今、北京五輪の聖火が世界の五大陸を回っている。日本でも今月26日、長野で聖火ランナーが走ることになっている。一番走者は、全日本野球監督星野仙一さんだそうだ。当初善光寺をスタートして18キロ程走ることになっていたが、各国の妨害による混乱を見据えて、スタート地点を変更した。善光寺の僧侶たちは、チベット自治区での騒乱で亡くなった仏僧に対して、しのびがたい思いをつのらせたのだろう。善光寺は記念すべきスタート地点になることをを避けた。仏僧たちの連帯の意思表示なのだろう。善光寺には、天台宗と浄土宗の両方の僧侶がいる珍しいお寺だそうです。五輪発祥の地、アテネで採火式が行われた。その採火式において、チベット人や「国境なき記者団」たちが、開催粉砕を主張して妨害行為をおこなった。
その後、ヨーロッパ、特にフランスではチベット人や「国境なき記者団」による妨害行為は激しかった。思いは、なんで、そこまでチベットの人たちはやるの?に行きつく。やはり、それなりの理由がある筈なのだ。私には理解できる知識のストックがない。マスコミも、その理由をきちんと報道しないので、よくやるねえと感心するのみだったが、今回の新聞記事で、やっと納得した。専門家が解りやすく教えてくれていたので、その記事を転載させていただいた。ありがたいことです。
今、世界の最大関心事は、環境というか地球温暖化と、人権問題なのだ。中国の高級官僚は、これは偉大な国の内政問題だ、と言い切っている。熟慮されたし。
2008年4月22日火曜日
2008年4月21日月曜日
後期高齢者医療制度なんて、知らなかった。
後期高齢者医療制度が、05年12月に小泉内閣がまとめた医療制度改革案に盛り込まれて制定された、強行採決だったそうだ。
恥ずかしながら、3年間もこの制度のことを知らなかった。約1ヶ月程前に、対象となるお年寄りのもとに保険証なるものが郵送されてきたとか、お年寄りがその保険証を何かと間違って捨てた人が多いとか、届いてない人が多いとか、そんな報道がなされて初めてこの制度のことを知った。2年前に国会で議論されて可決されたいうではないか。福田首相が、後期高齢者医療制度という表現はお年寄りには失礼じゃないかと批判して、それならば長寿医療制度という言葉に置き換えよう、なんて新聞記事もあった。テレビはほとんど見ないで、新聞だけはきちんと読むようにしている私なのですが、実にお恥ずかしいのですが知らなかった。読み逃したのだろうか。新聞に出てた?と誰かれなく聞いてみたが、知っていたという人はいなかった。ただ、女房は知っていたよ、という友人はいた。友人は、女はしっかりしているわ、とも言っていた。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
そこで、新聞の記事から後期高齢者医療制度の概略を記しておこう(朝日新聞の朝刊と夕刊の「キーワード」をごちゃ混ぜに構成した)
75歳以上の高齢者を対象とする公的医療制度。約1300万人が加入する。医療費抑制を求める経済界の声を背景に、老人保健制度に代わって創設された。経済界の声とは、経済財政諮問会議の民間議員の医療への公的給付抑制を求める声のことだ。保険給付費の半分を税金、約4割を現役世代の支援金、約1割を加入者本人の保険料で賄う。保険料は都道府県ごとに設定され、老人医療費が高い都道府県ほど保険料も高くなるのが原則。給付と負担の連動が見えやすい仕組みを利用し、地域ごとに医療費増大を抑制させるのが狙いだ。天引きされるのは、年間の年金受取額が18万円以上で、介護保険と、この医療制度の保険料のあわせた額が、年金額の2分の1以下の場合で、対象者は約1千万人。全国平均で年額7万2千円程度。現役並みの所得がある人を除き、医療機関の窓口負担は従来通り1割。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 社会保険庁は、年金問題で炎症中で機能不全、重態だ。安倍内閣は脆く破綻して、福田内閣へと代わったが、社会保険庁に対する世間の糾弾は、日を追って厳しくなっている。そんな政情のなか、この後期高齢者医療制度のことについて、国民や特に対象者に詳しい説明がなかった。マスコミも、この制度の内容について、大いに取り上げたとも思えない。
この制度からは、批判が爆発するのが、自公連立内閣には十二分に解りきっていたのだと思う。だから、説明の機会を一切作らなかったのだ。
福田内閣の支持率の低下、不支持の増大は、どこまでも止まらない。今朝(2008 4 21)の新聞には福田内閣の支持率が25%と書いてあった。政府は意図して広報しなかったように思えてしょうがない。野党の民主党も国会の審議中は激しくやりあったのでしょうが、いったん法制化してしまえば批判の矛先を敵に向けるのではなく、あっさり諦めてしまったようだ。これも、情けない。
そして、先月、75歳以上のお年寄りに保険証が届いて、こりゃ一体なんじゃ、ということになったのです。
何故、こんなことになったのか?と私なりに推測するに、小泉が患っていた病の菌を、お調子者の安倍が保菌したまま政権を引き継いだ。
この病原菌の正体は?と、
そこで、この病原菌のことを文字で表すための文章が整理できなくて、キーボードを叩けなくなったのです。
また、ここで、数日が過ぎた。
昨日の朝日新聞(08 4 20 文化欄)に、政治家が政治家であるためには、こうでなくっちゃ、と思えるヒントになる文章に巡り合えたのです。「植草甚一は終わらない」のタイトルで、植草甚一の人となりが紹介されていた。古本にジャズ、ミステリー、映画も好きだった。今どきはそんなに珍しくはないが、70年代には「若者の教祖」と呼ばれた人である。私も学生時代、このマルチなおっさんが不思議だったのです。ヒゲをはやしたおっさんが、評論やエッセーや座談会で、平凡パンチやきちんとした評論集でも、文章や発する言葉は平易で新鮮で革命的だった。話題は植草甚一から、「暮らしの手帖」の花森安冶さんになり、編集後任の松浦弥太郎さんなった。その松浦さんが、この雑誌を「生身の人間に近い体温や感情をもった(媒体)にしたい。何に怒り、笑い、悲しむのか」、そのような雑誌にしたい、と言っていた。ここで、話は元に戻る。
「生身の人間に近い体温や感情をもった(政治)をしたい。何に怒り、笑い、悲しむのか」と思った者が、初めてその人は「私は政治家なのだ」と、胸をたたけるのではないのか。
他人のことを思いやれる。他人の痛みをわかる者でないと、政治に身をおいてはいけないのではないか。
小泉から感染したこの病原菌は、安倍内閣で免疫力をつけ、増殖した。
小泉内閣のもとで、安倍晋一は幹事長として自民党内において力をつけていったその過程で、戦後レジームからの脱却とかいっては、若手右派の中川昭一等と「何とかを?考える会」を作っては、いやに威勢がよかった。中曽根康弘から、小泉、安倍につながる連中を、私はこのグループのことを日本の悪霊だと言っているのです。その前には、妖怪、岸信介がいたなあ。教育基本法を変えた。憲法の改悪を試みた。その「何とかを考える会」は、従軍慰安婦や沖縄戦争における集団自決においても、軍は直接関与した証拠はないとか主張して、教科書の記述を変えさせた。慰安婦問題に関して、村山談話や河野官房長談話を、目の敵にした。心ならずも慰安婦にさせられた人々の心、沖縄島民の心の痛みの理解に努めなかった。こんなことは、いつまでも許されることではなかった。今、世論はこの突出した安倍等の轍の修正に向かって進んでいる。私は日本人の良識を堅く信じている。
こんな連中が、また経済諮問会議の民間議員が案出したこの制度を法制化したのだ。
この後期高齢者医療制度には理念がない、何から何まで心がない。制度を立法化したのは、何のため? 命に関る重大な事案だ。私が今、見聞きする範囲内では、おかしい事だらけだ。老人を馬鹿にしている。金、金、金、財務状況優先したのか?。我々は、いかなる状況の人たちとも、相互扶助をして生きていかなくてはならない、ことをよく理解している国民だ。
この制度をできるだけ早い時期に廃止するように請願しよう、ぜ。昨日の新聞には、自民党内からも早速見直しを検討しなければならない、という意見がでているそうだ。ーーーーそれぁ、そうだ。
恥ずかしながら、3年間もこの制度のことを知らなかった。約1ヶ月程前に、対象となるお年寄りのもとに保険証なるものが郵送されてきたとか、お年寄りがその保険証を何かと間違って捨てた人が多いとか、届いてない人が多いとか、そんな報道がなされて初めてこの制度のことを知った。2年前に国会で議論されて可決されたいうではないか。福田首相が、後期高齢者医療制度という表現はお年寄りには失礼じゃないかと批判して、それならば長寿医療制度という言葉に置き換えよう、なんて新聞記事もあった。テレビはほとんど見ないで、新聞だけはきちんと読むようにしている私なのですが、実にお恥ずかしいのですが知らなかった。読み逃したのだろうか。新聞に出てた?と誰かれなく聞いてみたが、知っていたという人はいなかった。ただ、女房は知っていたよ、という友人はいた。友人は、女はしっかりしているわ、とも言っていた。
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そこで、新聞の記事から後期高齢者医療制度の概略を記しておこう(朝日新聞の朝刊と夕刊の「キーワード」をごちゃ混ぜに構成した)
75歳以上の高齢者を対象とする公的医療制度。約1300万人が加入する。医療費抑制を求める経済界の声を背景に、老人保健制度に代わって創設された。経済界の声とは、経済財政諮問会議の民間議員の医療への公的給付抑制を求める声のことだ。保険給付費の半分を税金、約4割を現役世代の支援金、約1割を加入者本人の保険料で賄う。保険料は都道府県ごとに設定され、老人医療費が高い都道府県ほど保険料も高くなるのが原則。給付と負担の連動が見えやすい仕組みを利用し、地域ごとに医療費増大を抑制させるのが狙いだ。天引きされるのは、年間の年金受取額が18万円以上で、介護保険と、この医療制度の保険料のあわせた額が、年金額の2分の1以下の場合で、対象者は約1千万人。全国平均で年額7万2千円程度。現役並みの所得がある人を除き、医療機関の窓口負担は従来通り1割。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 社会保険庁は、年金問題で炎症中で機能不全、重態だ。安倍内閣は脆く破綻して、福田内閣へと代わったが、社会保険庁に対する世間の糾弾は、日を追って厳しくなっている。そんな政情のなか、この後期高齢者医療制度のことについて、国民や特に対象者に詳しい説明がなかった。マスコミも、この制度の内容について、大いに取り上げたとも思えない。
この制度からは、批判が爆発するのが、自公連立内閣には十二分に解りきっていたのだと思う。だから、説明の機会を一切作らなかったのだ。
福田内閣の支持率の低下、不支持の増大は、どこまでも止まらない。今朝(2008 4 21)の新聞には福田内閣の支持率が25%と書いてあった。政府は意図して広報しなかったように思えてしょうがない。野党の民主党も国会の審議中は激しくやりあったのでしょうが、いったん法制化してしまえば批判の矛先を敵に向けるのではなく、あっさり諦めてしまったようだ。これも、情けない。
そして、先月、75歳以上のお年寄りに保険証が届いて、こりゃ一体なんじゃ、ということになったのです。
何故、こんなことになったのか?と私なりに推測するに、小泉が患っていた病の菌を、お調子者の安倍が保菌したまま政権を引き継いだ。
この病原菌の正体は?と、
そこで、この病原菌のことを文字で表すための文章が整理できなくて、キーボードを叩けなくなったのです。
また、ここで、数日が過ぎた。
昨日の朝日新聞(08 4 20 文化欄)に、政治家が政治家であるためには、こうでなくっちゃ、と思えるヒントになる文章に巡り合えたのです。「植草甚一は終わらない」のタイトルで、植草甚一の人となりが紹介されていた。古本にジャズ、ミステリー、映画も好きだった。今どきはそんなに珍しくはないが、70年代には「若者の教祖」と呼ばれた人である。私も学生時代、このマルチなおっさんが不思議だったのです。ヒゲをはやしたおっさんが、評論やエッセーや座談会で、平凡パンチやきちんとした評論集でも、文章や発する言葉は平易で新鮮で革命的だった。話題は植草甚一から、「暮らしの手帖」の花森安冶さんになり、編集後任の松浦弥太郎さんなった。その松浦さんが、この雑誌を「生身の人間に近い体温や感情をもった(媒体)にしたい。何に怒り、笑い、悲しむのか」、そのような雑誌にしたい、と言っていた。ここで、話は元に戻る。
「生身の人間に近い体温や感情をもった(政治)をしたい。何に怒り、笑い、悲しむのか」と思った者が、初めてその人は「私は政治家なのだ」と、胸をたたけるのではないのか。
他人のことを思いやれる。他人の痛みをわかる者でないと、政治に身をおいてはいけないのではないか。
小泉から感染したこの病原菌は、安倍内閣で免疫力をつけ、増殖した。
小泉内閣のもとで、安倍晋一は幹事長として自民党内において力をつけていったその過程で、戦後レジームからの脱却とかいっては、若手右派の中川昭一等と「何とかを?考える会」を作っては、いやに威勢がよかった。中曽根康弘から、小泉、安倍につながる連中を、私はこのグループのことを日本の悪霊だと言っているのです。その前には、妖怪、岸信介がいたなあ。教育基本法を変えた。憲法の改悪を試みた。その「何とかを考える会」は、従軍慰安婦や沖縄戦争における集団自決においても、軍は直接関与した証拠はないとか主張して、教科書の記述を変えさせた。慰安婦問題に関して、村山談話や河野官房長談話を、目の敵にした。心ならずも慰安婦にさせられた人々の心、沖縄島民の心の痛みの理解に努めなかった。こんなことは、いつまでも許されることではなかった。今、世論はこの突出した安倍等の轍の修正に向かって進んでいる。私は日本人の良識を堅く信じている。
こんな連中が、また経済諮問会議の民間議員が案出したこの制度を法制化したのだ。
この後期高齢者医療制度には理念がない、何から何まで心がない。制度を立法化したのは、何のため? 命に関る重大な事案だ。私が今、見聞きする範囲内では、おかしい事だらけだ。老人を馬鹿にしている。金、金、金、財務状況優先したのか?。我々は、いかなる状況の人たちとも、相互扶助をして生きていかなくてはならない、ことをよく理解している国民だ。
この制度をできるだけ早い時期に廃止するように請願しよう、ぜ。昨日の新聞には、自民党内からも早速見直しを検討しなければならない、という意見がでているそうだ。ーーーーそれぁ、そうだ。
2008年4月11日金曜日
黒岩彰に笑みが戻った
スピードスケートの富士急監督に就任したカルガリー五輪男子500メートル銅メダリストの黒岩彰(46)が4月1日、山梨県富士吉田市内のホテルで記者会見した。記者席に向かって右には岡崎朋美、真ん中に黒岩彰新監督、左に長田照正総監督が陣取った。報道された写真から察して、3人の記者とのやりとりは、歓迎ムードのなか終始したことだろうと、容易に推測できる。目出度い会見だった。
私には、黒岩の笑顔が嬉しかった。
彼は、かって西武ライオンズの松坂大輔投手の駐車違反の身代わり出頭して逮捕されたことが華々しく?報道された。それが、黒岩に関する私の最後の記憶です。西武ライオンズの松坂担当の広報係として、松坂に頼まれたのか、球団の指示か、黒岩本人の雄志(有志)なのか、その真相はわからないが、報道を見たり聞いたりしていると、私には球団の指示があったのだと確信している。指示がなかったとしても、追認はあった筈だ。一担当者が、そんな大それた事を自分の判断だけでやるとは思えない。
この球団を抱える企業集団は、法令順守の考え方が余りにも未成熟なのです。その最高経営責任者がまずは狂っていた。この最高経営責任者は、偉大な創業者の二代目です。私は9年と7ヶ月、学校を卒業して、この会社にお世話になりました。そこで学びとったことを糧(かて)に、今、私たちの会社の運営に活かそうとしています。反面教師的だけれども、教えていただいたことはてんこ盛りだ。
黒岩が身代わり出頭で逮捕された時、黒岩はやっぱりアホやったと落胆したり、さすが西武ライオンズや!!と喝采したり。失笑した。
それから、グループ企業内で黒岩はイバラの道を歩かされたであろうことは、容易に想像できる。いつも、この会社はそうなのです。元来会社が背負はなければならない罪を、一担当者に負わせるのです。会社が仕組んだことについてもだ。担当者を配置転換する。隠す。いやらしく虐(いじ)めるのです。ホテルや遊技場のセールスをさせるのです。慣れない業務に苦しんでいるところに、営業成績にノルマを与えて圧力をかける。そして会社を辞めるように、仕向けるのです。
黒岩が、アホな会社を辞めて、名門富士急のスピードスケート部の監督として蘇った。祝福をしたい。彼のためにも、日本のスピードスケート界にしても、こんな嬉しいことはない。
この企業集団の創業二代目は、証券取引法違反で逮捕され、「俺は辞めるから」と何もかも投げうっちゃって、「後は任せるから」と言って、最高経営者を辞し退場した。そんな無責任千万な男だった。球団の社長は、野球協約違反で世間から批判を受けても、悪びれることなく他人事のように記者を前に謝った。その場しのぎが見え見えだった。最近では、プリンスホテルが日本教職員組合の教育研究全国集会の会場として、いったん予約を受けながら会場使用を拒否した。裁判所は会場の使用を認める判断を下したにもかかわらず、その判断にも従わなかった。記者会見で、プリンスホテルの社長とグループ企業の親会社の社長が、顔を揃えて臆面もなく会場の使用と宿泊を拒否した理由を述べた。旅館業法に触れる内容でもあるのに。上司の承諾を得ながら予約を受けた担当者は、会社に居づらくなって止む無く退社した。創業者二代目も、歴代の球団社長も、プリンスホテルの社長のこともよく知っている人たちだから、私には批判できるのです。こんな人たちの、こんな会社ばかりの、企業集団群なのだ。
黒岩さん、辞めてよかったのです。辞めて、ホットしていることでしょう。
岡崎朋子さんからは、「フギィアに押されっぱなしのスピード界を盛り上げてくれそう」と期待の声があがった。
橋本聖子さんのコメントは聞こえてこないが、さぞかし喜んでおられていることでしょう。
黒岩は、「自分の本当の居場所はスケート界かな。決断のしどころだ」と。その通りです。
黒岩のスケート界復帰については、大勢の人々が待ち望んでいた。
がんばれ!!!黒岩!!!立派に選手を育てください。楽しみにしています。
2008年4月7日月曜日
「永遠平和」うけつぐ9条
やっぱり、小田実の記事が出ていると、きっちり読み込みたくなるのです。朝日新聞でした。この記事を読み終わって、古紙回収にまわすわけにはいかない。転載さていただいて、身近に保存しておきたい内容でした。
40年前、学校に入るために田舎から出てきた。プラカードを掲げてデモる人々を見て、そんなことで革命的なことはなにも起こらないぞ。女々しいなあ、と馬鹿にしていた。ベ平連なんて、なんじゃ、と思っていた。ところがじゃ、小田実の著作を読んでいくうちにオダ菌に感染した。殺される側の論理、爆弾が雨の様に落下される地表を逃げ惑う側の論理。その論理から反戦への思向には説得力があったのに。オダ菌に感染していたのに、理解力の低い、生半可な未成熟な学生だった。その時は解らんちんなコチコチ頭だったのです。
体育局に所属するサッカー部員だった。
サッカー部員としては、極めてヘタ糞でやっかいな部員だったが、練習態度は真面目だった。が、頭の中は過激な思想にどっぷり。危険千万な男だった。過激な演説、過激な著作物、過激な口論、過激な酒量、過激でないと私はもうどうにも止まらない状態でした。
だから、学生時代には、予備校の教壇から小田実さんがいくら檄っても、私には物足りなかった。当時、小田実は予備校で英語を担当する先生でもあった。夜になると過激度はピークに達し友人たちを随分困らせた。精神的な安静を求めて、昼間のサッカーの練習に夢中になっていた。サッカーがガス抜き装置だったようだ。
社会人になって、世慣れて、”ただの過激派”では、世の中を渡っていけないことが、解りだした頃、小田実を読み直した。そしてすっかり、小田実の心酔者になってしまった。偉大なオッサンだと尊敬するようになっていた。その偉大なオッサンのことが朝日新聞に書かれていたのです。
カントさんとは縁がなかった。頭の悪い私には、その御仁からは遠ざかる一方だった。この記事によると、解りやすく書いた本もあるらしいので、頑張って読む機会をつくりたいと思った。
2008 3 31 朝日朝刊 ポリティカ/にっぽん 早野透(本社コラムニスト)

3月9日、NHKのETV特集「小田実 遺す言葉」を見た。作家でありベトナム反戦の市民運動家、東京の病院の緩和ケア病棟に入ってがんと闘う最後の日々がカメラにとらえられていた。テレビの小田さんは、私が病室にお訪ねしたときよりもやつれて、しかし力を振り絞って小説の口述をしていた。作家魂とは、かくも激しいものか。
小説は、題して「トラブゾンの猫」。トルコ半島にあるギリシャの殖民都市にトロイの猫、クビライハーンのころの、秦の始皇帝のころの猫、そして日本の三毛猫が時空を超えて集まって語った。「人間ってなんで愚劣なことばかりしているのか」と。
「愚劣」といっても、例えば道路特定財源をマッサージチェアーに使うお役所とか、ねじれ国会で突っ張りあって打開のてがかりを見出せない与野党とか、そういう次元のことではない。ギリシャの昔からイラク戦争まで、人間が果てしなく繰り返してきた愚劣な「戦争」のことである。
テレビの前日の8日、東京・渋谷のホールで、「九条の会 小田実さんの志を受けついで」という集会があって、2300人が集まった。なかなかのものですね、3月4日、中曽根康弘氏らの「新憲法制定議員連盟」の総会で、草の根に広がる「九条の会」の向こうを張って「拠点づくり」と対抗意識を燃やすだけのことはある。
「九条の会」の呼びかけ人は小田さんを含めて9人。この日、梅原猛氏はメッセージを寄せ、大江健三郎、鶴見俊輔、加藤周一、三木睦子、井上ひさし、奥平康弘、沢地久枝の7氏、そして小田さんが「人生の同行者」と呼ぶ妻の玄順恵さんが次々と話した。
その玄さんの話。若き日、ギリシャ文学を専攻した小田さんは昨年春、家族でトロイ遺跡やトラブゾンを旅して帰国、そして病がわかり7月30日亡くなる。「小田はギリシャのデモクラシー、小さい力を合わせて知恵をもって社会を作る人々の力を信じていました。それに一番近いのはやはりアメリカだと。そのアメリカから学んだ『自由と平等』に、『平和主義』を加えたのが日本だと。それが九条だと」
私は、ギリシャの話を聞きながら、イマヌエル・カントのことを思い起こしていた。1724年生まれ、フランス革命後までの80年の生涯を東プロシアのケーニヒスペルクの街からほとんど出ずに過ごし、毎日決まった道を決まった時刻に散歩して、人々はそれに合わせて時計の針を直したという哲学者。世界を考え、人間を考え、歴史を考え、「永遠平和のために」という本を書いた。
カントといえば、その難解な著作を読むのに昔は苦しんだけれど、この「永遠平和のために」の本はもともと戦争に明け暮れる政治家にも読ませようと簡潔に書き、このところ日本でも次々とわかりやすい新訳が出た。なーんだ、カント先生200年前に、いまの世界をお見通しじゃないか。ここは総合社発行、集英社発売のきれいな写真つきの池内紀さんの訳本に従って読み進めたい。
「戦争状態とは、武力によって正義を主張するという悲しむべき非常手段にすぎない」
「いかなる国も、よその国の体制や政治に、武力でもって干渉してはならない」
イラク開戦前にブッシュさんも小泉さんも読んで欲しかった。
「殺したり殺されたりするための用に人をあてるのは、人間を単なる機械あるいは道具として国家の手にゆだねることであって、人格に基づく人間性の権利と一致しない」
だからこそ、ドイツには兵役拒否のかわりに福祉などで働く制度がある。小田さんは、九条の日本は「良心的軍事拒否国家」になるべきだと説き続けた。
「対外紛争のために国債を発行してはならない」 昔、日露戦争を戦うのに、日本は外債募集で走り回った。太平洋戦争を戦うのに、郵便貯金を軍事費にあてた。
「常備軍はいずれ、いっさい廃止されるべきである」
9条は、ギリシャのアリストファネスの喜劇「女の平和」からカント先生まで、人類の思想を受け継いでいるのであって、占領軍に押し付けられたとかなんとかいう問題ではない。小田さんが言っていた通り、「日本はいい国だ」ともっと自信を持っていい。
「戦争を起こさないための国家連合こそ、国家の自由とも一致する唯一の法的状態である」
カント先生がすごいのは、今日の国連の誕生を見越していたことである。「世界平和」はむりとしても、「世界市民」は空想の産物ではないと言っている。地球温暖化もチベット問題も、国家の利害ではなく、市民の問題ととらえられるべきなのだ。
と書いてきたものの、日本政治は日々忙しく、それどころじゃないと思いがちだが、カント先生はそこもクギを刺している。
「永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である」
40年前、学校に入るために田舎から出てきた。プラカードを掲げてデモる人々を見て、そんなことで革命的なことはなにも起こらないぞ。女々しいなあ、と馬鹿にしていた。ベ平連なんて、なんじゃ、と思っていた。ところがじゃ、小田実の著作を読んでいくうちにオダ菌に感染した。殺される側の論理、爆弾が雨の様に落下される地表を逃げ惑う側の論理。その論理から反戦への思向には説得力があったのに。オダ菌に感染していたのに、理解力の低い、生半可な未成熟な学生だった。その時は解らんちんなコチコチ頭だったのです。
体育局に所属するサッカー部員だった。
サッカー部員としては、極めてヘタ糞でやっかいな部員だったが、練習態度は真面目だった。が、頭の中は過激な思想にどっぷり。危険千万な男だった。過激な演説、過激な著作物、過激な口論、過激な酒量、過激でないと私はもうどうにも止まらない状態でした。
だから、学生時代には、予備校の教壇から小田実さんがいくら檄っても、私には物足りなかった。当時、小田実は予備校で英語を担当する先生でもあった。夜になると過激度はピークに達し友人たちを随分困らせた。精神的な安静を求めて、昼間のサッカーの練習に夢中になっていた。サッカーがガス抜き装置だったようだ。
社会人になって、世慣れて、”ただの過激派”では、世の中を渡っていけないことが、解りだした頃、小田実を読み直した。そしてすっかり、小田実の心酔者になってしまった。偉大なオッサンだと尊敬するようになっていた。その偉大なオッサンのことが朝日新聞に書かれていたのです。
カントさんとは縁がなかった。頭の悪い私には、その御仁からは遠ざかる一方だった。この記事によると、解りやすく書いた本もあるらしいので、頑張って読む機会をつくりたいと思った。
2008 3 31 朝日朝刊 ポリティカ/にっぽん 早野透(本社コラムニスト)
カントと小田 「永遠平和」うけつぐ9条
3月9日、NHKのETV特集「小田実 遺す言葉」を見た。作家でありベトナム反戦の市民運動家、東京の病院の緩和ケア病棟に入ってがんと闘う最後の日々がカメラにとらえられていた。テレビの小田さんは、私が病室にお訪ねしたときよりもやつれて、しかし力を振り絞って小説の口述をしていた。作家魂とは、かくも激しいものか。
小説は、題して「トラブゾンの猫」。トルコ半島にあるギリシャの殖民都市にトロイの猫、クビライハーンのころの、秦の始皇帝のころの猫、そして日本の三毛猫が時空を超えて集まって語った。「人間ってなんで愚劣なことばかりしているのか」と。
「愚劣」といっても、例えば道路特定財源をマッサージチェアーに使うお役所とか、ねじれ国会で突っ張りあって打開のてがかりを見出せない与野党とか、そういう次元のことではない。ギリシャの昔からイラク戦争まで、人間が果てしなく繰り返してきた愚劣な「戦争」のことである。
テレビの前日の8日、東京・渋谷のホールで、「九条の会 小田実さんの志を受けついで」という集会があって、2300人が集まった。なかなかのものですね、3月4日、中曽根康弘氏らの「新憲法制定議員連盟」の総会で、草の根に広がる「九条の会」の向こうを張って「拠点づくり」と対抗意識を燃やすだけのことはある。
「九条の会」の呼びかけ人は小田さんを含めて9人。この日、梅原猛氏はメッセージを寄せ、大江健三郎、鶴見俊輔、加藤周一、三木睦子、井上ひさし、奥平康弘、沢地久枝の7氏、そして小田さんが「人生の同行者」と呼ぶ妻の玄順恵さんが次々と話した。
その玄さんの話。若き日、ギリシャ文学を専攻した小田さんは昨年春、家族でトロイ遺跡やトラブゾンを旅して帰国、そして病がわかり7月30日亡くなる。「小田はギリシャのデモクラシー、小さい力を合わせて知恵をもって社会を作る人々の力を信じていました。それに一番近いのはやはりアメリカだと。そのアメリカから学んだ『自由と平等』に、『平和主義』を加えたのが日本だと。それが九条だと」
私は、ギリシャの話を聞きながら、イマヌエル・カントのことを思い起こしていた。1724年生まれ、フランス革命後までの80年の生涯を東プロシアのケーニヒスペルクの街からほとんど出ずに過ごし、毎日決まった道を決まった時刻に散歩して、人々はそれに合わせて時計の針を直したという哲学者。世界を考え、人間を考え、歴史を考え、「永遠平和のために」という本を書いた。
カントといえば、その難解な著作を読むのに昔は苦しんだけれど、この「永遠平和のために」の本はもともと戦争に明け暮れる政治家にも読ませようと簡潔に書き、このところ日本でも次々とわかりやすい新訳が出た。なーんだ、カント先生200年前に、いまの世界をお見通しじゃないか。ここは総合社発行、集英社発売のきれいな写真つきの池内紀さんの訳本に従って読み進めたい。
「戦争状態とは、武力によって正義を主張するという悲しむべき非常手段にすぎない」
「いかなる国も、よその国の体制や政治に、武力でもって干渉してはならない」
イラク開戦前にブッシュさんも小泉さんも読んで欲しかった。
「殺したり殺されたりするための用に人をあてるのは、人間を単なる機械あるいは道具として国家の手にゆだねることであって、人格に基づく人間性の権利と一致しない」
だからこそ、ドイツには兵役拒否のかわりに福祉などで働く制度がある。小田さんは、九条の日本は「良心的軍事拒否国家」になるべきだと説き続けた。
「対外紛争のために国債を発行してはならない」 昔、日露戦争を戦うのに、日本は外債募集で走り回った。太平洋戦争を戦うのに、郵便貯金を軍事費にあてた。
「常備軍はいずれ、いっさい廃止されるべきである」
9条は、ギリシャのアリストファネスの喜劇「女の平和」からカント先生まで、人類の思想を受け継いでいるのであって、占領軍に押し付けられたとかなんとかいう問題ではない。小田さんが言っていた通り、「日本はいい国だ」ともっと自信を持っていい。
「戦争を起こさないための国家連合こそ、国家の自由とも一致する唯一の法的状態である」
カント先生がすごいのは、今日の国連の誕生を見越していたことである。「世界平和」はむりとしても、「世界市民」は空想の産物ではないと言っている。地球温暖化もチベット問題も、国家の利害ではなく、市民の問題ととらえられるべきなのだ。
と書いてきたものの、日本政治は日々忙しく、それどころじゃないと思いがちだが、カント先生はそこもクギを刺している。
「永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である」
2008年3月29日土曜日
民事再生法はテロだ
先日深夜、当社の取引会社がインターネットで情報を公開した。その内容というのは、取引会社が、その日、取締役会にて民事再生手続開始申し立てを行うことを決議し、同日所轄裁判所に受理されたこと。その結果、弁済禁止の保全処分の発令を受けたので、カクカクシカジカのお知らせいたします、ということだった。それと、もう一つ民事再生手続開始の申し立てを行ったことから、取引会社に対する債権について取立不能又は取立遅延のおそれが生じましたのでお知らせいたします。そんな内容が、突然、インターネットで流され、翌日の新聞に電撃的に発表された。この手の情報公開は、昼間を避けて深夜にやることが多いらしい。夜陰に乗じる? おかしいぞ、こんな情報公開こそ、白昼堂々とやってくれ。
翌日早速、当社に事業資金の融資をして頂いている金融機関の担当者から、内容確認の電話があった。私には、寝耳に水の話だったので、これから正確な情報を入手して報告します、また当社と取引会社との債権債務についてもまとめて報告しますから、しばらくお待ちください、と言って受話器を置いた。早速、帳簿、契約書をチェックした。調査の結果、当社と取引会社との債権債務は、当社の主要事業にはさほど影響はないことが判明した。取引会社と当社の関係を知っている人には、心配をかけてしまった。友人が気になって電話をくれる。何人かの友人には、余分な気を遣わせてしまった。持つべきものは、友人だ。
民事再生はテロですよ。
懇意にしてくれている金融機関の担当者は、私が少し内容を話しただけで、テロですよ、なんて言葉を発して私を驚かした。それではこの際、テロについて学術的?な知識も、今後必要になるだろうから、ここで一つ学習してみることにしますか。
テロの語源をインターネットで調べた。テロリズムの語源は、フランス革命末期のロベスピエールの恐怖政治の「terrerur、テロール、恐怖」よりきている、とある。それでは、テロの定義はどうかというと、日本の国内においてもいくつかの法令でテロリズムに関する規定を設けている。自衛隊法81条の2第1項では、「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で多数の人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊する行為」とある。不特定多数の個人間、あるいは社会に介在する「合意」に対して物理力やある種の表現をもって介入し、衝撃を与えることで混乱や狼狽を誘い、結果として明示的なり暗示的なりに拘束されてきた合意事項を破綻させることを目的とする。生命や財産の継続性は社会契約の前提であり、これを遮断することによって合意の継続を困難にする手法である。
インターネットによる学習はここまでにして、ここからは当社担当の金融機関の人の話に戻ろう。事業資金を融資している会社とは、コミュニケーションを密にしていると、その会社の内容が苦もなく分かるものなのです。事務所の中が、まず埃っぽくなる。清掃が行き届かなくなる。社長と連絡が取れにくくなる。社員の意気が上がらない、社員の口からは会社の批判や社長に対する悪口が漏れる。社長は、世間や役所や銀行に対して愚痴っぽくなる。そして怒りっぽくなる。そういう状態になると、金融機関は貸付金の回収に比重がかかってきて、事業は先細りの一途をたどり、結果的に息の根が絶えるのです。これが、企業の事業や財務状況が悪化していく一般的なプロセスです。金融機関に働いて居る者には、これが普通の貸し手と借り手の関係なのです。でも、民事再生はちょっと違うのです。
民事再生手続き開始の申し立ては、社員も知らないうちに行われることがよくあるのです。取締役会が開かれ、そこで決議され、限られた社員だけが秘密裏に書類の作成に入るのです。担当役員と限られた社員だけが、担当弁護士事務所に缶詰になって書類を作成する。会社は、いつもと変わらない状態で業務がこなされていく。危機的な状況にあるなんて雰囲気は、これっぽっちも匂わせない。あくまでも、平静に安穏な時間が過ぎていく。対外的には当然、社内的にも一切情報は一滴も漏らさない。そして、予定した日時に、ドカーンとくるのです。取引会社に何の相談もなく、藪から棒だ。平和な市民社会を、瞬時にパニック状態におとしめる、テロだ。取引会社の都合なんて、何の斟酌(しんしゃく)もなく。これこそ、テロですよと主張する金融機関の担当者の言辞は全く当を得ているように思うのは、私だけだろうか。
翌日早速、当社に事業資金の融資をして頂いている金融機関の担当者から、内容確認の電話があった。私には、寝耳に水の話だったので、これから正確な情報を入手して報告します、また当社と取引会社との債権債務についてもまとめて報告しますから、しばらくお待ちください、と言って受話器を置いた。早速、帳簿、契約書をチェックした。調査の結果、当社と取引会社との債権債務は、当社の主要事業にはさほど影響はないことが判明した。取引会社と当社の関係を知っている人には、心配をかけてしまった。友人が気になって電話をくれる。何人かの友人には、余分な気を遣わせてしまった。持つべきものは、友人だ。
民事再生はテロですよ。
懇意にしてくれている金融機関の担当者は、私が少し内容を話しただけで、テロですよ、なんて言葉を発して私を驚かした。それではこの際、テロについて学術的?な知識も、今後必要になるだろうから、ここで一つ学習してみることにしますか。
テロの語源をインターネットで調べた。テロリズムの語源は、フランス革命末期のロベスピエールの恐怖政治の「terrerur、テロール、恐怖」よりきている、とある。それでは、テロの定義はどうかというと、日本の国内においてもいくつかの法令でテロリズムに関する規定を設けている。自衛隊法81条の2第1項では、「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で多数の人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊する行為」とある。不特定多数の個人間、あるいは社会に介在する「合意」に対して物理力やある種の表現をもって介入し、衝撃を与えることで混乱や狼狽を誘い、結果として明示的なり暗示的なりに拘束されてきた合意事項を破綻させることを目的とする。生命や財産の継続性は社会契約の前提であり、これを遮断することによって合意の継続を困難にする手法である。
インターネットによる学習はここまでにして、ここからは当社担当の金融機関の人の話に戻ろう。事業資金を融資している会社とは、コミュニケーションを密にしていると、その会社の内容が苦もなく分かるものなのです。事務所の中が、まず埃っぽくなる。清掃が行き届かなくなる。社長と連絡が取れにくくなる。社員の意気が上がらない、社員の口からは会社の批判や社長に対する悪口が漏れる。社長は、世間や役所や銀行に対して愚痴っぽくなる。そして怒りっぽくなる。そういう状態になると、金融機関は貸付金の回収に比重がかかってきて、事業は先細りの一途をたどり、結果的に息の根が絶えるのです。これが、企業の事業や財務状況が悪化していく一般的なプロセスです。金融機関に働いて居る者には、これが普通の貸し手と借り手の関係なのです。でも、民事再生はちょっと違うのです。
民事再生手続き開始の申し立ては、社員も知らないうちに行われることがよくあるのです。取締役会が開かれ、そこで決議され、限られた社員だけが秘密裏に書類の作成に入るのです。担当役員と限られた社員だけが、担当弁護士事務所に缶詰になって書類を作成する。会社は、いつもと変わらない状態で業務がこなされていく。危機的な状況にあるなんて雰囲気は、これっぽっちも匂わせない。あくまでも、平静に安穏な時間が過ぎていく。対外的には当然、社内的にも一切情報は一滴も漏らさない。そして、予定した日時に、ドカーンとくるのです。取引会社に何の相談もなく、藪から棒だ。平和な市民社会を、瞬時にパニック状態におとしめる、テロだ。取引会社の都合なんて、何の斟酌(しんしゃく)もなく。これこそ、テロですよと主張する金融機関の担当者の言辞は全く当を得ているように思うのは、私だけだろうか。
2008年3月22日土曜日
連帯保証人はキツかあ!!
先日、大学のクラブの後輩と横浜で会った。話は次の様な事だった。
後輩は大学を卒業して、父親が若い頃創業してその経営権のバトンタッチを受けた兄が社長をしている会社に入社した。生業は、魚産物の卸と小売だ。約30年前のことです。当時もその会社は経済的には大変だったのだが、父親はここで倒産するとたくさんの人に迷惑をかけることになるので、もう一(ひと)頑張りしようや、ということで、金融機関にも借金の先延ばしをしてもらい、兄弟がタッグを組んでここまでやってきた。この先延ばしの際に、会社の借入金に兄と弟である後輩が連帯保証をしたのです。当初は頑張ればなんとかなると考えていたのだろうが、その後世の中、流通とくに物販については根本的にそのシステムは激変した。昔ながらの魚屋さん、八百屋さん、雑貨屋さん、肉屋さんからは客離れがして、大駐車場を備えたスーパーやショッピングセンターに客は奪われた。私の住んでいる住宅地にある分譲当時からの商店街には、今、買い物客の人影はない。30年前、私がここに引っ越してきたときには、魚屋に寄って八百屋に寄って酒屋さんに寄って帰ったものです。魚屋さんに海産物を卸して廻っていた後輩の会社も、その取扱量がガタガタに減って、商売は、陽が翳(かげ)っていく一方だった。
そして、ここへきて、ギブアップ。2回目の不渡りを2週間前に出したのです。
私と後輩は実は1ヶ月前に後輩たちの同窓会で会っているのです。その1年に1度の同窓会というのは、後輩と前後して卒業した気の合う者たちが集まって、サッカーの試合を楽しんで、その後昔話に花を咲かせては、鱈腹酒を飲むのです。私にとって仕事関係以外では唯一楽しみにしている集いなのです。
後輩はその会の帰途、自宅に向かっている最中に、奥さんから電話を受けたのです。「お義兄(にい)さんがやってきて、会社が倒産することになった。会社は破産、俺も破産するのでT(後輩)に言っておいてくれ」と。突然の話でもあるし、事が重大すぎることに後輩の奥さんは驚いた。何が起ころうとしているのか、心配で心配で、とにかく夫である後輩に話さなくてはならないと思い、彼に携帯電話をかけた。そうだったのか。突然、そんな無茶な話ってないよな。自宅に着いて夫婦で話し合った後、私のことを思いついて、私に電話してきた。私は後輩たちの状況の詳細が知らされる前に、大好きな後輩だったから、つい気を許してしまい、開口一番怒鳴ってしまった。なぜ、そんな大事なことを、同窓会で会ったときに俺に言わなかったのだと詰めた。この類の処理では、時間との戦いが大事であることを日常の業務で私は知っているからだ。突然だったのだ。
このような事態になって、最初電話を受けてから2,3日後に横浜で、後輩夫婦に会うことになった。詳細に聞いて、私なりに今後の想定される手続きを話した。そして、永い付き合いの司法書士さんにも、アドバイスをもらった。この司法書士さんに会わせて、ガタガタしてもしょうがないから、落ち着いて事に当たりなさい、と安心するように言って貰うのが、私の作戦でもあったのです。奥さんにも、少しはリラックスしてもらえたようだと、私は満足した。懇意にしていただいている弁護士さんのなかで、黒田弁護士がこの案件には適していると考えて、弁護士事務所へ後輩夫婦を案内した。
弁護士事務所で言われたことは、私なりに想定していた内容と同じだったが、ここであらためて書き置くことにした。①連帯保証とは、保証人が主たる債務者と連帯する保証債務のことです。人的保証です。②催告の抗弁権をもたない。債権者は主たる債務者に対して催告をしないで、いきなり連帯保証人に請求することができる。よって、債権者の求めに応じて直ちに連帯保証人が主たる債務者に代わって弁済しなければならない。③検索の抗弁権をもたない。債権者は主たる債務者に対して執行しないでいきなり連帯保証人に請求することができる。④共同連帯保証人がいるからといって持分のみで良いと考えてはいけない。⑤但し、一括弁済したときには他の連帯保証人に対して求償できる権利は持っているが、権利を行使する前に自らが悲惨な状態に陥る危険性が高いということを認識する必要がある。⑥このような事態を想定するならば、決して連帯保証人になってはならない。ーーー①~⑥はインターネットにのっていた文章を引用させていただいたが、黒田弁護士から伺った内容もこの通りだった。
奥さんの真面目さが、私には新鮮でまぶしかった。永い間、このような生真面目な人を見たことがなかったような気がした。久しぶりだ。彼女は、筋肉がドンドン弱っていくという難病に罹った実父の長期にわたる介護を一手に引き受けてきた。数年前に父はなくなったが、その看護の献身ぶりには、後輩も感服したと言っていた。その間に夫婦仲は一時的に壊れましたと後輩は苦笑していた。その父が娘夫婦の住宅の庭に、生前大事にしていた庭木をプレゼントしてくれた。この家で、家族が悩んだり、励まし合ったりして暮らしてきました。子供もこの家で、私に叱られたり、褒められたり、子供等は私が言うのも変ですが、いい子に育ってくれました。この家は、そんなうちの家族の全ての証人でもあるのです。庭木はお父さんなのです。いつも、我が家を心配しながら、見守っていてくれているのです。そんなこんなで、私はこの家を絶対手放す訳にはいかないのです、と言い切った。彼女の強い意志に心が打たれた。
後輩は、どういう立場で経営に参加していたか分からないのだが、法人登記簿の欄に取締役と登記されていて、取引の相手先に専務取締役と肩書きされた名刺を差し出しているようでは、商法上も立派な経営者だ。例え、社長の補佐的な立場だったといえども。でも後輩は、社業が思わしくなくなってきたのを機に、社長と話し合った結果2年ほど前に会社を退社して、友人の会社に勤めを変えたのです。そして、後輩はかって取締役をやっていた会社のことはすっかり忘れて、自分に与えられた職場で頑張っていた。職場が変われば、今までよく似た業界にいたといえども、学ばなくてはならないものが多くあって、それなりに刺激があって生活は充実していた。今までの経験が活かせて、職場の若手社員には、先生役だ。
そんな矢先の出来事だった。そこで、後輩は連帯保証人たる意味を復習して、それなりに大体は理解できたけれども、この先予想される事態はいかに?頭のなかは不安だらけで、他のことは何も入らない。何も手につかない状態なのです、と赤信号を私に向けて点けてきた。
後輩の会社の借り入れ資金に関する連帯債務の内容を調べてみると、連帯債務を負う借入金は2行(アとイ)の銀行からのもので、アは多額だけれどもイは割りと少額だった。後輩の自宅にはイからの住宅購入資金のローンが借り入れた当時は1500万だったが、今では残高が600万円に減っていた。自宅の土地建物にはそのイのみの抵当権しかついていなかったのが、幸いだった。私はイの担当者に電話をして、後輩の家を買いたいので幾ら支払えば、抵当権をはずしてくれますか?と聞いてみた。その内容は個人情報なのであなたには答えられない、とのことだった。当然の話だ。私との電話を終えてすぐに、イの担当者は、後輩の自宅を訪れ、内容の全てを知るためにあれこれ情報を求めたらしい。後輩の兄の会社が不渡りを出したことは、金融機関なら当たり前に知っていて、自らの銀行もその会社からの回収の方法を考えていたのだろう。否、回収できないと諦めていたのかも知れない。でも、この後輩からは、少しでも回収できそうな可能性がある、とも考えていたと思われる。今後、当行からは、きつい表現で申し訳ないのですが、文書が次々に届きますからよろしく、とも言った。自宅の土地建物についている抵当権を抹消するには、残高600万円と、連帯債務されている金額を揃えていただかないと抹消できません、これが当行の結論です、と言い置いて帰った。連帯債務をしているイの借入金額は、前の方で少額だと書いたけれども、それは私の不動産屋としての一般的な考え方だけれども、リストラを受けての再就職、それも50半ばの給料では、それは大変な高額なものになる。その二つを加算した金額は、到底一度には返済できない金額だった。
う~ん、じゃ、どうするか?。後輩の奥さんはこの家を絶対離れたくない、放したくないと言い切る。私と後輩とは35年の付き合いだ。大好きな後輩だ。なんとかしてやりたい。
イは後輩がかって役員をしていた会社からは回収が困難になると予想しているだろう。が、後輩の身辺の状況から、後輩からはいくばくかの回収は可能だと目論む。時間が経過していくと、連帯保証人の資産、会社の資産が管財人の管理下になっていく。そうなると、後輩の自宅もガチャガチャになる。ガチャガチャになると言ったって、何も物理的に乱されるということではなく、権利関係において民事訴訟法の手続きに進んで行くということです。法的な手続きに入るということです。言い換えれば、利害関係者間の話し合いは、もうできないっということなのです。そうなったら、イの目論見は雲散霧消だ。イも焦っている筈だ。
私は、イにお伺いするためにアポイントをとった。どうか、早い時期に、私たちの提案に承諾していただきたい。時機を逃すと、御行の回収は目減りする一方ですよ。アが次の手を打ってこないうちに、やっちゃいましょうよ。私は熱く説得した。融資の担当者も支店長も、私の話を真剣に聞き耳を立ててくれた。抵当権を抹消して欲しい当方の提示額を、何とかあと少し伸ばしていただけないでしょうか?敵はなかなか諦めてくれない、どこまでも食い下がってくる。支店長は、後輩に詰め寄る。後輩は答えた。私の一存ではどうにもなりません、このたびのことは、私が原因を作った張本人なのですから。痺れをきらしたイ側は、解りました、あなたたちの提示額で本部に決裁を求めるべく稟議を上げてみましょう、ということになった。そうして稟議は予定通りで決裁され、本日、抹消登記を終えた。
ここで、やっと私が世間に問いたい本論に入れることになる。それは連帯保証のことです。私のような中小企業の代表取締役で、事業の前線部隊の隊長を任されている者にとって、会社の事業資金の借り入れに際して、その債務に連帯保証を求められるのが、原則になっているようで、私はそれなりに理解している。--のですが、この連帯保証ということについて考えてみたいと思う。
債務が続く限りいつまでも、いつまでも連帯保証は続くものなのですか?連帯保証人は、加齢、病気、怪我による身の回りの事情が変化することだってある。経済的事情も変化する。主たる債務者との人間関係も変化する。そんな事情の変化にもかかわらず連帯保証は厳然といき続けるものなのですか。連帯保証を降りたいと思いつたら、どうすればいいのですか?あなたでは連帯保証人には物足りなくなったので、代役を立ててください、と言ってくれるまで待つのですか。私には、もう連帯保証人が務まりませんと言って、聞き耳を持ってくれるのですか。
現在の金融システムでは、担保物件の評価が十分でも人的保証が求められ、連帯保証人にさせられることは、よく理解できます。物的保証以上の保証を人間(人的保証)に求めないで、その会社の内容に資金を貸す側の担保取りをすれば、済むことではないのか。何が何でも人的保証をなくせ、とは言ってはいないのですが。又、どうしても追加保証を求めたいときには、せめて保証人の有する資産の範囲内に限るようにすべきではないか。
後輩は大学を卒業して、父親が若い頃創業してその経営権のバトンタッチを受けた兄が社長をしている会社に入社した。生業は、魚産物の卸と小売だ。約30年前のことです。当時もその会社は経済的には大変だったのだが、父親はここで倒産するとたくさんの人に迷惑をかけることになるので、もう一(ひと)頑張りしようや、ということで、金融機関にも借金の先延ばしをしてもらい、兄弟がタッグを組んでここまでやってきた。この先延ばしの際に、会社の借入金に兄と弟である後輩が連帯保証をしたのです。当初は頑張ればなんとかなると考えていたのだろうが、その後世の中、流通とくに物販については根本的にそのシステムは激変した。昔ながらの魚屋さん、八百屋さん、雑貨屋さん、肉屋さんからは客離れがして、大駐車場を備えたスーパーやショッピングセンターに客は奪われた。私の住んでいる住宅地にある分譲当時からの商店街には、今、買い物客の人影はない。30年前、私がここに引っ越してきたときには、魚屋に寄って八百屋に寄って酒屋さんに寄って帰ったものです。魚屋さんに海産物を卸して廻っていた後輩の会社も、その取扱量がガタガタに減って、商売は、陽が翳(かげ)っていく一方だった。
そして、ここへきて、ギブアップ。2回目の不渡りを2週間前に出したのです。
私と後輩は実は1ヶ月前に後輩たちの同窓会で会っているのです。その1年に1度の同窓会というのは、後輩と前後して卒業した気の合う者たちが集まって、サッカーの試合を楽しんで、その後昔話に花を咲かせては、鱈腹酒を飲むのです。私にとって仕事関係以外では唯一楽しみにしている集いなのです。
後輩はその会の帰途、自宅に向かっている最中に、奥さんから電話を受けたのです。「お義兄(にい)さんがやってきて、会社が倒産することになった。会社は破産、俺も破産するのでT(後輩)に言っておいてくれ」と。突然の話でもあるし、事が重大すぎることに後輩の奥さんは驚いた。何が起ころうとしているのか、心配で心配で、とにかく夫である後輩に話さなくてはならないと思い、彼に携帯電話をかけた。そうだったのか。突然、そんな無茶な話ってないよな。自宅に着いて夫婦で話し合った後、私のことを思いついて、私に電話してきた。私は後輩たちの状況の詳細が知らされる前に、大好きな後輩だったから、つい気を許してしまい、開口一番怒鳴ってしまった。なぜ、そんな大事なことを、同窓会で会ったときに俺に言わなかったのだと詰めた。この類の処理では、時間との戦いが大事であることを日常の業務で私は知っているからだ。突然だったのだ。
このような事態になって、最初電話を受けてから2,3日後に横浜で、後輩夫婦に会うことになった。詳細に聞いて、私なりに今後の想定される手続きを話した。そして、永い付き合いの司法書士さんにも、アドバイスをもらった。この司法書士さんに会わせて、ガタガタしてもしょうがないから、落ち着いて事に当たりなさい、と安心するように言って貰うのが、私の作戦でもあったのです。奥さんにも、少しはリラックスしてもらえたようだと、私は満足した。懇意にしていただいている弁護士さんのなかで、黒田弁護士がこの案件には適していると考えて、弁護士事務所へ後輩夫婦を案内した。
弁護士事務所で言われたことは、私なりに想定していた内容と同じだったが、ここであらためて書き置くことにした。①連帯保証とは、保証人が主たる債務者と連帯する保証債務のことです。人的保証です。②催告の抗弁権をもたない。債権者は主たる債務者に対して催告をしないで、いきなり連帯保証人に請求することができる。よって、債権者の求めに応じて直ちに連帯保証人が主たる債務者に代わって弁済しなければならない。③検索の抗弁権をもたない。債権者は主たる債務者に対して執行しないでいきなり連帯保証人に請求することができる。④共同連帯保証人がいるからといって持分のみで良いと考えてはいけない。⑤但し、一括弁済したときには他の連帯保証人に対して求償できる権利は持っているが、権利を行使する前に自らが悲惨な状態に陥る危険性が高いということを認識する必要がある。⑥このような事態を想定するならば、決して連帯保証人になってはならない。ーーー①~⑥はインターネットにのっていた文章を引用させていただいたが、黒田弁護士から伺った内容もこの通りだった。
奥さんの真面目さが、私には新鮮でまぶしかった。永い間、このような生真面目な人を見たことがなかったような気がした。久しぶりだ。彼女は、筋肉がドンドン弱っていくという難病に罹った実父の長期にわたる介護を一手に引き受けてきた。数年前に父はなくなったが、その看護の献身ぶりには、後輩も感服したと言っていた。その間に夫婦仲は一時的に壊れましたと後輩は苦笑していた。その父が娘夫婦の住宅の庭に、生前大事にしていた庭木をプレゼントしてくれた。この家で、家族が悩んだり、励まし合ったりして暮らしてきました。子供もこの家で、私に叱られたり、褒められたり、子供等は私が言うのも変ですが、いい子に育ってくれました。この家は、そんなうちの家族の全ての証人でもあるのです。庭木はお父さんなのです。いつも、我が家を心配しながら、見守っていてくれているのです。そんなこんなで、私はこの家を絶対手放す訳にはいかないのです、と言い切った。彼女の強い意志に心が打たれた。
後輩は、どういう立場で経営に参加していたか分からないのだが、法人登記簿の欄に取締役と登記されていて、取引の相手先に専務取締役と肩書きされた名刺を差し出しているようでは、商法上も立派な経営者だ。例え、社長の補佐的な立場だったといえども。でも後輩は、社業が思わしくなくなってきたのを機に、社長と話し合った結果2年ほど前に会社を退社して、友人の会社に勤めを変えたのです。そして、後輩はかって取締役をやっていた会社のことはすっかり忘れて、自分に与えられた職場で頑張っていた。職場が変われば、今までよく似た業界にいたといえども、学ばなくてはならないものが多くあって、それなりに刺激があって生活は充実していた。今までの経験が活かせて、職場の若手社員には、先生役だ。
そんな矢先の出来事だった。そこで、後輩は連帯保証人たる意味を復習して、それなりに大体は理解できたけれども、この先予想される事態はいかに?頭のなかは不安だらけで、他のことは何も入らない。何も手につかない状態なのです、と赤信号を私に向けて点けてきた。
後輩の会社の借り入れ資金に関する連帯債務の内容を調べてみると、連帯債務を負う借入金は2行(アとイ)の銀行からのもので、アは多額だけれどもイは割りと少額だった。後輩の自宅にはイからの住宅購入資金のローンが借り入れた当時は1500万だったが、今では残高が600万円に減っていた。自宅の土地建物にはそのイのみの抵当権しかついていなかったのが、幸いだった。私はイの担当者に電話をして、後輩の家を買いたいので幾ら支払えば、抵当権をはずしてくれますか?と聞いてみた。その内容は個人情報なのであなたには答えられない、とのことだった。当然の話だ。私との電話を終えてすぐに、イの担当者は、後輩の自宅を訪れ、内容の全てを知るためにあれこれ情報を求めたらしい。後輩の兄の会社が不渡りを出したことは、金融機関なら当たり前に知っていて、自らの銀行もその会社からの回収の方法を考えていたのだろう。否、回収できないと諦めていたのかも知れない。でも、この後輩からは、少しでも回収できそうな可能性がある、とも考えていたと思われる。今後、当行からは、きつい表現で申し訳ないのですが、文書が次々に届きますからよろしく、とも言った。自宅の土地建物についている抵当権を抹消するには、残高600万円と、連帯債務されている金額を揃えていただかないと抹消できません、これが当行の結論です、と言い置いて帰った。連帯債務をしているイの借入金額は、前の方で少額だと書いたけれども、それは私の不動産屋としての一般的な考え方だけれども、リストラを受けての再就職、それも50半ばの給料では、それは大変な高額なものになる。その二つを加算した金額は、到底一度には返済できない金額だった。
う~ん、じゃ、どうするか?。後輩の奥さんはこの家を絶対離れたくない、放したくないと言い切る。私と後輩とは35年の付き合いだ。大好きな後輩だ。なんとかしてやりたい。
イは後輩がかって役員をしていた会社からは回収が困難になると予想しているだろう。が、後輩の身辺の状況から、後輩からはいくばくかの回収は可能だと目論む。時間が経過していくと、連帯保証人の資産、会社の資産が管財人の管理下になっていく。そうなると、後輩の自宅もガチャガチャになる。ガチャガチャになると言ったって、何も物理的に乱されるということではなく、権利関係において民事訴訟法の手続きに進んで行くということです。法的な手続きに入るということです。言い換えれば、利害関係者間の話し合いは、もうできないっということなのです。そうなったら、イの目論見は雲散霧消だ。イも焦っている筈だ。
私は、イにお伺いするためにアポイントをとった。どうか、早い時期に、私たちの提案に承諾していただきたい。時機を逃すと、御行の回収は目減りする一方ですよ。アが次の手を打ってこないうちに、やっちゃいましょうよ。私は熱く説得した。融資の担当者も支店長も、私の話を真剣に聞き耳を立ててくれた。抵当権を抹消して欲しい当方の提示額を、何とかあと少し伸ばしていただけないでしょうか?敵はなかなか諦めてくれない、どこまでも食い下がってくる。支店長は、後輩に詰め寄る。後輩は答えた。私の一存ではどうにもなりません、このたびのことは、私が原因を作った張本人なのですから。痺れをきらしたイ側は、解りました、あなたたちの提示額で本部に決裁を求めるべく稟議を上げてみましょう、ということになった。そうして稟議は予定通りで決裁され、本日、抹消登記を終えた。
ここで、やっと私が世間に問いたい本論に入れることになる。それは連帯保証のことです。私のような中小企業の代表取締役で、事業の前線部隊の隊長を任されている者にとって、会社の事業資金の借り入れに際して、その債務に連帯保証を求められるのが、原則になっているようで、私はそれなりに理解している。--のですが、この連帯保証ということについて考えてみたいと思う。
債務が続く限りいつまでも、いつまでも連帯保証は続くものなのですか?連帯保証人は、加齢、病気、怪我による身の回りの事情が変化することだってある。経済的事情も変化する。主たる債務者との人間関係も変化する。そんな事情の変化にもかかわらず連帯保証は厳然といき続けるものなのですか。連帯保証を降りたいと思いつたら、どうすればいいのですか?あなたでは連帯保証人には物足りなくなったので、代役を立ててください、と言ってくれるまで待つのですか。私には、もう連帯保証人が務まりませんと言って、聞き耳を持ってくれるのですか。
現在の金融システムでは、担保物件の評価が十分でも人的保証が求められ、連帯保証人にさせられることは、よく理解できます。物的保証以上の保証を人間(人的保証)に求めないで、その会社の内容に資金を貸す側の担保取りをすれば、済むことではないのか。何が何でも人的保証をなくせ、とは言ってはいないのですが。又、どうしても追加保証を求めたいときには、せめて保証人の有する資産の範囲内に限るようにすべきではないか。
2008年3月6日木曜日
どこまで、鈍感なんだ。
鈍感な会社ぶりを見事に発揮してくれたではないか。さすが、立派な会社だ。
今回は、日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会をめぐり、グランドプリンス新高輪が、いったん予約を受けた会場の使用を拒んだことだ。宿泊客の安全を重視し、会場の使用を認めた裁判所の判断に従わなかったことを、記者会見で説明した。あたかも、自分たちには,責められることは何もないのだといわんばかりに。会見したのは、プリンスホテルや西武鉄道を統括する西武ホールディングスの後藤高志社長とプリンスホテルの渡辺幸弘社長だ。
営業の窓口になった担当者は、当初予約を受ける際に、上司に報告して了解を求めたと言っているそうだ。担当者や上司は、週ごとの、月ごとの営業会議で報告して、その施設の最高責任者も承諾した上で、ことは進められだのだと思う。受付をした担当者は、会社に居ずらくなって退社した。正直な担当者をみんなでいじめたのだろう。この会社には、昔から「この野郎」と目星をつけらると、居られない雰囲気を醸し出すのです。ヒステリックに。日教組の教研集会では、毎年街宣車が多数駆けつけることは、誰もが知っていることだ。このことも、社内では当然議論された。その上で、内金を受領しているのです。それを、日教組側がどれほど混乱を招くか説明を事前に十分しなかったという民法上の説明義務違反があったなんて、よくも白々しいことを言うもんだ。裁判所が下した会場使用を認めた仮処分に対しても「正しいとは思っていない。日教組が11月まで何の説明もしてこないのは異常。裁判所にもそこを分かって欲しい」なんて述べた。社内ではそんなことにはなっていない。司法の判断をこれほど軽視していいものなんですかね。
私には、まずは日教組に対して謝罪をして、それからいろいろ検討した結果受けられなかったのだというならば、そういうこともあるよなあ、と理解に努めることはできたのだが。この会見は、むしろプリンスホテルが日教組に抗議しているように見えた。日教組が悪いことをして叱られているようだった。
何かが可笑しいぞ。
それからホテルは、日教組の組合員の宿泊も断っており、旅館業法の疑いももたれている。このことを知ったとき、ピ~ンと頭に思い浮かんだのは、元ハンセン病患者の宿泊を拒否して営業停止の処分を受けた熊本か宮崎の宿泊施設のことだ。この施設の責任者も当初は、何やら発言したのだが、ことの重大性を悟り、前言の誤りに謝罪し頭を深く下げた。この事件も、宿泊施設の運営に関っている者ならば、誰もが知っている。その後、この宿泊施設の運営会社は倒産したと聞いた。
この会社の恐ろしいことは、社会から批判を受けても平気の平左衛門でいられることなのです。謝罪することも過去に何回もあったけれども、そのどれもが、我が心其処にあらずの態(てい)で頭を下げた。他人事のように。
少し前のことを思い出してください。
この会社の創業2代目社長が、証券取引法違反で頭を下げた会見が印象深い。偉大な父親が創業して、一時的といえども世界一金持ちだったこともある会社を、俺は辞めるから、後はみなに任せると身を引いた、その無責任ぶりには、おったまげた。それからグループ内のプロ野球球団が野球協約違反で頭を下げたときのことです。これは太田秀和社長だった。私が宣伝部だったとき、となりのブーツがプリンスホテルの総務部で、彼は総務の仕事の一環として野球部の仕事をしていた。この太田社長も創業2代目社長も、アンタ本気なのか、と疑いたくなるほど平気な顔面(かおつら)で頭を下げた。本気で悪いと、反省しているのだろうか?
創業2代目がそうなら、関連会社の社長も推して知るべしだ。そして今回も、同じだ。
この会社は、私が学校を卒業して、夢を胸いっぱいに膨らませて入社した会社です。その会社の余りのくだらなさにイヤ気がさして、昭和59年初夏、9年7ヶ月お世話になって退社した。隙間風が吹いたのです。某電鉄会社の親会社でした。観光レジャーにおいて、その事業展開に凄まじいものがありました。私はその拡大されていく事業の宣伝を担当するセクションに5年程従事したのです。宣伝部に配属された当時は、目につくもの、やること、全てが興味や関心をそそるもので、仕事の内容については楽しくてしょうがなかった。上司からは訳のわからないほど怒鳴られ、取引会社の担当者からは気の毒がられ、後輩からは激励され、心ある先輩からは同情され、それでも元気に頑張っていました。私の出身は京都府でも琵琶湖寄りだったので、近江地区でオープンするホテルの宣伝物の担当を命じられたときには、深夜12時ごろまで働いた。面白かった、楽しかった。仕事をさせてもらって、給料もらって、申し分なかったのですが、---。その宣伝部時代に、プリンスホテルの社長さんの渡辺幸弘さんと同室で仕事をしたのです。その渡辺社長が、今回の日教組との経緯の説明をするための記者会見に現れたので、懐かしい思いが吹っ飛んで、ああ、やっぱりなあ、と口ずさんでしまった。渡辺社長だけでないのですが、この会社ではコンプライアンス(法令順守)、「世間の常識」についての意識が希薄なのです。入社して、中間管理職、上級管理職、役員に上り詰める過程で、学習をするということが抜け落ちたままで進んで行く、世にも珍しい会社なのです。そのパターンを創業2代目社長が、学生時代の仲間と偏狭な論理を基に作り上げた。外部からの賢者も、サポーターも求めなかった。最後は惨めな裸の王様になるのです。
今から振り返って、思い返せば上司と名のつく人間たちは、何かに追われていたような気がする。幹部は魔物に取り憑かれていた。単細胞人間が、みんなを単細胞化していった。その魔物の存在に脅えていた。その魔物は、その会社の創業2代目社長さんのことだ。
2代目は、偉大な創業者の良いところは習わないで、くだらないことばかり猿真似をしていました。例えば、女をあっちこっちに囲うことや、会社の施設を個人的に使って憚らない。調整区域内では社員研修所としてしか許可が得られなかった建物は、壁が大理石で本宅用として居住に使われている。お前たちは、何も考えなくてもいいのだ。考えるのは、私だ。こんな調子で箱物だけを、ドンドン作り続けた。ソフト面はお構いなし。私が2年間働いた事業所では、支配人は、皿も、テントの色も、テーブルさえも自ら決めるのではなく、創業2代目社長に判断をあおいだ。俺は、与えられたものをキチンと守るだけでいいのだと、定年まで堅く勤めあげた。そこの支配人は、戦歌を歌いだしたら社員の誰をも圧倒 した、めでたい御仁でした。こんな人しか生き残れない会社だったのです!!
上記の内容を公開した翌日に、以前プリンスホテルに勤めて辞めた友人に会った。これからは、彼が話してくれたことです。JRのとある駅の構内に建築したホテルの責任者が、開業に際して、近隣で同業者でもあるプリンスホテルに挨拶に行かれたそうだ。そしたら、JRの責任者は、応対したプリンスホテルの支配人の腕輪が余りにも目立ったので、私は驚きましたと言っておられたそうだ。「なんじゃ、あれは?」とは言っていないそうだが、私にはそんな言葉がなんとなく聞こえてきそうだ。私には興味がないのですが、お坊さんが使っているような大きな数珠のようなものです。ヒスイを材料にして幸運にあやかりたいとか、マグネットのようなもので血流をよくする効用があるとか、結構流行っている、あれです。私には偏見があって、あれは普通の人は身につけないもんだ、と思っていました。日本のビジネス社会では、初めて会うと、まずは名詞を交換するのが慣わしです。その時に、大きな数珠まがいのものを見せられたら、相手は戸惑うことぐらい、考慮しなくてはいけないのではないか。この支配人は、先にに書いた戦歌を歌いだしたら、誰をも脱帽させる支配人とは、大学のクラブの先輩と後輩の関係だ。こりゃ、しょうがないのかなあ。
2008 2 28朝日朝刊 社説
プリンスホテル 少し勇気をだしたなら
「日教組(日本教職員組合)に会場を貸すことはけしからんと知らしめることが一つの目的。我々が迷惑だという理由で貸すのを断念したとしても、それはそれで結果が出た」
これはある右翼幹部の言葉である。
東京のグランドプリンスホテル新高輪が日教組に教育研究集会の会場を貸すのを断ったことは、右翼団体の思うつぼだったのだ。街宣車で騒音をまきちらし、威圧的に走り回れば、集会をつぶせるという悪い前例を残してしまった。
そうしたことをプリンスホテルはいくらかでも反省しているのかと思っていたのだが、そうではなかった。ホテルの社長や親会社の社長が初めて会見し、「ホテル側としての安心安全を考えることも同義的責任」と述べ、会場使用を断ったことの正当性を改めて主張した。
会場に使わせよ、という裁判所の命令についても、プリンスホテルは「正しいとは思っていない」と述べ、命令を無視したことの非を認めなかった。
ホテルの周辺に街宣車が押しかければ、泊り客や結婚式の客だけでなく、周辺地域にも迷惑となる。当日は多くの学校で入学試験が予定されており、道路が封鎖されれば、会場に向かう受験生らが混乱する。それらが、いったん受付た予約を取り消した理由だった。
ホテル側の心配はわからないわけではない。しかし、社会の一員として考えてもらいたいことがある。
ホテルに影響があるにしても、悪いのは日教組の集会ではない。我がもの顔で走り廻る街宣車こそ、批判されるべきものだ。右翼の横暴に屈すれば、集会を開けるところがますます少なくなってしまう。それは健全な社会とはいえない。
ホテル側は「集会の自由」について「民間に会場提供を強制するものではない」と主張している。そうだとしても、言論や集会の自由とはまったく無関係という顔をしていいのだろうか。
ホテルが挙げる混乱についても、裁判所は「日教組や警察と十分打ち合わせをすれば、防げる」と判断した。
世の中の理不尽な行為に対しては、警察の協力を得て、立ち向かう。日本を代表するホテルの一つであればこそ、そうした姿勢を示して欲しいと思うのだ。
ふだんは、日教組に辛口な新聞も含め、多くのメディがプリンスホテルの姿勢を厳しく批判したのも、著名なホテルの社会的責任を重く見てのことだろう。
驚いたのは、集会参加の教師等の宿泊予約も取り消していたことだ。ホテル側は「会場使用と一体」というが、風紀を乱す恐れがある場合などを除いて宿泊は拒否できない。旅館業法違反の疑いが濃いと厚生労働省が述べたのも当然だ。もしプリンスホテルが右翼の横暴に対して少しの勇気を見せたなら、広く社会の共感を呼び、応援する市民や組織も出てくるだろう。それは健全な市民社会に勇気を与えることにもなるはずだ。
2008 2 29の朝日朝刊 天声人語にも取り上げられた。以下の通り
司法判断に従わず日教組の教研集会に会場を貸さなかったグランドプリンスホテル新高輪に、東工大の橋爪大三郎教授が喝。「いったん約束したら、体張っても客を守るのがホテルの責任ーー近所の迷惑とかと言い始める江戸時代の発想では困るのだ」
今回は、日本教職員組合(日教組)の教育研究全国集会をめぐり、グランドプリンス新高輪が、いったん予約を受けた会場の使用を拒んだことだ。宿泊客の安全を重視し、会場の使用を認めた裁判所の判断に従わなかったことを、記者会見で説明した。あたかも、自分たちには,責められることは何もないのだといわんばかりに。会見したのは、プリンスホテルや西武鉄道を統括する西武ホールディングスの後藤高志社長とプリンスホテルの渡辺幸弘社長だ。
営業の窓口になった担当者は、当初予約を受ける際に、上司に報告して了解を求めたと言っているそうだ。担当者や上司は、週ごとの、月ごとの営業会議で報告して、その施設の最高責任者も承諾した上で、ことは進められだのだと思う。受付をした担当者は、会社に居ずらくなって退社した。正直な担当者をみんなでいじめたのだろう。この会社には、昔から「この野郎」と目星をつけらると、居られない雰囲気を醸し出すのです。ヒステリックに。日教組の教研集会では、毎年街宣車が多数駆けつけることは、誰もが知っていることだ。このことも、社内では当然議論された。その上で、内金を受領しているのです。それを、日教組側がどれほど混乱を招くか説明を事前に十分しなかったという民法上の説明義務違反があったなんて、よくも白々しいことを言うもんだ。裁判所が下した会場使用を認めた仮処分に対しても「正しいとは思っていない。日教組が11月まで何の説明もしてこないのは異常。裁判所にもそこを分かって欲しい」なんて述べた。社内ではそんなことにはなっていない。司法の判断をこれほど軽視していいものなんですかね。
私には、まずは日教組に対して謝罪をして、それからいろいろ検討した結果受けられなかったのだというならば、そういうこともあるよなあ、と理解に努めることはできたのだが。この会見は、むしろプリンスホテルが日教組に抗議しているように見えた。日教組が悪いことをして叱られているようだった。
何かが可笑しいぞ。
それからホテルは、日教組の組合員の宿泊も断っており、旅館業法の疑いももたれている。このことを知ったとき、ピ~ンと頭に思い浮かんだのは、元ハンセン病患者の宿泊を拒否して営業停止の処分を受けた熊本か宮崎の宿泊施設のことだ。この施設の責任者も当初は、何やら発言したのだが、ことの重大性を悟り、前言の誤りに謝罪し頭を深く下げた。この事件も、宿泊施設の運営に関っている者ならば、誰もが知っている。その後、この宿泊施設の運営会社は倒産したと聞いた。
この会社の恐ろしいことは、社会から批判を受けても平気の平左衛門でいられることなのです。謝罪することも過去に何回もあったけれども、そのどれもが、我が心其処にあらずの態(てい)で頭を下げた。他人事のように。
少し前のことを思い出してください。
この会社の創業2代目社長が、証券取引法違反で頭を下げた会見が印象深い。偉大な父親が創業して、一時的といえども世界一金持ちだったこともある会社を、俺は辞めるから、後はみなに任せると身を引いた、その無責任ぶりには、おったまげた。それからグループ内のプロ野球球団が野球協約違反で頭を下げたときのことです。これは太田秀和社長だった。私が宣伝部だったとき、となりのブーツがプリンスホテルの総務部で、彼は総務の仕事の一環として野球部の仕事をしていた。この太田社長も創業2代目社長も、アンタ本気なのか、と疑いたくなるほど平気な顔面(かおつら)で頭を下げた。本気で悪いと、反省しているのだろうか?
創業2代目がそうなら、関連会社の社長も推して知るべしだ。そして今回も、同じだ。
この会社は、私が学校を卒業して、夢を胸いっぱいに膨らませて入社した会社です。その会社の余りのくだらなさにイヤ気がさして、昭和59年初夏、9年7ヶ月お世話になって退社した。隙間風が吹いたのです。某電鉄会社の親会社でした。観光レジャーにおいて、その事業展開に凄まじいものがありました。私はその拡大されていく事業の宣伝を担当するセクションに5年程従事したのです。宣伝部に配属された当時は、目につくもの、やること、全てが興味や関心をそそるもので、仕事の内容については楽しくてしょうがなかった。上司からは訳のわからないほど怒鳴られ、取引会社の担当者からは気の毒がられ、後輩からは激励され、心ある先輩からは同情され、それでも元気に頑張っていました。私の出身は京都府でも琵琶湖寄りだったので、近江地区でオープンするホテルの宣伝物の担当を命じられたときには、深夜12時ごろまで働いた。面白かった、楽しかった。仕事をさせてもらって、給料もらって、申し分なかったのですが、---。その宣伝部時代に、プリンスホテルの社長さんの渡辺幸弘さんと同室で仕事をしたのです。その渡辺社長が、今回の日教組との経緯の説明をするための記者会見に現れたので、懐かしい思いが吹っ飛んで、ああ、やっぱりなあ、と口ずさんでしまった。渡辺社長だけでないのですが、この会社ではコンプライアンス(法令順守)、「世間の常識」についての意識が希薄なのです。入社して、中間管理職、上級管理職、役員に上り詰める過程で、学習をするということが抜け落ちたままで進んで行く、世にも珍しい会社なのです。そのパターンを創業2代目社長が、学生時代の仲間と偏狭な論理を基に作り上げた。外部からの賢者も、サポーターも求めなかった。最後は惨めな裸の王様になるのです。
今から振り返って、思い返せば上司と名のつく人間たちは、何かに追われていたような気がする。幹部は魔物に取り憑かれていた。単細胞人間が、みんなを単細胞化していった。その魔物の存在に脅えていた。その魔物は、その会社の創業2代目社長さんのことだ。
2代目は、偉大な創業者の良いところは習わないで、くだらないことばかり猿真似をしていました。例えば、女をあっちこっちに囲うことや、会社の施設を個人的に使って憚らない。調整区域内では社員研修所としてしか許可が得られなかった建物は、壁が大理石で本宅用として居住に使われている。お前たちは、何も考えなくてもいいのだ。考えるのは、私だ。こんな調子で箱物だけを、ドンドン作り続けた。ソフト面はお構いなし。私が2年間働いた事業所では、支配人は、皿も、テントの色も、テーブルさえも自ら決めるのではなく、創業2代目社長に判断をあおいだ。俺は、与えられたものをキチンと守るだけでいいのだと、定年まで堅く勤めあげた。そこの支配人は、戦歌を歌いだしたら社員の誰をも圧倒 した、めでたい御仁でした。こんな人しか生き残れない会社だったのです!!
上記の内容を公開した翌日に、以前プリンスホテルに勤めて辞めた友人に会った。これからは、彼が話してくれたことです。JRのとある駅の構内に建築したホテルの責任者が、開業に際して、近隣で同業者でもあるプリンスホテルに挨拶に行かれたそうだ。そしたら、JRの責任者は、応対したプリンスホテルの支配人の腕輪が余りにも目立ったので、私は驚きましたと言っておられたそうだ。「なんじゃ、あれは?」とは言っていないそうだが、私にはそんな言葉がなんとなく聞こえてきそうだ。私には興味がないのですが、お坊さんが使っているような大きな数珠のようなものです。ヒスイを材料にして幸運にあやかりたいとか、マグネットのようなもので血流をよくする効用があるとか、結構流行っている、あれです。私には偏見があって、あれは普通の人は身につけないもんだ、と思っていました。日本のビジネス社会では、初めて会うと、まずは名詞を交換するのが慣わしです。その時に、大きな数珠まがいのものを見せられたら、相手は戸惑うことぐらい、考慮しなくてはいけないのではないか。この支配人は、先にに書いた戦歌を歌いだしたら、誰をも脱帽させる支配人とは、大学のクラブの先輩と後輩の関係だ。こりゃ、しょうがないのかなあ。
2008 2 28朝日朝刊 社説
プリンスホテル 少し勇気をだしたなら
「日教組(日本教職員組合)に会場を貸すことはけしからんと知らしめることが一つの目的。我々が迷惑だという理由で貸すのを断念したとしても、それはそれで結果が出た」
これはある右翼幹部の言葉である。
東京のグランドプリンスホテル新高輪が日教組に教育研究集会の会場を貸すのを断ったことは、右翼団体の思うつぼだったのだ。街宣車で騒音をまきちらし、威圧的に走り回れば、集会をつぶせるという悪い前例を残してしまった。
そうしたことをプリンスホテルはいくらかでも反省しているのかと思っていたのだが、そうではなかった。ホテルの社長や親会社の社長が初めて会見し、「ホテル側としての安心安全を考えることも同義的責任」と述べ、会場使用を断ったことの正当性を改めて主張した。
会場に使わせよ、という裁判所の命令についても、プリンスホテルは「正しいとは思っていない」と述べ、命令を無視したことの非を認めなかった。
ホテルの周辺に街宣車が押しかければ、泊り客や結婚式の客だけでなく、周辺地域にも迷惑となる。当日は多くの学校で入学試験が予定されており、道路が封鎖されれば、会場に向かう受験生らが混乱する。それらが、いったん受付た予約を取り消した理由だった。
ホテル側の心配はわからないわけではない。しかし、社会の一員として考えてもらいたいことがある。
ホテルに影響があるにしても、悪いのは日教組の集会ではない。我がもの顔で走り廻る街宣車こそ、批判されるべきものだ。右翼の横暴に屈すれば、集会を開けるところがますます少なくなってしまう。それは健全な社会とはいえない。
ホテル側は「集会の自由」について「民間に会場提供を強制するものではない」と主張している。そうだとしても、言論や集会の自由とはまったく無関係という顔をしていいのだろうか。
ホテルが挙げる混乱についても、裁判所は「日教組や警察と十分打ち合わせをすれば、防げる」と判断した。
世の中の理不尽な行為に対しては、警察の協力を得て、立ち向かう。日本を代表するホテルの一つであればこそ、そうした姿勢を示して欲しいと思うのだ。
ふだんは、日教組に辛口な新聞も含め、多くのメディがプリンスホテルの姿勢を厳しく批判したのも、著名なホテルの社会的責任を重く見てのことだろう。
驚いたのは、集会参加の教師等の宿泊予約も取り消していたことだ。ホテル側は「会場使用と一体」というが、風紀を乱す恐れがある場合などを除いて宿泊は拒否できない。旅館業法違反の疑いが濃いと厚生労働省が述べたのも当然だ。もしプリンスホテルが右翼の横暴に対して少しの勇気を見せたなら、広く社会の共感を呼び、応援する市民や組織も出てくるだろう。それは健全な市民社会に勇気を与えることにもなるはずだ。
2008 2 29の朝日朝刊 天声人語にも取り上げられた。以下の通り
司法判断に従わず日教組の教研集会に会場を貸さなかったグランドプリンスホテル新高輪に、東工大の橋爪大三郎教授が喝。「いったん約束したら、体張っても客を守るのがホテルの責任ーー近所の迷惑とかと言い始める江戸時代の発想では困るのだ」
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