8月31日、お昼に横浜市民病院を退院した。入院して、丁度1ヶ月後の退院だ。
大腿骨と骨盤の連結部が擦り切れて、関節がスムーズに作用しなくなったので、手術によってその部分に当たるところを25センチ程切開、連結部分を人工股関節で置換するという治療を受けたのです。約3時間の手術だった。三女が付き添ってくれた。
3年前から腰に痛みを感じて、腰が伸びなくなって、最近では歩行が困難になってきたのでした。東戸塚の整形外科の診療所では、大きな病院で前の方で述べた人工股関節の置換手術をするしかないと言われていたのでした。そんなダイソレタ治療方法を聞かされた私は、その入口の話だけで腰を抜かしそうになった。この治療に才長(た)けた医師がいるという病院を見つけて、今年の暮れに手術をする予約までいれていたのです。が、彼女の腰が間間ならなくなって、急遽、横浜市民病院に駆けつけた。この病院で、診断してくれた若い医師は、この治療方法は整形外科では確立されているので、心配は要りません、安心してくださいと言われ、また運よく空きベッドもあって、即、入院することになったのでした。
手術後の2日間は、身動きできない状態を強制されたので大変だったようですが、それでも4日後から軽いリハビリに入った。当初、リハビリの訓練は痛みがあって苦しそうだったが、日を追うごとに彼女は元気になっていった。我が夫婦はともに体育会。彼女は、訓練が楽しいと言い出した。また、私、トレーニングと名のつくものは好きなんです、とも。私は、仕事の関係で、この訓練風景を見ることはできなかったのですが、さぞかし彼女は額に汗して、頑張っていたことでしょう。
1週間後、腰が真っ直ぐに伸ばせるようになりました、と杖を突きながらも上機嫌に歩いて見せてくれた。この年になって、3センチも背が伸びましたと言っていた。
方や、留守当番の私は、彼女の退院後の生活のための環境づくりに務めた。居間と彼女のベッドを置く予定の場所には段差があって、その段差をなくすための工事を知り合いの坂さんに頼んだ。気心の知れた坂さんと井さんが、大工さんと共に腕を揮い、汗を流してくれた。古い床を全部剥がして、新たなレベルで床を張り直したのです。元々、この部屋は和室なのですが、何となく床は洋室用のフローリングを考えていたのですが、坂さんがこんなものもあるよ、と見せてくれた床材の見本は、琉球畳を模したもので、塩ビで作られたようなものだったが、躊躇いなくそれに決めた。基礎も、土台などの木部もしっかりしていた。ただ、風呂の入口のサッシュの床部分から、水が浸透してその下部の土台が一部腐っていた。その部分も補修してくれた。布団を乾したり、洗濯物を干すためのベランダも発注した。
ベッドや、風呂の洗い場で使う椅子などの手配は、次女の仕事柄得意とする分野だ。お任せした。
女房が入院中の我々の生活の切り盛りを三女が一手に引き受けてくれた。食事の用意と片付け、洗濯、掃除、犬の世話、何かと不慣れな三女だけれど、試しながら、母のアドバイスで家事をこなしてくれた。若い料理人だけあって、私には食えそうもない大盛りが連日続いたことには、苦笑させられた。うどん、そうめん、スパゲッテイ、ステーキ、チャーハン、焼き魚、色々作ってくれたけれど、忘れてしまった。スマン、恩知らずを許せ。向かいの次女からの差し入れもあった。
三女に用事があった時は、代わりに長男もちょこちょこと手伝ってくれていた。
このように、留守組みの生活が、一見普通の生活が営まれているように見えても、家族の一人が、それも当家の大黒柱が、当然居るべき人が居ない状態では、やはり私の日常生活の瑣末なことに少なからず影響が出たのでした。
得意の「何とかオフの100円本」の読書量が極端に減った。通常のペースのように読書が進まない。新聞を長く読まなくなった。毎日の新聞を隅々まで読みきる習慣が崩れ、読み残すことが多くなった。読み足りないまま。会社の皆で飲んだ暑気払いの宴でも、いつものように酔えなかった。酒の量が減ったのだ。もっと、もっと飲みたいという気持ちが盛り上がってこないのです。ほろ酔い以上の酔いを求めなくなって、中途半端な気分で布団につくのでした。
女房の北海道にいる大学時代の友人以外、誰にも話さなかったのですが、どういう訳か大勢の友人や、近所の人、知人からお見舞いのお言葉をいただいた。私のブログだけには、女房の状態に触れた。会社の仲間には、時々病院に行くことがあったので、話しておいた。そんなことから、仕事の関係者の方からも、気に留めていただいた。
ご心配をおかけしましたが、彼女は非常のペースで回復に向かっています。お見舞いの数々に感謝しています。有難うございます。