私の会社の周りには、公園があって樹木が溢れています。会社の私の机からの眺めも、窓いっぱいに緑の樹木が見えるのです。また、帷子川の川辺にも大きな樹木が並んでいる。私は、仕事の合間を縫って、この樹木の緑濃い木陰で暫しの休憩を楽しんでいるのです。
その樹木の間を、子どもが虫かごと網を持って走り回っていた。おい、おい、君たちは何を捕まえようとしているんだ、と聞いたら、セミだというではないか。
私の子供の頃は、今の子供たちが持っているような網など使わなかった。子供の知恵なりに手作りしたものを使った。このような小道具はひょっとして、私の田舎のオリジナルかもしれないので年配諸氏は、はるか昔を思い出して私の話を聞いてみてくださいな。
竹の棹(さお)の先に、直径10センチほどの木の輪っぱをつくってその端を竹の筒の中に挿すのです。この輪っぱには、木に絡んで伸びている蔓(つる)を利用すると、丸く曲げ易い。金魚すくいの時に使う和紙を張った輪っぱみたいなものをイメージして頂ければいいのです。子供には、そう簡単に針金が手に入らなかった時代です。今から、50~55年前のことです。その蔓でできた輪っぱに、クモの巣を見つけては、その巣を重ねて張るのです。緻密に、隙間がないように。
この写真はジョロウグモだそうです。ウィキペディアからのパクリです。
クモ(蜘蛛)は腹から糸状のものを出して、放射状に縦糸を張り今度は縦糸に横糸を張って、巣を作るのです。クモにも色んな種類のものがいます。この網状の巣は、クモご本人の住処(すみか)であり、餌を捕まえる道具でもあるのです。子供の頃は、クモは私らとは日常生活において極めて馴れ馴れしい関係であった。木々の間にも、農耕用具の入っている小屋、作物を貯蔵している納屋、家の隅々にクモの巣を張っていた。クモは作物に害を及ぼす虫を捕ってくれる、ツバメなどと同じように、益をもたらしてくれる虫であって、鳥だったのです。
大学入試に2度も失敗して、ドカタをしながらの浪人時代に、松方弘樹のオヤジが主人公を演じていたテレビドラマ「素浪人月影兵庫」のなかで、月影のおじさんが異様にオカラを気に入って、クモを異妖に怖がって、画面の中を走り回っていたのを憶えているのですが、何ゆえにクモがそれほど嫌われたのか不可解であった。オカラの方は、私も同じように大好きなので、さほど驚かなかったのですが。東京へ出てきて、男の子も女の子もクモを見つけては、イヤ~だ、なんて私には不思議でしょうがなかった。何で、そんなに嫌われるようになったのですか、頭胸部と腹部からなる、ちょっと変わった風体のせいだとしたら、それは余りにも可哀相ではないか、何も彼のせいではないのだ。見かけの美醜で、相手を判断したらアカン。
クモの中でも、私たちの田舎でオニグモ(鬼蜘蛛)と呼んでいたクモが作った巣を、優先的に使いました。一番粘っこくてねちゃねちゃしていました。でも、当時、確かにオニグモと言っていたけれど、ネットで調べたオニグモの写真に記憶はなかった。大きさにおいては、もっともっと大きなクモもいました。
私の子どもの頃は、このクモの巣を張ったもので、高いところにいるセミなどを捕まえたのでした。
「蜘蛛の子を散らす様」を講談社・日本語大辞典で調べていたら、「多数のものが、四方八方に、ちりぢりに逃げていくさま」とあった。実際、クモの子どもは一回脱皮すると、卵のうから数百匹が、散らばっていくそうなのです。地面に落ちるもの、体から糸を出しそれで風を受け、遠くへ飛んでいくもの。そのようにして、そこで、子どもらは自分の生活を始めるそうな。クモの生態そのものから生まれた、慣用句のようです。勉強になりました。
クモの巣でセミを捕った話の次は、鳥モチの話をしなければならないと思うのですが、これは次回に。それと、私が育った京都府綴喜郡宇治田原町と、ここ横浜の保土ヶ谷では、セミの種類が全然違うのです。全国版の分布図のようなものができればいいなあ、と思った。