2010年1月17日日曜日

ずっとあなたを愛してる

 

年の瀬の30日、三女の苑に一緒に映画を観に行かないかと誘っても、乗ってこなかった。この時期に誘う相手が思い付かなくて、午前中は会社でビールを飲んで、新聞読んで、インスタントラーメンを食って、一人で出かけた。

銀座テアトルシネマ、上映は13:20からだった。

切符の売り場がやけに混んでいて、ロビーにも人が溢れていた。最前列しか空席はありませんが、どうしますか?と問われ、そのことにはしょうがないとは思ったのでが、それよりも、何故、大晦日の一日前だというのに、この混雑振りは!!。東京は、私の常識が通用しないのか、と嘆息した。初老の女性たちが目立った。正月の準備はしなくてもいいのですか?掃除は、終わったのですか?そんなことを考えた。そんなことを考えている私だって、こんな処で映画なんか観ていていいの、と聞かれそうだ。

私の隣のオジサンは、予告編は真剣に観ていたのですが、この本番が始まったときから居眠りを始めた。黙って目を瞑っていてくれれば、何も文句はないのですが、このオヤジの鼾(いびき)の大きさには悩まされた。

この映画の感想を、泣いた、優しかった、愛は強かった、そんなことを文章にまとめなくちゃイカンなあと思いつつ正月の宴会シリーズに突入したものですから、手付かずにしていたら、朝日新聞・文化欄でこの映画の講評が掲載されていた。沢木耕太郎さんの文章はさすがに当を得ていて、こんな文章を読んでしまうと、私は文字を綴ることはできない。

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映画の内容(ストーリー)を紹介するのに、銀座テアトルシネマの映画案内の文章を転載させていただいた。

刑期を終えたジュリエットは、妹のレアー家に身を寄せる。長い空白期間を経て再会した姉妹はぎこちなく、ジュリエットはレアの夫や娘たちとも距離を置く。しかし、献身的な妹、無垢な姪に触れ、次第に自分の真実をレアに明かす瞬間が訪れる。--なぜ愛する息子を手に掛けねばならなかったのか?

ジュリエットには、これまでのキャリアを遥かに凌ぐ渾身の演技を見せたスコット・トーマス。監督・脚本は、30カ国以上で出版される著書を持つフィリップ・クローデル。刑務所で教鞭を執った経験やベトナムから迎えた自身の養女の起用など、本作に自己を投影させたクローデルは、心に闇を抱える者の再生を繊細に、時に力強く捉え、緊張感あふれる上質なドラマを作り上げた。悲劇的なスタートながらも、この物語の根底にあるのは、愛の強さ。罪は決して消えないが、差し伸べられた手を携え、再び本来の自分を取り戻す一人の女性の崇高な姿は、観る者の心を揺さぶるだろう。

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20100113

朝日・朝刊

銀の街から/沢木耕太郎

「ずっとあなたを愛してる」

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重く、息苦しいが、見はじめると目をそらせなくなる。

それは、なにより、主役のクリスティン・スコット・トーマスが、内部に深い虚無をたたえた元受刑者の女性を見事に演じているからである。同時に、作家であり、脚本も書いている監督のフィリップ・クローデルが、元受刑者の出所後の日常を、極めてリアルな細部によって描いているからでもある。

フランスの地方空港の待合室で、中年の女性が放心したようにタバコをくゆらしている。誰かを待っているようだが、その表情は恐ろしく暗い。

しばらくして、慌てて駆け込んできた若い女性が、その中年の女性を見つけ、ぎこちない抱擁をかわす。二人は、車に乗り込み、若い女性の家に向かう。

やがて、二人が齢(よわい)の離れた姉妹であること、長く会わずにいたらしいことがわかってくる。だが、二人の間にあるぎこちなさは、単に長く会わなかったというだけでないものがあるように現れてくる。

そして、実際、それが姉の過去に起因するものであることが明らかになる。姉のジュリエットは、長い刑期を務めたあと、刑務所から出てきた元受刑者であり、その「長い旅」から戻った姉を、結婚している妹のレアの一家が引き受けることになっていたのだ。

レアの家には、夫と、幼い養女と、養父がいる。「今までどこにいたの?」と遠慮のない質問を発し続ける養女と、声が出なくなったため、いつも静かに本を読んでいる義父。ジュリエットは、そんな存在に、むしろ救いと安らぎを覚えるようになる。だが、それでも、外界への関心と自身への興味を失ったかのような孤立の気配は消えようとしないーーーー。

この「ずっとあなたを愛している」という映画は、例えば「BOY A]のように、主人公がいったい何をやったのかということと、やったことが周囲に露見しないかということをサスペンスの軸にして展開される物語なのかと思っていると、意外なほどあっさりと、殺人を犯したことが明らかにされてしまう。その罪によって十五年間も服役していたということと共に。

殺人には恐らく二つの側面がある。死者をはさんで、人を殺したものが覚える苦しみと、人を殺されたものが味わう悲しみが背中合わせになっているのだ。しかし、かりに殺した苦しみと殺された悲しみを同時に抱え込まざるを得なかったとしたらどうなるのか。ジュリエットがまさにその困難を背負った女性だった。彼女は、殺した苦しみだけでなく、殺された悲しみをも抱え込んでいたのだ。

凍死寸前の遭難者が、小さな火にあたることで、徐徐に生気を取り戻していくかのように、ジュリエットは、妹とその家族を取り巻くコミュニティーに触れることで、少しずつ凍りついた心を溶かしていく。

その意味では、これを元受刑者の「再生」の物語と言ってしまうこともできなくはない。しかし、そう簡単に片付けてしまうと、大事なものが抜け落ちてしまうように思われる。

最後に、ある男性の階下からの呼びかけに応じて、二階にいるジュリエットがこう答える。「私はここにいるわ」

この映画は、殺人を犯して以来ほとんど生きていないも同然だったジュリエットが、この台詞を口に出すに至るまでの物語だったということになる。彼女は、「再び生きる」前に、まず「ここにいる」自分を認めなくてはならなかったのだ。

そのとき、気がつくと、それまで蒼白だった彼女の頬に、薄く血の色がさすようになっている。ジュリエットは、ようやく「長い旅」を終える契機を掴むことになったのだ。