2015年2月10日火曜日

こんな息子に笑む!

昨年の5月16日事故を起こした私を、事故2、3日後に息子が見舞いに来てくれた。

在京の大学、オーストラリアのウーロンゴン州立大学の大学院を卒えて早10年。就職した会社では、国内での勤務はほとんどなく海外勤務ばかりだ。ところが、10年勤務を境に、今、青森八戸市内外1丁目のLNG(液化天然ガス)ターミナルに一時的な勤務状態にいる。健やかな心と体に恵まれた35才だ。4月からは、ヤッパリ、往年の海外勤務になる。

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       LNG(液化天然ガス)ターミナル

 

息子は賢妻と小さな女の子を連れてやってきた。病院のベッドに寝ころびながら、息子の顔を見るのは、ちょっと気恥ずかしい。この息子は私たち夫婦にとって、4人の子供たちのなかで唯一の男子だ。私とは、交わす話はなかった。ニコッと笑って、私の健全ぶりを確認して、それですべては終わった。私の身内から情報を得ていた奥さんも、ニッコリしたままだった。

この息子にとって、私のことについての心配が多いようだが、私にはただ身に重いばかり! 、、、、驚いた。

私の先天的なサッカー熱をどうしても息子に埋めたかった。幼稚園頃から息子を練習場にどんなに嫌がっても、連れて行った。家を出て、先ずは1本目の電柱まで、行きたくないと強情を張った。それを何とか乗り切ると2本目の電柱だ。そんなことを小学校の5年生ぐらいまで、繰り返した。小学校の高学年になって、サッカーの遊びでさえも先生に嫌われていた。あの、何とか????野郎(先生の名前をこのような呼び方をした)、頭にきたので帰ってきちゃった。二度と、あいつとはサッカーをやるものか!! そんなに気の短い男だった。

ところが、この男、中学生になってから、サッカー仲間ではない友人がどんどん増えた。

横浜・保土ヶ谷の地域集団、”サッカー好きだ”。父親の私だって、上手いプレーヤーではなかった。部友に対しても、当然、相手チームの誰にも、負けないモノを持っていた。他人に、嫌味や負けん気や、苦しさ、嘆きの言葉を吐いたことはない。練習をド根性で、誰よりも大きく強く激しくすれば、それだけでイイノダと決め込んでいた。この魂だけは、息子に引き継がれたようだ。

MX-3500FN_20150216_122439_001  -162度cのって、どんななんだろう

 

新しい工場誕生の炎、それはー162度cの炎が上がる瞬間

八戸の寒空に、高く高く吹き上がるという

まだ誰も見たことのない炎 ―162度cの炎、私たちの目には何色に映るのだろう

(息子は、この装置の先端の円筒から炎を突き出すための、発射ボタンを押すそうだ)