2010年3月7日日曜日

天声人語

5日の天声人語を読んで、誰がこんな文章を書くのだろうか、と思った。毎朝、天声人語を読むのが楽しみなのです。今日は、いつも通り楽しく読ませてもらった後、この文章が原因なのだろうが、どんなオッサンがこんな文章を書くのだろうか、と何故か気になった。筆の立つこのオッサンに会いたくなった、なんて思うのは余りにも荒唐無稽、突飛な発想なのだろうか。思うだけだから、許されよう。多分50~60歳ぐらいのオッサンだろうと決め込んだ。否、女性かもしれないなあ、とも思い返してみた。筆者の人物像をイメージして楽しませてもらった。筆者は何人いるのですか、まさか一人ってことはないですよね。

朝日新聞の素粒子の以前の筆者は、私がかって在籍した大学のクラブの先輩だったので、多少なりとも、その苦労話は聞かせていただいたことがある。世事万般からトピックスを、限られた文字数で文章を纏める、その纏め方は非常に勉強になった。到底私などには至難の技だけれども、知ったことは財産だ。自宅を出て社の自分の机について、原稿が紙面に出るまでの経緯なども知った。

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20100305(金)

天声人語

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川崎洋子さんの詩に「夏の海」がある。大自然との会話を子どもたちに説きながら。こう結ばれる。〈それから/あの星とこっちの星とむこうの星と/勝手に結んで/きみだけの星座を作るといい〉。どうにでもなる未来。それこそ、10代までの特権だろう。

それがどうも怪しい。就職という大人への入り口でひとたびつまずくと、起き上がりにくい社会になってきた。それも、景気の巡り合わせ、親の収入といった本人の力が及ばぬところで、未来が狭まりかねない。

大卒ばかりか、高校卒業予定者の就職内定率が芳しくない。昨年末で75%、沖縄や北海道では5割前後だった。とりわけ、家計の事情で大学や専門学校への進学をあきらめた未内定者は、背水の陣を破られた思いだろう。

授業料を払えない生徒も増えている。滞納ゆえに卒業できなければ就職どころではない。職探しの厳しさとあわせ、卒業クライシス(危機)と呼ぶそうだ。働く貧困層へと続く道である。彼らが10年後に「貧乏な親」になれば、貧困が再生産される。

自分を磨く時間が4年ある大学と違い、原石にすぎない18歳にまで新卒での一発勝負を強いるのは酷ではないか。10代で先が見えてしまう国に、輝く未来があろうはずもない。国や自治体の音頭で敗者復活の仕組みがほしい。

むろん、一度や二度の失敗でふさぎ込むことはない。人生の残り時間が長いのは、それだけで大きな財産だ。くじけそうになったら、若さという星から夢という星に、まっすぐ、太い線を引き直そう。何度も、何度でも。

狂気 ハ・ジン

本の題名=狂気

著者=ハ・ジン

訳者=立石光子

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面白い本に出くわした。今回、この本を見つけたのは何とかオフの105円コーナーではないのです、ポンポン何とか船の名前をつけた古本チェーン店、天王町店の店頭100円コーナーでした。

下の文章は、この本(早川書房)の裏表紙に書かれた物語の紹介文が前の方5分の1、残りはそれを下地にして私が書き加えたものです。

真の幸福はどこにあるのか?

何が人を高潔にするのか?

人生の意味を問う感動作。

山寧(シャンニン)大学の楊(ヤン)教授が、脳卒中で倒れた。夫人はチベットに赴任中、娘の梅梅(メイメイ)は北京で医学院受験に追われている。愛弟子で梅梅の婚約者でもあるぼくは、学部を取り仕切る彭(ボン)書記から教授の付き添いを命じられた。病床で教授は、正気で話すときもあるが、時として狂ったようにうわ言を口走り、高潔で尊敬を集める人とは思えぬその言葉にぼくは驚く。どうやら経費の問題、教え子との不倫の疑い、何者かにゆすられている節もあった。意識の混濁する教授に翻弄され、迫る大学院入試の準備もできず、ぼくの苛立ちは募る。聞かされる先生のうわ言に、ぼくはどうしても純真に反応してしまう。

婚約者からは、受験の励ましの手紙がくる。是非、北京の大学院に受かって博士号をめざして欲しいと。婚約者の望みは、北京で自分は医者として、未来の夫には父のように詩を学ぶ学者になって、二人して北京で暮らすことだった。

うわ言=「この国では、学者は事務屋としてしか生きられない。われわれはみな魂のないロボットだ。きみも手遅れにならないうちに出て行った方がいいぞ。閉じ込められたらお終いだ」。どんなに学問を究めても役人より格下でしかないと、学者の人生を悔いる教授の激しい憎悪と惨めな姿を目にするうちに、ぼくは自分の進路に疑問を抱く。学者としての生き方以外に、どのようなことが可能なのだろうか。

婚約者からは受験勉強に勤(いそ)しむようにと、手紙がくる。ぼくは悩んだ果てに北京の大学院への受験を断念したことを告げた。強い意志で決心した。

楊先生の容態が悪化した。最期に、梅梅のことを頼むと言い、それから「いいか、この恨みを晴らしてくれ、--やつらを一人たりとも逃がすな。みーー皆殺しにしろーー」先生の目が不意にかっと見開き、猛々しい光を放ったかと思うと、まぶたは閉じられたーー永久に。亡くなったのだ。この先生の最期の言葉が理解できなくて、ぼくは苦しんだ。

自分の魂を救えないままなくなった先生は、復讐にとり付かれ、昇天が果たせないまま、この世のよどんだ泥沼に沈んだままだ。この先生の死はぼくを骨の髄まで揺さぶった。ぼくは、まず生き方を変えなければならない。人生の終わりに際して、一つの仕事、あるいは一つの旅をやり終えたときのような充足感や満足が味わえる一生を送りたかった。

大学院への受験を諦め、書記には政策研究室に志願することにしたと伝えた。先生から学者は俎板の上の魚で、切られるままなのだ。お前は高級官僚になって、包丁で不正腐敗をブッ切るんだと言われたように感じ、そのようにできればと思って政策研究室を目指すことにした、

中国では、今月5日に始まった全国人民代表大会でも、温家宝首相が政府活動の柱の一つに「不正腐敗防止」を掲げた。中国において、贈収賄、背任、公金の横領乱用など、この不正腐敗の歴史は長く粛清されていなかった。現在でさえもこの状態なのだから天安門事件(1989年)が起こった頃は、その腐敗振りは相当なものだったのだろう。

だが、この政策研究室の受験には、共産党員か入党間近の者でないと資格がないのだと知らされた。梅梅は、この頃既にぼくを見切って、副学長の息子といい仲になっていた。着実に北京での暮らしに近づいていた。書記はぼくを梅梅から遠ざけるための片棒を担いでいたのだろう。資格もない政策研究室への受験を進め、嬉々として大学院入試の取り下げを行なったのだ。

折りしも北京では自由を求める学生が続々と天安門広場に集まっていた。すべてを失ったぼくは北京へ天安門に同じ大学の仲間と向かった。ぼくには、大それた目的も民主や自由の夢もなかった。祖国の危急に際する気概もなかった。動機は自暴自棄、怒り、狂気、愚かさだった。自分が閉じ込められてしまった繭にナイフを突き立てる、その場所は祖国の病める心臓、北京こそふさわしいのだ。梅梅がいる、北京だ。

天安門には学生、市民が多くなかなか行き着けなかった。その混雑の中で、ジープから降りてきた大佐は無言のまま拳銃を引き抜くなり学生の頭を撃ち抜いた。それから「前進、じゃまする者は遠慮なく撃て」と命じた。それから大々的な射撃が始まった。一帯は阿鼻叫喚の地獄絵図の様子。

無事に帰って来たぼくは、寮のベッドでぶっ通しで寝た。一緒に行った仲間からは死者が出た。大怪我をした者もいた。ラジオからは、BBCの記者が、約5千人の市民が殺され、多くの学生が戦車や装甲車に轢き殺されたと報じていた。

友人が、寝ているぼくに、公安が君を逮捕しにくるので、今すぐに逃げるようにと言ってきた。書記が公安に電話をしているのを友人は聞いたと言うのだ。学生を煽った、という疑いだ。書記は、ぼくを徹底的に排除したかったのだろう。ぼくが、この大学に残れば、梅梅と副学長の息子の関係にも、何か悪いことが起こりかねないと、そんなことを怖れたのだろう。

ぼくは、長い髪を切り、名前を変えて、香港をめざした。

 

 

 

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著者紹介=ハ・ジン

1956年、中国遼寧省生まれ。人民解放軍に6年間在役。1985年に渡米、ブランダイス大学で英米文学の博士号を取得。ボストン大学でも創作を学び、英語で書くようになって10年あまりで書いた「待ち暮らし」で1999年の全米図書賞、2000年のPEN/フォークナー賞に輝くという快挙を遂げ、同書は世界的ベストセラーになった。

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全米図書賞

アメリカで最も権威ある文学賞

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PEN/フォークナー賞

その年に出版されたアメリカ現代小説のなかから、最も優れた作品に与えられる文学賞。名称は自らのノーベル賞の賞金を若い作家のための賞に寄贈したウィリアム・フォークナーに由来する。

2010年3月5日金曜日

小沢一郎を「検審」で追え

小沢一郎・民主党幹事長が、自分の資金管理団体の虚偽記載事件で不起訴になった。この偽装記載事件では、現職の国会議員で元秘書の石川知裕が逮捕され、その他にも二人の秘書が起訴された。彼等との共犯者としての疑いで、東京地検特捜部で事情聴取されながらも、不起訴処分だった。小沢は限りなくクロだけれども、それはしょうがないのだ。証拠がなければ立件できないのだから。

そこで、当の小沢はひとまずは安心したのだろうが、選挙参謀役でもある幹事長として、ここで苦渋を舐めさせられた。2月21日行われた長崎県の知事選挙と、同日に行われた東京都の町田市長選挙の結果だった。象徴的だったのが長崎県だ。先の衆議院選挙で全国的に圧倒的に勝利を収め、長崎県地方各区では民主党がほとんど〈全員かも?〉当選したのです。その長崎県の知事選で自民党に負けたのだ。

何が原因でこんな結果になったのかは、小沢幹事長は当然解っているだろうし、鳩山由紀夫代表もよ~くよく解っている。でも、自らこの原因を自らの党の中で議論が沸かないようでは、自滅するしか道はない。民主党に対する不信、政治を任せられないという民意のナニモノでもない。

その後、新聞やテレビ等で報道される内容からは、ますます小沢疑惑が濃くなっていく一方だ。いつまでたっても、自ら説明しようとしない。そうこうしていたら、「検審」と約される手続きが進んでいることを知った。

小沢氏が刑事告発されて、その告発人が不起訴処分を不当として検察審査会に審査を申し立てることができる。申し立てられた場合は、検察審査会が開かれるということを、20100301の朝日新聞夕刊・窓で知った。こういう仕組みを知って、これもマイファイルして おかないといけない、と思って新聞記事を転載させてもらった。

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20100301

朝日・夕刊

窓/論説委員から

11人の冷静な目

山川富士夫

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小沢一郎・民主党幹事長の資金管理団体をめぐる収支報告書記載事件で、小沢氏を告発していた市民団体が、不起訴処分(嫌疑不十分)は不当だとして検察審査会に審査を申し立てた。

検察審査会は、検察官の不起訴の判断に誤りがなかったかをチェックする。有権者名簿からくじで選ばれた11人が審査する。裁判員制度とならぶ司法制度改革の柱として昨年5月に改正法が施行され、審査会が「起訴すべきだ」と2度議決すれば必ず起訴されることになった。

小沢氏の場合も審査によっては、「不起訴」から一転、「起訴」となる可能性があり、注目度は一気に高まった。

もし、自分がこの事件の検察審査委員だったらと考えてみる。

これだけ社会的関心の高い事件だ。膨大な報道と論評があり、否が応でも、さまざまな情報が入ってくる。小沢氏のこれまでの説明に納得できないことも多い。だからといって、それに引きずられるわけにもいかない。あくまでも判断材料は法と証拠だ。そう言い聞かせて臨むと思う。そして、得た結論はできるだけ丁寧に伝えたい。

「十二人の怒れる男」という有名な米国映画を思い出す。陪審員裁判で市民が真実を追求する白熱の議論を描いた。

どんな結論になるにせよ、市民の感覚を反映した「11人の冷静な目」に期待したい。これまで地味だった検察審査会が注目されることで、より市民に身近な存在になればとも思う。

2010年3月4日木曜日

国母君、天晴れ。8位入賞だ

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(頭を下げる国母選手と日本選手団の橋本聖子団長)

《問題の経緯》

20100213 朝日・夕刊より

国母選手が日本を出発して9日にバンクーバー入りする際、選手団の公式ブレザー姿でネクタイを緩めてシャツのすそを外に出し、ズボンをずり下げた「腰パン」姿だったことが発端。10日の選手村入村式への参加を自粛したが、その後の会見で「反省してま~す」と語尾を伸ばして発言、JOCなどに電話やメールで多数の批判が集まった。

橋本団長は、萩原文和監督、2人のコーチの計4人の開会式への参加を自粛させた。また、全日本スキー連盟が国母選手の出場辞退を申し出たが、橋本団長は「国母選手が試合で自分の力を出し切るのが責任の取り方。選手団として責任を負い、サポートすることを約束し、本人に頑張るように伝えた」と話し、国保選手は大会に出場すると説明した。

《記者会見の模様をもう少し新聞記事から転載させていただく。この時の事情がよく解ると思われるので-----。》

国母選手は「いろいろな方にご心配とご迷惑をおかけしてすみませんでした。応援してくださる方々のために、よい滑りができるようがんばりたい」と神妙な面持ちで語った。「代表選手団となったら公人として行動しなければならない。今回の服装の乱れは(日本オリンピック委員会の)公式服装規程に違反している」と橋本団長が指摘すると、じっと聞き入った。記者からの質問に、マイクを手にしばらく黙り込んだり、橋本団長に助言を求めたりする場面が続いたが、騒動が競技に与える影響を問われると、大きな声で即答した。「何も変わらないです」。最後は深深と頭を下げて席を立った。

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(決勝2回戦が終わった)

バンクーバ冬季五輪の各会場では、種目ごとに悲喜こもごものドラマが展開されて、閉幕した。涙、涙の連続。競技の結果のニュースが、媒体を賑わしてくれた。スポーツ好きの私には、堪(たま)らない日々の連続だった。

結果はいずれ纏めてマイファイルするつもりですが、「国母和宏君問題」については、当初同じ世代の子どもを持つ親としては、気楽に看過できない問題だと思った。でも、でもだ、あなたにこの件について大人ぶって意見できる資格があるの?という声が天から聞こえてきた。

それにしても騒ぎ過ぎだ。やり過ぎだ。特にマスコミの騒ぎ過ぎは狂態だ。記者会見の様子など静かに報道すればいいものの、国母選手の両親や関係者にまで謝罪のコメントを取りにいく。さらし者にしたのだ。変な識者らしき者が批判したたコメントを大々的に電波で流し、イジメのごとき扱いだった。日本はこのようにして、いとも簡単に人を貶(おとし)めたり、イジメたりするものなのか。いったい、国保選手の何が、そんなに悪かったんだ?

果たして私の方は、私の20~22歳はどうだったんだ。国母君と何が違ったのだ?私の若かった頃のことを振り返りながら、我が身と国母君のことを思い巡らしながら考えてみた。

私も、私を皆と同じように思われるのが嫌だった訳ではないが、自分自身の固有のナリフリというものがあって、それなりに個性として認めて欲しい願望があった。これに関しては、誰もが同じだと思う。

私は大学時代、体育局のサッカー部(我が大学ではア式蹴球部と呼んでいた)に所属していた。

サッカー部として行動するときは学生服に角帽を被る、これが部としての正式な制服だった。私が4年生の時の慶応大学(この大学は、気障にソッカー部と呼んでいる)との定期戦のプログラム作成にあたって、各自顔写真を持ってくるように言われ、私には写真を撮るお金がなくて、それはそれは皆とは比べようが無いほど貧乏だったので、何かで以前に撮った写真を提出しておいた。学生服を着て襟に学部バッジをつけた顔写真が必要だったのです。同期でマネージャー高の、現在は富士通の関連会社で総務部長をやっているそうだが、再三に及ぶ督促を無視してほっぱらかしておいたのです。この件の原因は、お金、費用の問題が全てだったのです。その写真は、みすぼらしいセーターを着て、顔は不精髭で、髪はボサボサのものだった。それでも、私は、私のことだからしょうがないや、と思っていた。

その写真が使われたら、全メンバーの顔写真の中で、私の部分だけが一際(ひときわ)おかしなことになるのは、当たり前に理解していた。顔写真は、4年生は全員、3年生以下は試合のメンバーに選ばれた者が載せられた。事実、刷り上ったプログラムで私の顔写真だけは異状だった。その異状さ、そのおかしいさは、私に予期せぬ痛快さを感じさせてくれた。同期の仲間が仲間に、ヤマオカ、あいつ、おかしいんじゃないの、と言っているのを、間近で聞こえた。私は悪戯(いたずら)心で遊んでいるわけではない、拗(す)ねているわけでもない。所属していたサッカー部は、大学では名門中の名門だったけれど、ただ、それだけのことだ、と割り切っていたのですが、仲間たちには、そうでもない連中が多かったようだ。私以外の皆が高慢稚気に思えて、その尊大な奴等に対する、反抗心だったのだろうか、否、それだけでもなさそうだ。

もっともっと昔の話にも触れたくなった。

私は貧しい農家の三男坊として生まれて育った。兄達のことはよく分らないのですが、これは分ってくれる人しか分ってもらえない話なのです。小学校の高学年の頃からのことです。いっつも兄からのさずかり物の服ばかり着ていた。それで充分、満足だった。兄が着ていた服には、人肌の温かみが感じられた。それが、いかにボロくても。ところが、兄達が使い古して私が着るに耐えられない程痛んだ時には、母が新品の服を用意して置いてくれた。その新しい服を着るのがどうしても嫌だったのです。新しいものが嫌だったのです。古くて、ツギハギだらけの服の方が落ち着くのです。幼心に、貧富について私なりにイデオロギーが目覚めていたのだろうか。

その新品嫌いが、中学校の入学式で爆発してしまったのです。式の当日、母は新しい服を用意して置いてくれた のです。目出度い祝日の朝だ、母には嫌な顔をするわけにはいかなくて、何気なく家を出たものの、その新しい学生服が気になって気になってしょうがなかったのです。堪りかねて、その新しい服を土のグラウンドにこすりつけたのです。スッテンコロリン、と転んで汚してしまったように。それでも汚れが少ししかつかないので、踏みつけてみた。そうして今度はその汚れをくしゃくしゃにして揉み、汚れを払い落とそうとして振りまわし、適度に汚れがついた状態のまま着用して、式に出た。母は野良仕事で式には来なかった。これで、私は落ち着いたのです。同じ小学校から来たのは半分ぐらいで、半分は初めて会った者同士、誰も、何も私には話しかけてはこなかった。汚れた服を着て家に帰っても、母は気にもしなかった。

ついでに、お通夜に着用する服装について、私の習癖についても触れておこう。

私の身近な人が亡くなった時、そのお通夜には必ず平服で行くことに決めているのです。亡くなった人と、最後のお別れの交流を持つには、お坊さんの読経が済み、お焼香が済み、皆が帰って身内の人だけが残って、亡き人とのお別れをしている時にお邪魔することにしているのです。その方が、亡き人のことを偲ばれるからです。黒い服を着るのが嫌なのです。結婚式には目出度さが先走り、葬式は覚悟の上での儀式だから、黒い服を着て家を出るのはなんの苦でもない。でも、お通夜は仕事場から駆けることもある、そして普段の状態で過ごしたいと思うのが、私の慣いなのだ。私の家人は、そんな私のことが理解できないようだ。家族の皆が共通の知り合いが亡くなった時など、その時の各人が着ていく服装で、一悶着が発生するのです。その時、私は私の原則にしたがって、平服で出席する。家人は他人の目を気にして、私を批判する。

この時の私のナリも、非常識なんですか、非社会人なんですか、行儀が悪いのですか、とんでもない男なのですか。

こんなこと、大学時代の写真の件、中学校の入学式のことと私のお通夜に着ていく服装が、この私の態度が無礼だとか、非常識だとか、失礼な奴だとか非難されるものなのだろうか。幸いにも、大学時代は公式試合の3分の1くらいは試合に出してもらえた。全国大学サッカー選手権、関東大学サッカー選手権の2冠制覇にもささやかに貢献できたことが、その後の人生に自信をもたらせてくれた。中学時代も、一生懸命スポーツと勉強に頑張った。社会人になっても、公私ともに正しく生きているつもりだ。

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下の写真を見て欲しい。国母の表情には今やれるだけのことはやった、と満足げに見える。厳しい眼差しは、競技に賭けてきたアスリートそのものだ。 

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(男子ハーフパイプ 決勝を終えた国母選手)

決勝1回目。国母和宏(東海大)が勝負に出た。締めくくりは予選で温存した「ダブルコーク}。水平方向だけでなく、回転する体の軸を変えながら3回転する大技だ。

横3回転を連発したそこまでの流れは滑らか。着地が決まれば予選2回目に出した42・5点を上回り、メダルが射程に入る。そんな期待感一転、着地の衝撃でバランスを失った。前のめりに倒れ、雪面が顔を擦った。30・5点。

2回目も同じ技の着地で手がわずかに雪面を擦った。35・7点。メダルは消えた。「メダルを取れなかったので次を狙う理由ができた」直後にそう語った。

17歳で初出場したトリノは予選落ちだった。(20100219の朝日・朝刊の記事より)

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20100219

朝日朝刊

天声人語

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騙し絵で知られるオランダの画家エッシャーに「滝」という作品がある。水路から落ちる水が水車を回して流れる。流れを目で追っていくと、あれ?また同じ落ち口に戻っていく。錯覚を巧みに使い、現実にありえない無限連鎖を描いた傑作とされる。

ありふれた無限連鎖も人の世にはある。「今どきの若い者はーーーー」の嘆きである。かのソクラテスも若者に嘆息したそうだ。言われた者がいつしか言う年齢になり、生き変わり死に変わり、有史以来のバトンリレーが続いてきた。

かって「太陽族」があり「みゆき族」があった。五輪スノーボードの国母和宏選手の服装問題も、逸話の一つになろう。だいぶ叩かれ国会でも取り上げられた。出場辞退がちらつき、本人は開会式参加を自粛した。「バンクーバー五輪外伝」として記憶されるに違いない。

多少の小言は我が胸にもある。にも増してひとりの若者のささいな「未熟」をあげつらう、世の不寛容が気になった。若いネット世代からの非難も目立ったと聞く。どこかとげとげしい時代である。

皮肉屋だった芥川龍之介に一言がある。《最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである》。だが、若い身空でその処世術にたけた人物が魅力的だとも思わない。

「両親が見えた。応援してくれるのでうれしかった」と臨んだ決勝ではふるはなかった。8位は不本意だったろうが、次がある。4年後に、「今の若い者は」と嘆くほど自身が老け込んでいないよう、願っている。

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帰国した国母選手。出国の際、「服装の乱れ」が問題になったがこの日は、公式服のシャツのすそをズボンに入れ、整った着こなしで到着口に姿を見せた。今後について「自分のスタイルを変えず、そのままでいきたい」と話した。 朝日新聞より。

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201002??

朝日朝刊

息苦しい「魔女狩り」

編集委員・西村欣也

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国母和宏のバンクーバー五輪が終わった。ハーフパイプ予選2組の2位で決勝に進出した。決勝では8位。8位に終わったのではなく、8位入賞だ。17歳でのトリノ五輪予選敗退から4年。悔しさ9割にしても、1割の充実感は、その表情から確実に感じ取れた。

それにしても、開幕前の騒動は何だったんだろう。

成田出国時の「腰パン」、ズボンからのシャツ出しに対し、日本オリンピック委員会(JOC)などに抗議が寄せられたことから、狂想曲は幕を開けた。JOCはあわてて入村式への参加を取りやめさせ、その直後の記者会見で国母の「ちっ、うるせいな」。「反省してま~す」発言が出た。

さらに批判がエスカレートした。全日本スキー連盟からは競技参加の辞退までが申し入れられた。橋本聖子団長の判断で開会式の出席は禁止されたものの、競技への参加は許された。

騒ぎすぎではなかったか。まるで「魔女狩り」だった。まず服装問題。日本選手団公式服装着用規定に「日本選手団に認定された者は、自覚と誇りを持って公式服装を着用しなければならない」とある。確かに、国母はドレスコードに違反したかもしれない。しかし、それ以上でもそれ以下でもない。

記者会見の発言は非難を浴びても仕方ないだろう。「あれは僕のファッションです。でも、多くの人が不快に感じたとしたら謝らなければいけません」と話せば騒動は鎮静化したかもしれない。

今大会、フランス勢は全員が先の跳ね上がったひげを口の上に描いて競技に臨んだ。優勝したショーン・ホワイト(米)の髪はウェーブがかかり、肩よりも長い。これがそれぞれの国で問題になるだろうか。

数年前、大橋巨泉さんと対談をしていて、民主主義の根幹の話になった。彼は思想家ボルテールの言葉をひいて言った。「『君の言うことには百%反対だ。でも、君の発言の自由は命をかけて守ろうと思う』。これが民主主義じゃないですか」

国母のファッションや言動に、僕も確かに違和感を感じる。でも、それに対して寛容でありたいと思う。価値観の押し付けは息苦しさしか生み出さない。

2010年2月24日水曜日

私の10,21(ジュッテン、ニィイチ)

20100124に、この私のブログで「安保改定50年」と題して、日米安全保障条約の成立時の意義とその後の影響と今後の果たす役割を、新聞記事らを総動員して小文に書き表した。

そこのところでは触れなかったのですが、昨夜、学生運動ってなんだったんですか、なんて若い人に聞かれて、そんなこともあったなあ、と私の昔(約40年前)の体験を思い出してみた。

1968年、大学に入学した。学内は騒然となりかけていたが、入学式はなんとか無難に済み、授業は辛うじて夏休みまでは行なわれた。安保条約の自動更新の70年を迎えて、学内は騒々しくなってきていた。私の大学では、授業料値上げ反対、学生会館の自主管理奪還で火が噴出していたのです。夏休みが終わって、授業が始まっても、革マルのヘルメットを被った全共闘の学生が授業中に教室に乱入、先生を教壇から引きずり降ろし、クラス討論会を開催しますと勝手に宣言した。どうみても、クラス討論会という名のものではなかった。教壇に立つヘルメットの学生は、角棒を手に、タオルで顔を覆い、一方的に自分等の主張を繰り返しアジっていた。各学部でも頻繁に学生大会が開かれた。そして間もなく、大学側が敷地の周りにフェンスを高く築き、構内には入ることができなくなった。ロックアウトされたのです。

授業は3年生になってようやく始まった。1年半、授業がなかったものだから、学校では友人はできなかった。全てレポート提出で単位を貰った。サッカー部の監督でもあった堀教授は、ヤマオカ、お前のあのレポートではどうしても優はやれない、可だ、可でいいな。そんな悠長なことが現実だった。提出したレポートは、与えられた課題とは全然関係ないゲバラの政治思想を、ちょこっと読んだ本から丸々流用したものだった。右系学者の堀教授に対する私のささやかな抵抗だった。科目は政治学原論だった。堀教授は、マル経を完全に否定できる学者は、俺しかいないと仰っていた。私の在籍していた社会科学部は、講義のジャンルは広範囲で、何とか原論、何とか概論ばかりだった。

 

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私の10,21は、1970年、2年生の時だった。

唯一、学校で声を掛けてきたのは大分出身の井君だけだった。一年の始め少しだけ授業があって、語学のクラスが同じだった。卒業して宇佐市役所に就職した。井君は核マルのシンパで私をデモになんとかして連れ出そうとしていた。彼は骨格が華奢で非力なゆえに、私のことを、警察との体力勝負の肉弾戦では、頼りがいがあると思ったのだろう。

この頃は、小田実、柴田翔、高橋和巳、井上光晴らの本を集中的に読んでいた。

ベトナムへのアメリカの侵攻に対する、日本では当然、世界各地からの反感が極度に盛り上がっていた。そんな状況のなかでの日米安保問題だった。何が何でもアメリカは日本を同盟国に引き込もうとする。日本を、ソビエト、中国、北朝鮮の共産主義国家に向けて、守備?攻撃の要衝として基地を提供させる国にしておきたい。日本の保守系政治家はそれを望んだ。アメリカの言うことばかり聞いていると、必ず戦争の片棒を担がされることになるだろう、と確信した。

こんな政治状況下で、学生運動が炙り出した学内改革には大体の学生が賛同していた。医学部のある大学では、医局内の非民主的な運営、旧弊、権威主義などの実態を広く社会に知らしめた。角棒を持たなくても、行動はしないが、全共闘の隠れシンパは多かった。私もその一人だった。

夏が終わって秋の始まりの頃のことだった、年齢は2年遅れの入学なので22歳、2年生だった。井君が真剣に、何かに憑かれたような顔をして、10・21、(ジュッテン、ニィイチ)国際反戦デーのデモに参加してくれないか、ヘルメットも角棒も用意しておくので、と頼まれた。やっぱり、井君は私のところへやって来た。内心怖れていたのだ。私の大学の構内は静けさを取り戻しつつあった。デモに参加する学生も減ってきたことに危機感が出てきたのだろう、語調に嫌だと言わせないだけの凄みがあった。言葉遣いに、直向(ひたむき)さがあって、一瞬、腰が引けた。が、私には私なりに、依然として権力や体制、世の中に対してジレンマもあって、私はまだまだ怒っていた。

私は体育局のサッカー部に所属していたので、みんなからは学校側というか、体制側の人間だと思われていたようなのです。

70年春には、日航よど号事件あった。日米安全保障条約が自動延長された。その自動延長阻止の運動は盛り上がりに欠け、自然に熱は冷めつつ、運動は低調になっていった。騒動は、むしろ党派の分裂による内ゲバの方が目立ち、一般学生も運動から遠ざかっていった。運動に対する挫折、諦念、シラケ。若者の間ではシラケムードが漂っていた。比較的好意的に支援していた市民たちも、学生運動には冷ややかな視線に変わった。分派抗争の象徴的な出来事として、後の72年、あさま山荘事件があった。

また、国内では数年前から大企業による公害問題があっちこっちで発生して、被害者の惨憺な状況の報道が、テレビ、ラジオ、出版物で大いに行なわれていた。富山のイタイイタイ病、熊本の水俣病、田子の浦のヘドロ。東京や大都市で、空はスモッグに覆われた。川崎喘息、食物や化学品によるアレルギー。背骨の曲がった魚、片目のカエル。私は、政治的人間ではなかったのに、国や大企業に対してますます義憤を強く感じるようになっていた。

就職する際には、こんな公害垂れ流しの会社には絶対入るものかと、決意した。そんな会社やチェックや指導もできない役所なんかには行ってやるものか。頭が腐る、人間が腐る。自分自身のためにも、国のためにも、国民のためにもならない、と結論した。毒をバラ撒くような会社のスッタフにはなってはいけない。人間として一番大事な命をないがしろにして、より生産性やより利益を多く求める会社ではなく、普通の会社に入りたいと思った。就職活動において、こんな極悪企業や監督不足の役所をやっつけてやる、そんな組織や運動に携わろうと思いつかなかったのは、私の卑小さ、矮小さの表れだ。

そして、1970年10月21日、ジュッテン、ニィイチがやってきた。

井君とは何所で合流したのか今は憶えていない。サッカー部寮の門限破りは覚悟の上だった。気付かれたら、何らかの制裁を気持ちよく受けましょ。でも、チェックが厳しいわけではないので、上手くいけば、誰にも気付かれないかもしれない。我がサッカー部寮は管理することにはルーズだった。点呼はなし、玄関の鍵は壊れていて開けっ放し。結果、誰からも、何のお小言を受けることはなかった。

角棒を横にしてその一本の角棒に6~7人が両手で握り締め、そして何列も何列も並んでジグザグに進むのです。アンポ反対、ベトナム戦争反対、佐藤栄作倒せ、リーダーの掛け声と笛に合わせてシュプレヒコール。都の北多摩しか知らない私は、何所からどこまでデモしたのか解らなかった。でも最終地点はよく憶えていた。赤坂?の確か清水谷交差点だった。

この「清水谷」と書かれた看板が交差点の信号にくっついていたので、この地名を頭の中に刻まれているのですが、その後学校を卒業して会社員になってからも、この清水谷に巡り会ったことがないのです。大阪にもある地名だし、サッカー部の先輩に清水谷高校の出身の人がいたこともあって、頭に銘記した「清水谷」に間違いはないと思うのですが、果たしてこの時の清水谷はどこだったのだろうか。

深夜の11時頃だった。その地点までは、整然とした隊列のままデモ行進が維持できたのですが、この交差点の近くにきて機動隊との正面衝突が避けられなかった。機動隊はここで、これ以上はデモを進ませないと決めていたようだった。機動隊に向かって、火炎瓶が投げられた。交差点に機動隊が陣取り、学生を主体としたデモ隊とは50メートル程の間隔をおいてにらめっこした。機動隊の方からは催涙弾が投げ込まれた。この催涙弾が何かにぶつかって角度を変え、逃げる私の背中にまともに当たった。強烈な刺激臭だった。涙が止まらない、目がキーンと痛くて開いていられなかった。両手で両目を押さえて蹲(うずくま)った。ジャンパーからは刺激臭が強く放っていた。私にとって大事なジャンパーだ。捨てるわけにはいかない。

しばらくは、催涙弾と火炎瓶の散発な応酬だったが、機動隊が急にデモ隊に向かって攻めてきたのです。デモ隊を一人でも多くを捕まえる作戦に出てきたようで、接近戦になった。井君とは、離れ離れになった。道の傍らで蹲(うずくま)っていた私にも機動隊の群れが近づいてきた。機動隊のジュラルミンの盾で学生の体を叩いた、棍棒が振り下ろされる。ゴボウ抜きのように、学生を連行した。角棒で機動隊の隊列に向かうが、接近戦では役に立たなかった。私は、路肩に蹲っていたからか、機動隊は私には棍棒を打ちおろそうとはしなかったが、腕に手をかけた。私を捕まえようとしたのだ。様子を見ていた見物人に、路肩から歩道に引き上げられた。助けてくれたのだ。

しばらくして涙は止まり、痛みもひいた。そして、私は、逃げようと思いついた。怖くなったのだ。ビルの隙間に遮二無二逃げ込んだ。それから、住宅の庭らしいところを隣から隣へ何軒も突っ切った。1階のマンションの居間の灯りを横目に、無茶苦茶逃げた。そして、騒乱の場所からは随分離れた所で、一息ついた。そこは、ビルと倉庫の隙間の闇だった。時は十二時をとっくに過ぎていた。ヘルメットを脱ぎ、臭いジャンパーに包んだ。そして、右左と確認して人っ気の少ない大通りに出た。

本物の運動家ではない私は、その催涙弾一発で戦意喪失、滅入ってしまったようだ。が、これから、どうしょうかと考えた。今夜の寝所のことは、何も考えていなかったのだ。突然、知恵が涌いた。高田の馬場にサッカー部の後輩の福が下宿していることを思いついたのだ。その夜は小雨が降っていたように思う。確か、お姉ちゃんと二人でアパートに住んでいる筈だ、お姉ちゃんには謝れば何とかなるだろう、これしかない。通りの酔っ払いに高田の馬場方面はどちらですかと尋ねて、言われた方向に体力任せで歩き続けた。何時間歩いたのか、定かではない。催涙弾の影響か、疲れか、頭は重く体はだるかった。高田の馬場駅近くの西友にたどり着いたのは、空が薄っすら白みかけた6時頃だった。アパートは西友の近所だ。睡眠中突然起こされ、福は不機嫌だったが、そんなことには構っていられない。私の方が先輩だ。私は、疲れていて眠たかった。タオルを借りて、顔と頭をを拭いた。幸い福のお姉ちゃんが居なくて、お姉ちゃんの布団に寝かせてもらった。この布団を使っていいのかなあと思いつつ、まあ何とかなるやろう、直ぐに布団に包(くる)まった。枕元には、革マルのヘルメットとジャンパーを置いた。福は卒業後、秋田市役所に勤めている。

私が学校に入るために田舎を出る時、父も母もそんな大仰な忠告はしなかったが、私の頭の中に深く刻み込まれたのは、母が何気に零(こぼ)した言葉でした。それは、「タモツ、お兄ちゃんがこの家を守って頑張っているので、お兄ちゃんが困るようなことだけはしないでくれ。何をやってもいい、偉くならなくてもいい、お金持ちにならなくてもいい、だけど、警察だけにはお世話にならないようにしてくれ」だった。

何時間眠ったのだろうか、アパートの玄関が開く音で目が覚めた。福の母親が秋田から何かの用事でやってきたのでした。どうして、こんなに早く秋田からやって来たのだろうか、と不思議に思ったけれど、それ以上考えは及ばなかった。実際、私は時間の感覚がなかったのだ。福に、私のことをこの人は誰だ、と秋田訛りで聞いていた。福は睡眠はたっぷりの様子だった。それから、数分後、福の母親は私の枕元にやって来て、ヤマオカさん、起きなさい、何ですかこれは、ヘルメットを指差していた。催涙弾を受けたジャンパーを手にぶら下げていた。

それから、福の母親にこっぴどく説教を受けた。私は、畳に正座をさせられた。あなたのお母さんは、こんな息子を見たらがっかりするよ、昨夜は何があったの、田舎から勉強しますと言って出てきたのでしょ、ヘルメット被って角棒持って暴れたってしょうがないでしょ、勉強もしっかりやってないんでしょ、サッカーだって真剣にやってるの、私の息子に変な知恵を仕向けないで。よそのおばさんにこれほど怒られたのは、生まれて初めてだった。福の母親は、福の汚れ物と私のジャンパーからズボンからシャツも一緒に洗濯機に入れて洗い出した。やっと説教から解放された。雨戸が全部開けられた。夜は小雨が降っていたのに、外は雲ひとつない晴天だった。太陽が眩しい。頭が痛い、体がだるい。これ以上布団のなかには居られない雰囲気、気まずい感じ。しばらくして、福が学校に行って、私は福のトレーニングウェアーを借りて、東伏見の私の下宿に帰ることにした。

啓(福の名前)ちゃん、お姉ちゃんはどうしたの?福の母親は自分の娘の動向のチェックも怠りない。我が子の動静調査だったのかな。友達の所へ行ってくると言って昨日出かけた、と報らされた母親は、機嫌が悪かった。

福のお母さんは、ヤマオカさん、秋田に遊びにいらっしゃい、キリタンポを用意しておくから、ナマハゲも見物できるからね。翌年、秋田に遊ぶに行って、大いにご馳走を頂きました。

このような、私の1970年の10,21(ジュッテン・ニィイチ)でした。

 

2010年2月19日金曜日

記憶に留めよう、小沢の「???」

東京地検特捜部は、民主党幹事長の小沢一郎の資金管理団体の政治資金偽装記載で、元秘書で衆議員の石川知裕を逮捕起訴した。元会計責任者の公設第一秘書の大久保隆規と、石川元秘書の後任の池田光智秘書も起訴された。この三人と共犯者として告発された小沢は不起訴になった。

小沢は、政治的、道徳的、管理責任は感じているとしばしば発言している。雇用主、代表者責任もあると思うのだが。小沢幹事長の口元から発せられる言辞は、彼が喋れば喋るほど、疑惑が深まるばかりだ。国民は、こんなに頭にきているのに、当の本人はいたって平気を装い、強気で乗り切ろうとしている。

この小沢の行動に根に持つ俺は、この一連の事件を記録しておかなくちゃと思っても、自前で文章にして残すことはなかなか難事なことなのです。そんな時機、当を得た産経新聞の記事を見つけた。この男の生き様を、私の中で風化させないように保存しておかないとイカンと思っていたのです。

幹事長の小沢のことを書いてみて、やはり党首の鳩山由紀夫の奇天烈なお話も追記して置かないと気がすまなくなった。これも不思議なお話です。鳩山由紀夫首相の資金管理団体「友愛政経懇話会」をめぐる偽装献金問題で、鳩山の実母が息子から何も言われていないのに、息子に何も言わずに、月々1500万円を6年間11億円を資金管理団体に支払われていたというのだ。そのように母が支払っていたことを鳩山本人は全然知らなかったというのです。そんなことって、ホンマにありか?そのうちの1億円を公設第一秘書は偽装献金に回していたというのである。この鳩山のことも、忘却の果てに、追いやってはイカン。

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20100125(月)

産経新聞

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自らの資金管理団体「陸山会」の土地購入をめぐる政治資金規正法違反事件で、東京地検特捜部の任意聴取を22日に受け、その直後に会見し、事件について初めて語った民主党の小沢一郎幹事長。だが、その説明には随所に不自然な点がみられた。わずか20分余りで一方的に打ち切られた会見。当初「政治献金」としていた問題の土地購入原資の説明は、その後「融資」に変わり、会見では「個人資金」に。こうした説明に象徴されるように、事件への疑問はいまだにほとんど解消されていないのだ。

「(秘書寮建築のため)土地を購入することを決め、私の個人資金を陸山会に貸し付けたことが事実のすべて」

小沢氏は会見の冒頭、こう語り、ゼネコンからの裏献金の疑いがある陸山会が平成16年に購入した土地代金の原資について、自己資金であると強調した。報道陣には原資となった4億円の出どころについて書面を配布した。

それによると、①自宅を買い換えた際の残金で、元年に引き出した2億円 ②家族名義の口座から9年に引き出した3億円 ③同じく14年に引き出した6千万円ーーの計5億6千万円だったとし、これらを個人事務所の金庫に保管。土地購入時には4億数千万円が残っており、このうち4億円を貸し付けたと主張した。

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それでは、疑問①

《多額の資金を引き出して、手元で保管したのはなぜ?》

小沢氏側の関係者は、9年の引き出しについて「バブル崩壊で銀行破綻が相次ぎ、ペイオフ(預金保護)解禁の論議が出たため」と説明するが、バブル絶頂の元年に引き出した理由は不明だ。

総務省統計によると、当時の定期預金金利は4%以上。2億円の預金で単純計算すると、利息は年間800万円に上がり、5年間預けておけば4千万円以上の利息を受け取れたはずだがーー。

小沢氏は問題となった土地以外にも、妻名義で2つの不動産を購入している。

登記簿によると、7年5月に自宅近くの秘書寮用地を購入。この際、土地と建物を担保に銀行から2億3500万円の融資を受け、利子を含め約2億6千万円を11年5月までに返済していた。

その3ヵ月後の8月には自宅隣地を購入し、土地と建物を担保に3億5千万円の融資を受けていた。19年3月までに返済したが、総額5千万円余りの利子を支払った計算になる。

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疑問②

《多額の手持ち資金がありながら、利息を上回る金利がかかる融資を受けて土地を購入したのはなぜ?》

小沢氏は、問題の土地購入時に4億数千万円が残っていたとするが、17年3~5月にも小沢氏の資金4億円が陸山会の口座に入金され、すぐに同額が引き出されるという不自然な動きがあった。4億円を土地代金に充てたため、小沢氏の手持ち資金の残高は数千万円しか残っていないことになるが、17年の4億についてはどう調達したのか。

最も不可解なのは小沢氏側が当初、定期預金を担保に銀行から小沢氏の名義で受けた4億円の融資を土地代金に充てたとしながら、実際には「小沢氏が貸し付けた資金」で支払った後、関連政治団体から集めた約1億8千万円と陸山会の資金で4億円の定期預金を組み、不必要な融資を受けていたことだ。

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疑問③

《土地代金の原資として4億円を陸山会に貸し付けておきながら、さらに4億円の融資を受けたのはなぜ?》

小沢氏は融資書類に署名しながら「具体的な事務処理について関与していない」と説明。署名した理由については「以前に陸山会が不動産を購入した際にも金融機関から個人での借り入れを要請されたことがあり、秘書から頼まれて、そういう理由からと思って署名した」としている。

小沢氏は土地代金の原資4億円の貸し付け理由について「関連政治団体からかき集めれば何とかなるが、そうすると各団体の活動費がなくなるから」と説明した。しかし、実際には不必要な定期預金担保の融資を受けるために、約1億8千万円の資金を各団体からかき集めていたようにも見えるがーーー。

2010年2月17日水曜日

ソの宮参り

20100214(日)

ソの宮参り

11:30~

住吉神社(福岡市博多区住吉町)

神事を司ってくれたのは、当神社の神主=H・宗氏でした。

そらの宮参り 008

(ソと、ソの両親、ソのジジババ4人と神主=宗氏)

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14日、私たち夫婦は羽田を7時35分発の福岡行きスカイマークで飛び立った。長男夫婦に初めて生まれた女の子・ソの宮参りのためだ。私にとっては、三番目の孫になる。機中からは、眼下一面、雲海で何も見えない、上空はきれいな青空だった。雲海の上に、富士山が忽然と現れて、三合目辺りから山頂にかけての山容がくっきりと真っ白に見えた。噴火口がこんなに真上から見えて、窓際の妻は痛く感動していた。私にとっても初めて見る光景だった。今までも、これからも富士山は日本の厳然たるシンボルだ。フジヤマは神々しいばかりだ。日本に富士山があってよかった、と思う。

往き帰りの機中で、大江健三郎の「新しい人よ眼ざめよ」〈講談社〉をなんとか、半分までは読み終えたいと思っていたので、窓の外のことには目もくれないで本に夢中になった。琵琶湖の上を通った時にも、妻は私に報せてくれた。私の生まれ故郷は、琵琶湖から流れ出る瀬田川の下流だ。生家の辺りは見当がついた。それからは、ただ雲の中を飛び続けた。見えるのは雲ばかり。福岡に近づいて、高度を下げると、雲り空にけむる福岡の市街と海岸線が見えた。海岸線には埋立地と思われる造成地が広がっている。会社では社員が一所懸命働いている。そんなことを思うと胸がチクチク痛みはすれど、やはり私事といっても祝い事だから自ずと気が緩む。

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福岡空港からタクシーで直接住吉神社に向かった。住吉神社に10:30頃着いた。広い境内には大木が何本も茂っていて、敷地には細かい砂利が掃き清められていた。先ず驚いたのは、結婚式や宮参り、厄除けと思われる参詣者が多いことだった。大安だったこともあるのだろう。住所は福岡市博多区住吉3丁目だ。

早く到着したので、境内をうろうろしていたら、この神社に奉職中の神主さんで、私たち夫婦の長男・草の嫁・元さんの兄・宗さんが、私たち夫婦を見つけて近づいてこられた。私は、今日のことでお世話になること、明日のことは大層おめでとうございます、と挨拶を交わした。

ここらで、何故九州の福岡の博多の住吉神社で、長男の子どもの宮参りをすることになったのか、説明しなくてはならない。長男の嫁・元さんの兄・宗さんが、この神社で奉職中だとは先ほど記したのですが、そのお兄さんが明日、ここで、この神社にかって勤めていた女性と結婚式を挙げるのです。その式に列席するために、息子夫婦はここに来なくてはならない。それならば、お兄さんに宮参りの祈祷をやってもらおうじゃないか、ということになって、我々夫婦も来ることになったのです。私は宮参りとお食い初め、それと最近我が家に忍び寄ってくる”松っつん”との食事に、妻は、それ以外に明日結婚式から披露宴までの間、孫・ソの子守役を買って出たのです。

明日新郎になる神主は、足腰が弱っている妻には控え室を案内してくれて、私には神社の建物や歴史のことを色々話してくれたのです。

話してくれたことと、パンフレットなどから得た住吉神社についての情報を少し纏めておきたい。筑前一の宮だ。底筒男命(そこつつのおのかみ)、中筒男命(なかつつのおのかみ)、表筒男命(うわつつのおのかみ)の住吉三神を祭神としている。「筒」は星を意味するとか、何かで読んだような気がする。日本全国に約二千社ある住吉三神を祀る神社の中で最も古い神社であるとされている。現在の全国の住吉神社の総本社は大阪の住吉大社である。大阪の住吉大社、下関の住吉神社、博多の住吉神社の三社が日本三大住吉とされる。本殿と拝殿とは、25年ごとの式年御遷宮(せんぐう)が行なわれることになっていて、平成22年の10月にはその遷宮大祭がある。本殿は16??年に黒田長政公による建立、建築様式は「住吉式」、福岡県の重要文化財に指定されている。

伊勢神宮も御遷宮の準備をしていましたよと彼に話したら、伊勢神宮は20年ごとに完全に建て替えるのですが、それは大変な工事になるので、住吉神社では25年ごとに立て替えるのではなく、大規模な修繕、修理や模様替えをすることにしているのです。今はその工事の最終的な仕上げの状態のようであった。そのために、祈祷などは拝殿の前に仮の拝殿を設(しつら)えて行なわれていた。遷宮が終了したあかつきには、この仮の拝殿は移築されて神輿を仕舞いこむ倉庫になるとのことだった。

今日も参拝客は多いのですが、昨日の方が結婚式が多かったのです、と仰った。昨日は土曜日で先勝だった、遠方からのお客さんを呼ぶには好都合だったのでしょう。神社で働いている人は、アルバイトの人もいるのですか、と尋ねたら、全部職員ですとのことだった。他人事ながら、みんなに支払う給料のことなどを考えてしまった。

能楽堂は、近所の人たちが能の練習に使うことが多い。以前に野村万何とかさんも演じたこともあったのです、とのこと。若者用のミュージック大会やお笑い大会、演芸会なども催される。福岡県の重要文化財に指定されている。

土俵。今回の主役の一人、孫・ソの出生した当日(20091108)には、今の横綱の白鳳が土俵入りをしてくれたのですよ、と仰っていた。奉納土俵入りだったのでしょう。

 

無事に生まれた感謝と健やかに成長することをお願いしました。

H・宗氏によって、宮参りの神事は執り行われた。同時に4組が祈祷を受けた。赤ちゃんを抱くのは、赤ちゃんの父親側の祖父母の何れかが抱くことになっているようです。神様の世界では、お産をした母親は穢(けが)れているとみなされているようです。私見ですが、この儀式が滞りなく済めば、この神の霊域から遠ざかれば、もうそれはどうでもいいことなんでしょうが。神は、神ゆえにいつも、古めかしいことを言いなさる。ここは、黙って従いましょ。

住吉神社の神楽と巫女さんによる舞を披露してもらった。太鼓、横笛、謡いはH・宗氏が担当された。拝殿の前で全員で何枚も何枚も記念写真を撮りました。

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12:00~。ホテル・日航福岡で、「お食い初め」だ。子どもが一生食べ物に困らないように願う儀式のようです。私は初めて知ったのですが、宮参りの主人公・ソに石を噛ませるのです。何故石なのか、このことについて詳しくは分らない。後日学習すること。このとき、ベイビーはお母さんのおっぱい以外の食べ物を初めて口にする、ということ。実際には食べることはできないので、食べたことにするだけです。大人たちは大いに食し、鯨のように酒やビールを飲みました。さらに充分親交をあたためました。

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私と妻、息子・草と、私の四番目の子ども=三女に忍び寄る男”松っつん”、この四人で、宿泊先のホテル・ニューオータニ博多の近くで、18;00から飲んだ。

松っつんが去年から博多で働いているので、俺たちが福岡に行くことを前もって報せたら、是非一緒に食事をしたい、私が安くて美味いところを探しておきますと、請け負ってくれた。モツ鍋だった。彼は職場から自転車でやってきた。店を出た頃は小雨が降っていたが、若者はそんなことにはお構いなしで、傘もささず闇に消えていった。社宅を追い出されるのでアパートを探さなくっちゃと言っていた。彼は、新進気鋭の社長が張り切る服飾メーカーの誇り高い社員だ。この会社の社是(しゃぜ)が、格好いいのです。私も気に入っているのですが、ここでは差支えがあるので公開は遠慮します。

そらの宮参り 007

翌日15日、福岡発07;10のスカイマークで、羽田には9時頃着いた。会社での10:00から打ち合わせに間に合った。

妻は、息子夫婦が結婚式に参列、披露宴で美味しいお料理を食べている間、孫の子守をしながら、松っつん紹介の博多人形店へ出かけ、長女の住宅が今年8月に完成する、その新築祝いに人形を買ってきたと言っていた。