2007年10月8日月曜日

「15の夜」に涙。その①

現在、弊社では伊勢原桜台でマンションの分譲をおこなっているのです。伊勢原桜台ツインテラスのことです。

そのデリ・ちらのために伊勢原に向かっていた。販売活動のちらし配りのことを、弊社ではデリ・ちらと呼んでいるのです。ちょっと卑猥な語感でしょ。こんな造語遊びも、弊社のオリジナリティです。可笑しい、面白い会社でありたいと、いつも思っています。

私は、急いでいた。約束の時間が9:00に迫っていた。現地には、弊社のスタッフが待っている。日頃、スタッフには、約束の時間に遅れるのはビジネスマンとしては、最低だと言っているのですから。

高速道路に入って、何気なくCDをかけた。誰のCDでもかまわなかった、だから、無作為に、無動作に。長距離運転の時のために、何枚かのCDがラックに入れてあるのです。すると、突然、たまたま、全く予想しなかった尾崎 豊の曲がスピーカーから流れた。誰の何の曲でもかまわなかったのに、でも、なんぜ、尾崎 豊なんだ。1曲目は、「アイ ラブ ユー」だった。それから、?。そして「卒業」だ。私の胸がきゅうんと詰まってきた。なんだ、なんだ、どうしたんだ。

これあ、尾崎め、尾崎の野郎!!。

そして、「15の夜」だ。盗んだバイクで走り出す~、行き先を決めぬまま~、夜のとばりを~、とか、なんとか。

「十七歳の地図」 

一時も気を抜かずにひたすら自分を愛してくれというメッセージを、時にはストレートに、時には逆説的に熱く激しく放ち、最後には命を代償にしてまで友人たちの気を引こうとした。

「僕は、生きているから苦しいんだ。この醜さや切なさをなんとかしてくれ」と、全身でもがいて、叫ぶ尾崎。

「あなたも生きている限り、僕の問題はあなたの問題だ。逃がしませんよ。一緒に苦しんでもらいますよ」。それあ、解っているよ、尾崎君。私だって、君と同じ悩み、苦しみを体験しながら、今までやってきたんだ。だからって、死ぬことはネェだろう。

尾崎は、俺の愛を解ってくれ、と絶叫している。俺を愛してくれ、と熱狂している。そして、確かめたい!! 信じたい!!と。

尾崎の父は、尺八の師匠だったと聞いている。メロディーなのか、歌詞なのか、歌い方なのか、日本人の心の琴線に触れる手法を、子供の頃に身につけたのだろう。

私の小さなな胸が熱くなる。まいったなあ。目蓋の裏も熱くなってきて、目がうるむ。目尻に涙が滲んできて、頬を伝う。鼻がつまる。顔がゆがむ。 山岡さん、カッコウ悪いぜ。

以前、最後に尾崎を聴いたのはいつ日のことだったろうか。多分、5~6年前には、聴いたことがあったなあ。私の持っているCDは、せいぜい15枚程度なのに、ながいこと聴いたことがなかった。多分5年程前に買ったものなのだろう。その時には夢中に聴いた。それから、しばらくたって、遠ざかってしまっていた。

車内は私、一人っきりだ。誰にも、見られていない。タオルで涙を拭いた。

尾崎 豊は今から約15年前、東京都足立区千住河原町の民家の庭で全裸の泥酔状態で発見された。家主が警察に連絡、その後病院で診察を受けて、夫人が自宅マンションに連れ帰った。当時のマネージャーであった彼の兄が見守るなか、自宅マンションで暴れたり、眠ったりを繰り返したが、突如危篤状態となり、蘇生措置の甲斐もなく、26歳のあまりにも若過ぎた死だった。

1992 4月26日。死因は急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と言われているが、不自然な死に方から、他殺説を主張する者も多い。

翌日、学校を卒業して入った会社の1年先輩のW氏が、私の会社に遊びに来た。「Wさん、この頃、私、おかしいのです。涙っぽくなっちゃいました。昨日も、突然かけたCDが尾崎 豊で、聴いてるうちに涙が止まらなくなってしまいました。先月、私は59歳にもなったのですが」と。

彼も、「実は私も涙っぽくなりました」、と仰るではありませんか。「テレビドラマを観ていて、感極まるシーンに出くわすと、もう駄目なんです。涙がぼろぼろ出るんですよ」、と。何事にも冷静なお人なのに、やっぱりそうなんだ。

弊社にプロジェクト融資をしていただいている会社の女性の担当者にも言った。彼女は、山岡さんは、感情移入が激しいんですね、と言われた。くすくす、と横目で笑われた。

私は、昔からスポーツで、贔屓のチームが逆転ゴールをゲットしたり、逆転ホームランなど、感動的な場面にはめっきり弱かった。マラソンにも泣かされた。泣くのです。涙がぼろぼろになるのです。

嬉しい時も、私は弱い。ちょっとしたことでも、感情が涙腺に直行するようです。

感受性については、この頃、「鋭」の部分はますます鋭に、「鈍」の部分はますます鈍になってきたような気がします。私独自の鋭、鈍です。他人が感動していることに私には何も感じなかったり、私が感動していることに、皆はさりげなく素通りしていくことが、この頃ちょくちょく体験するのです。この違いは加齢のせいか。

感受性だけではないようです。性格も変わってきているようです。このことについては、後日に。