沖縄集団自決問題9月29日の沖縄県民大会
安倍首相が退任した。そのお陰で、「戦後レジームからの脱却」だとか、何とか言っちゃって、イヤに威勢がよかった一派『私はこのグループのことを日本の悪霊と言っているのです』が、ちょっと沈静してきた。確かに、戦後レジームからの脱却をしなければならないことは、山程ある。やらなくてはならない喫緊の問題がある。足元を揺らがしている火急の問題があるでしょ。そんなことには目を瞑って、この悪霊たちは、憲法改悪を進めようとしていた。教育基本法を何十年ぶりかに改正したことの評価を受けたがっていた。残念、全然、なんとも感じなかった。従軍慰安婦問題では、軍は直接関与していない、それを証明するものが見つからなかった、と結論づけた。結果、中国、韓国をはじめアジアの隣国から、強い非難を受けた。そして、今回、沖縄で集団自決問題で、沖縄は怒っている。私の友人は、狂ったように怒っている。沖縄を馬鹿にするな!!朝日新聞の記事を参考(引用も含めて)に記述しました。集団自決には、軍の「強制」を示す資料が見つからなかったとして、教科書から「軍の強制」を示す記述が検定で削除された。沖縄では、集団自決に軍が関与したというのは常識中の常識だ。教科書の執筆者らは「集団自決はすべて日本軍に強いられた」と言っているのではない。そうした事例もある、と書いたにすぎない。それなのに、日本軍のかかわりを全て消してしまうのは、あまりにも乱暴という他ない、と朝日新聞の社説でも主張している。そして、沖縄では検定意見の撤回を求める沖縄県民大会が開かれた。この教科書検定で「集団自決強制」削除された問題で、検定意見の撤回を求める超党派の沖縄県民大会が9月29日宜野湾市の海浜公園で開かれた。参加者は11万人が参加した。主催側の予想の倍以上が集まった背景には、「戦争」や「基地」にかかわる重いが、なお「本土」との隔たっていることへのいらだちが、根強いのだろう。この事態を重く見た福田首相は、次のようにコメントした。安倍首相なら、どんなコメントを発しただろうか、そしてどのように沖縄に応えようとしただろうか。決して福田首相をヨイコラショと持ち上げているわけではありません。安部の敵前逃亡を喜んでいるのです。安倍は、こういうことになるのではと、薄々感じていたのかもしれない。福田首相のコメント☆ (衆参両院の代表質問で、沖縄戦で日本軍が住民に集団自決を強制したとの記述が教科書検定で削除された問題で、検定意見は)軍の関与を否定するものではない。☆ 06年度の教科書検定は、沖縄の集団自決に関する記述について軍の関与を否定するものではなく、集団自決された沖縄住民のすべてに対して自決の軍命令が下されたか否かを断定できない、という考えに基づいてなされたと承知している。☆ 沖縄県民の思いを重く受け止め、文部科学省でしっかりと検討している。(教科書会社から訂正申請があった場合には)☆ 真摯に対応する。☆沖縄戦は住民を巻き込んだ悲惨な戦いであり、これからも学校教育においてしっかり教えていかなければならない(と強調した)教科書検定を「透明に」検定審議会は現在。中立・公正を保つために、原則非公開。総会は議事要旨のみが事後的に公開されているが、具体的な審議をする部会や小委員会は開催日時を含めて、明らかにされていない。渡海文部科学省のコメント☆ 非公開でする部分はちゃんと説明し、それ以外の部分については基本は公開でおこなうということが、様々な疑義が生じないことで大事だ。☆ (ただ)途中段階で議論はこうなっているということになると、委員が自由にものが言える環境にならないかもしれない(全面公開は難しいとした)。発端の訴訟 11月に山場検定意見が付く発端となったのは、座間見島の第1戦隊長だった梅沢裕さん(90)と渡嘉敷島で第3戦隊長だった故・赤松嘉次さんの弟秀一さん(74)が、岩波新書「沖縄ノート」(70年)の著者で作家の大江健三郎さんと岩波書店に出版差し止めなどを求めた訴訟だ。11月9日、大江さんの証人尋問が大阪地裁であり、山場を迎える。「生存者らが戦後、遺族年金を得るために軍の命令だったと証言したのが真相だ」と主張する原告側に対し、大江さん側は、地元の資料などから、「軍の命令はあった」と反論してきた。2007 10 3朝日朝刊 天声人語ざわざわ ざわわ~と繰り返す「さとうきび畑」は、好きな曲だ。沖縄の悲しみを、情感を込めて歌う。だが、以前から少し気になっていたところがある。〈むかし 海の向こうから いくさがやってきた〉のくだりである。戦争は、海に生まれた台風ではない。「鉄の暴風」と言われる沖縄戦の悲劇は、自然の営みではなく人間のおろかな営みの果てに起きた。「いくさがやってきた」が呼び起こすイメージは、美しすぎはしないか。やって来たのは、武器を携えた「日米の軍隊」だったのだから。日本軍は住民を避難させず、戦いにも駆り出した。軍民混在の戦場は、「ありったけの地獄を集めた」(米軍報告書)と形容された惨状を生む。集団死(自決)も各地で起きた。軍の強制があったことは沖縄では常識である。その記述が教科書から消されることに、沖縄は怒った。抗議の県民大会は11万人でうねった。「分厚い教科書の中のたた一文、たった一言かもしれない。しかし、その中には失われた多くの尊い命があります」。高校生、照屋奈津美さんの訴えが胸を突く。大学に進んで、日本史の教師になりたいという。醜くても真実を教科書にとどめ、沖縄の痛みを共有してほしい。そんな願いを込めた、本土への呼びかけでもあっただろう。ざわわ~は、詩と旋律が深い悲しみをたたえ、それゆえに人を癒す不思議な歌だ。その癒しの花が、「ありったけの地獄」に根ざしていることは、知っておきたい。島の悲しみが、容易には消えないことも。
FIFA女子ワールドカップ中国2007、9月17日にグループステージ第3戦でドイツと戦って負けた。このときのなでしこジャパンのチームがとった行動が、翌日の新聞のスポーツ欄に出ていた。切り抜いて、後日、ブログで私が感動したことを書こうと思っていたら、流石、朝日新聞がそのことを、社説で取り上げてくれた。私の拙い文章よりも、洗練された文章を堪能して欲しい。これが、私の最近の涙物語、その③です。2007 9 30 朝日新聞 朝刊(社説)日中35年 「なでしこ」の精神で中国・杭州で行われた女子サッカーのワールドカップで、日本代表チーム「なでしこジャパン」は観客のブーイングを浴び続けた。相手のドイツには声援と拍手が沸き起こる。04年のサッカーアジア杯を思い出させる光景のなかで、なでしこは善戦むなしく敗れた。だがここから意外なことが起こる。なでしこは試合後、「ARIGATO 謝謝 CHINA」と書いた横断幕を広げて、並んでお辞儀をした。淡々とホスト国に感謝を伝えたのだ。すると、このことが中国国内で反省の声を呼び起こした。「彼女たちは感情を乗り越える勇気をもったが、我々は以前のままだ」と、中国紙は論評を載せた。フェアプレー精神をしっかりと受け止めたところに、中国側の変化もうかがえる。日中がどう向き合うべきか。なでしこジャパンの一件は大きなヒントを与えてくれたと思う。日中両国が戦争からの不正常な状態を終わらせ、国交を回復させてから35周年を迎えた。祝賀の日に合わせ、それぞれ市街地に近い東京・羽田空港と上海・虹橋空港を結ぶ第一便が飛んだ。日中の距離がまた縮まった。35年間に両国の経済は強く結びつき、貿易額は日米間を超えた。だが、国民感情は悪化の一途をたどってきた。日本政府の世論調査では、80年には79%が中国に親しみを感じていたが、昨年は34%だった、89年の天安門事件や05年の反日デモなどの影響が大きいようだ。わだかまりを和らげ、相互理解を深めることが実に難しいことを改めて思い知る。国民感情が悪いままだと、信頼は生まれず、猜疑心ばかりが先行する。それは2国間だけではなく、アジアや世界にとってもマイナスであり、改善の努力を重ねなければならない。まず、政治にしっかりしてもらわなければならない。日中の政治体制は違うし、経済の利害もぶつかる。東シナ海のガス田問題も一例だろう。国益がぶつかったときに、話し合いによって冷静に解決することこそ政治の役割だ。その土台は揺るがしてはならない。靖国神社の参拝にこだわった小泉元首相の時代に日中関係は大きく傷ついた。だが、安倍前首相の訪中をきっかけに、関係は上向いた。アジア重視を唱える福田首相の登場で、さらあなる関係発展への期待が双方から出ている。目の前のミャンマー(ビルマ)問題は日中協力の試金石でもある。ミャンマー軍事政権と最も近い関係にある中国が平和的解決に全力を挙げるのは当然だ。日本も軍事政権に対し、弾圧の停止と民主化を強く説得しなければならない。アジアの大国の日中が同時に厳しい姿勢を示すことに意味がある。日中の連携で、地域に平和と発展をもたらす実績を積み上げていくことが、両国の信頼関係を育てることにもなる。そんな時代のページを開きたい。
2007 10 1 朝日朝刊 スポーツ古田の涙ファンに見せた悔しさ「知・理」の男、あふれた「情」
彼の涙を見るのは2度目である。04年、9月18日の午前1時前だった。ヤクルトの古田敦也は、民放のスポーツ番組に出演していた。前日の午後9時、労組日本プロ野球選手会は、プロ野球史上初めてのストライキに入ることを決めていた。「近鉄・オリックスの統合を1年間凍結して欲しい」という案をプロ野球機構側はのまなかった。選手会長の古田はストライキを打つ理由と心境を、番組で冷静に説明していた。アナウンサーがファンからの激励のファックスを読み上げ始めた時だった。古田の唇が震え始めた。眼鏡をはずした。やがて嗚咽がもれた。号泣に近い泣き方になった。「ストライキをしてファンに迷惑をかけている。それなのに応援していただいて」。切れ切れに言った。けっして計算したわけではない。しかし、この涙は選手会にとってフォローの風になった。世論はストライキを支持した。それから3年がたった。9月19日、古田は東京で退団と引退を発表する記者会見を行った。「プロですから、結果を問われるのは当然。ファンを失望させた。ケジメをつけたい」。落ち着いた空気で会見は始まった。しかし、会見途中で雰囲気が変わった。選手に伝えたいことは?という質問に1分半近くだまりこんだ。続いたファンも惜しんでいるが、という問いには、もう答えられない。「あかんわ。すみません」と言ってから2分間言葉が出ない。涙が次から次からあふれ出てくる。ハンカチで目を覆った。「感謝の気持ちでいっぱいです。ここまでよく応援してもらいました」普段、涙と無縁の男である。一流のアスリートだけが持つ冷静な自己分析力を持つ選手、監督だった。「野球でピンチになった時もおうですが、ストライキを打った時も同じでした」と彼は話したことがある。「もう一人の古田がね、肩の後ろあたりから見てるんですわ。追い詰められていても、もう一人の古田が追い詰められている自分を冷静に見ている。パニックになることはないですね」「もう一人の自分が冷静に見ている」という感覚はイチローや松井秀喜、スピードスケートの清水宏保らからも聞いたことがある。優れた選手になるための必要条件に違いない。だからこそ、大学、社会人出身で2千本安打を達成し、93、97年にはMVPを獲得、ベストナイン9度、チームを5度の優勝に導くことができたのだろう。そんな彼の涙の裏側には何が隠されてるのだろう。今回の退団会見で涙の意味を聞かれて、こう答えた。「寂しさというよりは悔しさですかね」。選手の補強などをめぐって球団との確執もあったのだろう。ストライキの時も、激励のファックスを読み上げられて、悔しさがこみあげてきたに違いない。それでも、いつもは悔しさなどのみ込んで顔に出さないことができる男だ。何が彼を号泣させたのか。キーワードは「ファン」だ。古田は常にファンに向けて野球に取り組んできた。ストライキの時もすだった。「あの時も、近鉄のファンの人たちが直接僕を訪ねてきてくれて、心を動かされた」と古田は振り返っていた。今回の記者会見でもファンへの気持ちを問われて、長い沈黙と涙につながった。チームの成績の低迷でファンを満足させられなかったという思いがあふれたのだろう。彼は「知」と「理」の男である。例えば95年の日本シリーズでイチローを徹底的に分析して完全な配球で抑え込んだシーンを鮮明に覚えている。野村克也監督の教えもあるが、彼が培ってきた野球人生のなかで得た「知」と「理」は日本のプロ野球を代表する財産となっていた。が、「ファン」という言葉を耳にすると、それまで古田の中に隠れていた「情」が姿を見せる。感情が揺れる。涙がこぼれる。大人が人前で涙を見せることに賛否はあるかもしれない。しかし、僕は「知、情、理」の男である古田の、彼らしい記者会見だった、別れの告げ方だったと思う。
現在、弊社では伊勢原桜台でマンションの分譲をおこなっているのです。伊勢原桜台ツインテラスのことです。そのデリ・ちらのために伊勢原に向かっていた。販売活動のちらし配りのことを、弊社ではデリ・ちらと呼んでいるのです。ちょっと卑猥な語感でしょ。こんな造語遊びも、弊社のオリジナリティです。可笑しい、面白い会社でありたいと、いつも思っています。私は、急いでいた。約束の時間が9:00に迫っていた。現地には、弊社のスタッフが待っている。日頃、スタッフには、約束の時間に遅れるのはビジネスマンとしては、最低だと言っているのですから。高速道路に入って、何気なくCDをかけた。誰のCDでもかまわなかった、だから、無作為に、無動作に。長距離運転の時のために、何枚かのCDがラックに入れてあるのです。すると、突然、たまたま、全く予想しなかった尾崎 豊の曲がスピーカーから流れた。誰の何の曲でもかまわなかったのに、でも、なんぜ、尾崎 豊なんだ。1曲目は、「アイ ラブ ユー」だった。それから、?。そして「卒業」だ。私の胸がきゅうんと詰まってきた。なんだ、なんだ、どうしたんだ。これあ、尾崎め、尾崎の野郎!!。そして、「15の夜」だ。盗んだバイクで走り出す~、行き先を決めぬまま~、夜のとばりを~、とか、なんとか。「十七歳の地図」 一時も気を抜かずにひたすら自分を愛してくれというメッセージを、時にはストレートに、時には逆説的に熱く激しく放ち、最後には命を代償にしてまで友人たちの気を引こうとした。「僕は、生きているから苦しいんだ。この醜さや切なさをなんとかしてくれ」と、全身でもがいて、叫ぶ尾崎。「あなたも生きている限り、僕の問題はあなたの問題だ。逃がしませんよ。一緒に苦しんでもらいますよ」。それあ、解っているよ、尾崎君。私だって、君と同じ悩み、苦しみを体験しながら、今までやってきたんだ。だからって、死ぬことはネェだろう。尾崎は、俺の愛を解ってくれ、と絶叫している。俺を愛してくれ、と熱狂している。そして、確かめたい!! 信じたい!!と。尾崎の父は、尺八の師匠だったと聞いている。メロディーなのか、歌詞なのか、歌い方なのか、日本人の心の琴線に触れる手法を、子供の頃に身につけたのだろう。私の小さなな胸が熱くなる。まいったなあ。目蓋の裏も熱くなってきて、目がうるむ。目尻に涙が滲んできて、頬を伝う。鼻がつまる。顔がゆがむ。 山岡さん、カッコウ悪いぜ。以前、最後に尾崎を聴いたのはいつ日のことだったろうか。多分、5~6年前には、聴いたことがあったなあ。私の持っているCDは、せいぜい15枚程度なのに、ながいこと聴いたことがなかった。多分5年程前に買ったものなのだろう。その時には夢中に聴いた。それから、しばらくたって、遠ざかってしまっていた。車内は私、一人っきりだ。誰にも、見られていない。タオルで涙を拭いた。尾崎 豊は今から約15年前、東京都足立区千住河原町の民家の庭で全裸の泥酔状態で発見された。家主が警察に連絡、その後病院で診察を受けて、夫人が自宅マンションに連れ帰った。当時のマネージャーであった彼の兄が見守るなか、自宅マンションで暴れたり、眠ったりを繰り返したが、突如危篤状態となり、蘇生措置の甲斐もなく、26歳のあまりにも若過ぎた死だった。1992 4月26日。死因は急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と言われているが、不自然な死に方から、他殺説を主張する者も多い。翌日、学校を卒業して入った会社の1年先輩のW氏が、私の会社に遊びに来た。「Wさん、この頃、私、おかしいのです。涙っぽくなっちゃいました。昨日も、突然かけたCDが尾崎 豊で、聴いてるうちに涙が止まらなくなってしまいました。先月、私は59歳にもなったのですが」と。彼も、「実は私も涙っぽくなりました」、と仰るではありませんか。「テレビドラマを観ていて、感極まるシーンに出くわすと、もう駄目なんです。涙がぼろぼろ出るんですよ」、と。何事にも冷静なお人なのに、やっぱりそうなんだ。弊社にプロジェクト融資をしていただいている会社の女性の担当者にも言った。彼女は、山岡さんは、感情移入が激しいんですね、と言われた。くすくす、と横目で笑われた。私は、昔からスポーツで、贔屓のチームが逆転ゴールをゲットしたり、逆転ホームランなど、感動的な場面にはめっきり弱かった。マラソンにも泣かされた。泣くのです。涙がぼろぼろになるのです。嬉しい時も、私は弱い。ちょっとしたことでも、感情が涙腺に直行するようです。感受性については、この頃、「鋭」の部分はますます鋭に、「鈍」の部分はますます鈍になってきたような気がします。私独自の鋭、鈍です。他人が感動していることに私には何も感じなかったり、私が感動していることに、皆はさりげなく素通りしていくことが、この頃ちょくちょく体験するのです。この違いは加齢のせいか。感受性だけではないようです。性格も変わってきているようです。このことについては、後日に。
9日、沖縄で行われるホテル建設のための地鎮祭で、挨拶をすることになりますよ、とスタッフから言われた。人前で話すのは苦手な私に、今回はたくさんの人が来てくれるので、「アンマリ格好の悪いのは、いけません」とは、取締役の小見さんの弁。ならば、下書きをして、要点だけでも整理しておけば、大過は免れると思って、文字を綴ってみた。どうでしょうか? 社員のみなさん。チェックしてください。2007 10 9 「ホテル1,2,3那覇」 新築工事の安全祈願祭神事・17:00より直会・17:40より 本日は、皆様におかれましては、大変お忙しい中、「ホテル 1,2、3那覇」の地鎮祭と直会にご出席いただきまして有難うございます。各界からの大勢の皆様の出席を賜りまして、感謝しています。私は、横浜で一番元気な会社、株式会社アーバンビルドの山岡です。まだまだ未熟な会社ですが、野心満々、夢をいっぱいもって、不動産の広範なジャンルにチャレンジしています。いい仕事をしたい一途で頑張っています。先程、建設現場に於いて地元の普天満宮の宮司様による一連の地鎮祭の神事を執り行っていただきました。宮司様によって、この地の神様が、この地を、祓い清め、鎮めていただきました。そして、建設に携わる匠どもの工事の安全と、依頼主、企画者、運営者、そして出席していただいた全ての人たちの今後の健康と繁栄まで、お祈りをしていただきました。宮司様有難うございました。これからは、直会です。地鎮祭における一連の儀式は神事でした。この神事に奉仕した者は、祭事中は神様の霊域にいたわけです。その特別な状態から解きほぐされて、平常の状態に戻す手立てとしての直会だそうです。よって、これからの時間は、現世、生身の人間どものふつうの世界ということになります。私の得意の分野です。よって、気楽にやらせていただきたいと思います。このホテル計画は、アーバンビルドとレイコフさんとの共同事業としては、2番目でございます。1番目は、神奈川県相模原市で、この12月にオープンします。この那覇前島の件は、先ずは設計士の泉川さんが火をつけてくれました。火をつけられたアーバンビルドの小見は、すぐにミューザの伊藤さんに連絡。伊藤さんは、「ホテル1、2,3」を運営する会社の親会社であるレイコフさんのIさんに電光石火の如く事業化の成否を確認、そしたら即 GOの返事が返ってきた。情報を入手してから、事業化が決まるまでに、たかだか2時間もかかっていません。そして、泉川さんの従兄弟である仲本さんご両人に、地主さんとの平和的、友好的な交渉を依頼した次第です。資金は、日常的にお世話になっている、オリックスさんで決まり。建設会社は、当然のように金秀建設に決まった。それから、元地主様や役所の担当者も極めて協力的です。このように一つのプロジェクトを行うに際して、これほど友好的で、協力的で、楽しい連携は、弊社にとっても珍しいケースです。沖縄本島は当然のことですが、八重山地域にもどんどん事業を進めていきたいと思っています。よろしくお願いします。仲本さんが、プロジュースしていただいた楽しい催しものが、いろいろ企画されています。この企画に協力していただいた、仲本さんを紹介させてください。皆さん、仲本さんに感謝の気持ちを込めて、拍手をお願いします。そして、我が社にも頑張ってくれたスタッフがいます。小見、和泉です。ご両人にも温かい拍手をお願いします。粗宴ではございますが、どうか楽しい歓談の場にしていただきたいと思います。お酒だけは多めに用意してある、と弊社の小見取締役は胸を張っています。皆さん、大いに楽しい時間をお過ごしください。アーバンビルドの社員は、今回のこの行事のために、全員社員旅行も兼ねてやってきました。正確に言うと、社員とその友人たちです。社員の皆さんも大いに飲んで、沖縄の人たちと交流を深めようではありませんか。又、このホテルが完成した暁には、再びここで祝杯を挙げられることを楽しみにして、私の、御礼の挨拶を終わらせていただきます。 有難うございました。