2010年6月10日木曜日

伊能忠敬のこと、池澤夏樹

新聞という手短で、手軽な形でのこのような小文は、私には有り難い。私の貧しい知的欲求を十分満たしてくれるのです。興味深いことを、日常生活の連続の中で、簡単に読めるってことが、実にいい。

そして私は、この文章をそのまま転記しながら、学び取るのです。読んで、その文章をそのまま書き写して、内容を繰り返すのです。作家は、伊能忠敬の偉業から、自分の頭上に思いを巡らせる。そしてこのような文章ができ上がる。

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20100601  終わりと始まり

朝日・夕刊・文化 

伊能忠敬

「地図の原理と頭上の脅威」

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札幌の北海道庁旧本庁舎、通称「赤レンガ」は今は北海道立文書館になっている。傍らにある現庁舎とは対照的な美しい建物だ。

ここの展示室の壁に縦横数メートルの大きな北海道の地図がある。探検家松浦武四郎が安政四年(1857年)から三年がかりで作り上げたもの。

この「東西蝦夷山川(えぞさんせん)地理取調図(とりしらべず)」の前に立つと、大きさと細密さの両方に圧倒される。見上げるほど大きな地図に、目を凝らすほど小さな文字で地名がびっしりと書き込んである。

自分がよく知っている地域について目が行く。我が祖先の地、日高の海岸に沿った新ひだか町のあたりを見れば、今の春立と静内の間、、松浦の表記によればハルタウシナイとシヒチヤリの間に二十の地名が記してある。今の国土地理院の地形図には二つしかない。アイヌの人々が使っていた地名はみな消えてしまった。国道がぬっと通っているばかり。

この大きな地図について感心することがもう一つある。北海道の形だ。現代のぼくたちが見慣れたものと寸分違わない。

この形はしかし松浦の功績ではない。彼は大いに歩いたけれど測量はしなかった。彼の数十年前に地形図を作ったのは伊能忠敬である。松浦は伊能の成果を借りて、その上に自分が歩いて得た多くの地名を加えた。

伊能忠敬は北海道のみならず今の日本の領土のほとんどを歩いて近代的な高精度の地図を作った。

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不思議な人だと思う。

偉人として尊敬するのはたやすいがそれを超えた何かがある。房総の商家に婿養子として入り、才覚を発揮して資産を数倍に増やし、四十九歳で隠居してから高橋至時(よしとき)のもとに弟子入りして天文学を学び、地理に目を転じて実地測量を始め、生涯をかけて「大日本沿海與地(よち)全図」を作りあげた。この熱意はどこから湧いたのだろう? 使命感というより学問そのものへの情熱のように思われる。強烈な知的好奇心。

この人物の活動を具体物によって見たいと思い、千葉県佐原の伊能忠敬記念館に行った。地図の現物の精密さと美しさにやはり感動した。

測量は現地に立たないとできない。だから彼は歩いた。行く先々で距離を縄や鎖で計り、方位をコンパスで計る。それはつまり科学の精神だ。科学では推理や仮説の前と後にモノがある。それを信頼してひたすら愚直に計る。かって井上ひさしさんが伊能のことを「四千万歩の男」と呼んだのは正しかった。

時代の限界はあった。測定値は平均するだけで、近代的な誤差論はまだ知らない。標高の測定はほとんど行なわれず、測量は海岸線に沿うばっかりで、内陸部にはあまり入らない。フィールドノートに書かれたのが和数字なのがなんとも奇妙な感じだ。

自分の場合、地図への感心はどこから生まれたのだろう。

山の中で迷う。沢に迷い込んで、どちらの尾根に登ればいいかわからない。上空にタカが舞っている。あのタカの目から見たら、どこに林道があるかわかるのに、と思う。タカの目に映っているものを紙に写せば地図になる。

それを得るための伊能忠敬の努力であった。紙に写したものは情報として他人と共有できる。迷う者は先人の労力のおかげで救われる。

しかし、そのありがたさを実感するにはまず少しは迷わなければならないだろう。周囲の地形を見て、地図を見て、両者を重ねた上で自分の位置を確認する。それができない時、人は自分が迷っていると気づく。

GPSができて、カーナビが普及して、人は迷うことを知らなくなった。伊能の努力の成果はここまできた。だが、便利であると同時にどこか不自然だと思う。地下に住んで雨で濡れないことを喜んでいるのに似ている。雨もまたいいものなのに。

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時に上空の視点は煩わしい。

映画「グリーン・ゾーン」の中で夜の市街を逃げる主人公(マット・ディモン)たちを敵の側のヘリが上から見張っている。情報は地上のの敵兵に伝えられる。だから、イラクのゲリラの地対空ミサイルが「ファルコン16」というコードネームを持つヘリを撃墜する場面で観客は喝采を送る。そういえばファルコンとはタカのことだ。

今、アフガニスタンでアメリカ軍は多くの無人偵察機を使っている。手の届かない上空を何日でも交替で旋回している。地上の民にとってはさぞかし腹立たしい代物だろう。

無人の爆撃機もある。遠方のCIA職員が操縦する無人爆撃機が人を殺した場合、それは戦闘行為とは呼べないという議論がアメリカで起こっている。いずれにしても卑怯には違いないーーーと言うのも時代遅れか。

記念館からの岐路、伊能の地図の原理がここまで進んでしまったことをどう受け止めればいいのか、考え込んだ。その一方で、ぼくのレンタカーはカーナビの指示に従って最寄のインターチェンジに向かって迷うことなく走っていたのだが。

2010年6月1日火曜日

小判草(コバンソウ)

 

昨日、川崎市宮前区菅生に中古住宅の調査に行った。その物件の所有者と専任媒介契約をしている大手電鉄系の不動産仲介会社の担当者が、待ち合わせ時間に遅れるというので、私は周辺を散歩した。仕事柄、周辺の住宅街の環境とか地勢は知らず知らずのうちに、チェックしている。もうこれあ、職業病だ。

まだ、来ないなあと思いつつ、駐車場縁(ふち)の斜面になっている草むらや、路傍の草を眺めていた。毎度御馴染みのタンポポを見つけると、必ずと言っていいほど、衝動が起こるのです。タンポポの茎を3センチぐらいに輪切りにして、その片方の端を唇と歯で少し柔らかくして、そこを震わせるように息を吹く、そしてピーとかプーとか音を出した。いい音が出ると、その衝動は静かに治まるのです。

一緒に居た秋田出身の坂さんが、ヤマオカさんがそんなことしたら、俺だって黙ってはおれんなあと草のなかから単子葉をむしり取って、草笛にして鳴らした。彼も、田舎での子どもだった頃を思い出していたのだろう。彼のやり方は、両の手を丸く合わせ、両手の親指で葉の一方を縦にして挟み、親指の根元の部分で葉のもう一方の端を押さえて、ピーンと張られた葉に息を吹きかけて葉を震わせるのです。見事な音声だ。

そんなことをしていても、まだ担当者は来ない。

草むらを丁寧に観察した。草は初夏を前に勢いを増している。どの草も名前は知らないが、今まで見たことのある草ばかりだと、思いきや、ところがどっこい、私にとって初めて見る草があったのです。細い茎に、その花穂がまるで稲穂のように垂れている、その仕草がとても愛嬌あるように思えて、見つけたことが嬉しかった。

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仕事仲間の秋田県人は、その草の名を知っていた。「コバンソウ」ですよ、細い糸のような茎に実が垂れているのが、可愛いいんだ!!とヌカスではないか。形が小判に似ているので、そのような名になったそうだ。田舎育ちでは、彼には一歩も引けを取らないのですが、この草の名を瞬間に言い当てられ、この勝負、鮮やかに一本とられた。私の田舎にも、この草はあったのだろうか。花穂の形から、この名前を一度憶えたら、きっと忘れないだろう。

ネットからの知恵によると、いね科の植物で、ヨーロッパ地中海沿岸が原産地で日本へは明治時代に園芸用として渡来したようだ。一年草です。見た目には、稲よりも小麦に近い。


 

2010年5月30日日曜日

首相の普天間「決着」

先の衆院選で民主党の鳩山由紀夫代表は、普天間飛行場を国外、最低でも県外に移設するんだと大見得を切った、それ以外にもできもしない、鼻先にニンジン型の利益誘導の戦法で、大量の票を獲得、そして政権交代を実現させた。民主党代表の鳩山氏は首相、総理になった。特に沖縄県民には圧倒的に支持された。沖縄の人々の積年の思いを、一票に代えさせた。期待させて、、、そして、裏切った。

それから、民主党を含めた三党連立政権は、その後、政治とカネ問題以外にも、ゴタゴタは続いた。このゴタゴタ、メッチャクチャの一つ一つは、ここでは触れない。まだまだこれからもメッチャクチャが続きそうだなので、参院選挙前にはこのブログでその「総集編」を考えている。29日の新聞は、辺野古移設を閣議決定したことをとりあげた。新聞には、多くの国民、特に沖縄の人々の失望や怒り、政権与党への不信の言葉が溢れていた。

以下は5月29日の朝日新聞・朝刊の記事を転記した。

鳩山由紀夫首相は28日夜、臨時閣議を開き、この日午前に発表した日米共同声明を確認し、米軍普天間飛行場(宜野湾市)を名護市辺野古周辺に移設するとした政府方針を閣議決定した、これに先立ち社民党党首の福島瑞穂・消費者担当省が閣議決定への署名を拒んだため、首相は福島氏を罷免、同党は連立政権離脱の検討に入った。首相は記者会見で「5月末決着」の前提としていた地元と連立与党の合意が得られなかったことを認め、陳謝した。政権内では首相への失望が広がっており、政権運営は厳しさを増している。

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新聞の題字だけを拾い書きしておこう。題字を読めばその記事の内容は概(おおむ)ね想像できる。

拒否の福島氏を罷免/首相謝罪「沖縄傷つけた」/社民、連立離脱論強まる

政権一層の弱体化/見識なき政治主導の危(あや)うさ

砂上の日米合意。実現困難、普天間固定化

社民覚悟の罷免。「首相に正義ない」

修正最小限、歓迎の米

官のネットワーク構築を/日米の信頼関係傷つけた/振興策で沖縄抑えられぬ

失望と怒り移設厳しい・沖縄知事

首相誤算の連続=県外「もう言わない」心算がーー/「徳之島は命綱」崩れた」青写真/孤立の末「合格点にはほど遠い」

首相会見要旨「沖縄の理解得られてない」

基地の考え方福島氏と根本的に違った

社民は沖縄裏切れぬ/党の筋通した

日米共同声明 米の意向色濃く反映/沖縄負担減一部盛る

野党批判=沖縄の理解ない、必ず破綻

中国・鳩山政権の不安定化懸念/韓国・朝鮮半島有事にらみ歓迎

金が来ても辺野古の海に捨てて

期待は幻、沖縄怒る/切捨て また/基地の痛み共有しない国

徳之島3町長と知事=訓練受け入れ反対姿勢確認

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20100529

朝日・朝刊

社説/首相の普天間「決着」

政権の態勢から立て直せ

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これが、鳩山由紀夫首相の「5月末決着」の姿だった。深い失望を禁じ得ない。

米海兵隊普天間飛行場の移設問題は最後まで迷走を続けたあげく、政府方針が閣議決定された。臨時閣議に先立ち発表された日米共同声明とともに、移転先は名護市辺野古と明記された。

これは、首相が昨年の総選挙で掲げた「最低でも県外」という公約の破綻がはっきりしたことを意味する。首相の政治責任は限りなく重い。

首相は決着の条件として、米国政府、移転先の地元、連立与党のいずれの了解も得ると再三繰り返してきた。

しかし、沖縄は反発を強め、訓練の移転先として唯一明示された鹿児島県徳之島も反対の姿勢を崩していない。

社民党党首の福島瑞穂・消費者担当相は国外・県外移設を貫くべきだとして方針への署名を拒み、首相は福島氏を罷免せざるを得なくなった。連立の一角が崩れたに等しい打撃である。

「5月末決着」という、もうひとつの公約すら守れなくなることを恐れ、事実上、現行案に戻ることで米国とだけ合意したというのが実態だろう。

地元や連立野党との難しい調整を後回しにし、なりふり構わず当面の体裁を取り繕おうとした鳩山首相の姿は見苦しい。

 

同盟の深化も多難

この「決着」は、大きな禍根を二つ残すことになろう。一つは沖縄に対して、もう一つは米国政府に対して。

政権交代の結果、普天間の県外移設を正面から取り上げる政権が初めて誕生した。県民が大きな期待を寄せたのは当然であり、そのぶん反動として幻滅が深くなることもまた当然である。

日米合意は重い。だが辺野古移設は沖縄の同意なしに現実には動くまい。首相はどう説得するつもりなのか。

それが進まなければ、2014年までの移設完了という「日米ロードマップ」(行程表)の約束を果たすことも極めて困難になる。それとも強行という手段をとることも覚悟の上なのか。

一方、米国政府に植えつけてしまった対日不信も容易には取り除けない。

きのうの共同声明は「21世紀の新たな課題にふさわしい日米同盟の深化」を改めてうたった。両国が手を携えて取り組むべき「深化」の課題は山積している。だが、普天間問題の混乱によるしこりが一掃されない限り、実りある議論になるとは考えにくい。

私たちは5月末にこだわらず、いったん仕切り直すしかないと主張してきた。東アジアの安全保障環境と海兵隊の抑止力の問題も含め、在日米軍基地とその負担のあり方を日米間や国内政治の中で議論し直すことなしに、打開策は見い出せないと考えたからだ。その作業を避けたことのツケを首相は払っていかなければならない。

「問い」あって解なし

普天間問題の迷走は、鳩山政権が抱える弱点を凝縮して見せつけた。

成算もなく発せられる首相の言葉の軽さ。バラバラな閣僚と、統御できない首相の指導力の欠如、調整を軽んじ場当たり対応を繰り返す戦略のなさ。官僚を使いこなせない未熟な「政治主導」。首相の信用は地に落ち、その統治能力には巨大な疑問符がついた。

もとより在日米軍基地の75%が沖縄に集中している現状はいびつである。県民の負担軽減が急務ではないかという首相の「問い」には大義がある。

しかし、問いには「解」を見いだし、実行していく力量や態勢、方法論の備えが決定的に欠けていた。

普天間に限らない。予算の大胆な組み替えにしても「地域主権」にしても、問題提起はするものの具体化する実行力のなさをさらしてしまった。

首相と小沢一郎幹事長の「政治とカネ」の問題や、利益誘導など小沢氏の古い政治手法も相まって、内閣支持率は20%を割り込むかというところまできた。鳩山政権はがけっぷちにある。

55年体制下の自民党政権であれば、首相退陣論が噴き出し、「政局」と永田町で呼ばれる党内抗争が勃発するような危機である。

しかし、鳩山首相が退いても事態が改善されるわけではないし、辞めて済む話でもない。誰が首相であろうと、安保の要請と沖縄の負担との調整は大変な政治的労力を要する。そのいばらの道を、首相は歩み続けるしかない。

そのためには民主党が党をあげて、人事も含め意思決定システムの全面的な再構築を図り、政権の態勢を根本から立て直さなければならない。

参院選の審判を待つ

何より考えるべきなのは鳩山政権誕生の歴史的意義である。有権者が総選挙を通じ直接首相を代えたのは、日本近代政治史上初めてのことだ。

政治改革は政権交代のある政治を実現した。永久与党が短命政権をたらい回しする政治からの決別である。選ぶのも退場させるのも一義的には民意であり、選んだらしばらくはやらせてみるのが、政権交代時代の政治である。

歴史的事件から1年もたたない。政治的な未熟さの克服が急務とはいえ、旧時代の「政局」的視点から首相の進退を論じるのは惰性的な発想である。

普天間への対応も含め、鳩山首相への中間評価は間もなく参院選で示される。首相は「5月末」に乗り切れても、国民の審判から逃れられない。

2010年5月26日水曜日

ええ~写真や

昨日(20100525)、池袋にある金融機関にプロジェクト資金の借り入れの手続きに出かけて、その帰りの電車の中で、網棚にカバンを置こうとしたら、そこに捨てられた日経新聞があった。貧乏性の私はこういう場合、必ず手にとって読むことになってしまうのです。新聞の時も、雑誌、マンガの時も必ず手にするのです。恥ずかしくて目を伏せたくなる雑誌も時にはあるのですが、これは私の秘かな官能を刺激してくれるので、カバンの中に蔵(しま)って、後のお楽しみ、ってとこか。この習慣は、私が田舎から東京にやってきてから始まったので、42年の歴史がある。さすがにゴミ箱に捨てられたものを、ガサガサ、ゴソゴソ、穿(ほじく)り出すことはしませんが。

この新聞を手にとってペラペラめくっていると、俄然、衝撃力のある写真が目に入った。これは、この写真は本もののペレーとマラドーナ、ジダンではないか。この三人が偶然出くわしてこのような状況になったのではないだろう、何かの企画で撮った写真とはいえ、私にとって、一度目にしてしまった以上、この新聞を簡単には捨てられない。明日、水曜日は営業が休みだ。知的所有権や著作権、味噌も糞もあるものか、我が物にしてしまうのが、山岡 保の本能のおもむくままの流儀だわい。このブログに無断使用させてもらった。貧乏人の私に、世界の大ブランドがケチな損害賠償請求なんてありえない、笑止千万だ。

この写真は全15段片面を使った、LOUIS VUITTO の広告だったのです。

写真を勝手に我が物にしてしまった、その罪滅(ほろ)ぼしにと、せめて広告コピーも併せて転記しました。このコピーは新聞紙面では、写真の下に書かれていました。

ルイ・ヴィトンの商品には縁がなく、感謝の気持ちを購買することでは表せないが、この写真を使ったコマーシャルのお陰で、私以外にも多くの人が喜んでいることでしょう。ルイ・ヴィトンに感謝もしているんです。

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3人の類い稀なる人生という旅。伝説のゲーム。

カフェ・マラヴィラス、マドリード。

ペレ、ジダン、マラドーナが語るーーーlouisvuittonjourneys.com

 

ルイ・ヴィトンは地球温暖化防止プロジェクトを支援します。

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20100525

日経新聞・朝刊

ルイ・ヴィトンの広告より

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2010年5月22日土曜日

野良猫に餌、加藤元名人敗訴

私の知人にも、野良猫に餌を上げている人がいる。又、その人は自宅に20匹近い野良猫を保護している。自宅の近くに現われる野良猫は、どの猫も確認している。初めて見かけた猫は、捕獲器で捕まえて保護する。そして動物病院で、病気に罹っていないか、お腹に虫をもっていないか、エイズに感染していないか血液検査もする。体に異常がなくて、野で耐えられるようなら、不妊や去勢手術をしたうえでリリースするか、保護して里親募集をする。病気に罹っていた場合は、動物病院で治療してもらい、知人の家の中で仲間と暮らす。病気が治り人間との生活に慣れてくると、ネットで里親募集を行なう。

保護した野良猫を、動物病院で診てもらったり治療してもらうのですが、このような活動している人のために、治療費や薬を割引している病院も数多くある。不妊や去勢手術、ワクチンも特別料金では有り難い、理解ある獣医さんや動物病院には本当に感謝しています、と知人。でも、個人が自分の生活費以外に負担するには高額だ。このような活動をしている人は、数多くの猫を保護するのですから、尚更だ。

相性の合った里親に恵まれた猫は幸せだ。相性チェック、里親になるための資質、条件は厳格だ。ネットでの里親募集なので、里親さんは何処からともなく反響がある。関東周辺なら手軽だが、北海道の小樽や富山県の里親希望者に猫を届けに行ったこともあるらしい。でも、知人は良縁を信じて嬉々として行動する。猫を預ける側と猫を受取る側は、猫の今後の安らかな生活のための約款を締結する。

加藤元名人の場合は、屋外で20匹ぐらいに餌をあげていたとのことだが、やはり20匹が集まってくるようでは、糞尿やその他のことで、周辺住民には何らかの嫌な影響を及ぼすことは避けられないだろう。このようなことで、周辺住民と諍(いさか)いを避けるために、知人は自宅で保護しているのです、と言う。

知人はお金のことは余り言おうとはしないけれど、お金の有り余った生活をしているわけでは決してない。活動の全てを自分のポケットマネーどころか、人間様用の生活費を削りに削って、猫の飼育費に当てているのだろう、その大変さは想像に難くはない。このように、配慮の行き届いた善良な保護者がいて、はじめて先ほどの加藤元名人のようなトラブルが発生しないのだ。

どうか、今回加藤元名人を裁判所に訴えた原告の方々、加藤元名人を訴えたのはよくよくのことであったのだろうが、町の彼方此方で、このように猫を保護して頑張っている人たちがいることを認識して欲しい。50匹以上も保護している人も知っている。ネットワークが自然に作られて、お互いに保護した猫の飼育を助け合ったりしているようだった。このような活動をしている人たちに、この野良猫問題を任せておくわけにはいかない。猫好きな人が勝手にやっているんでしょ、なんて簡単にすまさないで欲しい。

裁判で勝って、唯、よかったよかった、と言っている場合ではない。猫が好きな人も嫌いな人も、猫に迷惑な被害を受けた人も、自治体も、役割分担して解決を試みてみましょう。人間と猫、同じ生命を持ち合う動物の仲間たちだ。猫を挟んで、双方が恐い顔で睨(にら)み合っている場合ではない。優しい眼差しで微笑みを交わせるようになりたいものです。

この問題は、もう充分社会問題だ、行政の出番でもあろう。とりあえず、野良猫の不妊や去勢手術費ぐらいは早急に条件なしで自治体が全額負担すべきだろう。晴れて、早く実施されたし。

加藤元名人に餌をもらっている猫らは、元名人に感謝しながらも、立派な大人たち同士を、裁判といえども、人間どもに戦わせてしまったことを、悪いことをさせてしまったニャと心苦しく悩んでいることだろう。猫にはニャンにも罪はニャイ。

憎むべき敵は、猫にとっても人間にとっても共同の敵は、猫を捨てた罪深い人間の「奴」(アイツ)だ。

殺処分だけは絶対避けなくてはならない。

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20100525

朝日・朝刊・社会

地域猫 トラブル防げるか?

ここの記事をダイジェストさせていただいた。

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「地域猫」とは、「決められたルールに従って、地域ぐるみで飼育をしている猫」。猫の住民トラブルに頭を悩ましていた磯子区が1999年、区民公募の検討委員会で「猫の飼育ガイドライン」をまとめ、提唱した。

ルールは四つ。①猫には不妊去勢手術をする ②餌の場所を決め、残った餌は片付ける ③フンの始末をする ④個体識別をして、健康をチェックする

動物病院やボランティア団体はその後、「磯子区猫の飼育ガイドライン推進協議会」を作って活動を拡大。現在27グループが同協議会に登録し、ルールに従って活動をしている。1年目で大半の猫に手術を受けさせ、「地域猫」として見守り始めた。だが、治療代や餌代の負担は変わらず、費用は年間で百数十万円に上る。協議会に登録することで、手術代が半額以下になる援助はあるが、活動費用ほぼ全てがメンバーの自腹だ。

「正直言って結構な負担ですが仕方がない。地域猫として認められるよう、細心の注意を払います」

難しいのは地域住民が猫を「地域猫」と認めなければ、地域猫活動は成り立たないところだ。

この記事を読んで、そんなに皆で猫のことを心配するのなら、家に入れてあげればいいのにと思ってしまう。外敵、人間が一番狂った外敵になるのですが、どうしても猫を苛める奴が必ず居る。それならば、家に入れてあげて、楽しく過ごそうよ、ということには、何か問題ありますか。

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20100514

朝日・朝刊 社会

猫に餌「住民に被害」

加藤元名人「敷地外で続ける」

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集合住宅に集まる野良猫に、将棋の元名人加藤一二三・九段=東京都三鷹=が餌をやり続けたために悪臭などが発生し苦痛を受けたとして、近隣住民らが、加藤さんに餌やりの中止や慰謝料など約640万円の支払いを求めた訴訟で、13日東京地裁立川支部で判決が下された。

判決は午後になった。判決によると、加藤さんは1993年ごろから野良猫に餌をやり始め、周辺に現われる猫が18匹になった。2002年には庭で生まれた子猫6匹について、餌をやったり、猫が凍死しないように玄関前などに段ボールやバスタオルを置いたりした。不妊去勢手術をしたため、現在は4匹まで減ったが、原告住民らは、猫のフンの始末を余儀なくされたほか、洗濯物に臭いがついたり、車に傷をつけられたりした。

市川正巳裁判長は判決の中で、「猫には、餌やりだけでなく、段ボールを用意してすみかを提供しているのだから、『飼育している』と認めるべきだ。猫は原告住民に様々な被害を及ぼしており、『迷惑を及ぼす恐れのある動物を飼育しないこと』と定めた管理組合の条項に違反し、住民らの人格権を侵害する」と慰謝料の支払いを命じた。加藤さんの「猫は『迷惑を及ぼす恐れのある動物』にあたらない」との主張には、「小鳥や金魚は含まれても、小型犬や猫はふくまれない」と判断。そのうえで「動物は家族の一員、人生のパートナーとしてますます重要になっているが、集合住宅にはアレルギーの人もおり、人と動物との共通感染症への配慮も必要。犬や猫の飼育を認めるようにするには集合住宅の規約の改正を通じて行なわれるべきだ」との考えを示した。

裁判では、「動物愛護」の精神による餌やり行為が、集合住宅における他の居住者の「人格権」を侵害するかどうかが焦点となった。

★人格権とは=生命や身体、自由や名誉など、個人が生活を営むなかで他者から保護されなければならない権利。侵害した場合は損害賠償が生じる。これまでの民事裁判の判決では軍用機の騒音、焼き鳥屋のにおい、水道水を汚染する可能性がある産業廃棄物処理場建設などが「人格権を侵害する」と判断されたケースがある。

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20100514

朝日・朝刊

天声人語

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将棋の元名人で、現役55年を誇る加藤一二三さん(70)は、ものごとへの「こだわり」を語る伝説が多い。盤上では居飛車に棒銀、対局中のネクタイは長いが袖は短め、暖房は静かな電気ストーブで、出前は昼夜ともうな重ときめている。

タイトル戦を指す旅館で、音が気になると庭の人工滝を止めさせた話は有名だ。その九段にして、こだわりの一手が通らぬこともある。加藤さんが東京地裁立川支部に204万円の支払いを命じられた。

争いの舞台は、棋士が住む庭付き集合住宅。加藤さんは長らく玄関先や庭で、多い時には約20匹の野良猫に餌を与えてきた。増やさぬ努力をしたものの、フンや鳴き声に悩む住民たちが裁判に訴え、餌やり中止と慰謝料の判決が下った。

「迷惑」は加藤さんの鼻や耳にも届いただろうが、「動物愛護だ」と一歩も引かなかった。裁判所にも禁じ手と断じられ、控訴するそうだ。5年前の公式戦で反則をとがめられて以来の〈待った〉である。

住居ひしめく大都会では、餌づけで野良猫が居ついたといったもめごとが絶えない。飼い猫と野良猫の間に、皆でかわいがる「地域猫」がいる。フンの処理や不妊手術まで、近隣で責任を分かち合う工夫だ。

腹ぺこの子猫がにゃ~と鳴けば、誰しもぐっとくる。かといって、勝手に地域猫を始められても困るし、人になれた猫は虐待の的にもなりやすい。判決文に「一代限りの命を尊重しながら、時間をかけて野良猫の総数を減らしていく必要がある」とあった。「捨てないで」と受け止めたい。

2010年5月21日金曜日

天国のおっ母(か)さん、俺は元気です!!

懐かしい写真が出てきました。先日の黄金週間、久しぶりに生まれ故郷に戻った時、私が育った家を壊して新しい家に建替える際、解体現場から出てきたのです、と今や実家の大黒柱になった甥っ子が、取って置いてくれたのです。

母は平成14年の2月に、父は同じ年の11月に同じガンで亡くなった。

この写真は、今から15年ほど前、私と私の友人・小と吉と、父母の5人でニュージランドに行った時に、オークランドの上空遊覧ヘリコプターに乗った時に、操縦士の横に座った誰かが撮ってくれたものです。MX-3500FN_20100512_092149_001

ちょっとばかり仕事に余裕ができた時期でした。懐具合も、悪くはなかった。15年ほど前のことです。私は、気付かなかったのですが、世間ではバブっていると言われていた頃だったのです。父や母を何処かに連れて行ってやりたいと急に思いついて、田舎に電話した。仏教国で日本人には馴染みやすいかなと思って、タイと考えたのですが、気候とか、のんびり感を考えると、やはりニュージランドだった。

ニュージランドに行こうか? と。

「保、足が痛いから、そんな広い所を歩くのがシンドイし、よう行かんわ」

「そんなことないよ、飛行機で行くンやから、何もそんなに心配せンでも、ええよ。ホテルもド田舎にあって、日本語で通用するさかいに、何にも心配することはない」

こんな会話を、電話で何度も繰り返した。コテージ風のホテルは私の知り合いが、購入していて是非使ってくれと頼まれていたのです。母との電話での会話は、何んだか可笑しくて、歯車が合わない。ピ~ンと通じるものがない。母は何か、思い違いをしているのだろうと思っていた。

そしてある日、ついに気付いたのでした。ピンポ~ン。きっと、母はニュージランドを東京ディズニーランドと勘違いしているのだ、と。そして確認し合って大笑い、勘違いを楽しんだ。

この写真に戻ります。

ヘリコプターの定員は乗務員を含めて5人だったので、我が一行の5人全員が乗ることはできなくて、俺は、内心、誰かが私は遠慮しますからと言い出すのを待っていたのです。本音を言うと、母が、私遠慮するわと言うのを待っていたのだ。悪い息子だ。折角、旅行に連れ出して、それはないだろうと反省した。そんな私の悩み事なんかに、ちょっとも気にする風もなく一番先に乗り込んだのは母だった。

父は昔から機械が大好きで、珍しいものが大好きで、新しいものやちょっと変わったものがあれば、イの一番で見たり手に入れたりするお仁(ひと)だったのです。このヘリコプターに乗ろうかと尋ねたときに、快哉を叫んだのは父だった。

ヘリコプターの乗務員に父は、田舎言葉で何か喋っていたが、相手に反応がなくて、次第に怖い顔に変わった。意味が通じないことが不満だったようなのだ。

母の葬式の後の食事会で、親戚の人から、母は亡くなる前に「保にどこか遠い所に連れて行ってもらった」と、色んな人に言っては喜んでいたそうだ。ささやかな、私の親孝行の真似事だったのです。

2010年5月19日水曜日

宇治田原への帰省、望郷編その④

 

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 今日は、朝から「農業」だ。茶農家のお助けマンだ。一宿一飯の恩義に17貫の老体に鞭打って、働いて返さなくっちゃならん。甥の嫁は、早速私に野良仕事用の靴を用意してくれた。中国人が日常的に履いているような靴だった。働け、と言う意味だと理解した。

朝めしをご馳走になってから、甥・セと甥の嫁・ヤ、私と竹さんの4人は、茶畑に行って、茶の新芽が少し出ているのを、隙間のある黒いビニールで被せる仕事をした。このようにしてとれる茶のことを、一般的には「かぶせ茶」と言われている。玉露の一種なのです。

本格的な玉露と言えば、畑に並ぶ茶の木の全部を、棚を作ってその棚の上に菰(こも)といって、稲の藁を編んだものを被(かぶ)せるのです。最初は何も被せない状態で芽を少し伸ばし、それから菰を掛けて、横にもこの菰を張る。暫らくして収穫の時期を見計らって、この粗い菰の上に、さらに藁をばら撒いて、密閉度を高めるのです。そうすると、菰の中は薄暗く日射を完全に断つのです。日射を遮ることで、茶の甘味を呼ぶそうです。この菰を被せていく手順には、当然のことながらベストの決まりはあるのですが、一度にはできないので、芽の出具合から、あっちの畑、こっちの畑と張っていくようです。

この黒いビニールを被せる仕事は甥と甥の嫁の仕事になっているようだ。丘陵地に茶畑があるので、移動するだけでも足腰が疲れる。甥の嫁は、慢性的な腰痛だ。丘陵地は土壌の水はけがいいので、茶畑にはいいそうだが、嫁にとってはハードだ。彼女は、日焼けや虫よけのために頬っ被りをしていた。蛇が私の歩いている農道を横切った。私は飛び上がって逃げた。世の中で、借金取り以外は怖いものがないのですが、唯一蛇だけは苦手なのです。甥が予定していた範囲の仕事は、割と早く終わったので、もう少しやろうよと甥に言っても、まだ茶の芽が被せる状態ではない、と言う。少しの休憩。農道に仰向けになって寝転んだ。隣の雑木林は、風に揺れている。小さな雲が、大きな青空の中に、ぽつんと浮かんでいる。

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ところで、この開墾畑はどうしたんだっけ?と甥に質問をした。私の子供の頃は、この開墾畑はなかったのです。この開墾畑は、40年前におじいちゃん(私の父)が12人ほどで組合を作って始めたのや、と甥。南地区の森林組合の入会地を開墾したのです。40年前と言えば、私が大学を卒業した頃だ。当初、計画段階では30人ほどの参加希望者がいたのですが、最終的に参加したのは12人だった。参加を取りやめた人からは、今更開墾して茶を作るなんて、時代の流れを知らない連中だと揶揄されたらしい。

そして、ここに費やした工事費や何やかやの借金は、20年前にオヤジ(私の兄)の時代に終わらせた、と甥。開墾畑の茶園は充分の収穫をもたらし、今や茶の木は老木化して、もう少し経つと老木を切り倒して代替ええをしなくてはならない時期にきているんです、その時は大変や、と甥。

その茶の木の代替えは甥がやることになる。この話をしていて歴史を思った。私の父が始めて、その借金は兄が最終的に支払い終え、その間は借金を払いながら収穫し、借金が終わって暫くした頃には茶の木の世代交代。このようにして産物を生みながら歴史は重みを増していく。そのことこそが、山岡家の財産になったのだと思った。

私の父は、ここの開墾畑だけでなく、いくつも畑や田を買い入れていた。昭和5年から15年ぐらいにかけてだろう。資金を借りたのは、何とか振興銀行だったり、殖産何とか銀行だったりで今はそんな金融機関はない。農地の売買を活発化するための国策で用意された金融機関だったのだろう。戦争が激化していくなかで、食料の自給率を高く維持するために、耕作もしない荒地を少なくしたいという国の施策でもあったのではと思う。父が死んで相続登記をするために権利書などを整理していたら、金融機関からの借り入れの書類がでてきた。父は頑張ったのだ。

兄も、実家の敷地に隣接している土地を買った。父も兄も農業という事業に意欲的だったのだ。

組合員の中から離作する人が出てきて、甥と兄はその離作した人が手放した茶園の管理から収穫を任されて、最初は全体の12分の1の広さだったのですが、今や4分の1くらいの面積の茶園の面倒をみている。隣の茶園が荒れ放題になると、虫や病気が発生した時など、隣接の茶園の持ち主は非常に困るのは当然で、営農を放棄する人は必ず隣接の人に相談を持ちかけるのです。そんな関係で、兄と甥が管理する茶園はどんどん増えてきた。

そういう環境の中なのに、今度は甥たちが次のチャレンジに入っていた。新たな開墾畑の造成に着手したのです。宇治寄りのくつわ池の近くだ。父が参加して作った開墾よりも、3倍以上の広さだ。何人かで組合を作って、隣町の森林組合の入会地を借りてそこの茶畑を、今(201005)、ほぼ造成が終わりかけていた。

隣町の森林組合の入会地なので、地代が高く求められて弱ったわ。排水の処理も当初町の土木課との打ち合わせをした通りにいかなくて、工事費が突出した分は、現金を用意できないので自分等で働いて処理をしたのです。工事費は国,京都府、宇治田原町からの補助で7~8割をまかなえるのですが、残りを組合員で均等に負担するのですが、やはり1世帯でも過分の負担になるらしい。説明してくれる甥の言葉はどこまでも頼もしい。

甥は仲間に恵まれているようだ。性格が温厚で人に好かれるのだろうが、何よりも、何よりもお茶に対する取り組みが真剣だ。その真剣さが仲間を呼び集めるのだろう。茶づくりの研修を重ね、たゆまぬ興味や研鑽をし続けることが、気分の張りになっているのだろう。

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思いの外、茶の木に黒いビニールを被せる仕事が早く終わったので、午後は猪(いのしし)や鹿が作物を荒らしに来ないように、柵を作ってそれに電線を張り巡らす仕事をすることになった。柵に、電線を3段に一定の間隔で張るのです。電線が柵に触れるところは碍子(がいし)で離す。動物がその電線に触れるとビビっと電気が流れてそのショックで猪や鹿は逃げていく、その仕掛けをする。

ところで、上の写真は、その工事を始めた最初の現場なのですが、この場所というのが、私の田舎では比較的賑やかな所なのです。宇治から私の田舎に入ってくるメインの道路の側、50メートルと離れていない所から、このような電気の柵が作られているのです。私がこの田舎で暮らしていた40年前までは、考えられないことだった。猪や鹿がこんな住宅街にまで近づいてきていることに驚かされた。40年前にもそのような被害はあったことはあったのですが、人里離れた山の側ならば、しょうがないと観念してこのような柵や、定時に爆音を起こさせる装置で、闘っていたことはあったが、このような住宅街至近でのことはなかった。

府道から外れた、農道といっても立派なアスファルト道路を、夜、鹿や猪が歩いていることになる。田の所有者がそれぞれに自分の田を囲っているのですが、もっと効率よく大外回りを共同で柵を作るか、夜、見張りをたてるかした方がいいのではと思ったのですが、他所モンがいい加減なことを言うものではないと、口にチャックした。

現実に我等が宇治田原を後にするとき、高速道路の渋滞を避けたいと思って深夜1時に実家を出て横浜に向かったのですが、狸の陶器で有名な信楽で、1時20分頃新名神高速道路のインターに近づいた所で、鹿が山の裾野を歩いていたのを見つけた。助手席の竹さんは、別の場所でも2頭の鹿を見つけた。このようなことは、私が田舎に住んでいた時はなかった。異常な繁殖で、増えているようだ。

この事態には行政の出番だと思う。 宇治田原町の町長も、出納長も俺の後輩なんだけどなあ。教育長は中学校、高校の同期なんだけどなあ。どうにかせ~とか、、、

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場所を猪の口に移動した。猪の口という地名は、害獣、猪君と関係あるのか。仕事の内容は先ほどと同じだ。

仕事に取り掛かる前に、甥の奥さんが作ってくれたお握りで昼飯をとった。久しぶりだ、山に囲まれた畑で地面に尻をどっぷり下ろして、青空を眺めた。新緑の樹木がすぐそこに大いに迫っていて、食欲がそそる。畑に背中全体で寝っ転がった。土の匂いがする。懐かしい匂いだ。五月の風は爽やかだ。鳥の鳴き声がすぐ近くに聞こえる。小川の流れる水音が気持ちいい。うとうとしていたら、甥っこが作業開始を告げた。

この茶畑は以前は水田だった。この田を茶畑にするときはオヤジ(私の兄)は反対はしなかったけれど、渋い顔をしたと言っていた。そりゃそうだよ、今から約50年前、1961年の9月16日に第二室戸台風が紀伊半島から関西地方を襲った。この台風は室戸岬に上陸して関西地方に大被害をもたらした。死者200名。この台風で、この水田の水源になっている池の土手が決壊して、池の水が、V字型の谷を大量の土砂を下流に流した。川も氾濫、その土砂は周辺の水田に流れ込んだのです。

我が家の水田は比較的上流の方にあったので、流れ込んできたのは大きな岩や、大木で量も多かったのです。この荒れ果てた土地を、父は母の協力のもとに復元したのです。その努力は相当なものだったと思う。父も若かったのだ。3反ほどのうち1反は全く瓦礫だけの荒地に姿を変えてしまったのです。何年かかったのか、私は分らないのですが、兄がその復元の仕事を手伝った記憶があるという。兄は長兄なので、その辺りから父の影響を受け、百姓として、山岡家の田畑を守ろうと思い始めたのだろうか。

この水田のすぐ上の方は全部、復元されずに長いこと荒地のままだった。大きな岩や、大木の大きな根が転がっていた。我が家の田は、復元した水田の中では一番荒れていたことになる。父に、この田も台風の後はこんなんだったんだよと上の方を指を差して教えてもらった。その荒地で、私と祖母は蕨(ワラビ)やゼンマイ、蕗(フキ)を採った思い出がある。

父と母、兄がそんなに苦労して復元した水田を、今度は甥が茶畑に変えてしまったのだ。甥は、父が目に入れても痛くないほど可愛いがった孫だ、兄にとっては掛け替えのない重要な後継者だ。深さ1メートルほど掘り起こして、土を掻き雑ぜて整地、そこに茶の若木を植えたのです。説明する語調に、覚悟が感じられた。兄も自分の息子がこんなに農業に興味をもってくれて、特に茶に対する意欲は並々ならぬものがあって、申し出は受けざるを得なかったのだろう。兄の複雑な気持ちが痛いように分る。兄は亡くなった父の思いのことも考えたことだろう。

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竹さんは作業中です。竹さんは電鉄の電気工事を主に扱っている会社の社員なんですが、この種の仕事は初めてです、と言いながら真剣そのものでした。

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これが電源です。