2010年9月18日土曜日

菅代表再選、改造内閣スタート

菅直人首相は17日夕、改造内閣を発足させた。代表選で支持を受けた議員グループから閣僚を起用して論功行賞色をにじませた。世論を意識してのことだろう、小沢一郎元代表の議員グループからは登用せず「脱小沢路線」を鮮明にした。党内からは不満も漏れており、今後の政権運営に不安を残した。民主党役員人事では、幹事長に前外務相岡田克也。彼は、外務大臣の仕事で実績をあげたい、と外相にこだわったのだが、藤井裕久元財務相などの説得を受け入れた。岡田氏は幹事長を受けるには、幹事長代理には反小沢派の枝野幸男前幹事長をどうしても指名したいと主張し、首相はその要求を呑んだ。官房長官には、反小沢バリバリの仙石由人氏が留任した。官邸主導の政治を狙っているのだろう。

再選された直後は、内閣と党の人事には挙党態勢で臨むと言っていたけれど、仕上がった人事は小沢グループを完全に排除した。

首相は、この組閣を「有言実行内閣」だとか、民主党全議員による「412人内閣」だとか自画自賛しているけれど、兎に角私を含めて多くの国民は、「これじゃ、何も変わらないよなあ」なんてことにならないように、頑張ってもらいたい。対抗馬だった小沢一郎元幹事長が、本当に政策面において噂ほどには豪腕を発揮できるとはどうしても思えないが、首相にも少しばかりは、気を引き締めて辣腕を揮ってもらいたいものだ。

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20100915

朝日・朝刊

社説

政権交代の初心にかえれ

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民意をおおむね反映した選択が示された。まっとうな結果といえる。

民主党代表選で、菅直人首相が再選を決めた。小沢一郎前幹事長は党員・サポータ票で水をあけられ、頼みの国会議員票も菅首相を下回った。

仮に小沢氏が勝ち首相になったら、民主党政権は衆参のねじれに加えて、民意との大きなずれに苦しむことになったに違いない。

就任わずか3ヶ月の現職の首相を、総選挙も経ずに党の事情だけで交代させることには、やはり大義はなかったというほかない。

民主主義深化に向け

歴史的な政権交代から、明日でちょうど1年。鳩山政権の挫折、参院選での手痛い敗北を経て、民主党政権は実質ここからが再スタートとなる。

「政権を交代させたのは間違いではなかった」と国民が実感できるよう、菅首相をはじめ全国会議員が、1年の反省を踏まえ、政権交代の初心にかえり、もう一度やり直すくらいの気構えで政権運営に臨まなければならない。

今回の代表選に向けられた海外の視線には、極めて厳しいものがあった。ここ数年の異様なまでの短命政権の連続には、日本の政党政治の機能不全、民主主義の未成熟を指摘されてもやむをえない面がある。

20年来の政治改革の営みがやっと実を結び、政権交代は実現したものの、民主党政権のやっていることは自民党政権とたいして違わないではないか。

そんな政治への幻滅や冷笑が国民の間に広がり、取り返しのつかないところまで深刻化しかねない。代表選前の日本を覆う空気だったといっていい。

菅氏の再選を、国民の政治離れに歯止めをかけ、民主主義のさらなる深化に向けた一歩としなければならない。菅氏の責任は重大である。

「二重権力」にさらば

敗れたといえ、小沢氏は国会議員の半数近い支持を集めた。「豪腕」とも評される小沢氏の実行力への期待もあろう。今後も一定の影響力を維持することになるかもしれない。

しかし、一般国民の意識に近いとみられる、党員・サポートの間では支持が広がらなかった。小沢氏には、この事実をかみしめてもらいたい。

その要因は、政治とカネの問題だけではない。

数の論理を追い求め、説明責任には後向きで、ばらまき的手法をいとわない選挙至上主義といった小沢氏の「古い政治文化」への拒否感が、根底にあるに違いない。

これからは「一兵卒として頑張る」と小沢氏は明言した。ここは、その言葉通りに身を処すべきだろう。検察審査会による2度目の判断を待つ身でもある。

今後の人事では、小沢氏が舞台裏から党や政権に大きな影響力を及ぼし、実権を振るう「二重権力」構造は、くれぐれも避けなければならない。

むろん菅氏が小沢氏を支持した議員を排除していいということではない。党を二分した熾烈な選挙戦のしこりを最小限に抑え、文字通りノーサイドで、党が一丸となれる体制を菅首相はつくらなければいけない。

「壊し屋」の異名をとる小沢氏には、選挙で負ければ、仲間を引き連れ、いずれ党を割るのではないかという見方がつきまとう。

小沢氏は自民党離党以来、一貫して政権交代可能な二大政党制の確立を掲げてきた。政権交代を実現させた今、党を分裂させ政界再編をしかけることが、その目標に沿うとは思えない。

小沢氏自身、選挙結果がどうあれ、党を割ることはしないと繰り返し言明してきた。もはや永田町的な「政局」に血道をあげる時代ではない。

政策を実行してこそ

今回の代表選には、徹底した政策論争を通じて、党内の異なる政策路線に黒白をつける意味合いがあった。

総選挙マニフェストは国民との約束だが、財源との兼ね合いで実現が難しければ、柔軟に修正し、国民には丁寧に説明して理解を求める。

消費増税を含む税制抜本改革の議論からも逃げるわけにはいかない。

そうした菅首相の主張は、極めて妥当な内容だろう。

代表選で軍配があがった以上、民主党は菅首相が掲げた方針と政策路線のもとに一致結束しなければならない。

菅首相に注文がある。

新成長戦略の策定など、日本経済と国民生活を立て直すメニューは、それなりに示されたが、問われるのは今後の実行いかんである。安心できる社会保障の将来像や、経済成長と財政再建を両立させる具体的な道筋についても、できるだけ早く示してほしい。

国民世論の菅首相に対する評価は、消極的な支持というべきものである。

国のトップリーダーが短期間で代わるのは好ましくないという思いや、「小沢首相」に対する拒否感が強く作用していることは否めない。それを積極的に支持に変え、政権の推進力とするには結果を出すしかない。

代表選で訴えた「オープンでクリーンな政治」「新しい政治文化」を早く目に見える形にすることも必須だ。

頻繁な首相交代による「政治の不在」はもう許されない。今度こそ、内外の政策課題に腰を据えて取り組む。民主党全体が、国民に対する重い責任を自覚しなければいけない。

2010年9月15日水曜日

宗教って一体なんだ?

20100918の朝日新聞の朝刊の記事をダイジェストした。宗教が、こんなに人を狂わせてどうするんだ。

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(パキスタン中部のムルタンで9日、コーラン焼却計画に対し、星条旗を燃やして抗議する人たち。=ロイター)

米同時多発テロから9年になる今月11日に合わせ、米国フロリダ州ゲーンズビルの小さなキリスト教会が、イスラム教の聖典『コーラン』を燃やすと宣言した。イスラム世界からは猛烈な反発が広がっている。オバマ米大統領や、国連の潘基文(バンギムン)事務総長、各国の首脳、著名人らは、この運動を批判、火消しに躍起になっている。

人びとの幸福、精神の安寧に、それ以上に重要な役を担う宗教が、何ゆえに、こんな馬鹿なことをしでかそうとするのか。人間の罪を償うために神からつかわされた救いの主であるキリストを信じるキリスト教が、そのキリスト教の教会の牧師が何んでまた、こんなことを主張しはじめたのだろう。宗教戦争じゃあるまいし。

私が親近感を持つ仏教は、チベットのラマ教は、ヒンズー教は?それじゃものみの塔は? 宗教、それも宗教家が人間を、人間の苦しから救うどころか、揉め事に火を点け油を注ごうとしているのだ。

人口12万人の街で日ごろ、教会の集会に参加するのは50人足らずの小さな教会だ。

この教会の牧師は、「イスラム教は、ウソの塊である」「イスラム教は悪魔の教えだ」と言ってはばからない。インターネットを通じてコーランを持ち寄るよう訴え、これまで約200冊以上が集まったという。

米国のあちこっちでイスラム教の施設に焼夷弾やレンガが投げ込まれたり、イスラム教徒が多いニューヨークのタクシー運転手が襲われた。

これらの事件のきっかけは、同時多発テロの現場の一つ、ニューヨークの「グラウンド・ゼロ」の近くに持ち上がったイスラム系施設の建設計画だ。完成時期の見通しはたっていないが、約100億円の資金でモスクのほか、講堂、プール、展覧会場を兼ね備えた13階建てのビルを建てる予定だ。

だから、頭にきてイスラム教の聖典「コーラン」を焼こうというのか。

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コーランとは

イスラム教の聖典。預言者ムハンマドが610年から亡くなる632年までの間に神から受けた啓示をまとめたもの。114章からなり、啓示の時代順ではなく、長い章から先に配置されている。天地創造や終末などの世界観、道徳や倫理などの規範から相続や刑罰など法的な規定まで含む。もともと、声に出して読まれるものを意味し、アラビアア語の韻律の美しさが人間業を超えるものとされる。このため、ほかの言語に訳したものは聖典と認められない。

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20100918

朝日

天声人語

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ハリウッド映画にテロリスト役で出た中東出身の俳優を、同僚記者がかって取材した。この俳優は撮影中、ある場面の削除を製作側に申し入れたことがあった。旅客機の乗っ取りに成功して朗々とコーランを読み上げるシーンだった。9・11のテロが起きる前の話である。

人権団体の助力もあって台本は変更され、完成した映画にそのシーンはない。「なぜ悪人とイスラム教をすぐに結びつけるのか」と、俳優は憤っていたそうだ。米社会のイスラム教への偏見はかねて根深い。テロの後、憎悪ともいえる感情となって渦巻いたのはご承知の通りである。

それでも聖典のコーランを集めて燃やす話は、聞いたことがない。フロリダ州のキリスト教会が、テロから9年になる11日に計画し、波紋が世界を駆けている。イスラム世界には激しい抗議が広がり出した。

信者は50家族ほどの小教会だが、世界に向けて「コーランを燃やせ」と呼びかけてもいる。「書物が焼かれる所では、ついには人間も焼き払われる」。ドイツの詩人ハイネの言葉を引くなどして欧州からも非難が上がっている、

テロの」のあと、米国でイスラム系住民は不穏な空気にさらされた。ニューヨーク大の教授は、「社会が自由や寛容を失ったら、それこそテロリストを勝利させることになる」と案じていた。憎悪が憎悪をあおる愚挙は、まさに思うつぼだろう。

『悪魔の辞典』のピアスによれば、宗教とは希望と恐怖を両親とする娘だっそうだ。不寛容という乳母の手で醜く育った娘は、いずれであれ世界を不幸にする。

2010年9月12日日曜日

一皮むけそうだ、ザッケローニジャパン

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(グアテマラ戦、前半12分、ヘデイングで先制点を決める森本)

(朝日朝刊・20100908・スポーツより写真拝借)

サッカー日本代表が、南アフリカW杯大会を経て、ここにきて、やっと、一皮むけそうな気配が感じられた。先日のキリンチャレンジカップで、4日にはパラグアイと7日にはグアテマラと戦った。親善試合と言えどもともに勝ったことは有意義なことだ。若い選手が溌剌としたプレーを見せてくれた。

南アW杯大会に現地入りしてからも、岡田監督が悩み抜いたのは、攻撃力をこの場に臨んでどう生かせばいいのか、その策はいかなるものか、全てはそのことばっかりではなかったかと想像できる。

その時に、思いついたのが本田のトップでの起用と阿部のボランチ起用だった。本田は慣れないポジションではあったが、ボールをキープできた。タメができたお陰で、その間に、他の選手が何らかの動きができたのだ。遠藤、長谷部、阿部、松井がボトムアップ。これを「日本の形」と新聞では言っていたが、誰がどこのポジションにと言うことではなく、ゴールが奪える形のイメージを、誰もが頭に刻み込んだようだ。朝日新聞の潮智史編集委員はこの「日本の形」を支えていたのは、速い攻守の切り替え、ハードワーク、積極性、球際の激しさだとまとめていた。その通りだと思う。

そして、今回のキリンチャレンジカップでの2戦においては、原博実技術委員長が監督代行の形で采配を揮った。次期日本代表監督に決まったザッケローニ氏が就労ビザの遅れで指揮がとれないなか、委員長は多くの選手を試した。次期監督にも、色んな選手を見てもらいたかったのだろう。若い選手が育っていて、若い彼らの技術とイマジネーションを加えて、「日本の形」の進化を究めていくことだろう。

数的優位。

勝つためには、敵を欺く奇抜なアイデアや、ファンタスティックな技術はそりゃ、あればそれに越したことはないのは当たり前だが、それよりも先ずは、数的優位を作り出すことから、始めるのが、定石だ。この定石が、今まではできていなかったのだ。

そのためには、ボールを保持している選手は敵をかわして抜く、ボールを保持してない選手はマークを外すことだ。風変わりなフェントで抜く松井に内田、スピードの変化と突出力では香川、長い距離をタフに持ち込める長友、駒野、テクニックも備えた彼らが数的優位を作り出した。中盤でカットできる阿部や細貝が、相手が守備を固める前に攻撃をしかける。これは数的優位の考えから言えば、滅茶苦茶大いなるチャンスが生まれる。

数的優位のなかで、他の選手が前、横、斜めに動き、相手守備をかく乱する、それと同時にフリーのスペースを確保するための動きを、重層的にする。狭いエリアでの素早い、一次攻撃、二次攻撃、三次攻撃を仕掛ける。このような動きに頭脳的に反応する中村憲と遠藤。冷静に勇敢な長谷部。一所懸命な岡崎。この攻撃陣を後ろで支えるために、全員が上がって層を厚く、こぼれてきたボールをキープする、ボトムアップ作戦だ。

タメが作れてキープ力がり、体力的にも外人相手に絶対負けない本田と森本。ゴール前でのボールのコースを読める森本。今回の試合のように、森本のワントップが、今では一番いい形だろう。

若者が育ちつつある。

中澤と闘莉王に代わる選手を私は待ち望んでいた。今回は、彼らに代わって槙野と岩政が元気の良さを見せ付けてくれた。岩政は以前から注目していたのですが、槙野のことは今回のプレーを初めて見たが、旬だ、若さなんだろう、楽しそうにプレーしていたのが印象的だった。中澤と闘莉王もそう簡単には、ポジションを手放さないだろう。私にとっては、安心だし楽しみだ。

育ちつつある多士済々なプレーヤーが、やっと「日本の形」、点が取れる形のイメージを共有し出した。タメと数的優位、これしかない。

ここまで、サッカーの日本代表は成長してきた、次に期待したいのはザッケローニ監督のヨーロッパ基準の指導力だ。

避暑に訪れた人びと

9月11日、東京演劇アンサンブル、「ブレヒトの芝居小屋」に芝居を見に行ってきた。「避暑に訪れた人びと」だ。

私にとっては、初めて聞く題名だ。劇団の事務局が前もってお知らせをくれるのだ。このお知らせは、7月の始めにもらった。それから今日までの間に、原作か戯曲が市販されているのなら、読んでおこうと思っていたのですが、忙しさにかまけてできなかった。

聞いたことのない題名のお芝居を観に行く気力が湧いたのは、劇団から郵送された芝居の紹介のパンフレットに、代表者である入江洋佑さんの文章が寄稿されていて、その文章に触発されたからなのです。入江さんの心情が吐露されていて、胸がキュンとなったのです。この人は、どこまでも理想を追い求めている。もう40年も前に、この入江洋祐さんを紹介してくれた恩人が、その時に話してくれた、そのままの考えで、その理念を貫いている。この小文は、この最後の方に、そっくりそのまま転載させていただいた。

予備の下調べをして行かなかったことを芝居が始まって5分で悔いた。

確かにチェーホフ的なドラマ仕掛けと進め方だな、と理解できたのですが、職業も性格も異なる幾組かの男女のカップルが互いに、別荘の中で入れ替わり立ち代り、生い立ちから、職業、労働、価値観、精神論を批判、詮索、中傷、説得、激励し合い、また恋愛を差し挟み、肉親、貧富、社会の制度なども重層的に会話で持って掘り下げる。時には、避暑に訪れた者全員での討論にもある。

この芝居の休憩時間15分を入れて3時間半のボリュウムは、十分観応えがあった。が、再び反省している、勉強をして来るべきだった。それでなくても、私は誰よりも、瞬間的に理解する能力が低いと言うか、理解するのに他人よりも少しばかり時間がかかるのです。

この芝居も、大団円はチェーホフ的に何かの示唆を残したままの、余韻の中で告げられていく。

内容の理解できてない部分は、早速、芝居小屋で頂いたプログラムを、読んでおこうと思っている。

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西 

20100911

19:00~22:20

東京演劇アンサンブル(ブレヒトの芝居小屋)公演

原作=マクシム・ゴーリキー

改作=ペーター・シュタイン

  ボートー・シュトラウス

翻訳、ドラマトゥルク=大塚直

演出=入江洋祐

助成=平成22年度芸術創造活動特別支援事業

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劇団が作成したパンフレットの文章を紹介する。

ゴーリキーの原作を、黄金期のベルリン・シャウビューネが改作。自分たち自身と小市民たちを重ね合わせながらチェーホフ劇として1974年に上演した。2010年、浮遊する観客を探し求めながら東京演劇アンサンブルが今の自分自身と向き合い、格闘する。チェーホフ生誕150年の今年、新たなチェーホフ劇が誕生する。

弁護士パーソフの別荘につどう人びと。人の悪口や恋愛ゲームで退屈を紛らしている。そこに人気作家のシャリーモフがやって来る。パーソフの妻ヴァルヴァーラは長年シャリーモフに憧れていたのだが、通俗的な彼に幻滅する。一方、開業医のマーリヤ・リヴォーヴナは未来へのヴィジョンを持つ女性だった。マーリヤの発言は男たちを不愉快にさせ、ヴァルヴァーラとヴラース、引退した実業家ドッペルプンクトの心を動かしていく。

13人の男女の織りなす小市民の日常。ザムイスロフとの冷めた恋愛で夫スースロフから逃避するユーリア、医師のドゥダコーフとの生活に愚痴ばかりのオーリガ、ヴァルヴァーラとの恋に疲れ、現実からも逃避するリューミン、人をとらえる感覚は鋭いが社会には無知な芸術家のカレーリヤなど多彩な登場人物が絡み合い、交錯する。別荘で働く人びとの視線に晒されながら、女達は目覚め、男たちは日常の惰眠に戻るーーーー。

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通底するもの

代表者=入江洋祐

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『避暑に訪れた人びと』はステキな戯曲だ。ブレヒトの『アンティゴネ』の稽古の時に、「こんな戯曲があります」と今回のドラマトゥルクの大塚直さんに紹介され、企画室でも、総会でも全員一致で上演を決定した。この戯曲にはアンサンブルの創立からの想い、そして現代演劇の果てでもあるチェーホフの精神が息づいているからだ。

チラシに「チェーホフ生誕150年」とあるのを何故と思われた方もいるだろう。ゴーリキ原作(ロシア)、改作ペーター・シュタインとボートー・シュトラウス(ドイツ)であって、チェーホフは全く関係がない。でも戯曲を読み、また舞台を観てくださればどなたも、「ああ、チェーホフだ」と感じられることだろう。ぼくはさきほどチェーホフは現代演劇の果てだと書いたが、プロット、物語を廃して人間だけを描く、その群像は、理想であり現実でありまた批評でも讃歌でもあるという重層性、そしてあたたかく、冷静でもあるチェーホフのまなざし。文学を愛し、芝居を志すものの原点はチェーホフにあるといっても間違いはないだろう。

ゴーリキーもそうだった。チェーホフを読んで「抽象にまで高められた日常性」と感嘆し、ヤルタのチェーホフの別荘を訪れ、チェーホフに教えを乞うたというのは有名な話だ。そしてこの『別荘の人びと』が『どん底』が生まれる。ゴーリキーはチェーホフから学んだ人間を描くことともうひとつ、未来社会をもう少し具体的に想定してみた。その社会主義社会はどうなったのか。

ベルリン・シャウビューネの『避暑に訪れた人びと』は憧れのチェーホフを、ゴーリキーを通過して、組織を拒否し、個人でしかありえない現代、頽落してしまったいまを見つめている。

《世界は劇場》といったのはシェイクスピアだが、演劇は常に世界と対峙しなければならないとぼくたちは考えてきた。そんなアンサンブルとシャウビューネとはやけに似ているところがある。劇団創立の両者ともチェーホフの芝居を演りたいということだ。だが、なにかチェーホフは近寄りがたく、不遜な気がして上演するのにそれぞれ20年以上もかかっている。そして、左翼系の劇団として当時60年代にゴーリキー作ブレヒトの『母』を上演している。小さな劇場をもち、経済的にひどく貧しい。そう、二つの劇団には脈々と通底するなにかがある。チェ-ホフーゴーリキーーブレヒトー小集団ー。現代演劇の最良の部分を追っている筈だ。

でも、いま演劇は、ぼくたちは何処にいるのか、何処に行こうとしているのか。『避暑に訪れた人びと』の劇中で、作家のシャリーモフがこう語る。「この連中はぼくの作品を読みはしないだろう。彼らは興味ないだろう。彼らはぼくを必要としていないのさ」。また別のひとりは「芝居をやるお偉方は、みんなまともじゃあねえ格好をして、おかしな声でしゃべってやがるさ。他にやることがねえからじゃないかな? あいつら満ち足りてんだよ」。

この言葉は辛くぼくたちにあたる。この大量情報社会の操作の中で、ぼくたちは何を行為(やる)んだーーーーどうして。

少数にて 常に少数にてありしかば

ひとつ心を 保ち来にけり (土屋文明)

このことばを噛みしめるいまだ。

(20100713)

2010年9月9日木曜日

小さくて大きな、幸せ見つけた

社員の誰もが、それぞれに小さくて大きな幸せを大事に、大事にしていることを知って、私もまた幸せな気分になりました。

そんなことを感じる機会がひょんなことで、生まれたのでした。

朝陽?生命が、弊社に関係する損保、生保を一手に引き受けてくれている。半年前、たまたま、私の会社のかっての社員だった人が、今度朝陽?生命に入社することになったので、何か仕事があったらご用命ください、と連絡をもらった。火災保険なら仕事の関係でいくらかは発生するので、頼むわ、ということになって、付き合いが復活した。

そんな付き合いの中で、元同僚から、何か写真を用意してもらえば、その写真を利用したオリジナルのカレンダーを会社で作らせて頂きますので、こぞって、写真を持ってきて欲しい、と言われた。

早速、社員の皆にそのことを話した。

中社長はイの一番に、父親である自分の腕や腰に三人の子どもが縋(すが)り付いて、ふざけ合っている写真を持ってきた。写真から、あっあとか、う、う、うとか、わあ~とかそんな子どもたちの声が聞こえてきそうだ。この日、中社長は休日で、この日を待ちくたびれた子どもたちが、今日はお父さんを絶対放さないぞ、一日ガッチリ遊んでもらうからね、そんな子どもたちの声も聞こえてきそうだ。仕事では、八面六臂の活躍。自宅でも、仕事の勢い、そのままで頑張っているんだろう。シャッターを切ったのは、きっと奥さんだろう。私には、奥さんの笑顔が頭に浮かぶ、子どもと同じようにはしゃぐ楽しそうな声も聞こえる。

私は、私と生まれて6ヶ月の孫とのツーショットの写真を用意した。私にとっては、3番目の孫だ。昨年結婚した長男夫婦の初めての子どもだ。女の子です。愛称は「そらまめ」です。写真の隅っこには、長男の体の一部が写っていた。この部分を削り取ろうとしたが、写真のできばえよりも、そこに長男が居たということにもなるので、何も削ることはないだろう、と結論した。この「そらまめ」の顔の貌(なり)は、どこか長男の奥さんにも、長男にも似ているが、肌の白さは母譲りだ。父親の肌は浅黒い。腹はけっして黒くない。写っている私の顔は、酒が回りだして赤鬼のようだ。孫は、不思議なものを見るような顔でカメラを睨(にら)みつけている。孫を抱く赤鬼の腕、指先には力がみなぎっている。8月の初旬から9月の中まで、孫と嫁は五島列島の宇久島に里帰り中だ。早く帰ってきて欲しいと思っている。私は先天的に欲張りなのだろうか、独り占めしたいわけではないけれど、近くに居て欲しいと思うのだ。

建築担当の桜は、広い草原での愛犬とのツーショットだ。草原をバックに、二人?仲良く揃ってカメラに向かって座っている。鎮座。カメラマンはきっと奥さんのKさんだ。Kさんからは、以前に会社が豊かになるようにと、招き猫をもらった。神棚に祀(まつ)ってある。その節は有難うございました。草原は広くなだらかに傾斜しているので、スキー場のゲレンデのように見える。この夫婦は何とも穏やかなカップルで、イヌの表情もどこか、この夫婦独特の穏やかさに似ている。イヌは飼い主に似るとよく言われるが、全くその通りだ。犬種はミニチュアシュナイダー。朝晩の散歩の様子などは、私には容易に想像がつく。仕事を終えて帰宅、自宅の玄関のチャイムを押すと、どのようにこのイヌが主を迎えるのか、これも用意に想像がつく。主の作った家で、どんな顔して惰眠を貪っているのか、その様子も私には想像がつく。

海さんは、初孫の写真だ。海さんに似ていて、目に力がある。将来、眼力のある人間に育つことだろう。顔全体にも、シッカリモンというイメージがする。海家の優先遺伝子のせいだろう。ちょっと濃い目?は、海家のジジイ系だろうか。シッカリモンで地道に、堅くコツコツと慎重に仕事をする人になるのだろう。海さんに初孫が生まれたときの、幸せそうな顔は今でも私は忘れない。山さん、男の子は元気ですね、片時もじっとしてないのです。海さんは女の子を育てたのだが、男の子の様子によっぽど驚いたのだろう。子ども思い、孫思いの海さん。失敬、妻思いの夫でもあることは言うまでもない。携帯電話の待ち受け画面は、当然、この写真だ。

古さんは初孫、一本勝負だ。元同僚にこれらの資料を渡すための整理を自宅でしていたら、私の三女が横から覗き見しながら、この子可愛いね、と口走るではないか。当たり前やろ、これはあの古さんの孫やから、と言うと、三女は頭を傾(かし)げていた。古さんの孫が可愛くて、なんか文句あるか、と言いたくなったけれど、口を噤(つぐ)んだ。コツコツ仕事に励む古さんは、余りプライベイトなことを言うことは少ない。こんなに可愛い孫がいることに不思議な気もした。写真を持ってきてよ、と最初に言った時、一番気乗りのしないような表情をしたけれど、どうしてどうして、私が写真を集めだすのを待っていてくれたのだ。孫を抱きかかえた古さんの顔が見たくなったのは、私一人だけではなくて、会社のスタッフの全員の思いだ。古さんのその世界を、今度酒を飲んだときに聞き出さなければイカンなあ。

細は、二人の娘さんが写っている写真だ。この5月に生まれた妹が、もたれかかるように座れる椅子に身を沈めて、その後ろから姉が見守っている。お姉ちゃんはぽっちゃりしていて、表情が可愛い。美人だ。眼差しが優しい。私の長女にも、今春次女が生まれた。上の女の子は、何かと下の子の面倒を見たがる。この細家でも、きっとこのお姉ちゃんは何かと妹の面倒を見ていることだろう。奥さんがハラハラし通しだ。お姉ちゃんはおしゃまだ。細の実家は富山県で奥さんの実家は九州だ。次女誕生の際には、富山のお母さん、それから九州のお母さんの協力を仰いでいた。奥さんにはまだ会ったことがないので、軽率なことは厳に慎まなくてはならないのは、当ったり前だが、きっと奥さんは美形だろうなあと思う。間違いなしだ。細と奥さんの実家、両家の関係は実に上手くいっていることは、細の人間性から、十分首肯できる。きっとお利口な夫婦なのだろう。

和の一人息子は、今は中学生の一年生だけれども、小学生の時にミニバスケットボールを始め、中学生になって、今度は本格的なバスケにはまってしまった。13歳だ。写真はバスケのプレー中のものだ。ミニバスケをやる前には、母親に会社に連れられてよくきた。漫画とゲームばかりやっていたアイツが、今はすっかりバスケットボールプレーヤーになってしまった。スポーツをこよなく愛する私にとっても、嬉しい限りだ。私もスポーツを通して身につけたモノで、何とか世の中を切り抜けてきた。スポーツから得たモノは偉大だ。充分、母の期待に応えて頑張っている。

ここで飛び入りです。私の次女もその企画に乗ったと言っては、写真を持ってきた。次女の子どもが通っている幼稚園で、希望する園児と父兄、サポート隊の皆さんとでこの夏休みに富士山に登ったのです。ジジイである、私も参加させてもらったのです。我がチームは孫にその父親と母親、そしてジジイの私。年長さんなので、6歳だ。よく頑張って登ったものだ。寧ろ、母親の方が大変だったのだろうが、子どもの前では、気丈夫な母を立派に演じて見せなければナラン。写真は、8合目の宿泊した山小屋の前で、ご来光を仰いだ直後の園友のショウマとキヨと我が孫、その母親たちです。

こんな作業をしていて、ある一人に声をかけることをうっかり見落としていたことに気づいた。その人の名は、弊社の宴会の名幹事、長さんだった。長さんは、気恥ずかしそうに、私は愛が欲しい、と言った。成る程、この頃の長さんは、仕事の方では乗りまくっているのに、私生活の方では少し実りが少ないようだ。今後の幸運を願っている。

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これらの写真を使って出来上がったカレンダーは、後日紹介したいと思います。

乞うご期待。11月ごろなんでしょうね。

2010年9月5日日曜日

「私もあなたの数多くの作品のひとつです」、とタモリ

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「密室芸」で売り出した

漫画家、天才バカボンの生みの親、赤塚不二夫の葬儀でのタモリの弔辞が、かって文芸春秋に全文掲載された。余り買わない雑誌だけれども、この弔辞をじっくり読んでみたくて買ったのでした。

弔辞を読んでいるタモリの姿がテレビで映し出されていたが、どこにも白紙の弔辞を読んでいるように思える箇所はなかった。原稿になかった言葉を、途中の何処かのアドリブで、文章にない文章を読み上げたのでしょうか。このことについて、真相を詳しく報道されていない。彼の能力からして、その程度のアドリブぐらいならお茶の子サイサイだったことだろう。

■赤塚不二夫■朝日ソノラマ■おそ松くん■ソノシート付き■現状

タモリが朗々と述べた弔辞を文芸春秋で読み、二人の馴れ初めから、本格的な付き合いへ、タモリが有名になって、赤塚不二夫が漫画家として、それから闘病、死に至るまで、その文章は私には一つのドラマを聞いているようで、二人の仄々(ほのぼの)としたお付き合いに、なんとも心地良い気分にさせられたのでした。

それから日が経って、先月の中頃、私の女房が入院中に、その病床の枕元にあった週刊誌で、下の記事を見つけた。週刊文春の2010の8月12日号だった。週文のかっての連載「ギャグゲリラ」の担当者が語ったものらしい。余りにも私の心をガク~ンと打つイイ話だったので、ここに保存させていただいた。ここに至って、あの弔辞の不思議な心地よさの源流の一部を見せてもらったような気がしました。なるほど、と二人を納得したのです。

以下はこの週刊文春の記事をそのまま転載させてもらった。週文の編集者殿、私は善良な読者です。許せ。

昭和五十年、山下洋輔らに見いだされて博多からタモリが上京。タモリの才能に惚れこんだ赤塚は自らテレビに売り込んだ。意気投合した二人は、連日酒席でギャグにのめり込む。「赤塚先生は、毎晩、編集者たちを引きつれ、飲み歩いては、新宿の『アイララ』というバーでタモリと合流する。キャバレーの噴水から、裸のタモリがイグアナの真似で出てきたり、新しい遊びを考えるのが日課でした」。

そんなある晩、赤塚がタモリに絡み始めた。「お前、売れ出したと思っていい気になるなよ」タモリも色をなし、「そんな言い方ないだろ、売れない漫画家に言われたくないよ」とやり返す。周りが必死に止めるが、手にした水割りをぶっかけ、ついには取っ組み合いに。

タモリを羽交い絞めにして鼻の穴に落花生を詰め込む赤塚。すると今度は、タモリがグリーンアスパラにマヨネーズをつけて赤塚の鼻に突っ込むーーー。

「ようやく我々も『あれ?おかしいな』と気づく。要は、二人で綿密に仕組んだギャグだったわけです。先生の持論は『バカなことは本気でやらないとダメ』。遊びの時に気を抜くと、『ふざけるな!真面目にやれよ』と叱られる。(笑)」。

上京して間もないタモリに、赤塚は自分が住んでいた目白の高級マンションを明け渡し、自分は木造二階建ての仕事場で寝泊りした。理由を聞くと、「タモリは今まで会ったことのない、もの凄い才能だ。ああいう都会的で洒落たギャグをやる奴は、贅沢させないと。貧しい下積みなんかさせちゃダメだ」

タモリは絶大な恩を感じただろう。それから十年後。仕事場を訪ねた担当者に、赤塚は一通の通帳を見せた。「『タモリがさあ、自分の会社の顧問になってくれって言うんだよ』。そこには毎月三十万円ほどの決まった額が振り込まれていました。当時、先生は連載がひとつもなくなって、不遇の時期だったのです。またタモリは『先生、あのベンツ乗らないでしょ。一千万円で譲ってよ』『キャンピングカー、五百万で譲って』と言っては、代金を払ったといいます。先生のプライドを傷つけない気遣いなんです」

むろん赤塚もその思いを察していた。「『タモリの会社なんてホントはあるのかどうかもわからないしさ、ああやって俺のこと助けてくれてるんだろうな』と言っていました。いい話だなと思って、通帳をよく見ると、一銭も使っていない。『そりゃそうだよ。芸人なんて二年で飽きられるだろう。そうなったらこの金で俺がタモリを喰わせてやるんだ』と。赤塚先生が一枚上手だった」。

そんな師弟の信頼関係があってこそ、冒頭の名弔辞が生まれたのかも知れない。「あの弔辞はアドリブでは、と言われますが、私は違うと思う。練りに練った文章ですよ。でも、それを普通に読んだら先生が許さない。赤塚・タモリの最後の”大真面目な遊び”だったのでしょうか」

2010年9月4日土曜日

女房が退院した

8月31日、お昼に横浜市民病院を退院した。入院して、丁度1ヶ月後の退院だ。

大腿骨と骨盤の連結部が擦り切れて、関節がスムーズに作用しなくなったので、手術によってその部分に当たるところを25センチ程切開、連結部分を人工股関節で置換するという治療を受けたのです。約3時間の手術だった。三女が付き添ってくれた。

3年前から腰に痛みを感じて、腰が伸びなくなって、最近では歩行が困難になってきたのでした。東戸塚の整形外科の診療所では、大きな病院で前の方で述べた人工股関節の置換手術をするしかないと言われていたのでした。そんなダイソレタ治療方法を聞かされた私は、その入口の話だけで腰を抜かしそうになった。この治療に才長(た)けた医師がいるという病院を見つけて、今年の暮れに手術をする予約までいれていたのです。が、彼女の腰が間間ならなくなって、急遽、横浜市民病院に駆けつけた。この病院で、診断してくれた若い医師は、この治療方法は整形外科では確立されているので、心配は要りません、安心してくださいと言われ、また運よく空きベッドもあって、即、入院することになったのでした。

手術後の2日間は、身動きできない状態を強制されたので大変だったようですが、それでも4日後から軽いリハビリに入った。当初、リハビリの訓練は痛みがあって苦しそうだったが、日を追うごとに彼女は元気になっていった。我が夫婦はともに体育会。彼女は、訓練が楽しいと言い出した。また、私、トレーニングと名のつくものは好きなんです、とも。私は、仕事の関係で、この訓練風景を見ることはできなかったのですが、さぞかし彼女は額に汗して、頑張っていたことでしょう。

1週間後、腰が真っ直ぐに伸ばせるようになりました、と杖を突きながらも上機嫌に歩いて見せてくれた。この年になって、3センチも背が伸びましたと言っていた。

方や、留守当番の私は、彼女の退院後の生活のための環境づくりに務めた。居間と彼女のベッドを置く予定の場所には段差があって、その段差をなくすための工事を知り合いの坂さんに頼んだ。気心の知れた坂さんと井さんが、大工さんと共に腕を揮い、汗を流してくれた。古い床を全部剥がして、新たなレベルで床を張り直したのです。元々、この部屋は和室なのですが、何となく床は洋室用のフローリングを考えていたのですが、坂さんがこんなものもあるよ、と見せてくれた床材の見本は、琉球畳を模したもので、塩ビで作られたようなものだったが、躊躇いなくそれに決めた。基礎も、土台などの木部もしっかりしていた。ただ、風呂の入口のサッシュの床部分から、水が浸透してその下部の土台が一部腐っていた。その部分も補修してくれた。布団を乾したり、洗濯物を干すためのベランダも発注した。

ベッドや、風呂の洗い場で使う椅子などの手配は、次女の仕事柄得意とする分野だ。お任せした。

女房が入院中の我々の生活の切り盛りを三女が一手に引き受けてくれた。食事の用意と片付け、洗濯、掃除、犬の世話、何かと不慣れな三女だけれど、試しながら、母のアドバイスで家事をこなしてくれた。若い料理人だけあって、私には食えそうもない大盛りが連日続いたことには、苦笑させられた。うどん、そうめん、スパゲッテイ、ステーキ、チャーハン、焼き魚、色々作ってくれたけれど、忘れてしまった。スマン、恩知らずを許せ。向かいの次女からの差し入れもあった。

三女に用事があった時は、代わりに長男もちょこちょこと手伝ってくれていた。

このように、留守組みの生活が、一見普通の生活が営まれているように見えても、家族の一人が、それも当家の大黒柱が、当然居るべき人が居ない状態では、やはり私の日常生活の瑣末なことに少なからず影響が出たのでした。

得意の「何とかオフの100円本」の読書量が極端に減った。通常のペースのように読書が進まない。新聞を長く読まなくなった。毎日の新聞を隅々まで読みきる習慣が崩れ、読み残すことが多くなった。読み足りないまま。会社の皆で飲んだ暑気払いの宴でも、いつものように酔えなかった。酒の量が減ったのだ。もっと、もっと飲みたいという気持ちが盛り上がってこないのです。ほろ酔い以上の酔いを求めなくなって、中途半端な気分で布団につくのでした。

女房の北海道にいる大学時代の友人以外、誰にも話さなかったのですが、どういう訳か大勢の友人や、近所の人、知人からお見舞いのお言葉をいただいた。私のブログだけには、女房の状態に触れた。会社の仲間には、時々病院に行くことがあったので、話しておいた。そんなことから、仕事の関係者の方からも、気に留めていただいた。

ご心配をおかけしましたが、彼女は非常のペースで回復に向かっています。お見舞いの数々に感謝しています。有難うございます。