2010年2月17日水曜日

ソの宮参り

20100214(日)

ソの宮参り

11:30~

住吉神社(福岡市博多区住吉町)

神事を司ってくれたのは、当神社の神主=H・宗氏でした。

そらの宮参り 008

(ソと、ソの両親、ソのジジババ4人と神主=宗氏)

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14日、私たち夫婦は羽田を7時35分発の福岡行きスカイマークで飛び立った。長男夫婦に初めて生まれた女の子・ソの宮参りのためだ。私にとっては、三番目の孫になる。機中からは、眼下一面、雲海で何も見えない、上空はきれいな青空だった。雲海の上に、富士山が忽然と現れて、三合目辺りから山頂にかけての山容がくっきりと真っ白に見えた。噴火口がこんなに真上から見えて、窓際の妻は痛く感動していた。私にとっても初めて見る光景だった。今までも、これからも富士山は日本の厳然たるシンボルだ。フジヤマは神々しいばかりだ。日本に富士山があってよかった、と思う。

往き帰りの機中で、大江健三郎の「新しい人よ眼ざめよ」〈講談社〉をなんとか、半分までは読み終えたいと思っていたので、窓の外のことには目もくれないで本に夢中になった。琵琶湖の上を通った時にも、妻は私に報せてくれた。私の生まれ故郷は、琵琶湖から流れ出る瀬田川の下流だ。生家の辺りは見当がついた。それからは、ただ雲の中を飛び続けた。見えるのは雲ばかり。福岡に近づいて、高度を下げると、雲り空にけむる福岡の市街と海岸線が見えた。海岸線には埋立地と思われる造成地が広がっている。会社では社員が一所懸命働いている。そんなことを思うと胸がチクチク痛みはすれど、やはり私事といっても祝い事だから自ずと気が緩む。

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福岡空港からタクシーで直接住吉神社に向かった。住吉神社に10:30頃着いた。広い境内には大木が何本も茂っていて、敷地には細かい砂利が掃き清められていた。先ず驚いたのは、結婚式や宮参り、厄除けと思われる参詣者が多いことだった。大安だったこともあるのだろう。住所は福岡市博多区住吉3丁目だ。

早く到着したので、境内をうろうろしていたら、この神社に奉職中の神主さんで、私たち夫婦の長男・草の嫁・元さんの兄・宗さんが、私たち夫婦を見つけて近づいてこられた。私は、今日のことでお世話になること、明日のことは大層おめでとうございます、と挨拶を交わした。

ここらで、何故九州の福岡の博多の住吉神社で、長男の子どもの宮参りをすることになったのか、説明しなくてはならない。長男の嫁・元さんの兄・宗さんが、この神社で奉職中だとは先ほど記したのですが、そのお兄さんが明日、ここで、この神社にかって勤めていた女性と結婚式を挙げるのです。その式に列席するために、息子夫婦はここに来なくてはならない。それならば、お兄さんに宮参りの祈祷をやってもらおうじゃないか、ということになって、我々夫婦も来ることになったのです。私は宮参りとお食い初め、それと最近我が家に忍び寄ってくる”松っつん”との食事に、妻は、それ以外に明日結婚式から披露宴までの間、孫・ソの子守役を買って出たのです。

明日新郎になる神主は、足腰が弱っている妻には控え室を案内してくれて、私には神社の建物や歴史のことを色々話してくれたのです。

話してくれたことと、パンフレットなどから得た住吉神社についての情報を少し纏めておきたい。筑前一の宮だ。底筒男命(そこつつのおのかみ)、中筒男命(なかつつのおのかみ)、表筒男命(うわつつのおのかみ)の住吉三神を祭神としている。「筒」は星を意味するとか、何かで読んだような気がする。日本全国に約二千社ある住吉三神を祀る神社の中で最も古い神社であるとされている。現在の全国の住吉神社の総本社は大阪の住吉大社である。大阪の住吉大社、下関の住吉神社、博多の住吉神社の三社が日本三大住吉とされる。本殿と拝殿とは、25年ごとの式年御遷宮(せんぐう)が行なわれることになっていて、平成22年の10月にはその遷宮大祭がある。本殿は16??年に黒田長政公による建立、建築様式は「住吉式」、福岡県の重要文化財に指定されている。

伊勢神宮も御遷宮の準備をしていましたよと彼に話したら、伊勢神宮は20年ごとに完全に建て替えるのですが、それは大変な工事になるので、住吉神社では25年ごとに立て替えるのではなく、大規模な修繕、修理や模様替えをすることにしているのです。今はその工事の最終的な仕上げの状態のようであった。そのために、祈祷などは拝殿の前に仮の拝殿を設(しつら)えて行なわれていた。遷宮が終了したあかつきには、この仮の拝殿は移築されて神輿を仕舞いこむ倉庫になるとのことだった。

今日も参拝客は多いのですが、昨日の方が結婚式が多かったのです、と仰った。昨日は土曜日で先勝だった、遠方からのお客さんを呼ぶには好都合だったのでしょう。神社で働いている人は、アルバイトの人もいるのですか、と尋ねたら、全部職員ですとのことだった。他人事ながら、みんなに支払う給料のことなどを考えてしまった。

能楽堂は、近所の人たちが能の練習に使うことが多い。以前に野村万何とかさんも演じたこともあったのです、とのこと。若者用のミュージック大会やお笑い大会、演芸会なども催される。福岡県の重要文化財に指定されている。

土俵。今回の主役の一人、孫・ソの出生した当日(20091108)には、今の横綱の白鳳が土俵入りをしてくれたのですよ、と仰っていた。奉納土俵入りだったのでしょう。

 

無事に生まれた感謝と健やかに成長することをお願いしました。

H・宗氏によって、宮参りの神事は執り行われた。同時に4組が祈祷を受けた。赤ちゃんを抱くのは、赤ちゃんの父親側の祖父母の何れかが抱くことになっているようです。神様の世界では、お産をした母親は穢(けが)れているとみなされているようです。私見ですが、この儀式が滞りなく済めば、この神の霊域から遠ざかれば、もうそれはどうでもいいことなんでしょうが。神は、神ゆえにいつも、古めかしいことを言いなさる。ここは、黙って従いましょ。

住吉神社の神楽と巫女さんによる舞を披露してもらった。太鼓、横笛、謡いはH・宗氏が担当された。拝殿の前で全員で何枚も何枚も記念写真を撮りました。

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12:00~。ホテル・日航福岡で、「お食い初め」だ。子どもが一生食べ物に困らないように願う儀式のようです。私は初めて知ったのですが、宮参りの主人公・ソに石を噛ませるのです。何故石なのか、このことについて詳しくは分らない。後日学習すること。このとき、ベイビーはお母さんのおっぱい以外の食べ物を初めて口にする、ということ。実際には食べることはできないので、食べたことにするだけです。大人たちは大いに食し、鯨のように酒やビールを飲みました。さらに充分親交をあたためました。

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私と妻、息子・草と、私の四番目の子ども=三女に忍び寄る男”松っつん”、この四人で、宿泊先のホテル・ニューオータニ博多の近くで、18;00から飲んだ。

松っつんが去年から博多で働いているので、俺たちが福岡に行くことを前もって報せたら、是非一緒に食事をしたい、私が安くて美味いところを探しておきますと、請け負ってくれた。モツ鍋だった。彼は職場から自転車でやってきた。店を出た頃は小雨が降っていたが、若者はそんなことにはお構いなしで、傘もささず闇に消えていった。社宅を追い出されるのでアパートを探さなくっちゃと言っていた。彼は、新進気鋭の社長が張り切る服飾メーカーの誇り高い社員だ。この会社の社是(しゃぜ)が、格好いいのです。私も気に入っているのですが、ここでは差支えがあるので公開は遠慮します。

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翌日15日、福岡発07;10のスカイマークで、羽田には9時頃着いた。会社での10:00から打ち合わせに間に合った。

妻は、息子夫婦が結婚式に参列、披露宴で美味しいお料理を食べている間、孫の子守をしながら、松っつん紹介の博多人形店へ出かけ、長女の住宅が今年8月に完成する、その新築祝いに人形を買ってきたと言っていた。

2010年2月10日水曜日

葱(ネギ)で、血がさぁ~らさら

自分の健康については無頓着で、無配慮なこの私なのですが、ここに至って、体を気遣うようになったのは、やはり歳(とし)のせいだろうか。健康な体を気遣うと言ったって、さりとて、特別なことをしているわけではない。

健康に気をつけているその一つは以前のように酒の馬鹿飲みをしないこと、その二は睡眠時間をたっぷりとること、その三はよく歩くこと、その四は肉や脂類をできるだけ摂取しないこと、で、そして最後は葱(ネギ)をちょっと多い目に食うことなのです。まさに平凡な養生方法です。

この文章を綴る気持ちになったのは、下の天声人語に触発されたからです。私とネギのことを思いつくまま綴ってみた。

生家の周りの畑には、一年中ネギが植えてあった。なかでも、晩秋から初冬、夜露が降りる頃のネギは柔らかくて美味しかった。すき焼きや鍋物には欠かせなかった。家族の誰もが、すき焼きの肉にはいつまでも箸をつけないのに、ネギや白菜の葉物にはシャブシャブの感覚で、入れては直ぐに箸をつけたものです。ヌタ(ヌタってどんな言葉を使うのだろう)も好きだった。ヌタって皆さんはどんな料理かわかるだろうか、解らない人はメールをください。学校に入るために43年前に東京に来てから、大衆食堂などでも見かけたことがない。丁寧にレシピを家人に作ってもらいますから。ネギは朝昼晩の食事には、必ず何かにして食っていた。

多分、我が家でこの時期に収穫するネギほど美味なるネギは他所にはない。間違いなく40~50年前までは。日本中で私たち家族以外に、これほど美味なるネギを食した人はいなかったのではないか。鳥渡(ちょっと)、言い過ぎかなとも思うが、私の父のネギの育て方が、完全に違ったのです。

春に種を蒔いて小さく育った幼苗を、適度に間隔をおいて植えます。大きく成長して葱坊主ができると緑の部分を切って捨て、白い部分と根を掘り起こして夏頃まで小屋の軒先などにぶら下げて乾燥させておくのです。そして盛夏に、その乾燥させてあった根を植えつけるのです。このように栽培した方が、緑のサヤの部分に栄養がいっぱい蓄積されるのだと、父に教わった。宿根草なのです。その根から新しく緑の部分が成長してきたころに、夜露が降りるのです。これを、私たち一家は頂いていたのです。恒例で開かれる農業協同組合主催の農産物の品評会において、父が出品したネギは、常に上位にいたが、優勝したことはなかった。父は、悔し紛れに、見た目ばかりで比べてもアカン、味を確かめてから最終的に判断して貰いたいと言っていた。子ども心に、父の言っていることは正しいと思った。ネギ以外にも、牛蒡(ゴボウ)でも毎年表彰してもらっていた。

             Allium fistulosum

食物としてのネギにこれほどまで、関心が深まったのには、子どもの頃の影響もあるのでしょうが、ここにきて、又、私の体がネギを欲しがってきたからです。

誰かからアドバイスを受けたわけではないし、何か著作物から知識を得たわけではない。まして、テレビやラジオから情報を得たわけではないのですが、10年程前、50歳になった頃から、今回のテーマであるネギのことを、私が子どもだった頃の大人たちと同様に意識するようになった。郷里で過ごしたときと同じように、ネギを体が求めだしたのです。それも、突然急に、強烈に。納豆に混ぜて食べるときのネギの量が、気がつかないうちに日に日に多くなってなってきたのです。朝飯の御膳には、昨晩のオカズの残りと、納豆とそれぞれのパックに入った刻んだネギ、塩昆布、漬物が並べられている。朝めしに関しては、家人はパン党、私はご飯党なのです。

先ずは納豆から手をつける。茶碗に納豆を入れて、そこにネギを山盛りに入れて混ぜるのです。私は何年か前から、大人用ではなく、女性用の少し小さめの茶碗を使っているのです。小さめの茶碗にいっぱいになった納豆とネギとご飯を300粒程と混ぜ合わせるのです。それをよく噛んで食べるのです。この習慣が、どうも体にイイようなのです。ネギは、子どもの頃の摂取量と同じ位になったのだろう。

このように納豆と多い目のネギの練り合わせを食い出してから、体の調子がイイのです。何故、そんなにイイの?なんて聞かれても返答できないのですが、兎に角、イイのです。血が、血流が、血の巡りがイイようなのです。私の体のこんな状態を、ある日横須賀で酒を飲んでいた友人に話したら、私はそれが玉ネギなのよ、と聞かされた。どちらもネギ。ネギと玉ネギだ。きっと、共通の成分が含有しているのでしょうか。今度は玉ネギの研究が課題になりました。後日、学習することを誓います。血の巡りの良さこそ、体に抵抗力をつけるための基礎ですから。それに、リンパの流れにも必ずイイ影響が出ることになるだろう。

私は、理屈抜きで、血の巡りがイイと体感しているのです。

少し前までは、会社でラーメンを食べる時には、ネギ大盛り。外食するときはネギラーメン。この頃は、昼飯代を削る為にスパゲッテイやラーメン、うどんに蕎麦が多いのですが、具なしでひもじい思いをしているのですが、いつか余裕が出てくれば、ネギをふんだんに使った料理を作ってみたいと、虎視眈々、その時期が来るのを待っている。

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★ネットで得た豆情報

ビタミンA、B、C、カルシュウム、カリウム、鉄、など栄養素が多く含まれている。魚や肉の臭みを消す役割もする(ラーメン屋さんがスープを作るのに、ネギがスープ鍋に入っているのをよく見かけた)。におい部分の「硫化アリル」は高い殺菌力とビタミンBとの相乗効果で、疲労回復、糖質の分解と吸収を助け、滋養強壮に効果がある。漢方では、体内の保温効果、発汗作用があることから、初期の風邪の治療によいと言われている。

 

 

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朝日・朝刊

天声人語

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岡本眸(ひとみ)さんの句に〈葱焼いて世にも人にも飽きずをり〉がある。ネギは焼いてうまくなる野菜の一番かもしれない。ぬらりとした薄皮や髄のあたりから甘みがとろけ出し、生きる喜びさえ教えてくれる。

本来、薬味となる尖った食材である。火を通すだけでこれほど化けるものかと思う。ツンからデレへの変わりようは、どこか仕事も遊びもいける人のようで、できる野菜と呼ぶにふさわしい。しかも風邪に効くとされている。

富山大大学院の林利光教授らが、ネギの「薬効」が本当らしいと突き止めた。A型インフルエンザに感染させたマウスの実験で、ネギの抽出物を与えてきた一群は、そうでない群に比べウイルス量が3分の1に抑えられたという。抗体の量は逆に3倍近かった。

林教授は「ネギの成分のどれかに、予防的に免疫力を高める効果があるのでは」と語る。大衆が頼りにしてきた言い伝え、信じるに足るらしい。寒さに弱いチンパンジーにネギを食べさせている動物園もある。

「おいしい良薬」はそうはない。どの成分がどう効くのか、難しい話は先生とネズミにお任せするとして、この時期、ネギ三昧というのも悪くない。白も青も旬は冬。群馬の下仁田、京都の九条、いずれも寒さで滋味(じみ)が増す。

同じ季語にも、俳人の感性は別のひらめきで応える。黒田杏子(ももこ)さんは〈白葱のひかりの棒をいま刻む〉と料理した。月が替わり、寒の谷もあと二つ三つというところか。名のある産地であろうとなかろうと、店先の「光の棒」たちがこぞって輝く季節である。

2010年2月3日水曜日

小林繁投手 追悼

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巨人、阪神の元投手で、現日本ハム1軍投手コーチの小林繁氏が17日午前11時頃、福井市内の病院で心不全のため急死した。57歳だった。巨人のエースとして活躍していた同氏は「空白の一日」としてプロ野球界を揺るがした江川事件の”犠牲”となる形で、1979年2月にトレードで阪神に移籍。引退後は近鉄、韓国・SKでコーチを務め、09年から日本ハムで投手コーチを務めていた。春季キャンプを目前に、現役コーチが57歳の若さで波瀾万丈の人生に幕を下ろした。(18日のスポニチより)

この訃報を聞いて、私は自分のことをヤバイっと思い当たったのです。この江川騒動では、瞬間湯沸かし器のように、巨人の横暴、江川家の身勝手さ、コミッショナーのなんとも見識の低さに怒った。江川陣営のことばかりが怒りで頭がいっぱいだった。私が、その怒りド心頭、狂ったように怒っているうちに、亡くなった小林投手がその後築き上げた偉大な記録に感心することもなく、記憶の果てに追いやってしまっていた。

作新学院を卒業した頃は、大学ならどこでも受け入れてくれるだろう、それが早稲田であろうと慶応であろうと、入れるものだと思い込んでいた。私の価値は相当なもんだと自惚れていた部分もあったのだろう。まだ、少年から大人になりかけの未成熟な年齢なら、しょうがなかったとしよう。最初は、入る大学のブランドを求めたが、慶応入学は叶わなかった。次に求めたのは,所属球団だった。当時、人気では他球団を圧倒していた巨人でなければ、ならなかったのだ。そんな一途な気持ちが、その気持ちを利用した各欲望諸氏に踊らされてしまった、と言うことだったのでは。

トレードを宣告された小林投手は、けなげに巨人を去り、その年には22勝を挙げて最多勝だった。そのうち対巨人戦では8勝もしているのです。そして二度目の沢村賞を受賞した。一度目は巨人にいたときに受賞している。プロ野球の世界では、江川は、小林の記録を超えることはできなかった。このことも、江川は苦しかったことだろう。

この小林投手の頑張りを、江川!!お前なあ、わかっちょるか?

ところが、江川は解っていた。歳月が知恵をもたらせたのか、知性を磨かせたのか、私の思い過ごしだったようだ。江川は、アホではなかった。よく解っていた。自分の弱さに目を瞑り、都合主義に便乗した軽薄さ、金に目がくらんだ卑しさ、そんなことを自省したのだろう。後になって、江川はこの問題に触れられる度に、慎重な言葉遣いをした。今回、小林投手の死を知らされた江川は、礼を尽くした言葉で哀悼の意を表した。「申し訳ないという気持ちは、僕の中では終わってない」

 

空白の一日

1978年秋のドラフト会議前日、巨人は浪人中の江川卓投手と契約。江川の交渉権は前年のドラフトで指名したクラウン(現西武)にあったが、当時の野球協約ではドラフト前々日に交渉権が切れるため、巨人は会議前日を「空白の一日」としてどの球団とも契約可能と主張した。これは無効とされ、巨人が欠席したドラフトで阪神が江川を1位で指名。巨人はドラフトの無効を訴えるなど混乱が続いたが、当時の金子コミッショナーが「強い要望」として、阪神がいったん江川と契約して巨人へトレードする案を提示。両球団が応じ、巨人から小林投手が阪神へ移籍した(この記事は、朝日新聞18日のスポーツより)

 

1978年、法政大学を卒業した江川は、1位指名したクラウンライターズとは、九州は遠いとか何とか言っちゃって、交渉には応じないで、作新学院職員という身分で野球留学した。何故なら、大学から社会人野球に入団すると最低2年間はプロ野球に入団することは許されていなかったからだ。

「空白の一日」と言うのは、入団交渉が前日まで続いていた場合など、交渉していた場所が遠隔地だったり、また天候の変化などにより、関係者がドラフト会議に出られないことが起こり得ることも考慮に入れて、ドラフト会議のための準備期間として用意したもので、通常ではその空白の一日に行動を起こすことは考えられなかった、が江川・巨人連合は、なりふり構わず行動した。結果、江川は巨人と契約したのでした。

それに、当時はドラフトの対象者は「日本の中学、高校、大学に在学している者」と規定されていて、江川は法政大学を既に卒業しており、在籍ということではどこにも籍を置いていなかったので、ドラフトの対象外でもあったのです。

巨人のオーナー正力亨は傲慢にも、江川との契約を正当性のあるものだと主張したが、セントラル・リーグ会長の鈴木龍一は、巨人と江川の契約を無効であると裁定した。

それからが、腑に落ちない。

日本野球機構コミッショナーの金子鋭が動き出した。江川の父親、巨人の正力亨、作新学院の理事長・船田中とその秘書・蓮実透らが、鳩首、悪巧みを図ったのだ。裏側では、読売ジャイアンツは江川の親に、東京で住宅もプレゼントをするなんてことを約束していたとも聞いている。

★2007 秋。二人は清酒のテレビCMに共演した。

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(200709 テレビCMで共演)

そのコマーシャルフイルムでは、二人が和解の握手をしながら会話を交わすのです。「申し訳ありませんでした」と江川。小林が笑顔で「君が謝ることないよ」と応える。それから、小林は、「お互いしんどかったなあ。だけど、あの事件はお互いの体に一つのパーツとして埋め込まれたまんまだ。死ぬまで、もっていくしかないよな」。江川は深く肯いた。この二人の会話は、二人の心境を察して誰かが作ったのだろうが、実に当を得ていて、二人は充分満足しながら演じたのだろう。

2010年1月30日土曜日

桜の森の満開の下

20100129〈金〉

19;30~

桜の森の満開の下

坂口安吾/作  広渡常敏/脚本・演出  池辺晋一郎/音楽

東京演劇アンサンブル

ブレヒトの芝居小屋

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職場のスタッフは、私が練馬の関町に行ってくるわ、と言えばもうそれで全て了解してくれるのです。一部には、私のことを飽きれた奴だ、と思っている人もいるかもしれない。早い目に上がるけど後は頼むわ、と言い置いてブレヒトの芝居小屋に向かった。

昨年、2009年4月の公演を楽しみにしていた。

だが、主演の公家義徳さんが舞台稽古の最中に怪我をして、突然中止になった。残念な思いを味わってからもう1年近く経ったのだ。光陰矢のごとし、とよく言うが、一日一日が飛ぶように過ぎていくのには驚く。

早く、19:00に着いた。ロビーでは焼酎を売っていた。なんと売り子さんが、6代目?7代目?の「銀河鉄道の夜」の現役ジョバンニさんではないか。昨年も一昨年も、舞台の上の彼女にはお会いした。今日は売店の店長さんだ。勇気を振り絞って焼酎1杯ください、と、声は引きつっていた。濃い目にしますか、淡(うす)い目にしますか、と問われ、なんと気の効いた店なこと!!、特別濃い目にお願いしますと迷わなかった。ジョバンニはお湯を入れてから、焼酎を入れますので、自分でストップと言ってください。どこの酒場でもこんな調子だったら、日本中がアル中ばかりになってしまうではないか。もう一人、この焼酎コーナーから離れようとしないオジサンがいた。このオジサン、少し酔っていた。ジョバンニの説明によると、このオジサンの娘さんがこの劇団の照明係だと言う。そんなことを話しているところに娘さんが来て、父に向かってこれ以上お酒を飲まないようにと苦言、怖い顔をして去って行った。酒飲みのオヤジはどこでも嫌がられるらしい、これって常識なの?

芝居は、舞台正面に置かれた屏風を破って、男と女が大きな音とともに飛び出して始まるのです。外国では、この初めのワンシーンだけで、劇場内が大混乱になるほど驚いてくれました、と龍氏。

1967年、檀一雄氏の進めによって広渡常敏が脚本して初演、その後演出を変えて再演し、現在に至る。90年のニューヨーク公演を皮切りに、91年ソウル、99年ロンドン、ウラン・ウデ、そして2005年のアイルランドの3都市で公演を行い、その都度高い評価を受けている、東京演劇アンサンブルの代表作だと、パンフレットには書いてあった。

原作を、よくここまでお芝居に仕上げたものだと感心させられた。脚本、演出を担当した広渡常敏さんの類まれな才能に驚嘆した。音楽、衣装、舞台演出、小物に至るまで奇抜だった。雪を模した紙吹雪をドンドン降らせた、そして風を吹かせた。宙吊りされた女、その下では男が女を背負っての動きか、見慣れぬ動きで、観客の目を瞠らせた。女房たち数人、生首たちの歌舞伎の手法を巧みに取り入れた不思議に絡み合った舞踊にも、私は興味をもった。

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お芝居が終わって、劇団が手作りの料理とお酒を用意してくれた。

舞台を担当した劇団の龍氏が、この舞台の装置や道具、セットの工夫や苦心したことを熱い思いを込めて話してくれた。昨年の暮れ、「銀河鉄道の夜」を観た後、必ずこの芝居を観に来て欲しいと強く誘われた。昨夜の彼は雄弁だった。あの屏風だって、タリさん(広渡常敏さんの愛称)と、いろんな屏風を検討したんですよ。海外で好評を博した話で盛り上がった頃は、もう興奮の絶頂だった。そりゃそうだろうな、地球の極東の国からこんな演出で乗り込まれたら、どこの国だって度肝を抜かれたであろうと、容易に納得できた。国毎に安全基準や消防の規制が違って、即応しながらこなしてきたのですが、それは大変でした、と言っていた。だから、此処、私たちの芝居小屋では好きなようにやれるので苦労なし、楽しいことばかりです。この仕事に就くまでは、「芸術は爆発ダ」の岡本太郎氏の処で働いていた。そこでの仕事のことも、もっと聞きたいと思ったが、時間がなかった。私との共通の友人の、ソニーの部品作りの会社経営者の昌氏、いわき市でスイミングのコーチをしている西氏のことにも話題が飛んだが、これもじっくり話せる時間がなかった。

ツムにも会えた。ツムは龍氏の姉で、かっての劇団員だった。「銀河鉄道の夜」の2代目のジョバンニだった。大学時代からの知り合いだから、かれこれ35年以上のお付き合いだ。今から20~25年前に、弊社のクリスマスの企画として横浜市中区関内のYMCAの最上階にある教会で、ツム一人による「銀河鉄道の夜」の朗読会を催したこともあるのです。社員は勿論、協力会社の人たち、サポーターに大変喜ばれた。今は、家事の傍ら軽自動車でお米を運んでいるとか、言っていた。彼女を前に懐かしさがドンドン湧いてきて、ツムの夫のこと、駆け込み出産のこと、仕事のこと、共通の友人のこと、それぞれの家族のことを、あれも話したい、これも聞きたいと思うことがいっぱいあったが、嗚呼、時間がないのが悔しかった。ツムの夫が彼女を迎えに来た。彼とは、先ほどのYMCAの朗読会以来だ。立派な体格だった。

ツムと龍氏の父=洋氏は、この劇団の代表者だ。大学時代、私がお世話になったテレビドラマの脚本家だった牛氏から洋氏を紹介され、この劇団のお芝居によく連れて来てもらったのです。今夜、洋氏の奥さんに初めてお会いした。ツムが来ると龍氏から聞かされていたので、カメラを持ってきた。この家族を纏めて撮ろうとしたら、洋氏の奥さんが家族揃って撮ることを、強く願ってくれたのです。奥さんは、家族が揃って撮った写真が、我が家には一枚もないのです、みんながバラバラなので、撮って、撮って。この写真を奥さんに、多い目に現像して贈ろうと思った。

車で来たのでお酒は遠慮したが、劇団員が作った料理に舌鼓を打ちながら、龍氏やツム、代表者の洋氏らとお芝居の話や身辺の出来事を話していると、此処が、この劇団が、独特な空気が漂う不思議な世界を作り出しているような気がしてくるのでした。富、金銀財宝とか、株や借金とか、身分や所属とかとは無縁の世界だ。劇団の出し物が、私と気脈が通じていることに、この快さの源があるのだろう。この酒盛りの誰の顔にも、無垢で、心の豊かさが滲み出ている。きっと、みんながこの劇団を愛しているのだろう。愛しながら、自分のことを確かめ合っているのかもしれない。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」風に言わしてもらえれば、自分の自分探しなのかもしれない。私も、此処では心穏やかに素(す)で居られる。みんなは同志なんだ。此処で、いつまでもいつまでも、時間を過ごしたいと思った。万一、此処のサロンならば、どんなトラブルが発生しようとも、民主的な手法で平和的に治まるだろう、と確信した。そんなことを洋氏一家に話したら、にっこりウンと頷いておられた。

一つの気球船に乗り合わせた、クルー仲間のようにも感じた。

大学時代は40年前、坂口安吾の本を真剣に読んだ。同時代の織田作から太宰、田中英光、檀一雄も好んで読んだ。どてらを羽織って酒を飲んでいる安吾、日本海の冬の海岸を寒風に吹かれながら歩く安吾、レンズのぶ厚い丸い黒縁メガネの安吾が布団の中で本を読んでいる、そんな写真が目に浮かぶ。

安吾の短編はどの作品も面白かった。探偵物や歴史物が面白かったと記憶に残っている。なかでも、今回の「桜の森の満開の下」は、民話からとった題材がいかにも安吾らしくて、ストーリーは簡単だったので、ほぼ確実に憶えていた。

が、長編は面白くなく、ただ、牛の涎(よだれ)のように楽しくもない話がこれでもか、これでもかと続くのです。男と女がああでもない、こうでもないと。私は、意地でも読み通してみせるとむきになって読んだが、結果、空しさと疲労だけを覚えた。作者と読者、お互いに意地を張り合っていたように思う。そんな面白くもない本を何故、そこまで我慢して読むんだと聞かれても、的確には返答できない。この苦しい本を読みこなさないと、俺の明日はないんだ、なんて自画自賛、いっぱしの安吾通を自任していたのです。

 

MX-3500FN_20100116_132854_001 森田家 023

(男と女)&(広渡常敏)

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(パンフレットより)

花というのはおそろしいもんだな。

花の下では風がないのにごうごう風がうなっているような気がしてくる。

花びらがぼそぼそ散ってくると、こっちの魂も散っていのちがだんだん衰えていくようだ。

 

桜の花が、間もなく咲く。

桜の花が咲くから、それを見てから旅立つことにしたい。

どうしてなの?

桜の森の満開の下へ行ってみなければならないからだ。

もう一度あの下へ行こうと約束したんだ。

だれに?

俺にだ。

なぜ行ってみなければならないの?

花が咲くからだ。

花が咲くから、なぜなの?

花の下には冷たい風がはりつめているからだ。

花の下にかえ?

花の下は涯しがないからだ。

花の下がかえ?

わたしも花の下に連れて行っておくれ。

だめだ、それはだめだ!

俺一人で行かなくてはだめだ!

桜の森の満開の下は俺一人で行くんだ!

 

お前は淋しいっていうことがどういうことだか、わからないんだね?

淋しいということばを知らないんだね?

山賊のことばでなければいえないこともあるぜ!

 

 

  森田家 017森田家 020 

               (ジョバンニと私)

  森田家 034

男と女 (公家義徳・原口久美子 )

 森田家 031

(ツム、龍氏と父母殿、志賀澤氏、私)

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パンフレットより

吹き抜ける安吾の風

岩波 剛(演劇評論家)

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奥行き深く 真骨頂舞台に

無頼派、異端、風狂とさまざまに呼ばれる坂口安吾は、日本の戦後文学といわず文化の歴史で、その名を逸することのできない異能の人である。「安吾の本質」の中には「激越な、求道的な、あるいは破壊的な狂気が宿って」いたと檀一雄はいうが、”狂気”のエネルギーでももってしなければ、あのすさまじい権威への抵抗はありえない、そんな戦中・戦後の混迷動乱期を生きたのだ。小説、エッセー、文化論から人生案内、巷談までその筆は奔放であり広範囲だったが、生誕百年を迎えてなお読み返され、論じ直されているのを見ても、いわゆる文化人などとは質の違うことは明らかだ。

その代表作ともいえる作品を舞台化したものが、東京演劇アンサンブルの「桜の森の満開の下」である。脚本・演出の広渡常敏は、2006年に亡くなったが、安吾の血をひく詩人であり、デカダンであり、反抗者であった。この劇は安吾の作品であり同時に自立した舞台芸術であって、安吾の風がときに嵐のごとく、ときに沈黙となって吹きぬけてゆく。

いきなり巨大な屏風を踏み破って、山賊が美しい人妻を引きずり出すというぎょっとする幕あき。宙を飛ぶ美女と山賊の道行き、女がもてあそぶ人間の生首、血しぶきはカラーテープとなって噴出し、歌舞伎の手法、モダンな舞踊もふくみ込みながら、美女が花びら闇に消えるまで、ごうごうと桜吹雪が舞い続ける。

「サクラ」は日本の象徴、しずこころなく花の散るらんーーーの静けさ平穏を日本的美意識と思い込んできた外国人が驚いたのも当然だろう。すでに海外五カ国へ遠征している。

ロンドンでは「美と残酷のコントラスト」が評価され、ニューヨーク紙には「身も凍る神秘的な芝居」と書かれたが、この華麗・過激な舞台は、これが主題だと一言で言えない謎、多義的な闇をはらんでいる。アイルラアンドではそのお国柄らしい寓話が読まれた。「自然・大地に根ざしていた男が、都の美女に目がくらみ、手に入れた末に喰い殺されそうになる。美女と見たものは鬼だった。つまり美女とは西欧文明ないし資本主義の隠喩なんじゃないか」と。広渡常敏は一言「これは詩だ」としか言わなかったが、どんな深読みも楽しみ方もこばまず許す奥行きの深さが、風圧の人安吾の真骨頂だろう。

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広渡常敏『青春無頼』より

「ぼくらが自分にとってよくわかった、既知の安全な場所に踏みとどまっていり限り、ぼくらはナイーブにはなれない。自分にもわからない未知のなにものかへむかって自身を投げ出していく時、はじめて”狂気”が発生して演劇空間が創り出される。サルトルはそれを自由と言ったのだった。」

2010年1月28日木曜日

日航経営破綻、更正法申請

以下の文章は、全て201020の朝日新聞の記事からより抜粋させていただきました。日本航空の経営破綻には、いろんな問題が含まれているので、この倒産劇はどうしてもマイファイルにして保存しておきたい。

政管業がもたれ合った結果、倒産は当然の結末だった。

潰れるべきして、潰れた国策企業の象徴的な大事件だ。

1面

日本航空は19日、東京地裁に会社更生法の申請をした。これを受け、官民が出資する「企業再生機構」が同日、日航支援を正式に決め、政府が承認した。運航や営業は平常通り続ける。機構は日航を管理下に置き、3年以内の経営再建を目指す。グループの負債総額は2兆3221億円で、金融を主力事業としない企業としては、最大の経営破綻になった。

会社更生法を申請したのは、持ち株会社で東京証券所1部上場の日本航空、中核の航空事業を担う日本航空インターナショナル、金融会社ジャルキャピタルの3社。グループ連結での債務超過額は8676億円(2010年3月末見込み)に達する。東京地裁は同日、更生手続きの開始を決め、管財人に機構と片山英二弁護士を選んだ。

日航と企業再生機構がまとめた事業再生計画案によると、マイレージポイントや発行済みの株主優待券は今後も従来通り使える。燃料費など一般商取引の債権、航空機のリース債権などは保護される。一方、日航の株式は無価値になる。東京証券取引所は2月20日に日航株の上場を廃止する。

機構は、更正法申請前に日航の借金減額などで大手銀行と大筋合意。国内大企業では初の「事前調整型」の法的整理と位置づけている。今後、金融機関の債権放棄や企業年金の減額を実行。政府保証付きの日本政策投資銀行の融資も焦げ付き、少なくとも440億円の国民負担が生じる。

機構は日航に3千億円以上を融資し、日本政策投資銀行とともに6千億円の融資枠を設ける。1兆円近い公的資金枠を使って日航の財務体質を改善。グループで1万5千人超の人員削減など抜本的なリストラを進め、11年度の黒字化を目指す。こうした内容の更生計画を6月末までに決め、債権者の同意を得て8月に裁判所の認可を得たい考えだ。

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政官業もたれ合い響くーーーーーーー(野沢哲也)

国を代表する「ナショナル・フラッグ・キャリア」の日航が法的整理に至った背景には、政官業がもたれ合う「責任者不在」の構造があった。

自民党政権は地方空港を造り続け、完成すると航空会社に就航を迫った。全国97の空港と新幹線、高速道路が旅客を奪い合い、2009年度上半期、日航の国内線の7割近い路線が採算の目安とされる利用率60%を下回った。

旧運輸省・国土交通省は、空港建設と維持のために着陸料を高くし、航空会社の競争力をそいだ。01年の米同時多発テロ後、国際線需要の低迷から日航の体力が弱ると、抜本改革を先送りしながら日本政策投資銀行の増資引き受けや追加融資で延命を図った。

日航自体にも問題があった。05年に相次いだ運航トラブルや社内の派閥抗争などで会社の評判が下がり、客離れにつながった。リストラや機種を更新するスピードでも全日本空輸に後れをとった。

08年秋のリーマン・ショック、09年春の新型インフルエンザ流行という世界の航空業界を襲った大波にあらがう体力は、日航には残っていなかった。

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天声人語

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曇り空の下、技術陣の気がかりは離陸や巡航ではなく、着陸だった。ジャンボ機の初飛行である。あの巨体が無事地上に降りるのか、との疑念が航空専門化の間にあったからだ。

開発リーダーのジョー・サッター氏が自伝(堀千恵子訳)に記す。〈威風堂々とした外洋航路船ばりに滑走路に降下してきたかと思うと、静かに滑空し、それはそれは見事な着陸をやってのけたーーー

いまや真の飛行機が手に入り、成功もどうやら夢ではない〉

空の旅を大衆化した立役者は明日、就航40年を迎える。ロングセラーの最大の顧客が、法的整理に入った日本航空だった。リストラの一環として、効率の悪いジャンボ37機をすべて退役させるという。一つの時代の終わりを思う。

評論家の佐高信氏は「役所と民間の悪いところを合わせたような会社」と辛辣だ。政治に弱い体質に大企業病が宿っていた。ジャンボの大量購入も、対米配慮と無縁ではあるまい。空港を乱造した政治家、天下り官僚の責任は不問で、また税金が投入される。

日航でジャンボを長く操った田口美貴夫氏は、高度も速度もゼロから燃料満載の400トンが突き進む。整備から操縦まで、全てが完璧で初めて機体は舞い上がると、著書「機長の700万マイル」にある。

国家機関という空港に不時着し、会社更生法の格納庫で身軽になる日航。初めての着陸に固唾をのんだジャンボ開発陣のように、納税者は再びの離陸を厳しく見守りたい。天候がどうであれ、今度はしっかり飛んでもらう。

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社説/JAL法的整理

国民負担増やさぬ再生を

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政府の全面支援で日本航空を再生する取り組みが、正式に動き出した。日航がきのう会社更生法の適用を申請し、官民出資ファンドの企業再生支援機構が支援を決めた。

政府が関与しての「事前調整型」法的整理で、昨年6月に米政府が自動車大手のゼネラル・モーターズ(GM)の再建に適用した手法だ。日本では初めての試みである。

日航は巨額の債務超過に陥り、政府支援なしでは清算に追い込まれかねないほど経営が悪化していた。安全運航を確保っしつつ日航が担う国民の「空の足」の機能を再生するには、法的整理が避けられなかったといえる。

日航のマイレージや燃料などの商取引債権は、守られることになった。さもないと客離れを招き、燃料購入が滞ったり機体を差し押さえられたりすることも懸念された以上、やむを得ない措置だといえよう。

公表された再建計画では経営陣が総退陣し、社員を1万5千人削減する。現役・OBの企業年金は大幅カット、金融機関は債権の8割強を放棄。株券は無価値となる。

こうして利害関係者が痛みを分かち合うだけではなく、国民も巨額の負担を背負い込む。確定している分だけでも、日本政策投資銀行による政府保証つき融資の焦げ付きで440億円の国民負担が見込まれる。

政府ぐるみの支援が国民負担をさらに増加させる危険もある。それを最小限にとどめる努力が政府と日航に求められる。その意味でも、肥大化した路線網やサービス体制を現状のまま維持することは許されない。経営の徹底したリストラが必要だ。

路線の一部を他社に譲り渡すこともためらるべきではない。一方、政府のてこ入れで競争相手の全日本空輸や新興航空会社が不利な立場に置かれるようなことがあってはならない。

日航の経営悪化は自民党の長期政権と霞ヶ関の官僚にも重い責任がある。過剰な国内空港建設を続け、不採算路線への就航を日航に求めた。そんな航空行政が「親方日の丸」の甘い経営を長年にわたり放置した。

日航会長には民主党に近い大物経済人の稲盛和夫京セラ名誉会長が就く。世界的企業に育てたカリスマ経営者とはいえ高齢でもあり、個人の手腕に寄りかかるわけにはいかない。

1985年のジャンボ機墜落事故の後、伊藤淳二元鐘紡会長は社内抗争や労使紛争に巻き込まれ、辞任に追い込まれた。日航の体質とも言われた派閥抗争や複雑な労使関係を一掃するにも、社内外から人材を抜擢することが求められる。

日航は国民に対する責任の重さと過去の教訓をかみしめ、出直し創業に挑んでほしい。

2010年1月24日日曜日

安保改定50年

1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約と同日に締結された「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」を失効させ、新たに1960年(昭和35年)1月19日に締結したのが「日米安全保障条約」だ。日本からは岸信介首相、米側はアイゼンハワー大統領だった。

この17日で、米安全保障条約が締結されてから、50周年を迎えたのです。

60年の反安保闘争は、市民、学生、労働者を巻き込んで、凄まじい闘争が繰りひろげられた。東大生の樺美智子さんが機動隊とデモ隊の混乱の中で圧死した。60年安保は、私が中学生だった頃だ、新聞やテレビを見ては、聞いては、読んでは圧倒された。

70年は安保の自動延長阻止のための闘争だった。全学連が華々しく活動した。東大闘争、日大闘争、新宿騒乱、佐藤栄作訪米阻止、佐世保エンタープライズ寄港阻止、その闘争は安保粉砕から始まって、大学紛争に広がりを見せた。

当時の私は体育会のサッカー部に所属していて、不思議な胸騒ぎを感じても、静観するしかなかった。この不思議な胸騒ぎの正体が、その後の私の人格の形成と共にはっきりしてくるのですが、その時はまだ理解できていなかった。日米安全保障条約の中身が解らなかった。

だが20歳の学生だった私にも、大半の活動していた人には、政府の後ろめたそうな作為がなんとなく見破っていたような気がする。あの時の佐藤元首相の病的に人相の悪かったことから、何か裏がある、と直感で判っていたのだろう。

後に、佐藤栄作首相と米ニクソン大統領が沖縄返還にともない、核密約を交わしていた文書が佐藤元首相の次男が現物を保管していたことが、最近になって明らかにされた。日本に「重大な緊急事態」が発生した場合は、米国が再び核兵器を持ち込むことを認める、と約束していたのです。佐藤元首相は、国民には沖縄も本土並み非核三原則を日米の合意事項だと胸を張っていた。この元首相は日本人として不名誉なノーベル平和賞を受賞したのだ。受賞に最も不適格な人物が受賞してしまったのだ。

学生や市民、労働者の行動のエネルギーの源は何か、このエネルギーを羨(うらや)ましく思ったこともある。当時、私の大学では、安保粉砕から授業料値上げ反対、自治会館自主管理獲得に熱を上げていた。そして、入学して2年間はロックアウトされて、構内には入ることができなかった。私は、「団結」という言葉を嫌い、「連帯」という言葉に好感を持つようになっていた。アジダスのサッカーバッグには、「檄」と大きく書いていてはばからなかった。自分自身に対して、何もかも奮い立たせていた。

その後、80年は、90年はなんとなく過ぎ去っていった、、、、、、、。社会人になって仕事に終われ、アンポの関心は全く薄れていったようだ。それほど、企業戦士願望が強かったのだろうか。70年の胸騒ぎで動揺はしたが、当時、私は確実に怒っていた。その怒りの対象は何だったんだろうか。

今では、世論調査では日米安全保障条約を日本人の大半(7割)が是として容認している。

この安保50年を期して、朝日新聞では下の二つ記事を載せた。記念すべき時期の記事として転載して、マイファイルに納めた。

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20100119

朝日・朝刊

安保50年問われる変革

編集委員・加藤洋一

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日米安全保障条約は19日、署名50周年を迎える。半世紀も生き延びてきたのは、条約を基礎とする日米同盟関係が国際情勢の変化に応じて、その姿を変容させてきたからに他ならない。今後も有効性を失わず存続するかどうかは、どれだけ柔軟性を維持できるかにかかっている。

旧安保条約は1951年「占領を合法化する条約」(自衛隊将官)として生まれ、60年に米国の日本防衛義務を付け加えるなどの修正をへて新条約となった。基本的な構造は、日本が米国に守ってもらう(5条)代わりに、米軍に日本国内の基地を提供する(6条)という内容で、今も変わらない。

単に「占領の延長」を超えて、独自の戦略的意義を持ったのは冷戦期。日本列島がたまたま極東ソ連軍の太平洋への出口をふさぐ形になっているため、日本の守りを固めることが自動的に米国の対ソ封じ込め戦略に寄与することになった。

しかし、旧ソ連の崩壊でこうした意義は消え、同盟は一時、方向を失う。立て直すために行われたのが95年から96年にかけての「同盟の再定義」だった。

日米同盟はいま、日本防衛に加えて、中国の台頭がもたらす変化、特に海軍力の増強にどう対応するかという地域レベルの課題、さらにテロとの戦いに象徴される国境を超えた(トランスナショナルな)脅威への対処という三つの課題を抱えている。

さらに、条約の5条が想定する日本有事に蓋(がい)然性が一層低くなり、人道支援、災害救助、海賊対策など戦闘、抑止以外の任務の重要性が高まるという変化も起きている。

加えて近年、米側では「世界の警察官」の役割を軽減し、日本などの同盟国に肩代わりしてもらおうという「世界関与の合理化」の考えも浮上している。オバマ大統領はノーベル平和賞の受賞演説で「脅威が拡散し〈安全保障の〉任務が複雑化する今の世界では、米国一国だけでは行動できない」と強調した。

こうした一連の変化に対応するため、日米同盟はすでに「グローバル化」と「マルチタスク化(役割の多様化)」が進められ、「世界の中の日米同盟」(03年の日米首脳会談での合意)となりつつある。問題は今後も、その方向に進み続けるかどうかだ。

日本では鳩山由紀夫首相が地域の信頼醸成に向け、東アジア共同体構想を打ち上げた。米側も最近「日米豪」、「日米韓」、「日米印」など新たな多国間の枠組みに関心を示している。安全保障ネットワークの重層化だ。研究者の間では「日米関係という問題の設定そのものが時代遅れ」(入江昭ハーバード大名誉教授、『世界』2月号)という指摘すら出ている。

現行の枠内で同盟の強化・拡大を図るにしても、条約が規定する役割を「解釈改正」ですでに大きく踏み越えているという矛盾がある。

次の50年に向けては、トランスナショナル化が一層進む世界で、日米同盟をどう使うのか、そのためにどう変革するのかが問われる。

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20100119

社説/安保改定50年

「同盟も、9条も」の効用

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50年前のきょう、岸信介首相とアイゼンハワー大統領が出席して、米ホワイトハウスで現在の日米安全保障条約への署名が行われた。

これがやがて、60年安保闘争として歴史に残る騒乱につながる。5ヵ月後には、全学連の学生らが国会に突入。樺(かんば)美智子さんが命を落とした。

戦争が終わってから、まだ15年だった。しかも、当時は米ソ両国による冷戦のまっただ中だ。アジアでは朝鮮戦争は休戦したものの、間もなくベトナム戦争が始まるなど、身近に戦争が感じられる時代だった。

朝日新聞の世論調査では、安保改定で日本が戦争に巻き込まれるおそれが強くなったとの回答が38%もあった。日本の安全を守る方法として、中立国になることを挙げた人も35%いた。

A級戦犯だった岸首相の復古的なイメージや強引な政治手法への反感も強かった。占領以来の鬱屈したナショナリズムが噴出したとの見方もある。

それから50年、同盟の半世紀は日本社会にとって同盟受容の半世紀でもあった。今や朝日新聞の世論調査では、常に7割以上が日米安保を今後も維持することに賛成している。

冷戦終結後、アジア太平洋地域の安定装置として再定義された日米同盟の役割はすっかり定着した。核やミサイル開発を続ける北朝鮮の脅威や台頭する中国の存在を前に、安保体制の与える安心感は幅広く共有されているといえるだろう。

日本が基地を提供し、自衛隊と米軍が役割を分担して日本の防衛にあたる。憲法9条の下、日本の防衛力は抑制的なものにとどめ、日本が海外で武力行使することはない。在日米軍は日本の防衛だけでなく、抑止力としてアジア太平洋地域の安定に役立つ。

それが変わらぬ日米安保の骨格だ。9条とのセットがもたらす安心感こそ、日米同盟への日本国民の支持の背景にあるのではないか。

米国の軍事行動に日本はどこまで協力すべきか、おのずと限界がある。国論が二分する中でイラクに自衛隊を派遣したが、もし9条という歯止めがなかったら、その姿は復興支援とは異なるものになっていたかもしれない。

アジアの近隣諸国にも、「9条つきの日米同盟」であったがゆえに安心され、地域の安定装置として受け入れられるようになった。

アジアの姿はさらに変わっていく。日米両政府が始めた「同盟深化」の議論では、新しい協力ぼ可能性や役割分担について、日本が主体的に提示する必要がある。米軍基地が集中する沖縄の負担軽減や密約の解明問題も避けて通れない。

しかし、「9条も安保も」という基本的な枠組みは、国際的にも有用であり続けるだろう。

2010年1月23日土曜日

ゴーストレストラン

1月20日(水)の夜、我が家の居間は、ゴーストレストランになっていた。

仕事を終えて、自宅に着いた。いつものように自宅の玄関のドアーチャイムのボタンを押そうとしたら、玄関扉につたない字で何やら書いた紙が張られていた。私の二女の息子・晴の見慣れた字だ。晴はこの春6歳になる。

張り紙には、ゴーストレストランへようこそ、いろいろなメニューがあります、とあった。

私は、ドアーが開くなり、ビールをください、特別に美味しいビールをください、早く早く、と晴に急かした。え、えっ、晴は頭を掻いていた。ビールは彼にとっては想定外のオーダーだったようだ。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、テーブルに投げるように出してくれた。私の長女の娘・楓は、晴のお尻を追いかけていた。可愛い3歳のアシスタントです。

夕方、急に居間の照明が切れて、家人が蛍光灯を新しいものに代えても点かなくて、代わりに私の布団の枕元にいつもある電気スタンドをテーブルに置いていた。その弱い照明のなかに決して贅沢ではない、家人の手作りの料理が並んでいた。食材の質を活かし、愛情と技で練り上げたものだ。照明器具の心臓部分が壊れたようだ。

そこで、晴は、幽霊食堂を思いついたのです。こんな機会を捉えてでも、ちゃんと遊びに結びつけるなんて、なかなか、洒落者だと感心させられた。さすが、二女の息子だ。

私の長女・実が幽霊食堂じゃつまんないから、ゴーストレストランと呼ぶことにしたようだ。そして張り紙を晴に書かせたようだ。

毎週水曜日の昼間は、長女とその子どもと二女の息子らが我が家に集まって遊ぶのです。夕食は、その参加家族らが家人の作った料理に舌鼓を打つ。全員で食事することにしているのです。それから風呂に入って、各々の家庭に帰っていく。水曜日は平日なので、長女の夫は仕事で欠席。私は、我が社の営業部門が休みなので、早く家に帰って孫の顔が見られる。私の楽しみの一つです。

私がテーブルにつくと、晴はそのスタンド以外の照明を全部消した。なんじゃ、そんなスタンドの灯りでは風流さに欠けるぞ、無粋やなあ、ローソクでも灯そうよ、と言うと、やっぱりお父さんは、そう言うだろうなと思った、とは家人の言葉です。テーブルの周りだけは少し明るいが、少し離れると薄暗くなって、もう少し離れるとそこは闇だ。雰囲気は上々だ。料理にスポットライトが当たっている。お互いの顔が浮き出て、その表情の濃淡が鮮明になって、なかなか面白かった。私にとっても久しぶりの光景だ。

交わす言葉も、幽霊のように怪しい声で、弱弱しく、空気を撫ぜるような声音(こわね)で話し合った。時には、ゴツイ声になって、幽霊はそんな声を出さないよ、と笑い合った。

晴に、ボーイさんと呼びかけると、違うよ違う、私は社長さんです、社長と呼んでください、ときた。

遅れて、仕事帰りの晴のお父さん、お母さんも食事に加わった。私はみんなの顔を眺めながら、ひたすら、お酒をご馳走になりました。