2010年2月24日水曜日

私の10,21(ジュッテン、ニィイチ)

20100124に、この私のブログで「安保改定50年」と題して、日米安全保障条約の成立時の意義とその後の影響と今後の果たす役割を、新聞記事らを総動員して小文に書き表した。

そこのところでは触れなかったのですが、昨夜、学生運動ってなんだったんですか、なんて若い人に聞かれて、そんなこともあったなあ、と私の昔(約40年前)の体験を思い出してみた。

1968年、大学に入学した。学内は騒然となりかけていたが、入学式はなんとか無難に済み、授業は辛うじて夏休みまでは行なわれた。安保条約の自動更新の70年を迎えて、学内は騒々しくなってきていた。私の大学では、授業料値上げ反対、学生会館の自主管理奪還で火が噴出していたのです。夏休みが終わって、授業が始まっても、革マルのヘルメットを被った全共闘の学生が授業中に教室に乱入、先生を教壇から引きずり降ろし、クラス討論会を開催しますと勝手に宣言した。どうみても、クラス討論会という名のものではなかった。教壇に立つヘルメットの学生は、角棒を手に、タオルで顔を覆い、一方的に自分等の主張を繰り返しアジっていた。各学部でも頻繁に学生大会が開かれた。そして間もなく、大学側が敷地の周りにフェンスを高く築き、構内には入ることができなくなった。ロックアウトされたのです。

授業は3年生になってようやく始まった。1年半、授業がなかったものだから、学校では友人はできなかった。全てレポート提出で単位を貰った。サッカー部の監督でもあった堀教授は、ヤマオカ、お前のあのレポートではどうしても優はやれない、可だ、可でいいな。そんな悠長なことが現実だった。提出したレポートは、与えられた課題とは全然関係ないゲバラの政治思想を、ちょこっと読んだ本から丸々流用したものだった。右系学者の堀教授に対する私のささやかな抵抗だった。科目は政治学原論だった。堀教授は、マル経を完全に否定できる学者は、俺しかいないと仰っていた。私の在籍していた社会科学部は、講義のジャンルは広範囲で、何とか原論、何とか概論ばかりだった。

 

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私の10,21は、1970年、2年生の時だった。

唯一、学校で声を掛けてきたのは大分出身の井君だけだった。一年の始め少しだけ授業があって、語学のクラスが同じだった。卒業して宇佐市役所に就職した。井君は核マルのシンパで私をデモになんとかして連れ出そうとしていた。彼は骨格が華奢で非力なゆえに、私のことを、警察との体力勝負の肉弾戦では、頼りがいがあると思ったのだろう。

この頃は、小田実、柴田翔、高橋和巳、井上光晴らの本を集中的に読んでいた。

ベトナムへのアメリカの侵攻に対する、日本では当然、世界各地からの反感が極度に盛り上がっていた。そんな状況のなかでの日米安保問題だった。何が何でもアメリカは日本を同盟国に引き込もうとする。日本を、ソビエト、中国、北朝鮮の共産主義国家に向けて、守備?攻撃の要衝として基地を提供させる国にしておきたい。日本の保守系政治家はそれを望んだ。アメリカの言うことばかり聞いていると、必ず戦争の片棒を担がされることになるだろう、と確信した。

こんな政治状況下で、学生運動が炙り出した学内改革には大体の学生が賛同していた。医学部のある大学では、医局内の非民主的な運営、旧弊、権威主義などの実態を広く社会に知らしめた。角棒を持たなくても、行動はしないが、全共闘の隠れシンパは多かった。私もその一人だった。

夏が終わって秋の始まりの頃のことだった、年齢は2年遅れの入学なので22歳、2年生だった。井君が真剣に、何かに憑かれたような顔をして、10・21、(ジュッテン、ニィイチ)国際反戦デーのデモに参加してくれないか、ヘルメットも角棒も用意しておくので、と頼まれた。やっぱり、井君は私のところへやって来た。内心怖れていたのだ。私の大学の構内は静けさを取り戻しつつあった。デモに参加する学生も減ってきたことに危機感が出てきたのだろう、語調に嫌だと言わせないだけの凄みがあった。言葉遣いに、直向(ひたむき)さがあって、一瞬、腰が引けた。が、私には私なりに、依然として権力や体制、世の中に対してジレンマもあって、私はまだまだ怒っていた。

私は体育局のサッカー部に所属していたので、みんなからは学校側というか、体制側の人間だと思われていたようなのです。

70年春には、日航よど号事件あった。日米安全保障条約が自動延長された。その自動延長阻止の運動は盛り上がりに欠け、自然に熱は冷めつつ、運動は低調になっていった。騒動は、むしろ党派の分裂による内ゲバの方が目立ち、一般学生も運動から遠ざかっていった。運動に対する挫折、諦念、シラケ。若者の間ではシラケムードが漂っていた。比較的好意的に支援していた市民たちも、学生運動には冷ややかな視線に変わった。分派抗争の象徴的な出来事として、後の72年、あさま山荘事件があった。

また、国内では数年前から大企業による公害問題があっちこっちで発生して、被害者の惨憺な状況の報道が、テレビ、ラジオ、出版物で大いに行なわれていた。富山のイタイイタイ病、熊本の水俣病、田子の浦のヘドロ。東京や大都市で、空はスモッグに覆われた。川崎喘息、食物や化学品によるアレルギー。背骨の曲がった魚、片目のカエル。私は、政治的人間ではなかったのに、国や大企業に対してますます義憤を強く感じるようになっていた。

就職する際には、こんな公害垂れ流しの会社には絶対入るものかと、決意した。そんな会社やチェックや指導もできない役所なんかには行ってやるものか。頭が腐る、人間が腐る。自分自身のためにも、国のためにも、国民のためにもならない、と結論した。毒をバラ撒くような会社のスッタフにはなってはいけない。人間として一番大事な命をないがしろにして、より生産性やより利益を多く求める会社ではなく、普通の会社に入りたいと思った。就職活動において、こんな極悪企業や監督不足の役所をやっつけてやる、そんな組織や運動に携わろうと思いつかなかったのは、私の卑小さ、矮小さの表れだ。

そして、1970年10月21日、ジュッテン、ニィイチがやってきた。

井君とは何所で合流したのか今は憶えていない。サッカー部寮の門限破りは覚悟の上だった。気付かれたら、何らかの制裁を気持ちよく受けましょ。でも、チェックが厳しいわけではないので、上手くいけば、誰にも気付かれないかもしれない。我がサッカー部寮は管理することにはルーズだった。点呼はなし、玄関の鍵は壊れていて開けっ放し。結果、誰からも、何のお小言を受けることはなかった。

角棒を横にしてその一本の角棒に6~7人が両手で握り締め、そして何列も何列も並んでジグザグに進むのです。アンポ反対、ベトナム戦争反対、佐藤栄作倒せ、リーダーの掛け声と笛に合わせてシュプレヒコール。都の北多摩しか知らない私は、何所からどこまでデモしたのか解らなかった。でも最終地点はよく憶えていた。赤坂?の確か清水谷交差点だった。

この「清水谷」と書かれた看板が交差点の信号にくっついていたので、この地名を頭の中に刻まれているのですが、その後学校を卒業して会社員になってからも、この清水谷に巡り会ったことがないのです。大阪にもある地名だし、サッカー部の先輩に清水谷高校の出身の人がいたこともあって、頭に銘記した「清水谷」に間違いはないと思うのですが、果たしてこの時の清水谷はどこだったのだろうか。

深夜の11時頃だった。その地点までは、整然とした隊列のままデモ行進が維持できたのですが、この交差点の近くにきて機動隊との正面衝突が避けられなかった。機動隊はここで、これ以上はデモを進ませないと決めていたようだった。機動隊に向かって、火炎瓶が投げられた。交差点に機動隊が陣取り、学生を主体としたデモ隊とは50メートル程の間隔をおいてにらめっこした。機動隊の方からは催涙弾が投げ込まれた。この催涙弾が何かにぶつかって角度を変え、逃げる私の背中にまともに当たった。強烈な刺激臭だった。涙が止まらない、目がキーンと痛くて開いていられなかった。両手で両目を押さえて蹲(うずくま)った。ジャンパーからは刺激臭が強く放っていた。私にとって大事なジャンパーだ。捨てるわけにはいかない。

しばらくは、催涙弾と火炎瓶の散発な応酬だったが、機動隊が急にデモ隊に向かって攻めてきたのです。デモ隊を一人でも多くを捕まえる作戦に出てきたようで、接近戦になった。井君とは、離れ離れになった。道の傍らで蹲(うずくま)っていた私にも機動隊の群れが近づいてきた。機動隊のジュラルミンの盾で学生の体を叩いた、棍棒が振り下ろされる。ゴボウ抜きのように、学生を連行した。角棒で機動隊の隊列に向かうが、接近戦では役に立たなかった。私は、路肩に蹲っていたからか、機動隊は私には棍棒を打ちおろそうとはしなかったが、腕に手をかけた。私を捕まえようとしたのだ。様子を見ていた見物人に、路肩から歩道に引き上げられた。助けてくれたのだ。

しばらくして涙は止まり、痛みもひいた。そして、私は、逃げようと思いついた。怖くなったのだ。ビルの隙間に遮二無二逃げ込んだ。それから、住宅の庭らしいところを隣から隣へ何軒も突っ切った。1階のマンションの居間の灯りを横目に、無茶苦茶逃げた。そして、騒乱の場所からは随分離れた所で、一息ついた。そこは、ビルと倉庫の隙間の闇だった。時は十二時をとっくに過ぎていた。ヘルメットを脱ぎ、臭いジャンパーに包んだ。そして、右左と確認して人っ気の少ない大通りに出た。

本物の運動家ではない私は、その催涙弾一発で戦意喪失、滅入ってしまったようだ。が、これから、どうしょうかと考えた。今夜の寝所のことは、何も考えていなかったのだ。突然、知恵が涌いた。高田の馬場にサッカー部の後輩の福が下宿していることを思いついたのだ。その夜は小雨が降っていたように思う。確か、お姉ちゃんと二人でアパートに住んでいる筈だ、お姉ちゃんには謝れば何とかなるだろう、これしかない。通りの酔っ払いに高田の馬場方面はどちらですかと尋ねて、言われた方向に体力任せで歩き続けた。何時間歩いたのか、定かではない。催涙弾の影響か、疲れか、頭は重く体はだるかった。高田の馬場駅近くの西友にたどり着いたのは、空が薄っすら白みかけた6時頃だった。アパートは西友の近所だ。睡眠中突然起こされ、福は不機嫌だったが、そんなことには構っていられない。私の方が先輩だ。私は、疲れていて眠たかった。タオルを借りて、顔と頭をを拭いた。幸い福のお姉ちゃんが居なくて、お姉ちゃんの布団に寝かせてもらった。この布団を使っていいのかなあと思いつつ、まあ何とかなるやろう、直ぐに布団に包(くる)まった。枕元には、革マルのヘルメットとジャンパーを置いた。福は卒業後、秋田市役所に勤めている。

私が学校に入るために田舎を出る時、父も母もそんな大仰な忠告はしなかったが、私の頭の中に深く刻み込まれたのは、母が何気に零(こぼ)した言葉でした。それは、「タモツ、お兄ちゃんがこの家を守って頑張っているので、お兄ちゃんが困るようなことだけはしないでくれ。何をやってもいい、偉くならなくてもいい、お金持ちにならなくてもいい、だけど、警察だけにはお世話にならないようにしてくれ」だった。

何時間眠ったのだろうか、アパートの玄関が開く音で目が覚めた。福の母親が秋田から何かの用事でやってきたのでした。どうして、こんなに早く秋田からやって来たのだろうか、と不思議に思ったけれど、それ以上考えは及ばなかった。実際、私は時間の感覚がなかったのだ。福に、私のことをこの人は誰だ、と秋田訛りで聞いていた。福は睡眠はたっぷりの様子だった。それから、数分後、福の母親は私の枕元にやって来て、ヤマオカさん、起きなさい、何ですかこれは、ヘルメットを指差していた。催涙弾を受けたジャンパーを手にぶら下げていた。

それから、福の母親にこっぴどく説教を受けた。私は、畳に正座をさせられた。あなたのお母さんは、こんな息子を見たらがっかりするよ、昨夜は何があったの、田舎から勉強しますと言って出てきたのでしょ、ヘルメット被って角棒持って暴れたってしょうがないでしょ、勉強もしっかりやってないんでしょ、サッカーだって真剣にやってるの、私の息子に変な知恵を仕向けないで。よそのおばさんにこれほど怒られたのは、生まれて初めてだった。福の母親は、福の汚れ物と私のジャンパーからズボンからシャツも一緒に洗濯機に入れて洗い出した。やっと説教から解放された。雨戸が全部開けられた。夜は小雨が降っていたのに、外は雲ひとつない晴天だった。太陽が眩しい。頭が痛い、体がだるい。これ以上布団のなかには居られない雰囲気、気まずい感じ。しばらくして、福が学校に行って、私は福のトレーニングウェアーを借りて、東伏見の私の下宿に帰ることにした。

啓(福の名前)ちゃん、お姉ちゃんはどうしたの?福の母親は自分の娘の動向のチェックも怠りない。我が子の動静調査だったのかな。友達の所へ行ってくると言って昨日出かけた、と報らされた母親は、機嫌が悪かった。

福のお母さんは、ヤマオカさん、秋田に遊びにいらっしゃい、キリタンポを用意しておくから、ナマハゲも見物できるからね。翌年、秋田に遊ぶに行って、大いにご馳走を頂きました。

このような、私の1970年の10,21(ジュッテン・ニィイチ)でした。