2020年5月6日水曜日

総持寺のことこの人に聞け



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ライター:河野 哲弥

總持寺のことなら、この人に聞け!



鶴見区鶴見にある總持寺(そうじじ)は、全国に約1万5000寺の関連寺院を持つ、曹洞宗(そうとうしゅう)の大本山である。
しかし、現在の地に移転してきたのは、1911(明治44)年のこと。
それまでは、石川県の能登地方にあった。

さて、移転の経緯について同寺へ取材を申し込んだところ、宗門代表の管長は一定の期間で交代するため、当時の様子を直接知っているわけではないという。
「鶴見区文化協会に詳しい方がいるので、そちらに聞いてみては」とのこと。
 

ということで、同協会の齋藤美枝(さいとうみえ)さんと總持寺で待ち合わせ
 
この齋藤さん。受付に挨拶すると、まるで我が家のように總持寺について詳しく説明してくれた。
それもそのはず。

齋藤さんは、移転100年を記念して出版した『鶴見 總持寺物語』の著者であり、總持寺研究の第一人者といっても過言ではない方なのだ。
普段は、同寺のボランティアガイドなども務めているという。
 

頂いた著書や資料など
 
齋藤さんは、今までの研究を振り返って、「ここは修行の場なので、誰も總持寺が鶴見に移転してきた経緯などについては詳しくないようです。

だから、全国の関係寺院に直接伺ったり、資料を細かく付き合わせたりしながら、長い時間をかけて一つ一つ明らかにしていきました」と話す。

顔パスなのもうなずける。

もう、齋藤さんに全てお任せしちゃうことにしよう。
まずは、非公開部も含めて、總持寺とはどんなお寺なのかを、説明していただくことになった。

「単位」の語源ともいわれる、僧侶の修行の場



そもそも曹洞宗とは、1226(嘉禄2)年に帰国した道元(どうげん)禅師の「教え」を後に体系化したもので、いつごろ始まったものなのかは定かではない。
ただし道元は1244(寛元2)年、現在の福井県吉田郡に、修行道場ともいえる永平寺を建てたと伝えられている。

一方、道元禅師から数えて4代目にあたる瑩山(けいざん)禅師は1321(元亨元)年、石川県にあった諸嶽寺(しょがくじ)を諸嶽山總持寺と改め、曹洞宗の礎を築いた。
そのため、この二寺がともに、曹洞宗の大本山となっているようだ。
 

曹洞宗では、この二者を「両祖」としている(總持寺のサイトより)
 
時は下って、1898(明治31)年。

後者の總持寺は大火災に遭い、投稿にあったように、鶴見へ移転することになった。
その理由と移転前の様子が今回の主眼なのだが、今は、ずんずん進んでいく齋藤さんの後を追うことにしよう。
 

まずは「大僧堂」へ

さて、禅宗の特徴は、「坐禅」に代表されるような僧の厳しい修行にある。
ここ「大僧堂」は、まさにその道場となっている。
隣接する衆寮(しゅりょう)では坐禅体験も行えるそうである。
 

畳約一畳のスペースが各僧に与えられる
 

寝起きや食事もここで行う
 
齋藤さんによれば、このスペースは「単(たん)」と呼ばれ、学校などで用いられる「単位」の語源となっているとの説も。

この木の部分は、各僧が食器や枕などを置く神聖な場所であり、絶対に触ってはいけないとのこと。ちなみに、各僧が「単」に上がるときは、ここを飛び越えるそうだ。


 

 

移転の歴史を説明するパネル展示は、非公開部分に


 
次は、本堂(佛殿)の隣に位置する「大祖堂(だいそどう)」へ。
1965(昭和40)年という比較的最近の完成となるが、比喩ではなく実際に「千畳敷」を誇る、巨大な建築物である。
この地下に、今回の投稿に対する答えが隠されていた。
 

佛殿の真下を通る地下廊下を抜け、図の右上へ移動
 

年表と写真を使ったパネル展示が出現した
 
これによると、移転前のこの場所には、同じ曹洞宗の「成願寺(じょうがんじ)」が建てられていた模様。

ちなみに同寺は、現在の場所、總持寺の東端に移設された。
 

移転前の現在地の様子
 

齋藤さんの『鶴見 總持寺物語』からも一部拝借
 
齋藤さんによれば、能登の總持寺が火災に遭ったのを機に、関連寺院から「交通の便が良い関東に移転しては」という要望が上がったそうだ。

こうした声を受け、千葉や八王子などの候補地の中から、高台にあって四方を望める「鶴見ヶ丘」に白羽の矢が立ったという。

その理由としては、当時は陸路だけでなく、海路も重要な交通手段であったから。

横浜港に近い鶴見は、その後に行われた移転工事に際し、資材を運ぶのに便利だったのである。
関係者や参拝者の利便は、言うまでもない。

一方、当の「成願寺」は、このプランに賛成したのだろうか。

ここは、齋藤さんの著書を引用することにしよう。
いわく、「来たよ!(總持寺)」「わかっている。よろしい(成願寺)」の二つ返事だったそうだ。
 

『鶴見 總持寺物語』より、原典は『鶴見ヶ丘』という歴史書
 

移転に尽力した石川禅師の肖像画が飾られる、「紫雲臺(しうんたい)」の様子
 
またその背景には、当時の京浜電鉄(現京浜急行)社長、雨宮敬次郎氏の進言もあったようである。

本格的な門前町ができることによる経済効果を考えてのことだったのだろう。
ちなみに、かつて存在していたこれらの町並みは、電鉄各社の線路拡張工事によって、その姿を消すことになった。このため現在では、付近に土産物店などがない、全国でも珍しい景色が広がっている。
 

鶴見駅と国道駅の間には、「本山駅」もあった
 
それにしても、なぜこのような貴重な資料が、非公開の場所に飾られているのだろう。
齋藤さんよると、2013(平成25)年の「つるみ夢ひろばin總持寺」では、公開したとのこと。

これだけのパネルを飾ることができる場所が見つからず、今に至るらしい。

「多くの方にご覧いただきたいたいので、何とかしたいとは思うけど」と、各方面の調整やスペース確保の難しさに、頭を悩ませているそうだ。

開かれた總持寺を目指して



こうした中、總持寺や齋藤さんら鶴見区文化協会が取り組んでいる、新たな試みもある。
總持寺が行う「諸堂拝観」は、各日10時、11時、午後1時、午後3時の4回、1時間程度の内覧を行うもので、特別な行事がある場合は拝観中止となる。
なお、「大祖堂」の展示パネルも内覧コースには含まれている。

また、毎年11月3日(祝)文化の日、總持寺の境内を舞台として催されるイベントが、「つるみ夢ひろばin總持寺」。
ステージパーフォーマンスや特別展示、東日本大震災被災復興支援や輪島市を含む各種物産展などが登場。
こちらも見逃せない。
 

2013年の同イベントチラシ
 

5万人余の人出でにぎわった「つるみ夢ひろばin總持寺」(2013年)
 
「總持寺」というと、開かずの踏切や盆踊りのイメージが強く、そのほかのことについてあまり知らないという人も多いのではないだろうか。

上述の試みは、曹洞宗が選んで移転してきた鶴見の街と、その歴史に触れるまたとない機会でもある。ぜひ、参加してみてはいかがだろうか。


―終わり―

2020年5月4日月曜日

串焼/祭りばやし

3月の上旬。
早稲田大学ア式蹴球部の後輩たちとの飲み会を、栃木県小山(おやま)駅東口より3分ばかりの所にある後輩の立派な居酒屋で行った。
その店の名前が、「串焼/祭りばやし」だ。
3月の終わりには、東京と神奈川、千葉、埼玉、山梨の1都4県が、不要不急の外出自粛するようにとの共同メッセージが発表された。

新型コロナウイルスの感染者が拡大している地域に緊急事態宣言が発令されれば、現在行われている知事による市民の外出自粛要請に「法的根拠」が与えられることになる。
そんな折、3月の上旬に栃木に行ったとあっては、批判が出てきそうなので、心を鬼にして行った日付を本日まで明記しなかった。
横浜駅から乗客が少なく且(かつ)トイレに近い車両に、マスクをつけて窓際の席に座った。
前の席には後輩の小さん。
大学時代に日本代表のメンバーに選ばれ、卒業後日立製作所に入社。
5,6年日立に在籍、その後は神奈川県の公立高校の教諭を2,3年前まで勤めていた。
先生として逗葉高校を全日本高校サッカー大会の神奈川県代表として出場した、この会では立派な成績をおさめたことに私は現(うつつ)を抜かし、夢を見ているような気分で応援した。
そのチームのメンバーの一人が私の息子の勤めている会社に特別の推薦で入社した。
これも、縁のあることだと嬉しかった。
取り合えず乗客と接しないこと、それ以外はひたすら窓外の風景を眺めていた。

この自粛のメッセージが出るまでは、東京都の小池知事などは3密主義を唱えていた。
その3密主義とは、人々が密閉、密集、密接することを避けようということだ。
この3つの条件がそろう場所では、クラスター(集団)発生のリスクが高くなって、感染を少なくするために今こそ厳守したいとのことだ。

横浜駅13:52発。
小山駅には15:41着。
JR湘南新宿ラインなら乗り換えなしだ。
横浜駅で、幹事の小さんと合流。

テレビや新聞では首都圏で増大する新型コロナウイルスについて、恐れ多き事態を避けるための方策、それに対する住民の理解を得るための工夫に躍起だ。
そんな矢先に、栃木の小山駅に宮城県のサさん、湘南地区から私と小と田さん、地元出身の松っちゃんが集まろうというのは、余りにも意識や常識不足なのだろうか。

総勢6名、私と田さんが一番の老齢になろうか。
このグループは毎年場所を変えて他チームと親愛溢れるサッカーゲームをして、その後は風呂に入って、飲めや歌えの宴会を只の1万円ばかりで豪華に行うのを恒例にしている。
今回はそのグループのうち3分の1が集合したことになる。
試合に関しては30年ほど前には参加したことはあったが、その後酷い腰痛に悩まされ試合には遠ざかり宴会だけの参加、皆の豪放磊落な宴それだけを楽しむだけだった。
そして、前回の開催については、ゲーム・宴会には会社の都合があって欠席してしまった。
ところが、1か月ほど前に小さんから突然、この度の催しの案内が来て、私は何の躊躇(ためら)いもなく参加することの返事をした。
だって、懐かしい面々と会って懐かしい昔話や今の様子を話し合える。
有難いことに、首都圏からちょっとばかり遠のいた栃木の小山駅だ。
文句なんてありっこないだろう。
これが東京のド真ん中ならば、この馬鹿げた私だって出向くことはなかった。

下の写真その他は、後輩のお店のホームページから抜き書きさせてもらった。
このブログを読んだ人で、この地を訪ねるような機会があったならば、どうかこの店を利用してください。
店長さんなのか社長さんなのかよく聞かなかったけれど、店員の誰にでもいいから、私の名前・横浜のヤマオカの知り合いだと言ってくださいな。
必ず、何かの勉強をしてくれる筈だ。
地酒と焼酎と焼き鳥が自慢のお店。ランチ限定の黒カレーは是非一度お試しあれ!

この「祭りばやし」の社長さんは私より2年後輩、猛烈に優秀な選手だった。
私には他人の技術や体幹について、何も話せるほどの能力はないが、私には素っ飛び級の人物だと思っている。
前に進むのも後ろに戻るのも、ジャンプしながら次のプレーに移るのも、恐ろしく俊敏だった。
早稲田大学を卒業して日本サッカーリーグでは日立製作所でも、並外れた貢献をしてみせた。
この男の根織り羽織りの詳細については、話す機会が必ずあるから、そのときまでお待ち下され。
そんな男が身を張って生きている店に行くなんて、願ったり叶ったり。

何故、私は私よりも5年以上も後輩と仲良くしているのか?
それには、それなりの理由がある。
私は、基礎技術も体幹も皆と比べて著しく乏しいのに、関東の大学でも指折りの大学にどうして入部し、懲りなく練習に励んだのか?
父母に大学での4年間の生活費から授業料まで相談したことがなかった、と同時にお世話になろうとは思わなかった。
人並み以上に貧しかった訳ではないのに、何故そうなったのか。
結論的にはいつの日から、自らの生活や学業だって、自らの力で押し切るものだと思い込んでしまったのだ。
だから、2年間の浪人生活で得たものは、学業に必要な知識ではなく、大学での4年間の生活費と学校に納めなくてはならない授業料だった。
稼いだお金は、280万円だったのか380万円だったのか、記憶にはない。
そのお金を農協貯金にして、通帳を母に印鑑と合わせて渡した。
毎月、郵便局に行って現金書留にして送ってもらった。
その郵便局で母のお手伝いをしてくれたのは小中同級生の福さんだった。
秘密事項に係るものなので、彼女に同窓会でお会いしても、にっこり笑ったまま、私はにっこりお礼をしている。
そんな男にとって、技術力にしても日本のサッカー界のザ・ファーストを目指している大学での4年間は凄まじく厳しいものであった。

そんなヤマオカの体幹はどうしょうもなく貧困だったけれど、脳幹の一部についてはどうしても満たされない部分、未分化的なものが冷めやらなかった。
体育局スポーツ部の所属選手としては、珍しく欠陥人間だった。
4年間の部生活で得たものは、サッカーに対する技術でも体力でもなく、満たされない不満足な只の男だった。
能力の余りにも足りない選手だった、これが一番解り易い言い方だろう。

そんな人間として不思議な程情けない男に、爽やかに注入してくれたのは彼らの端(は)ぐれのない人間愛に満ちた友情だったのかもしれない。
私にはビタミンのような、効き目が好く味わい深い薬のようだった。
足りない所に注入されたものが、文明的と呼ぶ人が居るかもしれないが、私には文化的なものと理解した。
味な物、それをフィロソフィーと言えば難しく思われるが、哲学と言えば多少解るような気がする、文化的な想いと言う奴が居るかも知れない。
私にはその分解はよくできないが、心が休まったことは確かだ。
頭脳の7分目が欠けていたと言えば、もっとハッキリする。
頭脳の7分目が欠けた人間が、この欠落人間のままでは生きていくのだけでも辛く思うことがあった。
そして、卒業して3,4年して後輩たちの対外試合を観に行って、不思議な錯覚をフラフラに感じた。
これで、助かったのだ。
彼らがあれ程苦しい試合をやった筈なのに、負けても勝っても、チームとしての並外れた爽快感は、私が今まで味わったことのない「初」モノ快感だった。

それからの私の心眼(しんがん)は、彼らの生身の心身にどっぷり嵌(は)まってしまったということ。
それからの、掛け替えのないお付き合いになってしまった。


パーティ・宴会シーン
お店の詳細情報

このお店をおススメする、3つのポイント

祭りばやし 小山店のおすすめポイント1

ランチ限定!黒カレー

じっくり炒めじっくり煮込んだ手間暇かけた黒カレーまた食べたくなる深い味。他に日替ランチや昼呑みも歓迎
祭りばやし 小山店のおすすめポイント2

カウンターで気軽に飲める

各地のこだわりの焼酎と日本酒の品ぞろえが豊富。地元「小山」の地酒も楽しめる。楽しい会話にうまい酒!
祭りばやし 小山店のおすすめポイント3

駅近だからふらっと寄れる

徒歩3分と駅から近く、飲みたくなったら会社帰り等でもふらっと寄れる。仲間とでも一人でも気軽に行ける。

店長のおすすめ料理

焼き鳥Aセット♪

祭りばやしといえば焼き鳥! 甘み・コク・歯ごたえが特徴の地鶏串、ネギ間、砂肝、つくね、皮、季節の野菜など(7本)。その他Bセット(15本)2000円、Cセット(20本)2500円
950円
祭りばやし 小山店のおすすめ料理1
祭りばやし 小山店のおすすめ料理2

天然霜降り馬刺し

常連さんにも大人気の天然霜降馬刺し!馬レバー刺しも絶品(1,300円)
950円
祭りばやし 小山店のおすすめ料理3

まぐろの山かけ

新鮮なまぐろにとろとろの山芋をかけた定番商品!
540円

アラカルト料理

料理メニュー写真 【人気商品】さつま揚げ(鹿児島産)/厚揚げおろしのせ

【人気商品】さつま揚げ(鹿児島産)/厚揚げおろしのせ

ナンピザは630円になります。
490円/480円
料理メニュー写真 【刺身】 マグロの山かけ/しらすおろし

【刺身】 マグロの山かけ/しらすおろし

人気のマグロの山かけ!
540円/380円
料理メニュー写真 【揚げ物】 海老マヨネーズ

【揚げ物】 海老マヨネーズ

女性に人気の海老マヨネーズ
650円
料理メニュー写真 【野菜】ネギ串/椎茸串/椎茸チーズ串 各1本ずつ

【野菜】ネギ串/椎茸串/椎茸チーズ串 各1本ずつ

銀杏串 3本 【380円】
210円/260円/320円
料理メニュー写真 【盛り合わせ】 Aセット(7本)

【盛り合わせ】 Aセット(7本)

【Bセット(15本)2000円】 また 【Cセット(20本)2500円】
950円
2019/05/09 更新
※更新日が2019/09/30以前の情報は、当時の価格及び税率に基づく情報となります。

お店のこだわり 料理について、お店のこだわりをご紹介します

大人気☆黒カレーランチ

大人気☆黒カレーランチ

じっくり炒めてじっくり煮込んだ手間暇かけた黒カレーは、チキンとポーク、そしてトッピングもあるのでお好みのカレーにカスタマイズ可能!ランチはこの一品のみ。また食べたくなる深い味でリピーター続出!
自慢の焼き鳥

自慢の焼き鳥

祭りばやしなら焼き鳥、創業20年の居酒屋です。店長こだわりは、厳選した食材と秘伝のたれで評価を得ております。新鮮なセットをご注文下さい。(鶏肉から豚肉までバリエーションを楽しめます)♪
4種類のコースがあります
このお店のクーポンと地図を見る
クーポン&地図を見る

こだわりの空間づくり

  • 座敷 
  • 掘りごたつ 
  • 雰囲気自慢
落ち着いた空間。少数で鍋を囲むもよし、みんなでにぎやかに宴会もよし。人数により襖やスクリーンで仕切りも可。
祭りばやし 小山店の雰囲気1
祭りばやし 小山店の雰囲気2
  • 個室
少人数でゆっくり飲みたいときはこちら。6席と10席の個室がある。お酒もお料理もゆっくり楽しめる雰囲気。
祭りばやし 小山店の雰囲気3
  • 雰囲気自慢
フレンドリーなカウンター。気さくで明るい評判の店長さんが迎えてくれる。一人でも気軽に飲める。

お席

お一人様でも安心のカウンター席です。

カウンター

1名様
お一人様でも安心のカウンター席です。
6名様掛けの個室がございます。このほか、10名様掛けの個室もございますのでお気軽にお問い合わせください。

個室

6名様
6名様掛けの個室がございます。このほか、10名様掛けの個室もございますのでお気軽にお問い合わせください。
お座敷席は仕切りを外して人数に応じてお席をご用意いたします。

座敷

6名様
お座敷席は仕切りを外して人数に応じてお席をご用意いたします。

設備

いらっしゃいませ!「串処 祭りばやし 小山店」です!
いらっしゃいませ!「串処 祭りばやし 小山店」です!
どうぞ、お好きな席でゆっくりしていってくださいね!
どうぞ、お好きな席でゆっくりしていってくださいね!
お昼にご来店頂くと、大人気の黒カレーがお楽しみ頂けます。
お昼にご来店頂くと、大人気の黒カレーがお楽しみ頂けます。
夜は居酒屋となり、美味しい焼き鳥がお召し上がりいただけますよ♪
夜は居酒屋となり、美味しい焼き鳥がお召し上がりいただけますよ♪
お食事に合うお酒も豊富にご用意してます!
お食事に合うお酒も豊富にご用意してます!

お店のこだわり 雰囲気・内装について、お店のこだわりをご紹介します

個室あり

個室あり

少人数でゆっくりお酒を楽しみたい時は個室のお席もどうぞ。6名様・10名様の個室がございます。人気のお席なので、ご希望の場合はお問い合わせください。
落ち着いた雰囲気

落ち着いた雰囲気

お座敷のお席もあるので、大人数の宴会にも対応可能!人数に応じて仕切りで区切る事ができるので周りを気にせずお食事が楽しめます。
4種類のコースがあります
このお店のクーポンと地図を見る
クーポン&地図を見る

心をこめたおもてなし

ネット予約もどうぞ

ネット予約で事前にお問合せいただくことができます。ホームページ上でゆっくりとメニューを見ながら予算やシーンに合わせて予約できるので、当日スムーズに食事をすることが可能です。またリクエスト予約や要望が相談できるのもネット予約の嬉しいサービスです。
ネット予約もどうぞ
お得なクーポン配信中!

お得なクーポン配信中!

お得なクーポンを配信しております♪10名様以上の宴会コースご予約でサービスが受けられるクーポンがございますので、ご予約の際にクーポン利用の旨をお伝えください。このチャンスお見逃しなく…!



2020年4月2日木曜日

猿橋勝子という生き方

2020・3・22の天声人語では、地球化学者の猿橋勝子氏と地震科学者の石田瑞穂氏さんを登場させた文章だった。
両氏は、地球化学者と地震の科学者だった。
そこで、この天声人語を転載させてもらうことにした。

問題の猿橋勝子さんのことは、ずうっと以前にテレビのクイズ番組で、氏の功績をいくつか挙げられ、さて、この人は誰でしょうという質問があって、それに対する答えを求めるものだった。
回答者はタレント10人ほどいた。
私にとっては何等知識の滓(かす)さえも無く、気楽に棒に振って違うことを考えていた。
正解はある人が得て、その回答者の口から出た「猿橋勝子」という人名だけを憶えた。
初めて耳にした女性の名前だったことに、心の中に仕舞い込んでいた。

心身ともに体育局スポーツ系の私だから、その系統の人ならば人並み以上の知識はあったけれど、科学者・化学者の分類には厭(あ)きれるほど脳足りんだ。
そんな人物だからだろう、女性の化学者の名前なんて知る由もなかった。



★天声人語
ーーーーーーーーーーーーー
ひとりの女性のはなし。
地球化学者、猿橋勝子。
すぐれた女性科学者をたたえる猿橋賞の創設者だ。
2007年に87歳で亡くなった。
今日はちょうど彼女が生まれて100年にあたる。

雨はどうして降るのだろう。
窓のしずくを眺めながら、そんな疑問を抱く子どもだったそうだ。
高等女学校を出てもさらに進学する女性が限られた時代。
帝国女子理学専門学校で物理を学び、気象研究所に勤めた。

その名を世に知らしめたのは1954年、ビキニ環礁での米国の水爆実験による第五福竜丸事件。
猿橋は海水に「死の灰」がどれほど含まれるかを調べたが、これを認めない科学者がいた。
「女だということでなめられた」。
ひとり渡米して測定精度を証明してみせた。

女性は博士号をとっても「添え物」にされている。
そう訴えて差別に憤然と異をとなえた。
「反発だけでなく、科学者として役に立ちたいとの強い思いからだったのでは」と猿橋賞の受賞者で、日本地震学会の初の女性会長を務めた石田瑞穂さん(76)は話す。

そんな女性科学者に厳しい時代はすでに過去のものになったのか。
残念ながら、医学部の入試差別などを猿橋が聞いたら「きっと怒り狂っていると思いますよ」と石田さん。

ノーベル賞を2度受賞したマリー・キュリーは科学者を「おとぎの国への旅人」と例えた。
きょうもどこかで、未来の旅人たちが「雨って何だろう」といった疑問で頭をいっぱいにしているのを想像する。
彼らの旅に男女の壁はいらない。



★その肝心要(かなめ)の猿田さんてどんな人なのだろうか?とネットで調べてみた。そしたら、以下の文章を得たので、ここに掲げさせてもらった

略歴
東京府立第六高等女学校(現・東京都立三田高等学校)を経て、帝国女子理学専門学校(現・東邦大学理学部)を卒業。中央気象台研究部(現・気象庁気象研究所)で三宅泰雄の指導を受けた。
1954年ビキニ事件におけるいわゆる「死の灰」による大気・海洋汚染の研究以後、三宅と大気及び海洋の放射能汚染の調査研究を行い評価された。
その研究成果は1963年部分的核実験禁止条約成立に繋がった。
1957年、東京大学理学博士「天然水中の炭酸物質の行動について」。
 1958年に設立された「日本婦人科学者の会」の創立者のひとり。
1980年、女性で初めて日本学術会議会員に選ばれる。
「女性科学者に明るい未来をの会」を設立。翌1981年エイボン女性大賞を受賞。
1985年、「放射性及び親生元素の海洋化学的研究」によって日本地球化学協会から第13回三宅賞を受賞。
1993年、「長年の海水化学の進歩への貢献」によって日本海水学会から田中賞(功労賞)を受賞。
猿橋賞」に名を残す。
平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)世話人も務めた。
2007年9月29日間質性肺炎のため東京都内の病院で死去。
87歳没。

海洋の放射能汚染調査

1960年、カリフォルニア大学サンディエゴ校スクリップス海洋研究所Scripps Institution of Oceanography)のセオドア・フォルサム博士(Theodore Robert Folsom)らは、南カリフォルニアの海水中のセシウム137の濃度をネイチャー誌に発表した。
一方、三宅、猿橋らは日本近海におけるセシウム137の濃度を報告し、その値はフォルサムらの報告した値よりも10~50倍の高さを示した。
三宅、猿橋らは日米における測定値の差を海流の解析によって説明したが、海水で希釈されるので放射能汚染の心配はないとして核実験の安全性を主張していたアメリカを初めとした科学者からは猿橋らの測定を誤りだとして批判が起こった。
そこで、三宅はアメリカ原子力委員会に同一の海水を用いた日米の相互検定を申し入れ、1962年から1963年の間、猿橋は放射能分析法の相互比較を目的としてスクリップス海洋研究所に招聘され、フォルサムとの間で微量放射性物質に対する分析測定法の精度を競うこととなった。
猿橋の分析は高い精度を示し、フォルサムは猿橋の分析を認め高く評価するようになり、日米の測定法の相互比較の結果は共著として発表されることとなった。

「猿橋勝子という生き方」米沢富美子著

2009-07-04 19:35:56 | Book
1979年1月31日の参院本会議で、時の総理大臣・大平正芳は、市川房枝女史に問い詰められた。
「総理はお嬢さんに、昔から『おなごは勉強せんでいい。可愛い女になれ。そして早くお嫁に行きなさい』と言っておられたそうだが、今もそのお考えか。もしそうなら、婦人問題企画推進本部長は落第だと申し上げざるを得ない」
今年の父の日に寄せられた読売新聞、橋本五郎編集長が紹介していたこの挿話に、私は亡き祖母を思い出した。
勉強なんぞ全く無縁だった私が、所謂進学高校に入学して授業についていくのが精一杯だった頃、祖母は心配して田舎に行くたびに「女は器量が大事。勉強はそろそろ(少し)でよい。めがねをかけたおなごはおいねえ」と孫娘を案じていた。大学に進学して身長が160センチをこえると今度は「大女は嫁のもらいてがなくなるから、臼を背負わせようか」と、またまた心配した。いくらなんでも、相撲取りでもあの臼を抱えられないよ、おばあちゃん・・・。祖母は、10代で祖父と結婚して農家の後を継ぎ、百姓仕事のかたわら次々と6人のこどもを産み、私をはじめ多くの孫にも恵まれた。祖母は運もよく、幸福に恵まれた人だったと思うが、遠い時代の田舎に生きたひとりの女性としての祖母の人生を考える時もある。
猿橋勝子さんという地球科学者がいた。1920年生まれで祖母とほぼ同世代。女性に大学の門が閉ざされていた時代に、一旦は就職しながらも学問への夢をあきらめきれず、41年創立されたばかりの帝国女子理学専門学校(現 東邦大学理学部)に、物理学を学ぶために一期生として入学した。本書は、女性が理系の研究職に進むことすら困難な時代に、海水の放射能汚染や炭酸物質の研究で世界的な業績をあげ、後年は女性科学者を励ます「猿橋賞」を創設した猿橋さんの軌跡を、「非結晶物質基礎物性の理論的研究」 で第4回猿橋賞の受賞者であり、女性の物理学者の先駆者でもある米沢富美子さんによる評伝である。

プロローグは怪獣映画でおなじみの『ゴジラ』製作誕生のきっかけになった、日本の遠洋マグロ漁船・第五福竜丸が1954年に太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁における米国の水爆実験の被災を受けた事件である。著者は、物理学者らしく冷静に爆心地から東京と静岡間の距離がありながらも、さまざまな抵抗を受けて減衰しながら8分かけて進んだ音波が「地を揺るがすような轟音」となって第五福竜丸を襲った事実を、「想像の域を超えている」と感想を述べている。船には、白い灰がまるで雪のように降り積もった。後に「死の灰」と呼ばれるようになる放射能で汚染されている粒を分析して、この粉のような白い灰が一瞬にして粉末にまで破壊され富士山の10倍の高さまで巻き上げられて散ったサンゴ礁だということを解明したのが、猿橋勝子だったのだ。やがて、ビキニ水爆で生成された高濃度の放射性物質は、日本近海にまで及ぶようになあるが、米国は断固としてこれを認めない。猿橋は、日本の科学技術の威信をかけ、米国カルフォルニア大学のスクリップス海洋研究所に就き、海水中の放射能物質の分析の精度が、どちらが高いか競うことになった。勝敗は、放射能汚染、ひいては核実験の危険性を問う日米の争いである。ここで証明されたのは、微量分析の技術では、猿橋は世界のトップクラスということだった。

研究者には、独創的な発見をするタイプと、こつこつと地道な実験結果を緻密に積み上げるタイプがいる。猿橋は、後者である。学生の理系離れが心配され、特に日本では理系で活躍する女性研究者はまだまだ少ないが、実はこういった研究職はむしろ女性に向いていると思う。猿橋は、厳しくも研究者として彼女を導いた三宅泰雄という恩師にも恵まれたが、何よりも努力家でありひたむきな人だった。理論的研究をすすめるのは、数学が弱いと感じれば夜間の予備校に通い、化学を勉強し直そうと考えれば洋書を借りて読破する。ここまであの時代に女性が研究者として頑張れた原動力はどこからわいてくるのだろうか。科学への興味と関心、研究へのあくなき探究心、「核兵器がもたらす災害を最も知るのは科学者であり、それを全人類に伝える」ための科学者としての使命と義務感、そして世間の女性への偏見と差別が拍車をかけた面もなきにしもあらずと推測する。猿橋は、男女平等を声高に叫ぶのでなく、たとえ自分への処遇や研究環境が望ましくなくとも、成果を見せることで女性を差別する根拠がないことを相手に気づかせるという哲学をもっていた。そして、もうひとつの哲学は恩師から学んだ「科学者は、同時に哲学者でなければならない」。世界唯一の被爆国の日本人として、科学が諸刃の剣であり、その功と罪を実感していたのだろう。

「女性科学者に明るい未来をの会」を1980年設立。さらに私財1500万円を投じて1990年に「公益信託・女性自然科学者研究基金」で会の財政基盤を安定させた。現在、28名の女性科学者が「猿橋賞」を受賞することによって、人生がかわり研究者として飛躍することができたという。猿橋は、81年にエイボン女性大賞を受賞し、米国で出版された「20世紀・女性科学者たち」の10名に選ばれた。

大平首相は厳しい追及に政治家ではなく、父としてこう答えた。
『女に学問は要らない。早く嫁に行け』という言葉は、ご批判をいただく余地が十分にあると思いますが、早く嫁に行って、全体として女の幸せを追求してもらいたいという父親の気持ちをお汲み取りいただきたい。 婦人は男性より物事に誠実でございます。道義の感覚に鋭敏でございます。とりわけ子供をもうけるなどという手応えのある人生経験は男にはできないことでございます。私は女性を尊敬致しております。」

猿橋勝子は、生涯独身だった。その理由を、著者は同世代の若者がみな戦争にとられてしまったからだと考えている。米沢富美子さんのお母様は、数学が抜群にできその才能をのばすために先生がたから勧められた女子高等師範学校進学の夢も、親戚の長老の「女に学問は不要」というたったひと言で泣く泣くあきらめた。独身で研究に没頭した猿橋と娘に自分の夢を託した母。その背景は、どちらも「女に学問はいらぬ」という日本の古き社会的風潮だ。もしも叶うなら、あの時代に田舎で生まれ土に還った祖母に今会って伝えたい。「女に学問はいらぬ」と言った私への慈しみへの感謝の気持ちと、やっぱり女も学問はあった方が素敵だということを。