大家君に2、3日、ロビンソン・クルーソーになってもらわにゃならんな」と言う。
それは、この孤島への出張のことだった。

どして、電力会社の大家は、孤島に上陸した。
老人が戦後にたったひとりで住みついた孤島は、大桑島の燐島を基点として、淡路島の東南端に架線する位置にある。

岩礁に腹ばいになって嘔吐せねばならなかった。烈しい船酔いだ。
胃液ばかりの嘔き物は、恐ろしく透明な海水が泡をたててさらっていった。
この孤島は、淡路島と四国の間をうずまく鳴門海峡のはずれ。
この島は目算で周囲ほぼ3キロ、激しく潮の流れる海峡に位置して3面はけわしい崖の断崖。

老人がいた。
彼の名前は中津清人だ。
これから、中津のことを老人と称させてもらう。
大家は老人に「こうして島の真ん中に立ってみると、わりあいに広いんですな」と言った。
瀬戸内の島の多くがそうであるように、島には男松が生え、中央部の平地が貧しく開墾されていた。
芋と南瓜、わずかな野菜。島の南端にある高みに2,3株の蜜柑。
縮れたいも蔓のあい間を野鼠が走った。
しかし、老人の肩の上の三毛猫は眠ったように動かない。

この老人、地上げのために向かった瀬戸内海の小島では、戦時中死の美学を唱(とな)え、戦地に向かう若者たちに影響を与えた国家主義の思想家。
特攻を煽動した思想家であった。
そのための罪悪感のために、世を捨て自給自足の隠遁生活を送っている。

大家はこの老人と話すことによって、長いこと忘れていた戦争中の記憶が蘇(よみがえ)る。
戦争中、家族を守ることになると信じて回転特攻隊に志願した。
小型潜水艇による自爆攻撃の訓練を受けていた。
偶然によって生き延び、戦後は火力発電の黎明期に電力普及によって社会の発展に貢献しようと生きてきた。電気会社の出世コースにも乗っていた。
結婚し子どももでき、家族旅行を楽しむ余裕も生まれた。

老人は人の顔を見ると涙の出るほどなつかしい。
君がどういう青年なのか、多少の予想がつく。
しかし、わしは一切の政治、一切の権力にまつわることどもから、はっきり自己流諦した人間だ。
老人は、17年前の、この国の亡国とともに亡(ほろ)びた男だ。

もうすぐ船頭がくるだろう。
三木と言う漁師だ。君のことは彼から聞いておこう。
第1回の訪島は完全な失敗だった。

ある新聞に、徳島と兵庫の県境になっている無名島に老人が住んでいるという記事があった。
大家は、沈み込むような老人の悲哀の表情を思い出した。
新聞社に勤める友人=野呂和義は、「戦争中、『八紘会』というのを奈良の方で組織していてね。その会は解散させられた」。
大家、「それは老人の著述の題名だ」。
野呂、『東洋の復活』『人間維新論』など、そして走り書きされた書名があった。
「それに、サンケの精神とあったが、そのサンケの精神って何だ」。
『懺悔(ざんげ)かな?』
『いや、散華だろう」』
『サンゲの精神?』って何だ?
そのような右翼関係の図書は、敗戦直後、直ぐに焚書された。
日本は戦後、歴史的な恥部の大抑圧をやった。
解明したんじゃなくて抑圧したんだ。


敗戦直後には、なぜ天皇の詔勅ひとつで、全戦闘員が一斉に闘いを静止したのかと、憤っていたこともあった。
いままでの犠牲はすべて無意味だったというつもりかと。
生き延びて帰還し、大学に入って左傾してからも、天皇制の崩壊は、8月15日の詔勅を聞いたときの、日本人の態度いかんにかかっていたのだと考え続けていた。

大家は一種の倦怠感のなかに沈み込んだ。
土地買収の交渉には、調査しておくことが有利なことは分かっていた。
だが、その老人の前歴をあかす端緒が見いだせた今、限りなくそれが億劫になったのだ。
ただ何となく、かかわりたくない、という気がしたのだ。

大家は戦時中の記憶をただ単に忘れていたのではない。
単に戦時中のことを忘れたのではなく記憶を抑圧してきたのだ。
終戦以前のことを忘れてしまわなければ、戦後という時代を生きてこれなかったのだろう。
勿論これは大家だけのことではない、日本人全体がそうしてきた。

高橋和巳は大家を特攻隊の生き残りとすることによって、彼を戦後日本人の象徴的存在とした。

しかし、そうした怒りも風化してしまっていた。
およそイデオロギー性を帯びる問題の一切から身をしりぞけ、自分を一介の技術屋として訓練しはじめてから、すでに10年余りの歳月がたつ。
一人の右派の思想家がなにかを悲しみつづけて、孤島にひとり隠遁している。
その男がそうしたいなら、そうさせておけ。
いま、おれ自身が一介の技術屋として会社のなかに『巷隠(こういん)』しているのと、それは同じことなのだ。

おれの前歴を表したくないように、あの老人も、その前歴は調べられたくないのだろうから。

そして、2度目の孤島を訪問した。
海には一面に細かい雨が降りそそいでいた。
大家は日常、元国家主義者との交流を求めつつも、自分の存在を耐え難いものに感じ始めた。
感覚的に感情的に不安なのだ。
もし彼が今の会社での、家庭での生活を続けようとするならば、自分の過去は封印したままにしておかねばならない。
頭の中がそんな状態では、日常生活が無理なのざ。

それとも、自分を過去へと連れ戻す老人の存在を消してしまわねばならない。
そんなことをやり切らないと、大家は生きていけないと考えた。
大家はこの男と対決して、自らの態勢を整え、そうして生きなければならない。

大家は老人と喋りながら奇妙な気がした。
彼にとっては、この老人を《招隠(しょういん)》すること、この老人が孤島の不十分な生活に嫌気がさし、絇爛たる都市の、たとえ消費文化であろうと享楽文化であろうと、それに好奇心をおぼえ、もう一度世に出てみたいという気にさせれば充分だった。

老人の顔に一瞬、何を憤るのか、ナイフを持っていた手が震えた。だが、その怒りはやがて悲哀の翳におおわれていった。

新聞社の小林利男は、老人のことを「ファシストさ」と、こともなげに言った。
「若いころは、いわゆる支那浪人でね。社会主義的傾向を持っていた」。
大政翼賛会ができたころには、しかし、社会主義的な側面を自己制御して、汎アジア主義とでもいうべきものをとなえだした。
階級矛盾と国家矛盾、それから先進資本主義と植民地の問題、それを混沌とした正義感のようなもので糾弾していたんだが、階級矛盾への矛先をふせたわけだ。

老人は日支事変中は、もたついていたが、大東亜戦争になってからは、息を吹き返し颯爽としだした。
戦中、中野正嗣が割腹したのと前後して、極端な破滅型の論理をふりかざしはじめた。
武士道の伝統をひく、死の哲学と言うものだろう。
老人が瀬戸内海の孤島に隠遁してしまったのは、自己満足というより、戦争裁判を逃れるためだったのではないか。

三度目の孤島を訪れたときのことだ。
大家は老人に対して、老人の前歴をある程度知っていることを告げ、なぜ隠遁したのかとその動機をたずねた。
「この島に隠遁した時、たしかに私は国家主義者だった。そして、ひとたび思想を思想として、他者に、とりわけ青年たちに説いた以上は、その説いたことに対して責任があると考えるゆえに、一切の公職、一切の社会的交わりから隔絶した」。
老人、「君自身はファシズムというものをなんだと考えているんだ?」。
大家、「そりゃ、資本主義の全般的な危機をきりぬけるための、反動独裁体制だろう」。

「狭い所だけど、あなたを私の家に一度招待したいような気がする」
正確に時間通り海峡にあらわれた連絡の小船を見ながら、大家は言った。
彼の任務は全然進捗しないままだった。

自宅に戻った。
出勤への電車中、3冊の本を表紙をなぜるようにして見た。
1冊は友人から送られた「労務管理」、1冊は翻訳されたばかりの「パーキンソンの法則」、いまひとつは小林から借りた老人の「人間維新論」だった。
結局かれは「人間維新論」のページをくった。
強い反発と索引、そしていつ背中から号令をかけられるかもしれないようなやりきれなさに困惑しながら。
「人間維新論」の書き出しは、「世界史が世界精神の合理、必然的進行であるなどと誰がいうのか。それはただ視ることのみを知っていて、行為することを知らず、悲しむことは知っていても激怒することをしらぬ机上の空論家の倨倣にすぎないのだ」。

老人。
人間における最高の意志は、動物が快を求め苦痛を本能的にさける、その本能の必然からも自由であろうと欲するところから生まれる。
いや、むしろ自己の意志を証明せんがためには苦痛すらあえて求めることに、人間の人間性がある。
発展とは苦痛への意志であり、歴史とは恨みの克服なのである。
一般的な意志哲学から、やがて個人の超越の哲学が説かれ、つぎに死してのち生まれいでよという、起死回生の哲学へとそれに進展する。
結論を早く読みとろうとする大家の目に、その性急さをとがめるように、苛立たしい言葉の断片が飛び込む。

老人は言った。
「革命とは国家の存亡の問題であり、人間維新は各人の存亡の問題である。座視して死を待つか」
「社会主義は社会への奉仕を説く。ロシアのニヒリストすら、社会のためには命を賭した。いま、日本の青年たちに課せられた任務は、横の世界ではなく、縦の社会、きたるべき日本の将来のための血の献身である」。
大家は一字一字を追うのはたえがたかった。

かって、青春の初期に自らを支配した情念の亡霊と対面せねばならなかった。
彼は、自身を追求することを怠った。
その怠慢の罪に、いま問われようとしている。
狼狽しながらおそるおそるいま考えねばならない。

特攻精神を嘲笑した日本の戦後の知性には、ニヒリストの運動を媒介せねばならぬ革命というものは、ついに理解しえなかったのだ。
大家が特攻隊に志願したのは、この老人の思想の影響を受けたわけではなく、ただ家族を守りたいという思いからである。

大家は老人との会談で、潮干狩に時を忘れ、翌朝まで海峡を渡ることはできなかった。
掘建小屋の片隅に藁と莚(むしろ)をしき、コートを羽織って横になった。

老人は支那浪人時代の思い出話をかたっていた。
その時期がおそらく彼にとって、無垢な、それゆえに回想して楽しい唯一の時期なのだろう。
上海の陰謀家とか、北京の買弁団とか。
老人は中国のいわゆる辛亥革命の際に、上海から南京、南京から漢口へと、一種の義勇軍として革命派の軍事行動に参加していた。
老人は日英同盟にうたわれた〔支那保全〕と信じていたが、日本政府も黒竜会もほんとうは、支那保全のために動いていたのではなかった。

老人は、若者を死地へと促した大家の戦時中の言論活動を批判する。
だがこの批判は、老人にも裏返しで批判されたことでもある。

そして、電力会社では、大家のやっている孤島での交渉について激しい求められることはあったが、大家には何も応えるものがなかった。

そして大家は島の入江の、ゆっくり渦巻く海に体を浮かべていた。
ふいと大家の体が回転し、激しい勢いで流された。流される速さが激しく、助けてくれと思った。
そして老人は大家の背後から両腕をとり、はがいじめにしていた。活を入れられたらしかった。

老人は大家のために煮た芋粥を一緒にすすりながら、敗戦当時のことを話し始めた。
大家は老人に対して、「インター・ナショナリズムというものを、観念としては、相当に理解していた。敗戦後、学校に復帰してからのことですがね」。
老人は、「熱烈なナショナリストだったさ」。
「国家ーーーー。現実的にいって、それがすべての問題の集約点だったからね。米騒動や農民一揆が頻発し、兵士たちの父母兄弟が飢えるのをみて、私は日本の国体の変革を考えた。そのころにはマルクスの著述も読んだ。しかし、日本のプロレタリアートにはまだ力がなかった。真に組織されているのは軍隊と官僚だけだった。わたしはその軍隊に期待した」。

「しかし、そこからどうしてあなたの散華の思想がでてくるのですか」。
老人は目を見張り、表情にゆっくりと亀裂が走る。
「わたしには、何もできぬーーーー。国家主義者にとっては、その国の文化的伝統が、つまりは精神が唯一の拠りどころだ。それゆえにわたしはそれを説いた。だが、わたしは、わたしが期待をかけた兵士たちと運命をともにしなかった」。

「わたしが、あなたにここを出てもらいたいと思っていることは事実です。またそうすすめることがわたしの任務でもあります。しかし、その理由は別な理由なのです」。
「どういう理由か」。
「権力や政治にまつわる団体の要請によってですーーー」。
「わしは一切の社会と絶滅している。そんな義務はない」。

「かってあなたが死ねとすすめ、そして自らも捨石になろうとして、あるいは実際に死に、あるいは生き残った亡霊の一員として、あなたを八つ裂きにしたいほどの憎しみすらもっていた。
一皮はげば、あなたを抱きしめてしまうかもしれない奇妙な憎しみを。
ただ扇動しただけであり、見ていただけであるゆえに、苦しむことも死ぬことも、心を襤褸(ぼろ)のようにもみくちゃにされることもなかったあなたを、少なくともわたしたちは殴りつけ、たたきのめす権利がある」。

「帰れ!」と老人はしぼりだすように言って、囲炉裏の灰を蹴ちらした。

老人は、どこに隠してあったのか、いつしか日本刀を持って大家の前に立ちはだかっていた。
じりじり戸口から戸外へ後退する老人に向かって、大家は鉄瓶を投げつけた。
老人は顔の半分を熱湯でただらせ、自ら耕した畑の中をころげまわりながら号泣していた。
刀は空しく水槽につかって光っていた。
さて、元国家主義者と対決した後、大家はこの瀬戸内海の小島の地上げ案件からは手を引く。
批判され、自責の念に駆られた元国家主義者・中津は結局自殺する。


さて、元国家主義者と対決した後、大家はこの瀬戸内海の小島の地上げ案件からは手を引く。
電気会社の大家は、何事もなかったかのように元の会社員生活、家庭生活に戻る。

冬、高圧線が具体化への一歩を踏み出し、測量班が具体化への一歩をふみだし、測量班が、鳴門海峡の無名島に上陸した。
測量班が無人島だと思って上陸したその島に崩壊寸前の掘建小屋があり、しかもそこに、半ばミイラ化した老人の死体を発見したしたからだった。
野呂は、大家が一時、老人にかかわっていたことを記憶していて、彼のところに記事を取りにきた。
大家はしかし、何も知らないと言い通した。

空と溶け合う青い海。
命を産み出し、命が戻って行く海。
65年前の海。