2010年8月10日火曜日

井上ひさし「腹鼓記」を読む

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(平和憲法について講演する。20090503秋田市文化会館)

井上ひさしさんが今年の4月9日に亡くなった。私は好き嫌いに拘わらず、文学作品や映画、芝居に関しては、色んな作家のどんな分野の著作にも一応は顔を突っ込む性癖があるのですが、何故か、井上作品とは縁が薄かった。

でも、「ひょっこりひょうたん島」では随分楽しませてもらいました。また「吉里吉里人(きりきりじん)」の本の名前が奇妙で、広告の紹介文にも心は傾いたのですが、何故か手にとって読もうとはしなかった。作品とは、この程度の触れ合いでした。

護憲・平和運動にも積極的に活動しておられて、そのうち「九条の会」の呼びかけ人としての活躍の方が、私の強い関心事になった。そして、井上さんが、子どものために憲法の前文と九条をやさしく、わかりやすい言葉で訳したというか、書き直した「子どもにつたえる日本国憲法」を刊行したことを、朝日新聞紙上で知った。その記事のなかで、紹介されていた本の一部に感動した私は、マイCPに本の文章をそのままにキーを叩いて、ファイルした。写したのです。それでも、彼の本を手にすることはなかった。

週刊「金曜日」の創刊時、同じ編集員だった本多勝一さんとは、大いに揉めていて、本多勝一ファンだった私はその推移に関心を持っていた。本多勝一さんの喧嘩相手だったことも、そんなことはないと思うのですが、井上作品とは距離を置いていたわずかな理由かもしれない。

そして井上さんの死を知った。新聞が訃報を大きく取り扱った。きっと、井上さんは私が心の奥底に長年留め置いていたお方だったのだろう。井上さんの仕事のさまざまな内容を紹介した記事を読んで、その新聞を捨てるわけにはいかない、切り抜いて保管して置いたのだ。いつの日か読み直すことを確信していたのだろう。そんなに気になる作家ならば、もう少しきちんと本を読むなり、芝居をしっかり観ておけばいいのに、サボって、ついついその機会を作ろうとはしないまま今日に至った。

そして今。

何とかオフの全国的古本チェーン店の105円コーナーで、井上さんの「腹鼓記」を見つけて読んでいる。面白いのです。だます特技をもつ狸さまと人間さまの温かい交流を物語りにしたものです。この「腹鼓記」を読みながらニタニタしているのです。この「腹鼓記」を読んでいる最中に、かって新聞の切り抜きしたことを思い出し、その切抜きを探し出して読むうちに、やはりこれはブログにも貼り付けておくべきだと感じたのでした。

この立派な作家の、今日、この日この時間に残された作品に触れる幸せを感じている。まだ、「腹鼓記」一巻だけの読者ですが。何とかオフの105円コーナーで井上さんの本があれば、教えてください。私は保土ヶ谷区権太坂に住んでます。勤務地は相鉄線の天王町駅近くです。

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20100413

朝日・朝刊/社説  井上さん逝く

築いた言葉の宇宙に喝采

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稀代の喜劇作家。現在の戯作者。博覧強記(きょうき)の知恵袋。時代の観察者。平和憲法のために行動する文化人。

井上ひさしさんを言い表す言葉は、いく通りも思い浮かぶ。だが、多面的なその活動を貫いた背骨は一つ。自分の目で見て、自分の頭で考え、平易な言葉で世に問う姿勢だ。

本や芝居は、深いテーマを持っているのにどれも読みやすく、わかりやすい。それは、ことの本質を掘り出して、丁寧に磨き、一番ふさわしい言葉と語り口を選んで、私たちに手渡していたからだ。

そのために、できる限りたくさんの資料を集め、よく読み、考えた。途方もない労力をかけて、自分自身で世界や歴史の骨組みや仕組みを見極めようとしていた。

この流儀は、井上さんの歩んだ道と無縁ではないだろう。

生まれは1934年。左翼運動に加わっていた父を5歳で亡くし、敗戦を10歳で体験した。戦後の伸びやかな空気の中で少年時代を過ごすが、高校へは養護施設から通った。文筆修行の場は、懸賞金狙いの投稿と浅草のストリップ劇場。まだ新興メディアだったテレビ台本で仕事を始め、劇作家としては、デビュー当時はまだ傍流とされていた喜劇に賭けた。

王道をゆくエリートではない。時代の波に揺られる民衆の中から生まれた作家だ。だからこそ、誤った大波がきた時、心ならずもそれに流されたり、その波に乗って間違いをしでかしたりしないためには、目と頭を鍛えなければならない。歴史に学ばなければならないと考え、それを説き、実践した。

特に、あの戦争は何だったのかを、繰り返し、問い続けた。

復員した青年を主人公に、BC級戦犯の問題を書いた「闇に咲く花」という芝居に、こんなせりふがある。

「起こったことを忘れてはいけない。忘れたふりは、なおいけない」

井上さんは2001年から06年にかけて、庶民の戦争責任を考える戯曲を3本、東京の新国立劇場に書き下ろした。名付けて「東京裁判3部作」。

東京裁判を、井上さんは「瑕(きず)のある宝石」と呼び、裁判に提出された機密資料によって隠された歴史を知ることができたことを評価している。

同劇場は、8日から、この3部作の連続公演を始めたところだ。その翌日、拍手に包まれて幕が下りた直後に、井上さんは旅立った。

(いつまでも過去を軽んじていると、やがて私たちは未来から軽んじられることになるだろう)。公演に寄せた作者の言葉が、遺言になった。

生涯かけて築いたのは、広大な言葉の宇宙。そこにきらめく星座は、人びとを楽しませてくれる。そして、旅する時の目当てにもなる。

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201004・・

朝日夕刊/評伝

奇想と笑い 圧倒的

論説委員=山口宏子

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作品群を改めてみると、質と量の迫力に圧倒される。戯曲は60を超え、小説も多数。エッセーや対談は数え切れない。一作一作が高い峰。それがどこまでも続く。雄大な山脈のようだ。

だから、代表作はーーーと考えると、はたと迷う。

直木賞受賞作「手鎖心中」など、江戸を舞台にした小説は井上文学の土台だ。初小説「ブンとフン」は奔放な想像力が暴れるナンセンス文学だった。「奇想」と「笑い」は井上文学の大黒柱。「吉里吉里人」はその集大成だろう。戯曲も輝く。どれも喜劇の装いだが、色合いは多彩だ。

悪漢の物語に大どんでん返しを仕掛けた「藪原検校」や「雨」。「小林一茶」など評伝劇も実り豊かだ。

そして、戦争と戦後を見据えた作品の数々。広島の原爆をめぐる「父と暮らせば」は海外でも上演を重ね、映画にもなった。

おっと、忘れてはいけない。テレビ人形劇「ひょっこりひょうたん島」や、「ねえ、ムーミンーー」というアニメ主題歌の歌詞が思い出に残る人も多いはずだ。

次から次へと思い浮かぶ。「井上山脈」の大きさだ。

どの作品もやさしく、おもしろく書かれ、どんな読者や観客も拒まない。

しかし地底にはマグマがたぎっていた。

井上さんの父は、左翼運動で検挙され、拷問がもとで亡くなったという。5歳の時だった。10歳で終戦。価値観がひっくり返るのを目の当たりにした。貧しくて養護施設で育った時期もあり、東京に進学してからも、東北の方言などで悩みは深かった。

こうした体験が、社会や時代、人間の中に潜む病理や矛盾、悪を容赦なく見通す目を育てたのだろう。だが冷徹な目がえぐりだしたものは、ペンの力で豊かな娯楽に作り替えられた。怒りを笑いに転じて人びとの胸に届ける過程が井上さんにとって熱い闘いだった、膨大な資料を集め、克明な年表や地図を自作。趣向と工夫の限りを尽くして1本の戯曲を仕上げる。書き終わると体重が5キロも減った。

戦争への怒りは行動にも結びつき、憲法九条を守る運動を主導した。

温かな人柄だったが、時に、後輩作家への対抗意識をむき出しにもした。新しい才能を刺激とし、闘志をかき立てていたのだろう。

穏やかで激しく、やさしくて鋭い大作家が逝った。足元に広がる穴の大きさと深さは計りしれない。でも、見上げれば遺(のこ)された山脈が見える。そこにはいつも井上さんがいる。