2010年3月4日木曜日

国母君、天晴れ。8位入賞だ

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(頭を下げる国母選手と日本選手団の橋本聖子団長)

《問題の経緯》

20100213 朝日・夕刊より

国母選手が日本を出発して9日にバンクーバー入りする際、選手団の公式ブレザー姿でネクタイを緩めてシャツのすそを外に出し、ズボンをずり下げた「腰パン」姿だったことが発端。10日の選手村入村式への参加を自粛したが、その後の会見で「反省してま~す」と語尾を伸ばして発言、JOCなどに電話やメールで多数の批判が集まった。

橋本団長は、萩原文和監督、2人のコーチの計4人の開会式への参加を自粛させた。また、全日本スキー連盟が国母選手の出場辞退を申し出たが、橋本団長は「国母選手が試合で自分の力を出し切るのが責任の取り方。選手団として責任を負い、サポートすることを約束し、本人に頑張るように伝えた」と話し、国保選手は大会に出場すると説明した。

《記者会見の模様をもう少し新聞記事から転載させていただく。この時の事情がよく解ると思われるので-----。》

国母選手は「いろいろな方にご心配とご迷惑をおかけしてすみませんでした。応援してくださる方々のために、よい滑りができるようがんばりたい」と神妙な面持ちで語った。「代表選手団となったら公人として行動しなければならない。今回の服装の乱れは(日本オリンピック委員会の)公式服装規程に違反している」と橋本団長が指摘すると、じっと聞き入った。記者からの質問に、マイクを手にしばらく黙り込んだり、橋本団長に助言を求めたりする場面が続いたが、騒動が競技に与える影響を問われると、大きな声で即答した。「何も変わらないです」。最後は深深と頭を下げて席を立った。

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(決勝2回戦が終わった)

バンクーバ冬季五輪の各会場では、種目ごとに悲喜こもごものドラマが展開されて、閉幕した。涙、涙の連続。競技の結果のニュースが、媒体を賑わしてくれた。スポーツ好きの私には、堪(たま)らない日々の連続だった。

結果はいずれ纏めてマイファイルするつもりですが、「国母和宏君問題」については、当初同じ世代の子どもを持つ親としては、気楽に看過できない問題だと思った。でも、でもだ、あなたにこの件について大人ぶって意見できる資格があるの?という声が天から聞こえてきた。

それにしても騒ぎ過ぎだ。やり過ぎだ。特にマスコミの騒ぎ過ぎは狂態だ。記者会見の様子など静かに報道すればいいものの、国母選手の両親や関係者にまで謝罪のコメントを取りにいく。さらし者にしたのだ。変な識者らしき者が批判したたコメントを大々的に電波で流し、イジメのごとき扱いだった。日本はこのようにして、いとも簡単に人を貶(おとし)めたり、イジメたりするものなのか。いったい、国保選手の何が、そんなに悪かったんだ?

果たして私の方は、私の20~22歳はどうだったんだ。国母君と何が違ったのだ?私の若かった頃のことを振り返りながら、我が身と国母君のことを思い巡らしながら考えてみた。

私も、私を皆と同じように思われるのが嫌だった訳ではないが、自分自身の固有のナリフリというものがあって、それなりに個性として認めて欲しい願望があった。これに関しては、誰もが同じだと思う。

私は大学時代、体育局のサッカー部(我が大学ではア式蹴球部と呼んでいた)に所属していた。

サッカー部として行動するときは学生服に角帽を被る、これが部としての正式な制服だった。私が4年生の時の慶応大学(この大学は、気障にソッカー部と呼んでいる)との定期戦のプログラム作成にあたって、各自顔写真を持ってくるように言われ、私には写真を撮るお金がなくて、それはそれは皆とは比べようが無いほど貧乏だったので、何かで以前に撮った写真を提出しておいた。学生服を着て襟に学部バッジをつけた顔写真が必要だったのです。同期でマネージャー高の、現在は富士通の関連会社で総務部長をやっているそうだが、再三に及ぶ督促を無視してほっぱらかしておいたのです。この件の原因は、お金、費用の問題が全てだったのです。その写真は、みすぼらしいセーターを着て、顔は不精髭で、髪はボサボサのものだった。それでも、私は、私のことだからしょうがないや、と思っていた。

その写真が使われたら、全メンバーの顔写真の中で、私の部分だけが一際(ひときわ)おかしなことになるのは、当たり前に理解していた。顔写真は、4年生は全員、3年生以下は試合のメンバーに選ばれた者が載せられた。事実、刷り上ったプログラムで私の顔写真だけは異状だった。その異状さ、そのおかしいさは、私に予期せぬ痛快さを感じさせてくれた。同期の仲間が仲間に、ヤマオカ、あいつ、おかしいんじゃないの、と言っているのを、間近で聞こえた。私は悪戯(いたずら)心で遊んでいるわけではない、拗(す)ねているわけでもない。所属していたサッカー部は、大学では名門中の名門だったけれど、ただ、それだけのことだ、と割り切っていたのですが、仲間たちには、そうでもない連中が多かったようだ。私以外の皆が高慢稚気に思えて、その尊大な奴等に対する、反抗心だったのだろうか、否、それだけでもなさそうだ。

もっともっと昔の話にも触れたくなった。

私は貧しい農家の三男坊として生まれて育った。兄達のことはよく分らないのですが、これは分ってくれる人しか分ってもらえない話なのです。小学校の高学年の頃からのことです。いっつも兄からのさずかり物の服ばかり着ていた。それで充分、満足だった。兄が着ていた服には、人肌の温かみが感じられた。それが、いかにボロくても。ところが、兄達が使い古して私が着るに耐えられない程痛んだ時には、母が新品の服を用意して置いてくれた。その新しい服を着るのがどうしても嫌だったのです。新しいものが嫌だったのです。古くて、ツギハギだらけの服の方が落ち着くのです。幼心に、貧富について私なりにイデオロギーが目覚めていたのだろうか。

その新品嫌いが、中学校の入学式で爆発してしまったのです。式の当日、母は新しい服を用意して置いてくれた のです。目出度い祝日の朝だ、母には嫌な顔をするわけにはいかなくて、何気なく家を出たものの、その新しい学生服が気になって気になってしょうがなかったのです。堪りかねて、その新しい服を土のグラウンドにこすりつけたのです。スッテンコロリン、と転んで汚してしまったように。それでも汚れが少ししかつかないので、踏みつけてみた。そうして今度はその汚れをくしゃくしゃにして揉み、汚れを払い落とそうとして振りまわし、適度に汚れがついた状態のまま着用して、式に出た。母は野良仕事で式には来なかった。これで、私は落ち着いたのです。同じ小学校から来たのは半分ぐらいで、半分は初めて会った者同士、誰も、何も私には話しかけてはこなかった。汚れた服を着て家に帰っても、母は気にもしなかった。

ついでに、お通夜に着用する服装について、私の習癖についても触れておこう。

私の身近な人が亡くなった時、そのお通夜には必ず平服で行くことに決めているのです。亡くなった人と、最後のお別れの交流を持つには、お坊さんの読経が済み、お焼香が済み、皆が帰って身内の人だけが残って、亡き人とのお別れをしている時にお邪魔することにしているのです。その方が、亡き人のことを偲ばれるからです。黒い服を着るのが嫌なのです。結婚式には目出度さが先走り、葬式は覚悟の上での儀式だから、黒い服を着て家を出るのはなんの苦でもない。でも、お通夜は仕事場から駆けることもある、そして普段の状態で過ごしたいと思うのが、私の慣いなのだ。私の家人は、そんな私のことが理解できないようだ。家族の皆が共通の知り合いが亡くなった時など、その時の各人が着ていく服装で、一悶着が発生するのです。その時、私は私の原則にしたがって、平服で出席する。家人は他人の目を気にして、私を批判する。

この時の私のナリも、非常識なんですか、非社会人なんですか、行儀が悪いのですか、とんでもない男なのですか。

こんなこと、大学時代の写真の件、中学校の入学式のことと私のお通夜に着ていく服装が、この私の態度が無礼だとか、非常識だとか、失礼な奴だとか非難されるものなのだろうか。幸いにも、大学時代は公式試合の3分の1くらいは試合に出してもらえた。全国大学サッカー選手権、関東大学サッカー選手権の2冠制覇にもささやかに貢献できたことが、その後の人生に自信をもたらせてくれた。中学時代も、一生懸命スポーツと勉強に頑張った。社会人になっても、公私ともに正しく生きているつもりだ。

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下の写真を見て欲しい。国母の表情には今やれるだけのことはやった、と満足げに見える。厳しい眼差しは、競技に賭けてきたアスリートそのものだ。 

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(男子ハーフパイプ 決勝を終えた国母選手)

決勝1回目。国母和宏(東海大)が勝負に出た。締めくくりは予選で温存した「ダブルコーク}。水平方向だけでなく、回転する体の軸を変えながら3回転する大技だ。

横3回転を連発したそこまでの流れは滑らか。着地が決まれば予選2回目に出した42・5点を上回り、メダルが射程に入る。そんな期待感一転、着地の衝撃でバランスを失った。前のめりに倒れ、雪面が顔を擦った。30・5点。

2回目も同じ技の着地で手がわずかに雪面を擦った。35・7点。メダルは消えた。「メダルを取れなかったので次を狙う理由ができた」直後にそう語った。

17歳で初出場したトリノは予選落ちだった。(20100219の朝日・朝刊の記事より)

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20100219

朝日朝刊

天声人語

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騙し絵で知られるオランダの画家エッシャーに「滝」という作品がある。水路から落ちる水が水車を回して流れる。流れを目で追っていくと、あれ?また同じ落ち口に戻っていく。錯覚を巧みに使い、現実にありえない無限連鎖を描いた傑作とされる。

ありふれた無限連鎖も人の世にはある。「今どきの若い者はーーーー」の嘆きである。かのソクラテスも若者に嘆息したそうだ。言われた者がいつしか言う年齢になり、生き変わり死に変わり、有史以来のバトンリレーが続いてきた。

かって「太陽族」があり「みゆき族」があった。五輪スノーボードの国母和宏選手の服装問題も、逸話の一つになろう。だいぶ叩かれ国会でも取り上げられた。出場辞退がちらつき、本人は開会式参加を自粛した。「バンクーバー五輪外伝」として記憶されるに違いない。

多少の小言は我が胸にもある。にも増してひとりの若者のささいな「未熟」をあげつらう、世の不寛容が気になった。若いネット世代からの非難も目立ったと聞く。どこかとげとげしい時代である。

皮肉屋だった芥川龍之介に一言がある。《最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながら、しかも社会的因襲と矛盾せぬ生活をすることである》。だが、若い身空でその処世術にたけた人物が魅力的だとも思わない。

「両親が見えた。応援してくれるのでうれしかった」と臨んだ決勝ではふるはなかった。8位は不本意だったろうが、次がある。4年後に、「今の若い者は」と嘆くほど自身が老け込んでいないよう、願っている。

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帰国した国母選手。出国の際、「服装の乱れ」が問題になったがこの日は、公式服のシャツのすそをズボンに入れ、整った着こなしで到着口に姿を見せた。今後について「自分のスタイルを変えず、そのままでいきたい」と話した。 朝日新聞より。

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201002??

朝日朝刊

息苦しい「魔女狩り」

編集委員・西村欣也

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国母和宏のバンクーバー五輪が終わった。ハーフパイプ予選2組の2位で決勝に進出した。決勝では8位。8位に終わったのではなく、8位入賞だ。17歳でのトリノ五輪予選敗退から4年。悔しさ9割にしても、1割の充実感は、その表情から確実に感じ取れた。

それにしても、開幕前の騒動は何だったんだろう。

成田出国時の「腰パン」、ズボンからのシャツ出しに対し、日本オリンピック委員会(JOC)などに抗議が寄せられたことから、狂想曲は幕を開けた。JOCはあわてて入村式への参加を取りやめさせ、その直後の記者会見で国母の「ちっ、うるせいな」。「反省してま~す」発言が出た。

さらに批判がエスカレートした。全日本スキー連盟からは競技参加の辞退までが申し入れられた。橋本聖子団長の判断で開会式の出席は禁止されたものの、競技への参加は許された。

騒ぎすぎではなかったか。まるで「魔女狩り」だった。まず服装問題。日本選手団公式服装着用規定に「日本選手団に認定された者は、自覚と誇りを持って公式服装を着用しなければならない」とある。確かに、国母はドレスコードに違反したかもしれない。しかし、それ以上でもそれ以下でもない。

記者会見の発言は非難を浴びても仕方ないだろう。「あれは僕のファッションです。でも、多くの人が不快に感じたとしたら謝らなければいけません」と話せば騒動は鎮静化したかもしれない。

今大会、フランス勢は全員が先の跳ね上がったひげを口の上に描いて競技に臨んだ。優勝したショーン・ホワイト(米)の髪はウェーブがかかり、肩よりも長い。これがそれぞれの国で問題になるだろうか。

数年前、大橋巨泉さんと対談をしていて、民主主義の根幹の話になった。彼は思想家ボルテールの言葉をひいて言った。「『君の言うことには百%反対だ。でも、君の発言の自由は命をかけて守ろうと思う』。これが民主主義じゃないですか」

国母のファッションや言動に、僕も確かに違和感を感じる。でも、それに対して寛容でありたいと思う。価値観の押し付けは息苦しさしか生み出さない。