2007年4月16日月曜日

アーバンビルド ホテル物語(その1)

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アーバンビルド ホテル物語(その1)


 「何故、御社がホテルなのですか?」 とこの頃よく聞かれるので、なんで、こんなことになっちゃったのかを、土地の取得の経緯から振り返って、文章を綴ってみたいと思った。
第1部
ことの発端は、弊社が町田市下小山田で8区画の土地分譲を行ったのですが、この土地情報を提供していただいたのが、不動産屋・金丸さんというオジサンで、どういうわけか小見取締役と異常(注意、非常にじゃないのですよ,異常なのです)に仲良くなってしまったのです。それはそれは、可笑しいほど親密で、熱い交流は百万ボルトの火花が炸裂するほどの過激さ。同時期に併行して、別の大型の開発現場のこともあったから、尚更だった。
金丸さんは、町田市下小山田の現場では、どうしても自分の友人でもある工務店・家建を少なくとも2棟は使ってやって欲しいと申し出があった。予算と仕様、精度が弊社基準に達してさえいればいいですよ、と了承した。
それからは、小見取締役と不動産・金丸さん、工務店・家建さんの三つ巴の交流になった。その三者の愛情ドロ沼状態の中から、この「ホテル用地」が産声を挙げたのです。
工務店・家建さんが以前に住宅を建てたお客さんが、所有している土地を、処分したいので相談にのってくださいと言われているんです、ということだった。その土地が、まさしく我々の「ホテル用地」になったのです。
その土地は、丁度北里大学病院の真っ正面にあって、交通量の非常に多い県道に面している。小見取締役と私は、具体的には何用の土地か?ずばっと言い切れないが、何かの可能性は秘めていると直感した。いこう、買おう、大丈夫だよ、やるしかない、ということになった。
購入資金は、とりあえず1棟売りの賃貸用マンションを建てて売却するという事業計画で、融資を受けた。買ってしまえば、なんとかなる、と堅く信じていた。
ところが、不安はなかったけれども、なかなか確固たる企画が立たないもどかしさは付き纏った。
そうこうしているうちに、数ヶ月が過ぎた。
現場には、「アーバンビルド管理地」の看板を出した。
時の経過と共に、小見取締役と私は、知らず知らずのうちに、誰でもいいから、早く買い手がついてくれたら、と思い始めてきた。
ここに、騎士・伊藤資郎さんの登場です。
その土地は、ホテルに向いているのではないだろうか?と提案してきたのだ。我々は、その提案を聞かされた時、そりゃなんのこっちゃ、と理解できなかった。
私は、神奈川県不動産のれん会の会員のワタヤ商事・加藤社長さんにも、こんな話があるんだけれども、と何気に漏らした。加藤さんは、相模原・町田をホームグラウンドに活躍している不動産屋さんだ。伊藤さんの提案を第三者にも確かめたかったのです。加藤社長は、その話は割りと当を得てるよ、面白い、俺にも親しいビジネスホテルをやっている会社の専務さんがいるので、その土地のことを話してもいいですか、ときた。そうしたら加藤社長の方に、びっびび、と感度を示してきたのが、あの有名なビジネスホテルの雄、西京インだった。ビジネスホテル業界では、文句なくチャンピオン会社だ。日本全国の駅前を中心に展開してきたのだが、土地代金の高騰、駅前開発の活況で出店が減速してきており、この現場を郊外進出の一発目にしよう、と専務さんは頑張って、社長を説得するという段階まで進んだ。
かたや、伊藤さんの方の話もどんどん進んでいる、という報告がある。
伊藤さんの方の話というのが、我々のホテル事業部を本格的に稼動するきっかけになった、ホテル1.2.3である。
ビジネスホテル、ロードサイドのホテル、などの宿泊特化ホテルは、色んな会社が、様々な形態で展開を急拡大させているのには、正直驚かされた。
そうこうしているうちに、西京インの建物が、あっちこっちで建築基準法違反、耐震強度不足が発覚して、当の社長さんが記者会見で馬鹿な発言をした。その発言に端を発し、西京インの経営理念と、社長さんの経営者としての人間性が、世間から強烈な批判を受けた。
西京インの社内は大混乱に陥った、よって、西京イン北里大学病院前は頓挫した。
伊藤さんの方のホテル1.2.3は,順調に企画が進んでいった。
このように、アーバンビルドのホテル事業はスタートした、ということです。
ここで、騎士・伊藤資郎さんの紹介をしておこう。
伊藤さんも、小見さんと私が学校を卒業して入った会社の同期入社の仲間です。“その会社”では、小見さんは本社での企画畑、私は前半は不動産部門の前線部隊、後半はホテルやレジャー施設の宣伝部・企画課、伊藤さんは上信越、箱根、伊豆地区のホテルのオープン屋として、大いに腕を振るった。
やがて、三人とも“その会社”を辞めた。辞めた時期はそれぞれ違ったが、波動が合う者同士なのか、人生観が似ているのか、ただの飲ん兵衛同士だったのかも知れないのですが、何か事あるごとに連絡し合う仲になっていた。この仲間には、あと2,3人、変な奴がいるのですが、今ここでは割愛させていただく。
“その会社”を辞めてからは、私はすっかり不動産屋さんになり、小見さんは不動産屋をやったり、健康食品のテレビ・コマーシャルづくりをやっていたのですが、尊い縁がありまして、我が社に入社してくれたのです。
伊藤さんは、“その会社“の伊豆の名門ホテルの支配人をしていたのですが、辞めてもらって、当時アーバンビルドの親会社が湘南海岸、江ノ島の近くで進めていたホテル(湘南ホテル)の支配人になってもらった。
「もらった」と記したのは、ホテルの企画は日を追って進んでいたのですが、現場を運営する責任者になってくれる人が見つからなくて、苦労していた。そこで、私、オーナー、青島さん(彼のことは、後で触れるとします)で、伊藤さんの勤務地の伊豆まで、”その会社”を辞めて、我々が計画しているホテルに来てくれないか、と誘いに行った。
時を同じくして、伊藤さんは、まさしくその同時期に、”その会社“の兄弟会社が、横浜みなとみらい地域で進めていた本格的大型ホテルの人材募集に応じようとしていた。これには、奇しくも小見さんが中に入って労をとっていた。
私は、「資郎さん、もう、でっかい会社のでっかいホテルは、もう懲り懲りやろう。ちっちゃくて可愛いい、プチホテルの方がええやろう」と説得を試みた。
結果的には、私たちの説得工作が功を奏し、伊藤さんは我々が企画して立ち上げた湘南ホテルの取締役支配人に就任してくれた。
湘南ホテルは、最終的には不幸にも、オーナーが経営を断念することに決めた。ホテルは解体され、跡地はマンションの敷地になった。それからの伊藤さんは、ホテル経営のコンサルティングやレストランの運営を受託、今までのキャリアを活かして頑張っていた。ホテルの運営形態や、運営会社の推移、経営環境の動向、利用者側からの視点、を常にチェックしていた。
そんな伊藤資郎さんなのであります。
北里大学病院のこと
北里大学には、大学と大学院、北里大学保健衛生専門学院。北里大学病院と北里大学東病院、北里生命科学研究所。83の各学会に指定された療養施設は、日本の病院では屈指。北里大学の全学部新入生の1年目は全員相模キャンパスで学ぶ。
隣には、国立病院機構=相模原病院がある。


麻溝台工業団地のこと
相模原市の工業の地位は、県内では、横浜市、川崎市に次ぐ規模を誇り、全国でも有数な内陸工業集積都市としての性格を有している。相模原市内に本社をもつ企業で、株式上場企業は7社、東証第二部が1社、ジャスダックが3社となっている。
麻溝台工業団地には、日産自動車(株)相模原部品センター、カヤバ工業(株)相模原工場、ニコン(株)その他有力な企業が多数ある。
私は、このホテル事業としてのプロジェクト融資を中小企業金融公庫に申込に行った。このプロジェクトが如何に優秀な企画であるかを、私は、窓口の担当者に熱弁を揮った。
公庫に着くまでに、私は、何を聞かれても答えられるように市場調査結果や、我が社の財務事情を克明に精査したことを、頭に叩き込んでおいた。
気合は満々だった。
北里大学病院の特徴、周辺ホテルの稼働率の高いことも、併せて一所懸命にうったえた。
聞き役の公庫の担当者は、私が必死に喋ることに、ことごとくうなずいてくれた。この人、本当に分かっているのかな、と疑いながら、油断大敵、自分自身に負けちゃいかんと励ましながら、このプロジェクトの良さを、真剣にうったえ続けた。
相手は、うなずいた。
相手は、にっこり笑った。
相手は、私の目を見て言葉を発した。
「そうなんですよ、この病院には患者さんが全国から送られてくるんですよ、色んな所から、色んな病気の人が来ていますよ」
ええ、なんで? なんで?
相手は、なんでそんなことを、知っているのだろう?
「実はね、私が広島に勤務中、胃ガンになって、この病院で手術をしたことがあるのです。命拾いをしましたわ。その病院に、大変お世話になったのです」、と仰るではないか。
「私の家族も、あの*ホテルに泊まりました。あそこしかないんですよ」
*ホテルとは、弊社が起工式をした場所から、100メートル程のところにあるホテルのことです。建物は随分古いのですが、よく頑張っていて、稼働率が高いのです。
そいう経験が、相手さんにはあったのです。
私の話すことに、ことごとくうなずいてくれた理由がはっきりした。
私は、このホテル計画が事業として優良であると確信した。が、中小企業金融公庫では、一社に融資できる限度額が4億5千万円までなので、どこかの金融機関と協調融資でないと無理ですね、との正式回答だった。
横浜を中心に活動しているY銀行から、全額を融資しましょうと、通知を受けたのは、協調融資の相手先を求めて苦労している時だったので、Y銀行からの融資承認は嬉しかった。担当部長さんには、電話で、涙ながらに感謝の気持ちを伝えた。
建築物の全体計画から詳細な部分までは、従来ホテル1.2.3でやってきた関係者でどんどん進められている。


第2部
泉川設計士と、マンションのプランの打ち合わせを終えて、お茶を飲んで寛いでいた。
一息入れてから、彼が「アーバンさん、沖縄で、マンションやらない?」ときた。
東証1部に上場しているアジア舗道が、買い付け書を出していて、売主さんが売り渡し書をだしているのですが、何か障害があったらしくて、うまく進んでないらしいのです。テナントや居住中の借家人の明け渡しは、私の父方の従兄と母方の従兄がやっているのです。ほぼ全員の了解が取れているようですよ。
私は、「沖縄じゃ、どこもお金を貸してくれないよ、無理だよ」と一刀両断に却下。
が、小見さんは、もともとしぶとい男で「場所は、どこだ?」と食らいついた。彼の事務所からファックスされてきた地図を見て、小見さんは電光石火の如く叫んだ。「こりゃ、マンションじゃねえよ、ホテルだよ」と。
地図には当該場所をサインペンで印をつけてある、その隣がホテルではないか。早速伊藤さんに携帯で電話した。「その辺は、ホテルとして十分通用するエリアだよ、ホテルがいっぱいあるところだ」
伊藤さんも、また直ぐにホテル1.2.3の麦畑さんに電話をしたら、「隣のホテルは、今はホテル シティコートといっているが、以前はホテル ホリディ インだったのです。その土地はよくわかりますよ、ホテルはばっちグウーです。 やりまひょ、大丈夫ですよ」との返答だった。
早速、契約を締結した。3月30日、残金の支払いをして、物件の引渡しを受けた。
今(2007年4月13日)建築計画進行中です。


今回の沖縄での仕事については、泉川さんの二人の従兄さんが、重要な役割を担っていただいた。地元の人たちには、東京あたりからやって来て、ああだ、こうだと引っ掻き回されちゃ堪んないわ、と思われたくなかった。付き合いの初めには、どうしても戸惑いがあるのは、何も沖縄だけではないけれども、やはり沖縄は小さな島だ。永く島だけで暮らしてきた人が、島以外の人に会って、直ぐには和やかにはなれないものです。
最初に、泉川さんが二人の従兄さんに、アーバンビルドという会社が、沖縄に交渉に行くことを告げた。従兄さんたちは、アーバンビルドのブログを読んで、この人たちの会社なら安心ですよ、と売主に伝えてくれたそうだ。
小見取締役が売主さんに最初に会った時、もう随分以前からの知り合いのように話しかけて頂いたそうだ。このとき、小見取締役は、この地での、ホテルビジネスの成功を確信した。


沖縄では、みんなよく酒を飲む。古式豊かな、地鎮祭『起工式)にしたい。(その2)は少し待ってください。