2010年1月17日日曜日

性同一性障害夫婦の「非嫡出子」

性同一性障害で女性から男性に戸籍上の性別を変えた夫が、第三者の精子を使って、妻との間に人工授精でもうけた子を法務省が「嫡出子」として認めなかった。このことを報じた新聞記事が、朝日新聞でも第一面で扱われていて、私も、こりゃどういうことだ? 何を法務省はヌかしているんだ!! と腑に落ちない気分でいた。

以前から性同一性障害のない健常な夫婦においては、第三者の精子を貰い受けた妻が産んだ子どもは、嫡出子と認められてきた。

法務省は、このような事例「性同一性障害の非嫡出子問題」は全国で6件あるが、「生物学的な父子関係がないのは明らか」として、嫡出子と認めない見解を示してきた、と新聞記事にあったが、生物学的な父子関係っていったい、どういうことなんだろう。

今回の法務省の判断に、性同一性障害者の団体からは、障害をもつ者に対する差別だと、法の下の平等に反するものだと猛烈な抗議が法務省に寄せられた。私の脳波も、この手の問題には、過剰に反応するのです。こりゃ差別ではないか、と直感で激怒した。

そして、数日(2~3日)後、千葉景子法務相は、今までの法務省の認定を見直す方針を明らかにした。

私は、この段になるまで放置しておいた法務省は批判されて当然だが、まあ、報道されてからと言えども、即、反応した千葉法相を認めたい。見直しのあり方には、「運用でできるか、解釈で可能か、法的措置が必要なのかも含めて検討しなければならない」と話した。

別件ですが、千葉法相には死刑執行の判こを押さないで欲しい。

私は、死刑執行廃止派なのです。

もう一つ別件ですがーーーー。

私は、保土ヶ谷区の権太坂に約30年前から住んでいるのです。ここは、神奈川選挙区。千葉景子法務相は、1986年、日本社会党から立候補して初当選した。私の住んでいる界隈で、選挙の度に建てられる立候補者のポスター掲示板でお会いする顔馴染みの政治家さんだ。今でこそ法務大臣ですからテレビや新聞でよくお見かけするのですが、それまでは、選挙用ポスターでしか知らなかった。私の息子が小学生だった頃、友達たちとその並んだ立候補者のポスターの一人ひとりに、この人には悪(あく)がある、この人には悪がないとか言って、遊んでいたのです。私が日頃、茶の間で政治家の悪口を言っているのを聞いて、知らず知らずのうちに、政治家を悪い奴と悪くない奴とに区別することを覚えてしまったようです。このことは、良かったことなのか、良くなかったことなのか。

千葉法相のことは、私の息子からはいつも高得点でした。「在日韓国人政治犯釈放署名」にて汚点があったにせよ、少年法の厳罰化反対、従軍慰安婦問題での取り組み、夫婦別姓制度推進、死刑廃止運動、永住外国人住民の法的地位向上推進、などの活動を私は頼もしく思っている。

だが、千葉法相が所属する民主党の幹事長が、自分の政治資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反事件で元秘書3人が逮捕され、東京地検からの任意の事情聴取に、忙しいからとか、囲碁とか、カラオケとか、理由にならない理由で応じていない。この強面(こわもて)幹事長に、いいかげんにして、検察庁に行きなさい、と発破をかけてくださいな。逮捕された3人の中には、現職の国会議員も含まれているのです。

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早速朝日新聞は反応した、社説でこの上の件を取り上げたのです。

20100114

朝日朝刊・社説

性同一性障害/千葉法相の妥当な判断

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結婚している男女が、第三者の精子を使って人工授精で子をもうけたら一般的には嫡出子だが、性同一性障害のため性を変えた夫と妻の場合は非嫡出子とする。こうした法務省の認定に、兵庫県宍粟(しそう)市に住む夫と妻は納得がいかなかった。

夫婦の強い思いを知った千葉景子法相は、現行の扱いを改善し、そうした子を夫婦の嫡出子として認める方向で検討することを表明した。

法相の判断を高く評価したい。

心と体の性が一致しない性同一性障害の人たちが、望む性別を社会的に選べるようにと2004年、性同一性障害特例法が施行された。

夫は手術を受け、特例法に基づいて戸籍上も男性となった。妻と法律上の婚姻関係を結んだ。

だが、第三者から精子提供を受けて妻が人工授精で産んだ子を、嫡出子として届けようとして待ったがかかった。夫がもとは女性なので、「遺伝的に父子関係がないのは明らか」として法務省が認めなかった。同様の例が特例法施行以来5件あるという。

法律上の婚姻関係にある男女を父母として生まれた子を嫡出子と呼ぶ。その例外とされたわけだ。

第三者の精子を使い人工授精で子をもうける夫婦は年100件以上。無精子症など夫側が原因の不妊症の治療として日本では60年前から行われ、1万人以上の子が生まれたという。

夫婦の間にできたこれらの子は通常、嫡出子として出生届けが受け付けられている。

特例法は、性を変更した後は新たな性別で民法の適用を受けるとしている。親子関係について差別を受けるのは不合理だ。法相もそうした判断したのだろう。

障壁を乗り越えて心と社会的性別を一致させ、結婚した夫と妻が子どもを持ちたいと思うのは自然だ。性同一性障害で戸籍上の性を変えた男女は1400人以上いる。

同じ障害に悩む人はさらに多い。これからも宍粟市の事例のような夫婦は増えるだろう。

千葉法相が示した見直しの表現には運用の変更、法改正などいくつか方策があろう。早急に詰め、他の5例についても調査し、救済してほしい。

法務省が性同一性障害の夫を別扱いしようとしたのは、民法が子どもは生来の男女の自然生殖で生まれるものだという前提に立っているからだ。だが現実には、民法が制定された明治には想定されなかったような状況で生まれる子が増えている。

医療の進歩によって、これまで子どもを持てなかったようなカップルが子どもを持てる時代になった。それによりそった法律の考え方がもっと論じられていい。

ずっとあなたを愛してる

 

年の瀬の30日、三女の苑に一緒に映画を観に行かないかと誘っても、乗ってこなかった。この時期に誘う相手が思い付かなくて、午前中は会社でビールを飲んで、新聞読んで、インスタントラーメンを食って、一人で出かけた。

銀座テアトルシネマ、上映は13:20からだった。

切符の売り場がやけに混んでいて、ロビーにも人が溢れていた。最前列しか空席はありませんが、どうしますか?と問われ、そのことにはしょうがないとは思ったのでが、それよりも、何故、大晦日の一日前だというのに、この混雑振りは!!。東京は、私の常識が通用しないのか、と嘆息した。初老の女性たちが目立った。正月の準備はしなくてもいいのですか?掃除は、終わったのですか?そんなことを考えた。そんなことを考えている私だって、こんな処で映画なんか観ていていいの、と聞かれそうだ。

私の隣のオジサンは、予告編は真剣に観ていたのですが、この本番が始まったときから居眠りを始めた。黙って目を瞑っていてくれれば、何も文句はないのですが、このオヤジの鼾(いびき)の大きさには悩まされた。

この映画の感想を、泣いた、優しかった、愛は強かった、そんなことを文章にまとめなくちゃイカンなあと思いつつ正月の宴会シリーズに突入したものですから、手付かずにしていたら、朝日新聞・文化欄でこの映画の講評が掲載されていた。沢木耕太郎さんの文章はさすがに当を得ていて、こんな文章を読んでしまうと、私は文字を綴ることはできない。

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映画の内容(ストーリー)を紹介するのに、銀座テアトルシネマの映画案内の文章を転載させていただいた。

刑期を終えたジュリエットは、妹のレアー家に身を寄せる。長い空白期間を経て再会した姉妹はぎこちなく、ジュリエットはレアの夫や娘たちとも距離を置く。しかし、献身的な妹、無垢な姪に触れ、次第に自分の真実をレアに明かす瞬間が訪れる。--なぜ愛する息子を手に掛けねばならなかったのか?

ジュリエットには、これまでのキャリアを遥かに凌ぐ渾身の演技を見せたスコット・トーマス。監督・脚本は、30カ国以上で出版される著書を持つフィリップ・クローデル。刑務所で教鞭を執った経験やベトナムから迎えた自身の養女の起用など、本作に自己を投影させたクローデルは、心に闇を抱える者の再生を繊細に、時に力強く捉え、緊張感あふれる上質なドラマを作り上げた。悲劇的なスタートながらも、この物語の根底にあるのは、愛の強さ。罪は決して消えないが、差し伸べられた手を携え、再び本来の自分を取り戻す一人の女性の崇高な姿は、観る者の心を揺さぶるだろう。

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20100113

朝日・朝刊

銀の街から/沢木耕太郎

「ずっとあなたを愛してる」

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重く、息苦しいが、見はじめると目をそらせなくなる。

それは、なにより、主役のクリスティン・スコット・トーマスが、内部に深い虚無をたたえた元受刑者の女性を見事に演じているからである。同時に、作家であり、脚本も書いている監督のフィリップ・クローデルが、元受刑者の出所後の日常を、極めてリアルな細部によって描いているからでもある。

フランスの地方空港の待合室で、中年の女性が放心したようにタバコをくゆらしている。誰かを待っているようだが、その表情は恐ろしく暗い。

しばらくして、慌てて駆け込んできた若い女性が、その中年の女性を見つけ、ぎこちない抱擁をかわす。二人は、車に乗り込み、若い女性の家に向かう。

やがて、二人が齢(よわい)の離れた姉妹であること、長く会わずにいたらしいことがわかってくる。だが、二人の間にあるぎこちなさは、単に長く会わなかったというだけでないものがあるように現れてくる。

そして、実際、それが姉の過去に起因するものであることが明らかになる。姉のジュリエットは、長い刑期を務めたあと、刑務所から出てきた元受刑者であり、その「長い旅」から戻った姉を、結婚している妹のレアの一家が引き受けることになっていたのだ。

レアの家には、夫と、幼い養女と、養父がいる。「今までどこにいたの?」と遠慮のない質問を発し続ける養女と、声が出なくなったため、いつも静かに本を読んでいる義父。ジュリエットは、そんな存在に、むしろ救いと安らぎを覚えるようになる。だが、それでも、外界への関心と自身への興味を失ったかのような孤立の気配は消えようとしないーーーー。

この「ずっとあなたを愛している」という映画は、例えば「BOY A]のように、主人公がいったい何をやったのかということと、やったことが周囲に露見しないかということをサスペンスの軸にして展開される物語なのかと思っていると、意外なほどあっさりと、殺人を犯したことが明らかにされてしまう。その罪によって十五年間も服役していたということと共に。

殺人には恐らく二つの側面がある。死者をはさんで、人を殺したものが覚える苦しみと、人を殺されたものが味わう悲しみが背中合わせになっているのだ。しかし、かりに殺した苦しみと殺された悲しみを同時に抱え込まざるを得なかったとしたらどうなるのか。ジュリエットがまさにその困難を背負った女性だった。彼女は、殺した苦しみだけでなく、殺された悲しみをも抱え込んでいたのだ。

凍死寸前の遭難者が、小さな火にあたることで、徐徐に生気を取り戻していくかのように、ジュリエットは、妹とその家族を取り巻くコミュニティーに触れることで、少しずつ凍りついた心を溶かしていく。

その意味では、これを元受刑者の「再生」の物語と言ってしまうこともできなくはない。しかし、そう簡単に片付けてしまうと、大事なものが抜け落ちてしまうように思われる。

最後に、ある男性の階下からの呼びかけに応じて、二階にいるジュリエットがこう答える。「私はここにいるわ」

この映画は、殺人を犯して以来ほとんど生きていないも同然だったジュリエットが、この台詞を口に出すに至るまでの物語だったということになる。彼女は、「再び生きる」前に、まず「ここにいる」自分を認めなくてはならなかったのだ。

そのとき、気がつくと、それまで蒼白だった彼女の頬に、薄く血の色がさすようになっている。ジュリエットは、ようやく「長い旅」を終える契機を掴むことになったのだ。

2010年1月16日土曜日

あっと驚き、水天宮だった

20100114(木)、中央区日本橋にある某会社での打ち合わせのために、地下鉄半蔵門線の水天宮駅で14:30に不動産屋の大さんと造成設計屋の柳さんとで待ち合わせをした。

某会社は、昨年民事再生法による手続きに入り、保有資産の売却を進めていて、弊社では神奈川県のとある物件を建売用地にしたいと思って買い受け希望を伝えに行ったのです。

誰も信用してくれないのですが私には生来の几帳面なところがあって、不動産屋さんからネクタイをして来てくださいねとプレッシャーをかけられてたので、異常に神経質になっていたのでしょう、約束の時間より30分も早い目に着いた。

駅が水天宮なら、水天宮という神社がある筈だ、と待ち合わせ場所である地下の6番出口から地上に出て、うろちょろ周囲を見回すと、丁度道路の真向かいに水天宮さんがあった。

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時間に余裕があったこと、こんなデフレ不況で神にもすがりたい気持ちもあって、是非お祈りしてこようと向かった。四つ角には交番があって、その横には神社の境内に上がるエレベーターがあった。境内には、年の始まりだからか参拝者が多かった。ところが、参拝者をよく見ると、妊娠中の新婦を伴った新郎、若いカップル、宮参りなのか、産まれて少ししか経っていないと思われる赤ちゃんを抱いた若夫婦が目立って多いことに気付いた。

先ずは、社殿に向かって二拝二拍手一拝して、社員の健康、社業がなんとか立ち直れますようにと、全社員の顔、取引会社の担当者、お世話になっている金融機関の担当者、各ジャンルのサポーターの方々の顔顔を頭の中でグルグル巡らし、なんとかこの難局を乗り切りたい、その健闘振りを陰で支えてください、と祈願した。

お祈りをして水天宮の案内書でもあれば貰いたいと思って御札を扱っている処へ行った。そこで、案内書を手にして、私は始めて水天宮さんは、安産、子授けの神社であることを知ったのです。

へえ!!、ならば私の長女・実がこの6月に出産予定なのだ、いい塩梅だ!!、会社人としてのお祈りの他に、もう一つ長女の安産祈願をしようと、再び社殿の前で頭を垂れた。欲の深い参拝者だと、神さまはお思いになられたかもしれないが、山岡という男は、こんな奴なのです。お賽銭箱には少ない小銭しか投げ込めなかった。私に暫しのお時間をください、ここの地にやってきた仕事が上手くいったら、長女が目出度く出産したら、必ずもう一度お賽銭箱にもう少しのお金を準備して来ますから、それまではお待ちくださいな。

長女に水天宮さんに安産の祈願をしてきた、と電話すると長女・実はありがとうと感謝してくれた。長女は水天宮のことをよく知っていた。

造成設計屋さんが駅に着きましたと、私の携帯に電話をくれた。駅に戻りながら、水天宮にお参りしてきたことを彼に話すと、自分も17年前に娘が産まれるときに、ここまでお参りに来ましたと言っていた。有名な神社なんですよと教えてくれた。この神社のことを知らないのは、私だけだったようです。

仕事のことは、ちょっと、----。

ここで某会社の担当部長さんとは、縁がありそうなことばかりだったので、ここの会社を訪ねたことの目的は、必ず達成できるような予感がして、幸せな気分になったのです。

その「縁」というのはですねーーーーー。

先ずその部長さんの名前、苗字が私たちの仕事場がある地域の名称と同じだったことです。この苗字は地名から来ていましてネ、青森のどこかと福井の敦賀にある町の名前と同じでして、私は、敦賀出身なんですよ、と仰った。でも、一番有名なのは山岡さんの会社がある地域の名前ですけどネ。この部長さんの苗字は、--市、--港、--ベイブリッジとかで使われるーーの部分でした。

私が持ってきた弊社の会社案内をしげしげと眺めながら、御社はこの地図の処(保土ヶ谷区天王町)ですか、ときたもんだ。会社の位置に指を差していた。そうです、と応えると部長さんは実は私がこの会社にお世話になるまでは、このビジネスパークの中で働いていたのです、と。以前はビール瓶の工場だったのですよね。何でもご存知だった。そうなんです、弊社の今の事務所はそのビール瓶会社の試験場だったのです、と言うと驚かれた。ビール工場の試験場は、ビジネスパークとは道を隔てていたので、何かと便利だったようで壊さないで残されていたのです。

それから、自宅は町田の成瀬台なんですよ、と聞くと私以外の二人は町田を根城に仕事をしていて、ギョっと身を乗り出した。親近感が一気に湧いてきたようだ。造成設計屋は、上溝が自宅兼仕事場なのですと言うと、いや私は何とかゴルフ場の会員なので、一週間に一度は、北里大学病院の前を通って、上溝を通っているんですよ、ときた。北里大学病院の前には、弊社で運営しているホテルがあるんですよ、と言うと、我がホテルの近くにある古いホテルのことは見たことがある、と仰っていた。

部長に挨拶してその会社のビルを出るや、私は二人に、これは縁があるサカイにまとまります、確信したヨと言うと、ぜんざいを頬張っていた三人は、同時に頭(こうべ)を縦に振った。考えていることは三人とも同じだったのでしょう。

ジョナサン水天宮駅前店のぜんざい 1セット¥462を三人分、¥1386は楽しく美味かった。

 

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水天宮が発行しているオフィシャルガイドブック

『安産・子授かりの水天宮へようこそ』から、抜粋させていただいた。

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水天宮の由来

水天宮の発祥は、今から七百年前に、さかのぼります。平清盛の血をひく安徳天皇は、源氏の厳しい追及に京都から西へ西へと逃げていきました。しかし、ついに壇ノ浦(山口県下関市)の合戦で、源氏の軍船に取り囲まれ、祖母の二位の尼に抱かれ、母の建礼門院と共に波間に身を躍らせた。時に1185年、安徳天皇八歳の時のことでした。

お仕えしていた官女の按察使局(あぜちのつぼね)は、ひとり源氏の追っ手を逃れ、九州は筑後川に辿り着きました。局も壇ノ浦で共に入水しようとしたのですが、二位の尼に止められ、お前は生きて、我らの霊を慰めよ、との命を受けたのでした。

局は川のほとりに小さな祠を建て、安徳天皇とその一族の霊を慰める日々を送りました。これが今に続く水天宮の起源と伝えられています。

その後、有馬忠頼公により、現在の久留米市瀬下町に七千坪の敷地が寄進され、豪壮な社殿が造られました。

安徳天皇は御年わずか八歳で、犠牲となって海中に沈まれましたが、万民を救う尊い神慮によるとされ、大きな信仰を集めました。

 

今も昔も、「情けありまの水天宮」

江戸時代、大名には参勤交代が義務づけられていました。藩主は、領地を離れ、江戸詰めをしなくてはなりません。その間は、水天宮にお参りができないので、第九代頼徳公は、久留米から分霊をして、江戸屋敷内(現在の港区にあった)に、水天宮を祀りました。1818〈文政元)年、東京水天宮のはじまりです。

本来、お殿様の屋敷神として祀られたもので、一般の人がお参りすることができなかったのですが、江戸っ子たちの信仰は次第に高まり、塀越しに賽銭を投げ込む人が後を絶ちませんでした。遂に毎月五日に限り屋敷が開放され、参拝が許されました。

人々は、「情け深い」ことを感謝する際に、有馬家と水天宮を洒落て、「情けありまの水天宮」と口癖のように言いました。「恐れ入りやの鬼子母神」という言葉と共に、江戸の一種の流行語だったのです。

1871(明治4)年、水天宮は屋敷の移転と共に赤坂に移り、さらに翌年、現在の日本橋蛎殻町に移転しました。

日本橋蛎殻町界隈は、人影もまばらな寂しい場所でしたが、水天宮が移ると共に、商店が増え始め、大変な賑わいを見せるようになりました。

2010年1月12日火曜日

清水=ご苦労さん、岡崎=アッパレ、高木=これからや

去年の年の瀬に、今年2月のバンクーバー冬季五輪に向けたスピードスケートの代表選考会が、長野市のエムウエーブで開催された。

今回は、ビッグな三人が注目された。清水、岡崎、高木の三名です。

この三人の誰もが強烈な印象を我々に与えた。そのことを報じた朝日新聞の12月29、30、31日の朝刊の記事から抜粋させてもらった。こんな大事な記事こそ、古新聞の回収前に私のファイルにしまい込まないといけないのに、年末年始の宴会続きでサボっていた。

その一人は☆岡崎朋美(38)=富士急

38歳、朋美スマイル集大成へ。

女子500メートルで2位に入り、5大会連続の五輪出場を決めた。冬季五輪への5回の出場は日本女子史上最多となる。0秒05差で銅メダルを逃したトリノ五輪から4年。スケート人生28年の集大成に向かう。

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女子500メートルで2位になった。

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もう一人は、☆清水宏保(35)=コジマ

完全燃焼のラストランだった。

小さな巨人がリンクを去って行く。

1998年長野五輪で日本のスピードスケート史上初の金メダルを獲得、世界記録も4度塗り替えた選手だ。今大会では、500メートルで7位、1000メートルで9位に終わり、代表落ちは確実になった。続けてもバンクーバーまでと以前から発言していたから、第一線から去ることになろう。ラストラン。この日の1000メートルを滑り終わった清水は、観客席の母を見つめた。母の津江子さん(71)が投げ込んだ花束を拾って、穏やか笑顔で滑った。

津江子さんは、「長い間、感動をいただき、感謝しているし、長野五輪を見た時も、今日のレースも、もらった感動は同じ。こんな幸せな親はいません」。目を潤ませながら見守った。

 

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男子1000メートルで9位に終わった。

軌跡

1989、白樺学園入学

1992、日大に入学

1993、W杯に18歳で初出場し、初優勝

     世界スプリント選手権に初出場で総合3位

1996、W杯500メートルで35秒39の世界新

1997、W杯500メートルで1995年に続いて2度目の総合優勝

1998、長野五輪500メートルで金メダル、1000メートルで銅メダル

1998、世界種目別選手権500メートルで1回目に35秒36、2回目には34秒82の世界新

     日本スピードスケート界初のプロ宣言

2001、世界種目別選手権500メートルで34秒32の世界新

2002、ソルトレーク五輪500メートルで銀メダル

2006、トリノ五輪500メートル18位

2007、腰を手術

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最後の一人は、☆高木美帆(北海道・札内中)

速い15歳、実力で大舞台

高木Ⅴ「びっくりしすぎです」

15歳の中学3年生がまたも快挙を達成した。前日まで2種目で3位だったが、今度は1000メートルで優勝した。高木と同じオールラウンドの大先輩、橋本聖子・日本連盟会長は「コーナリングは世界の一流選手に近い。遠心力をもらってコーナーの出口で加速する理想の滑りができている」と絶賛する。

163センチ、57キロの均整のとれた体。

中学3年生の高木は2014年のソチ五輪の星だったはず。3000メートルで3位に入っても、「実感がわかない」と夢心地だった。安定したラップを刻み、五輪参加標準記録の4分15秒00を大きく上回った。高木の4分13秒90を、その後に滑った名取、大津、石野のW杯組は超えられなかった。

30日には1500メートルでも1分59秒47で優勝した。

幼稚園でスケート、小学2年でサッカーとヒップポップダンスを始めた。ずっと”二束のわらじ”で、中学のサッカー部ではFWとして男子に交じって練習し、スケートは冬限定。全日本ジュニア選手権で3種目制覇し、世界ジュニア選手権では総合4位に入り、「スーパー中学生」と呼ばれた。でも「そんなんじゃないのに」と肩をすくめ、どこかひとごとだった。

女子の代表枠は計10人。3000メートルの出場枠は「3」あり、他種目の結果と合わせて総合的に判断される。ただ、日本スケート連盟の橋本聖子会長は「個人的には、ソチ五輪を考えるとここで経験しておいたほうがいいと思う。伸び盛りだし」と推す。(金島淑華)

バンクーバー五輪では、1000メートル、1500メートル、団体追い抜きの3種目に出る。

 

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女子1000メートルで優勝

2010年1月10日日曜日

スポーツは人を育てる!!

下のような新聞記事を読んでしまったら、もうスポーツをこよなく愛してきた私には、忘れてしまうことが怖くなって、急いでマイファイルしておかないと気がすまなくなった。

黒木君は今年の正月に行われた全国高校ラグビー(花園)で優勝した東福岡高校のロックだ。彼が優勝の歓喜の輪の中で、「幸せ」だと言っていた。

作家玄佑宗久(げんゆうそうきゅう)さんが、この「幸せ」ってことについて著している書物=『しあわせる力』の新聞広告から、その本の一部と思われる文章の紹介があった。その文章をここに転記させてもらうことにした。

ーーー、かって日本人は幸せのことを「仕合わせ」と書いた。「しあわせ」は豊かになることで得られるものではなく、人と人との関係性でしか得られないものだ。ーーー

黒木君の「幸せ」って言葉が、まさに玄佑さんが仰っている「仕合わせ」なんではないか、と納得した。

私もスポーツで、人と人との関係性で育てられ、「仕合わせ」を感じたことは何度もある。私には、この文章が痛いほど理解できます。

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朝日朝刊

全国高校ラグビー大会で優勝した東福岡の19歳のフォワード

黒木東星(とうせい)さん

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一度は、高校を辞め、花園はあきらめた。「回り道なんかじゃなかった。幸せ」。19歳の高校3年生が、優勝の歓喜の輪に加わった。

ポジションはスクラムの核を担うロック。仲間のために密集で壁となり、ひたむきに体を張って球を守った。「トライは決めなくても、陰で支えるって格好いいでしょ」

宮崎県日向市から、ラグビーの強豪で知られる大分の進学校へ。アパートでの慣れない一人暮らし、苦手な勉強、厳しい練習。「寂しくて、何もかもつらくなって」。ラグビーまで怖くなり、8ヶ月で退学した。

受験し直した故郷の高校には、落ちた。父の貢さん(56)が営む設計会社を手伝えばいい、と割り切った。だが、186センチ、86キロ、50メートルを6秒2で走る逸材は放っておかれない。東福岡の願書締め切り1日前、コーチから誘われた。「投げ出した自分を必要としてくれて、うれしい」。年上のプライドを捨て飛び込むと、同級生は受け入れてくれた。

みんなで話し合って、戦略を立てる。勝つことよりも、考えることの大切さを学んだ。「そうしたら、何でもちゃんとやらなきゃって」。授業中の居眠りもなくなった。

中退した時、男手一つで育てた父は、怒らなかった。「つらいけど、いつか夢が見つかる」と待ってくれた。高校日本代表候補にも選ばれ、早大に進む。「父さんや仲間のおかげで道が開けた。もう逃げない。恩返ししたい」。夢には続きがある。

文・木村健一  写真・伊藤恵理奈

2010年1月9日土曜日

二人の来訪者に、乾杯!!

1月7日朝08:30、近くの神明社に社員全員で、初詣に出かけた。何もかも経費節約で、祈祷料も控えめ。各自お賽銭箱の前で、お祈りしました。貧乏会社だからこそ、お祈りしたい内容はヤマヤマある。神様は度量があって、太っ腹。図う図うしい参拝者とお思いになられたのではないだろうか。祈祷料ですか? 来年にご期待してください、と独り言。

その後は、中村社長から新年の訓示を受けて、通常の仕事に入った。

夕方に新年会を会社内で行った。これも経費節約のあおりを受けて、少ない予算で思いっきり酒を飲んだ。スタッフもそこらへんの事情はよく解ってくれていて、感謝している。

この宴席には二人の目出度い来訪者がいて、私にとっては嬉しい限りでした。一人は金融機関に勤めている山さん、もう一人は開発設計や土木工事を請け負う会社の柳さんでした。山さんは女性です。

山さんは、以前に勤めていた金融機関の時の弊社の担当者だったのです。その会社は、プロジェクト資金の融資をしてくれていたのですが、会社の都合でその業務をやらなくなったために退社を命じられた。3年間の在任中、弊社には78件の中古の戸建やマンションの購入資金を融資していただいていたのです。彼女から、退社する羽目になったことを聞かされた私は、即、君の身柄を俺に預けてくれ、と頼んだ。それは、彼女の能力を私の会社は勿論、勤務先でも高く評価されていたことを熟知していたからです。彼女を、弊社の仕事の領域内に、私の目の届く処に留めて置かなければいけない、そんな使命感に燃えたのです。身勝手な私の思いつきに彼女は、迷惑だとは思わなかったらしい。むしろ、今までの仕事が面白かったので、できるものならば、同じ仕事の転職先があれば嬉しい、と答えは返ってきた。私には思惑があった、秘策があったのです。早速、弊社のことをいつも表裏でサポートしていただいている金融機関Dの取締役の鈴さんに、連絡をとって、話を聞いてもらいたいことが発生したので、面会の時間をとってください、と依頼した。

取締役の鈴さんに、彼女の人柄、頭の良さ、気配り、仕事の的確さとスピードの速さ、それらを必死で訴えて、兎に角会ってみてください、と平身低頭お願いした。スタッフを採用中でもなかったのです。社長や専務に会わせる前に、会いましょうと言って頂き、山さんにその会社の沿革と取締役の鈴さんの電話番号を教えた。その後は、トントン拍子で入社が決まった。最初のうちは本社で、何かと教育を受けることになったようだ。入社後、1週間目あたりに会った時には、もう充分本来の、いつもの山さんらしく絶好調だった。よかったなあ、と安心した。私も大満足でした。

ところが、年が明けて山さんに横浜支店に転勤の辞令が出たのです。戦士は修業を重ねて、本丸に戻ってきたのです、なんて内心はほくそ笑んだ。その挨拶のために弊社に寄ってくれたのです。前任者の担当していた会社は、他のスタッフに振り分けて、山さんは新規開拓に専念しなさい、でも、アーバンビルド・パラディスハウスは貴女が担当しなさい、ということだそうだ。山さんの上司の弊社に対する配慮に感謝している。きっと取締役の鈴さんの気配りだ。宴会の席に彼女が居てくれると、急に華やかさが増し、元気を振りまいて、私たちにパワーを吹き込んでくれた。

もう一人は変な柳さんだ。彼とは4~5年前にはよく仕事をしたものですが、彼と私は仕事のことで大いトラブって、お互いに連絡を取らない状態が続いていたのです。弊社はその間、開発設計や土木工事を担ってくれる会社が数社あったものですから、何も柳さんに連絡をとらなくても、用は済んでいたのです。連絡を取らない間中も、彼のことだから、ひっちゃかめっちゃか頑張っていたのでしょう、私には、その辺りのことについては、興味ない。他人の会社のあれこれを推察したってしょうがない。

そんな彼が、何を思うたのか、何を考えてのことか、突然弊社にやってきたのです。数年前とは、変わらぬ表情で、変わらぬ服装で。魂胆はなにか、そんなことに私は斟酌しない。昔の喧嘩仲間が、ふらっと顔を出してくれたことに私は、面白いと思うのです。仕事をしたい、仕事をしましょうよう、そればっかりだ。以前と全然変わっていない。

そんな二人が、この弊社の新年会の宴席にいてくれるのが、私には非常に嬉しかったのです。

2010年1月4日月曜日

新年を大宴会で祝う

そら、と関係者 013

大晦日の21:00、次女の婿・竹さんと寒川神社に歩いて向かう。初詣です。私の家人、次女と孫に,頑張って! と見送られる。今回は往復、歩き通す心算でスタートした。今年一年の健康、商売繁盛、家内安全、交通安全、出産に住宅建築、などの祈願に行くのだから、苦労して行かなくてはイカンのではないかと考えた。その願い事も、参拝する二人だけの家族だけではない、社員やその家族、仕事でお世話になっている人たちのことも考えれば、尚更のことだ。

夜空の中天には、満月と星、星。二人の影は濃かった。

昨年は、戸塚の下倉田に住んでいる出さんが参加したので、今はもうない西友戸塚店の前で合流、そのまま長後街道を進んだのですが、今回は不参加だったので、権太坂に住んでいる二人は、権太坂から東戸塚駅、川上団地の横を通って名瀬街道に出た。栄橋から通称チロリン峠、瀬谷柏尾道路に出た。阿久和川に沿って、岡津、レストラン藍屋から瀬谷柏尾道路をはずれて国際親善病院、弥生台駅前を過ぎて、かまくらみちを横切って、泉警察署を左に見て進行方向のまま進む。ここでは、濃紺の夜空に、富士山の山容が薄っすらと浮き出ていた。富士山にも頭(こうべ)を垂れた。泉区役所、いずみ中央駅に出て右折、長後街道をまっしぐら。上飯田を過ぎると、そこからは藤沢市。境川を跨いで、高倉バイパス,467号線を横切って小田急江ノ島線の線下、戸谷、下土棚、東山田、宮腰、用田に。用田からは直角に曲がって45号線をひたすら、一直線。寒川神社を2キロ程を前に、竹さんの携帯電話によるナビで、畑の中、民家の路地、農業用水路を跨ぎ、また畑の中から、神社を目指す。車が多くなってきた。初詣帰りの若いカップルや家族連れが目につきだした。有料駐車場になんとか駐車させようと必死で赤いライトの点いた棒を振り回していた。そうして寒川神社に目出度く、無事に着きました。

二人が首に巻いているのは、大阪の北陽高校が15年程前に正月の高校サッカー選手権に出場した時、千葉であった試合に応援に行って私と息子の草がもらった記念のマフラーだ。先生は、中学3年生だった草に、何処にも行くところがなかったら、北陽高校においで、入れてやるから、と言っていた。北陽高校の野先生は、大阪の金ちゃんと一緒にイタリアのW杯に行ったときに知り合いになったのです。野先生の風貌から、草は恐れをなしたのだろう。絶対、北陽高校には行きたくないと決心したようだ。北陽高校は、早大卒の岡田彰布、のちの阪神の元監督を輩出した、名門校なのに。2日に福島喜多方からやってきた塚さんは、ヤマオカ、今年のラッキーカラーは、えんじ色だよ。そのマフラーもジャンパーも初詣にはピッタリやったな、と喜んでくれた。

到着01:40。所要時間4時間40分、休憩なし。竹さんの足に異常発生。先日、あざみの駅から徒歩での帰途で膝を痛めたようだ。それに、3日前にスキーに行ってきてダメージを深めたようだ。私には、決して弱音を吐かない竹さんだが、余程痛かったようで、到着後、私に訴えた。臨機応変、心配するなと慰めた。神前で、家族、社員、友人、取り引き会社の人たちの顔を思い巡らして、昨年一年を無事で過ごせたことに感謝し、今年も健康で過ごせるようにと祈った。お休みどころで、私は日本酒3本(200cc*3)、おでん、もつの煮込みを食って、バスで海老名、相鉄線で横浜へ。東戸塚の自宅に戻ったのは、07:00頃でした。帰途、境木地蔵さんにもお参りしておいた。

そら、と関係者 014

帰宅後、3時間寝た。

1日、元旦。午後は、山岡フアミリーの大宴会だ。この日だけは水入らずに、山岡家の血族だけによる宴会に決めていたようだ。

ホスト役は、私、家人、苑、ポン太、翼。お客さんは、お隣の竹さん家族(竹、花、晴)、草家族(草、元、ソ)、森さん家族(哲、実、楓)。大人9人、子供2人、赤ちゃん1人、犬2頭。仕事があった花は遅れて参加。この集まりの中で、やはり一番もてもてなのは、去年11月に生まれた草夫婦の長女ソだった。我々のしょっちゅう行う宴会に初めての参加者だ。

生まれた時は、2448グラムで、今までの我々の感覚では小さくて、退院後もお乳の関係で2400グラムまで下がって、そのときはみんなで気を揉んだものだが、今は3500グラムまで育ち、動きも活発で、あくびをしたり、くしゃみをしたり、顔もシッカリしていて、成長は順調で安心している。そのソをみんなで、抱き廻し、ホッペをつまんだり、唇触ったり舐めたり、笑ったといっては、みんなで喜び合った。

今年は、森さん宅にも第2子が6月に誕生予定で、長女が幼稚園に入園する。自宅は6月に完成予定だ。忙しい年になりそうだ。家のことは、弊社の桜と設計士の関口がきちんとやってくれそうだが、子供のことについては、私には協力してやりたくてもどうしょうもない、問題だ。

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正月2日目

09:40、箱根駅伝往路、権太坂を早稲田大学が2位で通過した。先頭は、明治大学だ。

軽くお酒を一杯あおった後、隣の竹さんを誘って、犬のポン太と翼をつれて出かけたのです。沿道の応援に駆けつけた人は、例年より多いように思えた。私はこの地に住みついて約30年、沿道に出て必ず声援を送り続けてきた。この不況時、自宅、親類宅など近場で過ごしている人も多いのだろう。どのチームにも手が痛くなるほど拍手して、ガンバレ、ガンバレと走者に向かって声を掛けた。とりわけ、母校には、はっきり走者に聞き取れるように、母校の名を、両手をラッパにして連呼した。早稲田大学には、やはり特別の思いがある。母校の名を連呼する度に、私の、いつもは静かに潜んでいるワセダの虫が、急に体中を駆け巡るのです。いつになったら、この虫は鎮まるのでしょうか。薄毛の翼は寒くて帰途早足、ポン太は歩けば歩くほど糞をした。

東京・大手町の読売新聞社の本社前をスタートして箱根の芦ノ湖畔がゴールになるのですが、何とこの距離が、往路は108キロメートルと聞いて、昨夜の除夜の鐘を叩く回数も、ひょっとして108回ではなかったかと思いついた。復路は109,9キロメートル。どこかで一部コースが変わるのだろう。そこで、除夜の鐘を広辞苑で調べてみたら=除夜の夜半(正十二時)、に諸方の寺てらで、百八煩悩を除去する意を寓して撞く百八回の鐘の音とある。選手達は何も百八の煩悩を除去する為に走っているわけではないだろう。偶然の一致を見つけただけだろうと、思い込もうとしているのですが、何かその「ココロ」を見つけた人は、私にそっと教えてくださいな。

自宅に戻って、箱根駅伝のテレビ中継に首ったけ。酒を飲みながらの観戦はきつかった。

16:00.本日の宴会のメンバーは、大学の先輩、福島喜多方の塚さんと葉山の田さん、福島いわきのスイミングクラブに勤務している同輩の西だ。

塚さんの奥さんの実家は大和市内にあって、奥さんは数年前から主人の家業である魚屋を辞めて、元はMRIの検査技師だったので、その腕を買われて病院勤めを始めたのです。夫が正月の最後の仕事をしているのに目もくれず、先に実家の大和に来てしまったので、塚原さんは、一人猛吹雪の中で魚屋の後片付けを終えてから、やってきた。磐越西線は、ダイヤより大幅に遅れていた。田舎の魚屋は大変だ。10年程前に、近所にイトーヨーカドーができてからさっぱりや、と嘆きだしてから久しい。そろそろ、商売を止めようと思うんだ、と以前も今回も口走っていた。私の住んでいる近所の商店街を見ても、彼の店の様子は想像がつく。私の今年の運勢は強運だよ、頑張れば難局を抜け出せるよ、勇気をもってがんばれよ、と励ましてくれた。

田さんは、アクサ生命の営業マンだ。学校を卒業してからも仲間とサッカーを続けている。60歳以上の大会に出場するので、今でも練習は絶やしていない。よく頑張るといつも感心させられている。今年は奥さんが、自分の母親の面倒をみなければいけないので、来られなかった。我が家の催事には必ず来てくれて、酔っ払っては私たちの4人の子供を追い回しては、泣かせていた。彼は、我が家にとって欠けがえのない人なのです。

西は水球部だった。私とは大学同期だった。しかも同じ学部だったのですが、一度も校内で会ったことはなかった。3年生からは全日本の代表選手だった。高校は熊本の済々コウで2、3年では高校チャンピオンになっている。当時、水球をやっていた学校は少なかったけれど、それにしても輝くスポーツ学生だった。今はいわき市でイトマンスイミングで水泳指導やらバスの運転手やら、雑事を受け持っているようだ。来年で定年になるのだが、何をどうすりゃいいのや、と悩んでいた。スイミングクラブ一途でやってきたので、先行き不安なのだろう。そんなことないよ、何でもええやないか、遊びながら何かを楽しめばいいじゃないか、と慰めてみたものの、儚(はかな)い助言だったようだ。私には、西の境遇を羨ましく思うこともある。睡眠薬を飲まないと眠れないという、神経が細かい奴なんだろう。

話題は、大学時代の思い出話、かっての部友の近況をそれぞれ情報を交換して確かめ合った。健康のこと。自分達が取り組んでいる仕事の今後の見通し、家族のこと、いつもと変わらぬ話題ばかりで新鮮味はないが、やはり久しぶりに顔を合わした喜びはひとしおだ。懐かしさがこみ上げてくるのです。いつもはくだらないと思う話でも、この時ばかりは笑いが絶えない。居眠りを始めた田さんを起して、東戸塚まで次女が送ってくれたらしいが、皆は、無事に着いたか心配だったようだ。私は、酔い度が沸点に達し、酔っ払い天国から離脱、布団にもぐり込んだから、後のことは解らないのです。

この仲間に我が家の3人、森さん家族3人、草家族3人、竹さん家族3人が合流した。合計14人。飲んだ飲みました。深夜、尿意を感じて目を覚ましたら、3人が川の字になっていた。狭い部屋に家人が布団を並べておいてくれたのだ。二人の寝顔は、大学時代と全然変わってないなあ、と思った。

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正月3日目。

朝飯の後、塚さんが橋本に住んでいる同期の北さんの所へ行くというので、いわきまで車で帰る西に頼んで、塚さんを送ってもらった。

12:30。我社所有のアパートに住んでいるナイジェリア人・シチを、鶴見のアパートに案内した。ナイジェリア人には何かと相談に乗ってもらっているキリスト教の牧師が付き添った。ワンルームのアパートに夫婦と子供2人が住んでいて、それに奥さんが妊娠中だと聞くと、古くてももう少し広い部屋をあてがってやらなければならない、と思い続けていたのだ。

今日の宴会のメインゲストは河だ。河は私の長男草と高校、大学が一緒だった。その河が、恋人を連れてきたのだ。こりゃ春から縁起がいいね、と家族全員で、このカップルの行く末がハッピーになりますようにと願った。河は、我が家にとっても重要な人物なのです。家族の一員の位置づけです。

酒盛りのツマミは、おせち料理の残り物。そこに、竹さん家族がカレーを作ってきてくれた。竹さんの弟で、昨年結婚したノリさん夫婦も加わった。我が家3人、竹さん家族3人、草家族3人、河とその恋人、合計13人。

私は、連日の深酒のため、19:00降参して寝床直行。

 

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