ご挨拶
本日(20201116)は坂西秀男さんと私・山岡 保の送別会を行っていただいて、中村社長はじめ社員の皆さん、協力会社の皆さん有難うございます。
こんな状態で皆さんの前に立つと、送別会は何だか寂しいようで悲しいような、、、、現在の私は不思議な感慨無量に耽(ふけ)っている。
送別会なので皆さんに向かって有難う御座いましたと言えば済むものの、私の頭に浮かんでくる言葉は、只管(ひたすら)に株式会社パラディスハウスを励ますものばかり。
だからと言って、そんな言葉ばかりならば皆さんを飽きさせてしまうだろう。そんなことも考慮して、今までの在籍中での出来事を文字にしてみたのです。
上手くいかなかったビジネスホテル、2棟まるまる良しではなかったマンション分譲の件は避けた。
このことを考えると、心が砕けるのです。
坂西さんは坂西さんらしく、口述にしてお話しされると思う。
私はパラディスハウスの前の会社からは40年以上勤めたことになって、社長をやらせていただいたことがあり、皆さんに有難うだけではなく、私のこと、私の家族をも合わせて何分も頭を下げつつ感謝したい。
私と坂西さんの送別会だから、この両人が出席するのは当たり前なのだが、私には私の女房をどうしてもこの場に居たせたかった。
この何年間喘息気味で、医者からは他人に害を与えないので、その旨を話しなさいと言われている。
おまけに腰その他の関節にも不具合が生じている。
そんな彼女のことだから、今回の送別会への出席を遠慮がちだった。
私は、この送別会は又別の意味もあるんだと説得した。
お世話になった人々に有難う、有難うでは済まされない、もっと違う意味で何らかの言葉を吐かなくてはならない。
それほど、お世話になったのだ。
ゴルフで例えれば、OBしてロストボールになったようだと言えば、ちょっと誇りが無さ過ぎるなあ。
これからは我が家の事情だけれど、私はものの見事に子育ての一つ一つまでサボった。
全ては女房に任せっぷりで、父親としての評価はゼロだ。
子供4人が立派に育ち、長男を除きそれぞれが住宅を得た。
9人の孫は立派に育っている。
オーストラリア、韓国と出張で廻り回っている長男の子供2人のことについては連絡はないが、自立心豊かな長男のこと、間違いないだろう。
そして、この私の退職後はどう?なっていくんだろう、55年前の脳無しの素浪人に戻るのだろうか。
先日、三浦みどり税理士事務所の三浦みどり先生と昼食時に、先生が話されたことなんだが、熊本、鹿児島県辺りでは他県との競争が上手くいかなかったのか、茶畑を水田に変えている人も大勢いるんですよ、だった。
ちょっと待ってください、私の故郷・京都府綴喜郡宇治田原町の生家では水田を茶畑に変えているんですよ。
あらゆる角度の茶畑があって、その角度の違う茶畑の茶を茶師が巧いこと練り合わせて絶妙な茶、宇治茶を作り出すんです。
かって、私が幼少の頃静岡・三重辺りから大量の茶が我が故郷に持ち込まれた。
そして本物の宇治茶と混ぜ合わせて宇治茶として売り出していた。
そんな理不尽なことが、平気の平左衛門でまかり通っていたのが、不思議だった。
が、そんなまかりならぬことなどいつまでも通用しない、京都府茶業協同組合は何年か前に宇治茶としての原理原則を作り上げた。
宇治茶として売り出すには、本物の宇治茶が半数以上含まれていないと失格だそうだ。
甥(私の兄貴の子供)は、自分の気の合う従兄弟(茶師)とコンビを組んで、貧しいが少しのお客さんとビューティフルでエレガントな仕事に夢中だ。
愕(おどろ)くことなかれ、この甥は今、丁寧に育てた玉露の茶葉を香り高く、まろやかな口当たりの紅茶を仕上げた。
品種の一つである「ごこう」を使用することで紅茶好きの茶師も納得のいく出来ばえだ。
茶師の大物は、茶聖と呼ばれた千利休だ。
これと同じことが我々の業界でも行われている。
同じ仕様、構法で同じエリアで大量に作り上げ、なりふり構わずに売りに出す量販系の住宅販売。
売れなくなったら、採算を度外視して割引きして売り逃げる。
そんな住宅販売は必ず止血されるだろう。
ところが、最近会う人から、退職後、山岡さんは空いた時間に何をするんですか?とよく聞かれる。
今年はコロナ禍に煩わされ、そんな中でも皆さんは無性の努力をしてくれたことに、これまた感謝したい。
そんな環境にありながら私は、社内に新型コロナウイルスを持ち込まないように、毎週通っていた水泳、図書館、月に1度の映画鑑賞を一切避けた。
こんな私がそんなウイルスを持ち込むようなことをしたならば、中村社長からこっ酷(ぴど)く叱られるのではと、腹を括(くく)っていた。
それで、退職後には水泳、図書館、映画、友人との飲酒を元々の調子に戻そうと思っている。
コロナ禍が薄れた状態になれば、声をお掛けしますので、ご一緒くださいな。
足腰が弱まっているので、小さな山々の山巡りは2か月に1山(ひとやま)ぐらい確保したい。
なにを隠そう、樹木からの落下事故の高次脳機能障害による精神的な悩みから、どうしても脱却できそうにないのが一番の苦労だ。
この苦しみは誰にも解ってもらえない。
日本の各地に早稲田大学のサッカー部の先輩、同輩、後輩が暇を持て余して待っている。
ところで、私はシブトク生きて見せます、見苦しいほどシブトク生きます、と言ったって身も心もボロボロに剥げ落ちてしまった。
★後記において弊社の社員の人名については敬称を省かせていただきました、申し訳ありません。
今回の送別会のご挨拶を昔書いたブログも利用しながら仕上げた。
私は相変わらずの能天気、美辞麗句を負(お)った髷(たまげ)の乱文乱筆をお許しください。
皆さんの今後を大いに期待して、括弧つければ「後顧の憂いなく去ります」。
●思い出アラカルト
★社名がどうしてパラディスハウスなの。
「パラダイム シフト ハウス」
「Paradigm shift House」
英語表示は、Paradi.s House とした。
読み方は「パラディス ハウス」。
新しくアーバンビルドの継続会社を作るのだが、その社名をどうすればいいか?と中村社長から相談があった。
割とその手のことには強いんです、私に考えさせてくださいと、時間をいただいた。
それからの数日が大変だった。
パラダイムシフトという言葉に込められた思想こそが、弊社が新しい時代へと進化を究め続ける拠りどころだと思っている。
中村社長が、「昨日の延長線上に今日があるのではなく、もっと十年、百年、三百年の未来を見据えての摸索を心がけて進もう」と常日頃言っていることは、名付けた創業者としての誓いでもある。
現在の中村丸は、まさしくこのシフト直航のような気がする。
パラダイムは「認識の仕方」「考え方」「常識」「支配的な解釈」「旧態依然とした考え方」などの意味合いで使われている。
パラダイムシフトはこの過度な拡大解釈に基づいて都合よく用いられている。
厳密な定義はなく「発想の転換」や「見方を変える」、「固定観念を捨てろ」「常識を疑え」などから始まり「斬新なアイデイアにより時代が大きく動くこと」まで、さまざまな意味で使われている。
狭義には、その時代や分野において主流だった(問題を抱えている)古い考えや考え方に代わり(その問題を解決できる)新しい考え方が主流となることを指す。
私が住宅産業に携わってからの45年の間にも、小さく、大きく、世相の変化が目まぐるしい。
価値観の変化もすさまじい。
その変化に当然対応していかなければならない。
又、歴史の大きな変化に見間違うことなく、真に科学的でありたい。
何を隠そう、このパラダイムという言葉はガリレオ・ガリレイの少年の頃のことから始まったと思っている。
ガリレオ少年は父親に連れられてある晩餐会に出かけた。
周りは大人ばかりでつまらない。
何か面白いものはないかと思って見回すと、天井でシャンデリアが揺れていた。
彼は最初のうちはそれをぼんやり眺めていたが、そのうちににその揺れに一つの特徴があることを発見する。
揺れ幅がどんなに小さくなっても、シャンデリアが往復する時間は変わらないというものだった。
いわゆる振り子の法則である。
彼はそれを自分の脈拍を使って確認するのだ。
宗教裁判では「人を惑わす不届き者め」と言われたが、ガリレオは「それでも地球は回っている」という有名な台詞で反撃した。
コペルニクスの地動説を支持したのだ。
★本社ビル購入
本社にしているこの土地建物を約15年前に取得させてもらった。
場所は横浜市保土ヶ谷区天王町2-45-32
近所には野村不動産が所有するビジネスセンターがある。
オフィスビル群にレストラン、スポーツセンター、公園を備えている。
大小10棟の建物が中央公園「ベリーニ公園」を囲んだ構成になっている。
オフィス勤務者のほか、近所の住民らが公園内を散策するなど、労働者の場と憩(いこ)いの場を合わせた施設だ。
昔、この地にはビール工場があり、ビール瓶を作る日本硝子(現・日本山村硝子株式会社)の横浜工場があった。
よって、この地に向かって「ビール坂」と呼ばれる坂もある。
この日本山村硝子は硝子瓶、プラスチック容器、ニューガラスを製造販売する会社だ。
この土地建物の売買契約のために、日本山村硝子の本社・兵庫県尼崎に出かけた記憶がある。
これからが、この項目の核になることです。
そのビール瓶をつくる工場の、製品を作るための成分を検品、チェックする施設が我が本社の以前の姿だった。
流石に上場会社の検品場だけあって、地下付き地上3階建て、床面積が広く、小さな間取りがちょこちょこあるわけではないので、仕事するのになんとも都合よかった。
車の駐車台数だって、詰めれば15台は可能だろう。
社員が多くなった何年か前でも、その収容能力は余裕綽綽(しゃくしゃく)だった。
何かと銀行のお世話になるのだが、この本社の存在は大きかった。
同業の不動産屋さんからも,羨ましがられたものです。
中村丸の一層の飛躍に繋がることでしょう。
★入社してくれた人々
私が入社・面接において直接対応しなかった人々が多いにいるが、今回は私が直接お会いした人々について、その思いを書いた。
和泉、桜庭、古舘、坂西、向坪、浅見、細川、佐藤。
★小さな男の子の子育てと年老いたご両親との生活、大変な時期だった和泉。
彼女の入社したのはほぼ22年前。
彼女の仕事に対する熱意は我々にとっても反響があり、熱風そのものだった。
社内一番の元気印(げんきじるし)、今や大物の風格まである。
こんな言い方をすれば和泉にお叱りを受けるかもしれないが、私の個人的な考えでは、頑張っている人が好きで、いつまでも長く一緒に仕事をしたくなる。
苦しいことがあっても、実に冷静なのが立派だ。
息子も大きくなって、20歳を随分早くに通り過ぎた。
息子さんは立派な会社に入社した、和泉以上に吾輩も嬉しい、後のことは息子に任せましょう。
その会社は日産自動車だ、私が中学校の頃は日本の自動車産業を担っていた。
私の言動が浅はかに思われたくないのだが、年老いた人や障害のある人と一緒に暮らすことは、並み大抵のことではない、和泉は難なくこなしいる。
★北海道の某住宅メーカーの設計士だった桜庭。
最初は北海道の某住宅メーカーの営業マンとして来社したが、そのときに桜庭は弊社のことを気の向く会社と思ったのだろうか、その後何か月後か何年後かに求職でやってきてくれた。
設計者としては、弊社にはかって仲間だったデザインを重んじる関口さんがいた。
関口さんが独立した後、社内に設計士がいてくれることは何かにつけて有難かった。
彼の鶴見での自宅建設の際には、拙宅の前の住宅に住んだこともあった。
出身の北海道の冬季のことを話してくれるのだが、北海道のことを何も知らない私にとって興味深いことばかり。
話を聞くだけで、身震いすることもあった。
桜庭に与えられている仕事の量は、日に日に増えてきたが、尚一層の踏ん張りに期待したい。
愛嬌ありで興趣ある奥さんのことは、社員全てが魅力的に感じている。
★ある施設のレストランで調理部にいた古舘。
かって私が大学を卒業して入社した会社に、箱根地区の経理係としていたのが不思議な縁だ。
私の方が、多少先輩なのだろう。
その事業所は全て、私も仕事で足を運んだ所ばかり、ホテル、旅館、ゴルフ場、支店事務所だ。
レストランの調理部にいた前が、恐れるなかれ、私が担当していた湘南地区江の島のホテルだった、そのホテルの名前をここは内緒にさせてください。
そのホテルの敷地の測量、建物解体見積り、それからのホテル建設の図面作成に関口さんとオーナーと打ち合わせをこまかくやった。
そして何年後かの開業時には、裏方の事務屋さんとして頑張っていたなんて、ち~とも知らなかった。
私だって、表立ってお祝いの表舞台には居させてもらった。
彼の故郷は岩手県の雫石で、元居た会社はそこにスキー場を営業していた、雫石スキー場だ。
そんな彼だが、今は弊社の金庫番。
彼の許可なしでは会社の資金を1円たりとも出してくれない。
いつも静か、温厚で仕事に夢中だ。
昼飯にうどんを食いに行った時、医者の指示を受けて禁煙したときの苦しさを話してくれた。
人間ドッグで体が弱っていることが指摘されて、已むに已まれず病院へ行った。
そこで、受けた医師の指示は余りにも激しいものだったこと、薬の影響でゲロゲロ吐いたそうなのだ。
最近の私の昼飯の最たる友人だ。
★弊社が協業していた会社から坂西。
坂西が以前に経営していた工務店に、弊社は建売住宅を一括発注させてもらっていた。
弊社からの発注はそれほど多くはなかったが、坂西は懸命に働いていた。
坂西の会社は、私の住宅の近くだったので、頻繁に顔を出した。
彼の愛用の自動車は日産自動車のスカイラインだった。
それから数年後、坂西の自宅を見ることがあって、坂西の奥さんに近いうちにお邪魔しますので、連絡くださいとお伝えした。
この証(あかし)は誰にもわからないし、話したくない。
それから、坂西との不思議な付き合いが再開され、継続した。
坂西の能力は十分分かり切っていたから、ガミガミゴロゴロ口を出すことはなく、予定通りに進んでいった。
先ず入社したのは協業会社、それから弊社に移動した。
が、今、二人揃って退職するとは、これもまた不思議なことだ、縁だ。
クレームが発生しても、坂西は慎重な言葉遣い、身振り手振りで折衝してくれた。
頼りになる友人だと言えば、怒られるか。
★弊社が協業していた会社から向坪。
弊社が事業資金から仕事の仕組みを共同で行う協業会社は、弊社にとって重要な相手だ。
その会社を向坪が自己の都合で辞めると聞かされた私は、先ず、向坪がお世話になっていた上司、協業会社の社長さん、その人に了解を得ようと電話した。
そしてその人にお会いして了解を得た。
仕事は滅法丁寧で、抜かりなくやってくれる人で、当社では大事なスタッフだったんですよ、大(おお)褒(ほ)めの言葉だった。
人間は何処で働こうがそれは本人の自由ですよ、私がなんじゃかんじゃと言えないものですと返答された。
それから、向坪の入社の準備に入った。
仕事っぷりは、協業さんから聞かされたように、「ものの見事」な人物だ。
協業会社に入る前は、立派にリフォーム会社を自営していた人だったので、前記の「ものの見事」な意味がよくわかった。
今は、スタッフの仕事の管理その他、実に忙しく仕事をこなしてくれている。
現在、向坪は株式会社コーワーカー横浜の社長さんだ。
★浅見、細川
アーバンビルド問題が一悶着(ひともんちゃく)が付き、これからパラディスハウスを中心に頑張っていこうと、再出発のスタートに着いた。
そんな環境のもと、私は中村社長と相談してから、浅見、細川に対して、「今一度我が社に戻ってきてくれないか」と声を掛けた。
両君とは、辻堂だったか茅ケ崎だったか、駅の近くの居酒屋で話し合った。
両君はその場で結論が出ないのは「当たり前だのクラッカー」だった、そうりゃそうだろう、今後のことを考えるには奥さんなんかに相談することこそ大事な筈だ。
そして何週間後、両君と何処かのファミレスで会った。
その時も、最終的な答えはもらえなかったが、二人は何かを考えているようには思えた。
それから、どんな連絡だったのか記憶はないが、やりましょうとと答えてくれた。
それからの両君の頑張りには目を見張るものがあった。
頑張ってくれた。
パラディスハウスの興隆は間違いない、近いうちに復活することを確信した。
★佐藤
浅見、細川が再び弊社に戻ってくれてから3か月か6か月経った頃、私は佐藤のカンバックを考えた。
仕事を真剣に取り組んでくれるその姿勢が気に入っていた。
中村社長にもその旨の了解を取った。
それに、この業界での長年のキャリアは、弊社にとっても捨て難く懸命にカンバックを依頼した。
佐藤も前記の浅見、細川同様、そんなに簡単には私の申し出に応じてくれなかった。
弊社を辞めてから、随分時間をかけた後、仕事をやらせてくださいと返答を受けた。
それからの佐藤の仕事は、生き返った様にピッカピカ、実力を大いに発揮してくれている。
★協力会社の皆さん。
ベストペインター株式会社の濱本 亮社長、有限会社日翔の井上 靖社長、株式会社アースの土田淳一郎社長、三浦みどり税理士事務所の三浦みどり社長。
日々の仕事ではいつも大いにお世話になっています,有難う御座います。
★浜本さんとの付き合いはもう何年になるのだろうか。
浜本さんが独立前に勤めていた会社に私の息子がアルバイトをさせてもらった。
そこで息子に聞いたのですーーー、草太(私の長男)、一体全体、あの会社で一番仕事をやっている人はどの人や? その返答は、あの体のでかい人が一番頑張っているんやときた。
その手の問答では、さほどのことがない限り驚かない私なのに、余りにも思っていたことと事実が違うことに吃驚仰天、驚倒した。
浜本さんは弊社に来社した際、必ず私の机に向かってきてくれた。
あ~、お~い,ただそれだけのご挨拶なのだけれど面と向かって話すことは、なんてことのない話ばかりだけれど、私は嬉しかった。
各種の仕事(クレームも含めて)に精をだしていてくれている、このことについても感謝仕切り。
10年ほど前なのか、奥さんの運転する車で会社に来られたことがある。その美しい人に吃驚こいた!
別嬪さんだった、未だに脳裏に残っている。
浜本さんは弊社の仕事に関しては、すごく早く見積もりを出してくれるのに、「我が家の外壁塗装の見積もりはいつになるんですか、いつやってくれるのですか」と聞いてみた。
気長な私ですからいつまでもお待ちします。
工事日はいつになってもいいのです。
★弊社でひと時リフォーム専門の業者さんを探していた時に、紹介されたのが井上さんだった。
性格が紳士的で仕事は無性に丁寧な人だよ、と言われていた。
会ってみてホンの数分間だったのに、井上さんの人格に惚れてしまった。
私が二宮の物件の庭の草掃除に行った時、奥さんも現場に来てくれた。
ただ、それっきりのお付き合いなのだが、印象深い人だった。
井上さんのお兄さんのことも思い出に残っている。
コロナ禍、井上さんの住居は平塚、弊社では今、日翔さん用の仕事を見つけるのにスタッフは必死だ。
★土田さんの奥さんと私の二女が小学生時代にひどく仲がよくて、その旦那が社長を務めるアースとこんなに仲良く仕事ができるようになったことは、驚天動地、嬉しくてならない。
土田さんちと我が拙宅とは300メートルほどのビタビタ接近、この縁も不思議な気がする、この距離は遠からず近からずの好立地。
身長はさほど高くないのに、やる仕事はキン肉マンだって逃げ隠れするほどの強烈千万。
力の神様が居たとしても、押(お)っ魂(たま)消(げ)るだろう、それほどの鬼コブラ社長なのだ。
その証拠に土田さんの裸体を見せてもらえば、何もかも一目瞭然だ。
丈夫な肩の筋肉、胸の筋肉の高まり。
顔の筋肉は流石(さすが)にしんどそうだが、重たい荷物だってエ・イ・ヤ・コ・ラ・サと持ち上げる。
アースには小柄なスタッフもいるが、今じゃ社長さんにだって十分負けない力強さを感じる。
★三浦みどり税理士事務所の三浦みどり先生。
弊社の経理、財務関連のお世話になってから何年経つのだろう。
私は綺麗な女性との付き合いが少ないからかもしれないが、三浦さんとお会いすると私の秘められた何かが嬉しく騒ぎ出す。
淑女とか綺麗な人、貴婦人だと言えば怒られるかもしれないが、麗しい人であることは間違いない。
この2か月は、三浦さんとお食事をする機会に恵まれ、公私に亘っての食事雑談を楽しんでいる、誰も二人の関係を疑っている奴はいないのかなあ。
私の脳構造も変質してきたようで、今まで手を付けなかった作家の作品も読み出しました、抗論してくださいな。
私の知らなかったみどりさんが、それなりに肖像されたようだ。
私が会社を辞めても、それなりに嫌われないように出社?させてもらう心算なので、どうか三浦先生お付き合い願いたい。
経理・財務以外にも先生からのアドバイスを今後ともお願いします。
高次脳機能障害
今から7年前、私は樹木の上で枝を切る作業をしていて頭から落ちて重症を受けてしまった。
前面の道路に落ちたのだが、頭のどこが道路に直面したのか記憶がない。
2,3日の意識不明のころは、無意識に布団の何かを必死で噛み切ったり、夢中でシートを引きちぎった。
4か月の入院生活でなんとか人並みに喋れるようになり、車椅子を脱却して歩くことだってできるようになった。
そして、退院して自宅に戻りたかった。
それから高次脳機能障害に対するリハビリテーション専用の病院に転院した。
この障害とは、てんかん発作に各種の精神症、記憶力の低下、言葉をうまく発音できない、ものの理解が上手くできない。
治りたい意識が先行し、看護婦さんや医師に対してもいい患者になりたかった。
でも、夜中に聞こえる隣りのベッドのオジさんの話を異常なことを目論んでいるのではないかと思いこんだ。
それを看護婦さんや私の見舞いに来てくれた人びとに話して、山岡さん、あなたは狂っているよ、と「変な一言居士(いちげんこじ)」扱いにされた。
退院後、昼間だって一人で歩くコンクリート階段が怖かった。
夕刻、電信柱の陰に何か不思議なものが潜んでいるのではないか、遠くから見る商店の看板の絵柄が恐ろしいものに見えて近づくのが怖かった。
朝会社に向かって家を出るとき、200メートルのところに30段の上り階段があり、その階段を通り過ぎるまで女房は見張っていてくれた。
私のことをそれほどまでに心配していてくれたのだ。
落下事故後、二つの病院を退院した後、3か月ごとに病院へ行って退院後の調子を見てもらっていた。
そこで、大丈夫ですかと聞かれると、私は「大丈夫なんですけど? 頭が痛いような、痛くないような」と話すと、必ずⅯRI検査をした。
これは強力な磁石でできた筒の中に入り、磁気の力を利用して体の臓器や血管を撮影する検査。
何度も検査をしたが内容は変わらず前回、前々回と変わらないフイルムを見せられた。
医師には薬を飲んで療養しているんですから変わってもいいのではないか?と質問したら、戻ってきた答えは、脳の構造は今後ずうっと変わらないものです、だった。
そうすると、この状態を死ぬまで持続することですかと尋ねたら、そうですね、だった。
それから、私の脳は変則的なまま。
私にとってこの高次脳障害の一番怖いのは、感情が高ぶり冷静さを失うことだ。
女房に話し掛けるにしても、私の答えは一方的になり結論を速めてもらう。
そうこうしていると、違う問題が発生してきてその答えも早く求める。
結果、夫婦の痴話喧嘩になってしまう。
それからこの落下事故とは関係ない筈なのに、大学のサッカー部時代に痛めた腰回りの骨が再度ガタガタになった。
どんなに痛くなっても、資金の関係上お医者さんにはお世話になっていない。
最悪の腰椎椎間板ヘルニアの発生だ。
お尻や足の痛みが激しく、しびれが筋肉の隅々を走った。
腰や足が動かしにくくなり、力が入りにくくなった。
皆と一緒に歩くことが辛(つら)かった。
落下事故とこの腰痛で、気分がほぐれなくなった、辛かった。
この高次脳機能障害と腰痛に併せて寄せてくる頭痛で、弱(よわ)り目(め)に祟(たた)り目、山岡丸は破綻寸前になってしまった。
2年間の素浪人生活と大学の4年間
京都府の貧農の家で生まれて地元の小中学校、京都府立城南高校を終えて2年間の浪人生活の末、早稲田大学のサッカー部に所属した。
誇りとすれば、全国大学サッカー選手権大会と関東大学サッカー選手権大会の2冠に輝いたことだ。
恥ずかしながら、サッカーの技量技才に貧しい私だって、関東大会で2回全国大会で1回出場させてもらった。
早大のサッカー部史上、極めて稀な選手だったようだ。
生家にも電話でその快挙を告げたけれど、嬉しいの一言も言ってくれなかった。
父母も兄も、スポーツについては無関心だった。
高校三年生の秋頃。当時3年生は二人だけで、その友人に「お前、高校卒業したらどうするんや?」と尋ねると、「俺は中京大のスポーツ科学部に入って、サッカーをやるんだ」と答えた。
その返答を聞いて、俺は何も考えてなかったことに、血も骨も疼(うず)くショックを受けた。
それから、私は同じ戦いに突入することになった。
今まで、家族の誰にも大学進学の話をしたことはないのと、勉強だってどの教科にも赤点を受けないだけの貧相な勉強ぶりだった。
就職については、生家の遠い親戚が田舎では大きな茶問屋をやっていて、その会社の大阪支店開設の要員、茶師になることだった。
友人からの返答のあと、2年間かけて勉強をすることを決意した。
どうせ大学に入るなら、サッカーに関して日本一の学校は早稲田、他にも法政、明治、中央を受けた。
「ワセダ ザ ファースト」(早稲田は常にチャンピオンであらねば)
旧合宿所には、このフレーズが壁や天井、床などそこらじゅうに書き込まれていた、当然書き手の姓名も併せて。
早稲田大学にどうしても入りたいと思う気持ちは高まり、心臓までもがブルブル、ドクンドクンと鳴りはじめた。
受験した学校はどれも合格した。
主目的なのがサッカーをやることだったから、勉強だってより深くより広くやることはない、過去の入試問題集を知るだけで大いに理解できた。
受験勉強の方法は簡単に見え透いた。
ここで脳の中心の鍵となるのは、当時旺文社が纏めていた「基礎力水準法」だった。
この法則に則って英語、国語、日本史をやる。
英語は赤尾好夫の「豆単シリーズ」の基本単語集、基本熟語集、書き換え特集だけをやる、そして70点以上を確保。
国語はあれもこれもやらないで、唯、新聞を隅から隅まで読み、書き、読解することを徹底的にやって、試験では70点を確保。
そして日本史については、どんな問題が出ようがどんなことをしても90点以上、95点を確保すること。
そうすれば、希望している学校ならばパスすることは解っていた。
焦ることはない、2年間でやりきればいいのだ。
受かったとしても、4年間の生活費と学校に納めなくてはならない授業料はどれくらい確保しておかなくてはならないのか、ぴったりした数字は解らない。
何故、そこまで気持ちを高ぶらせているのかと言えば、この費用の全てを自分がこの2年間の浪人生活のアルバイトで稼ぎたいからだ。
親のお世話にならないで、自らお金を貯めるのだ。
その結果380万円なのか480万円なのか手に持つことができ、農業協同組合の貯金にして母に任せた。
浪人生活の2年間の、1年目2年目は半年はドカタ稼業、半年は受験勉強。
関西電力の彦根の山を越える鉄塔建設の基礎工事がメインだった。
浪人生と言えども頂く賃金は大人の90%程度、そんなとんでもないことを友人らには話せなかった。
大学へ入学後、そのお金から私が連絡する毎に、母が送金してくれた。
その送金の作業をしてくれたのは郵便局の小中学校同級生のHさんだった。
母に任せたお金には当然のように限界があるので、送ってもらうお金はギリギリの限少にしたので、私の生活は嫌になるほど貧困だった。
自作自演だ。
それでも、学生仲間はよくぞ気持ちよく付き合ってくれたものだと感謝している。
私の生活費から授業料のことを仲間に、これほど細かく話したことはなく、皆も知ってか知らずかよくぞ付き合ってくれた。
数多(あまた)の先輩、後輩と同輩、監督、コーチに感謝、感謝の大乱舞。
練習は絶対休まなかった。
学校へは行かない、そんな時間があったら何でもいいから自分一人でできる練習をやった。
レギュラータイムの練習が始まる前の1時間は近所の中華料理屋さんでアルバイト、練習が終わったころにやってくる早稲田実業の練習にも参加、その練習が終わっても私は一人グラウンドに残ってヘッディング、ランニング。
練習休みの月曜日には走りまわった、吉祥寺、三鷹、武蔵境、国立、上石神井、井の頭公園、石神井公園、善福寺公園、武蔵関公園、多摩湖までだ。
3年生の夏休み、新宿駅から数分のところで京王プラザホテル新築工事の窓側のコンクリートの枠組みを作った。
これも、何人もいた大学生のなかでトップクラスの日給をいただいた。
昭和45年11月25日、作家・三島由紀夫が盾の会を率いて、憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけ、自らは割腹自殺した三島事件の報道を観ながら、ダンボール会社でアルバイトをしていた。
そうして、縁あって西武鉄道の基幹会社である国土計画(株)に入社し、同期生と違って私だけは国土計画、プリンスホテル、西武鉄道、伊豆箱根鉄道、近江観光の慣れない宣伝部の企画を担当をさせてもらった。
そんなお勤めが10年間。
その業務のなかで和田さんとも付き合うことができ、その後色んなお世話になることとなった。
33歳頃、そんな手慣れない仕事に邁進していた矢先、隙間風が吹いたのだ。
午前中に吹いた隙間風の勢いは、午後に直属の部長に退社願を提出していた。
余りの急転直下の激しさに、女房も空いた口が塞がらない状態だった。
そんなことに、私はメソメソする男ではなく、たまにはこんな自由自在奔放な時間を過ごせるのは、棚から牡丹餅の心境だと思った。
そして西武系会社からの退社、アーバンホームズの設立になった。
私が33歳の頃だと思われるので約40年前のことだろう。
その後の仕事については何も此の書にて公に話すことはない。
アーバンビルドの破産を何とか乗り越える努力は、中村社長をはじめ皆さんの努力が実を結ぼうとしている。
破産はしたけれど、どこまでもやれるだけやりたいと歯を喰いしばってくれた中村社長。
驚くことなかれ、今、立派な会社に様変わりした。
ここで学ぶことがある。
親が子供に、または友人同士で、彼奴(あいつ)は彼奴よりも頭がいいとか悪いとか、そんないい加減なことを放吟しないで欲し。
そんな余計なことを、貴方はどうして判断できるのですか、そんなことはできないし、してはいけないのです。
そんなことを素浪人の2年間、大学での4年間のサッカー部生活で学び取った。
30年ほど前に、自宅の所属する権太坂自治会の子供を集めてのサッカー教室をさせてもらった。
スポーツの世界こそ、父兄は子供たちのプレーに対して褒めることはいいが、貧しいプレーに対して批判ぽく声援することは避けるべきだ。
才能の瘤をぶっちぎるばかりか、才能の芽の吹き出しを刻みこむことだってあるんだ。
誰がどのような選手になるなんて、分かりっこないのだ。
誰もが文句の付けようがない思わぬ天才! 飛び出し鬼才! を生みたかった。
★金融会社と弊社のお付き合い
弊社は以前からたくさんの地元の金融機関から随分お世話になってきた。
都市銀行、地方銀行、信用金庫、ノンバンク合わせて15ほどの金融機関から何らかの融資をお願いしている。
金利や手数料に関して多少の違いはあるが、そのどこの金融機関も弊社に対する評価は高く、感謝感激のお付き合いができている。
この項目で書きたいことは、ある二つの金融機関とのことだ。
一つはセゾングループの1社と、もう一つは映画の製作・配給などもやっている会社のことだ。
この二つの会社は、どちらかと言うと西武百貨店の系統、私も国土計画、西武不動産に10年勤続したものだから、あっちこっちに知り合いがいて、コミュニケーションは抜群だった。
両社とも言えることだが、両社とも建売会社への融資専門だったのが、弊社のような中古住宅の転売事業会社への融資もやりだしたことだ。
新しくスタートした会社などは、担当者の人だって今までとは違う仕事を会社の都合で担おうというわけだから、そのことに対する蟠(わだかま)りは大きかったと思われる。
役員さんが矢面にたって相談の窓口になられた。
当時社長だった私と、今の中村社長と二人して、事業の流れ、仕事の流れを説明して、金融機関としての誤り易いチェック箇所と、現物の市場での評価などをゆ~ら~り、ゆ~ら~りと影日向なくお話しした。
それが陽に影響して、金融機関にも喜んでいただけるようになった。
そのように陽に影響してくると、次に互いに注目するのが、1年、半期の予算達成の重荷だ。
これも遺憾なく達成した暁には、2年後3年後4年後の予算と予算達成の目標だ。
弊社のような小さい会社なら、その予算達成は目(ま)の当たりで理解できるが、融資銀行のような大きな会社ならば、会社全体の予算があって、与えられた部分での予算達成、我々には判らないことが色々あるだろう。そのように融資してくれた会社と20年、30年と付き合うと、そこには他人には言えぬ不思議な同一(統一)感が生まれ、新しい仕事も生まれるものですね。
●早稲田大学ラグビー蹴球部 最強のプロセス
著・現監督 相良南海夫(さがら なみお)
孫の一人が早稲田実業高校ラグビー部に今春入部した。
彼は、入部間なしなので出場はできなかった。
11月8日、秩父宮ラグビー場にて、国学院久我山に30-7で倒し、2年ぶり7度目の花園出場権を得た。
そして、私には前の本が手に入った。
その本の内容は以下の通り。
本当に強い組織は個人を成長させる。
まず学生たちに答えを出させる。
私はコーチ陣に指導方針を示した。
答えを我々が出さない。
私が望む主体性を育むためには、これまで通りコーチたちが答えを出して、「これをやれ」と言うのはよくない。
自分たちで答えを導き出す。
「君たちはどうしたいの? 好きにやったら」。
そこをスタート地点にした。
うまくいかなければコーチに相談する。
コーチはヒントを与える。
そこでまた考える。
コーチが答えを提示して、やらせてしまう方が楽だが、それでは選手たちの主体性が育たない。
それがないと、ラグビーが上手にならないということだ。
もっと重要なことは、彼らの人間としての成長もない。
私は「こうしろ」と断定口調は使わない。
学生たちに考えてもらいたいからにほかならない。
このようにして、混迷した組織を立て直し、11年ぶりの日本一奪還をなしえた。