久しぶりに、箱根駅伝で泣いた。学校を卒業して35年も経つのに、いまだにWの文字を見たら、私の脳みそ(脳幹)は正常ではなくなるのです。おかしくなるのです。ましてや、Wがいい状態? 他を圧倒しているようなことがあれば、私はもう滅茶苦茶狂うのです。何に関しても学校の誇りを高めるような理想的な学生ではなかった。誇り高い大学のホコリだらけの学生だったが、私の染色体にはWの因子が組み込まれてしまっているようです。屈辱にまみれながら、何回も母校の名を、何回も母校の校歌を、何回も母校の応援歌を歌った。その結果のことだろう。が、栄光は少なかった。
2日、午後1時。私は会社に居た。私は保土ヶ谷の権太坂(2区、9区)に住んでいるので、箱根駅伝の沿道での応援は30年来の我家の正月の欠かせない行事でした。ところがじゃ、今年は、2区で母校は12位ぐらいで通過しそうよ、と女房に言われ、馬鹿な私は30年来の慣わしを捨てて会社に向かった。母校の応援よりも会社が、仕事が大事なんだと言わんばかりに。会社で飼っている金魚に餌もやらなくちゃいかん。誰も居ない会社で、私は、日ごろ読み残した銀行や不動産・建築関係の団体が発行している小冊子を、読みながらビールを飲んでいた。それに、私はこの20年程、正月に福島の喜多方から大学のサッカー部の先輩・塚原さん(この後から、喜多方と呼ばせていただく)がやってくることになっていて、その先輩の到着を待っていたのです。1年に1度、必ず正月の2日、午後2時前後に横浜に着くのです。奥さんと一緒に横浜まで来て、奥さんは自分の実家のある大和へ、先輩は私の家に来てくれるのです。そして、葉山の田中先輩(この後から、葉山と呼ばせていただく)も呼んでサッカー部の同窓会を兼ねた新年会をやるのです。旧交を温めるのです。今年は、私の息子も、息子の会社の同僚も、近所に住んでいる娘2人、娘の夫、孫2人も集まった。皆が集まれば、その瞬間に、私はしっちゃかめっちゃかになる(酒乱なのです)のが解りきっていたので、その前に静かな時間を過ごしたかったのでしょう。
コーヒーを飲んで、ビールを飲んで、お酒を飲んでいたら、会社の電話が鳴った。静かな会社の中で電話が鳴ったので、吃驚した。正月の2日に会社に電話してくる奴は誰だろう、と思いながら受話器を握った。そしたらじゃ、自宅から血相を変えているんじゃないかと思われるような、興奮シマクラ千代子さん口調の電話が、私の耳を襲った。大きい高い声が受話器から突出。早稲田が箱根の山登りをゴボウ抜きで、1着でゴールしたのよ。すごかったよ。興奮しちゃた!!! ラジオを聴いていた? そんな女房からの電話だった。
第84回東京箱根間往復大学駅伝。
第1日は2日。
東京・大手町~神奈川・芦ノ湖の5区間108キロに関東の19大学と関東学生選抜が出場し、早大が5時間33分8秒で12年ぶり13度目の往路優勝を飾った。
これより、朝日新聞のスポーツ面の記事を拝借する。ーーーーーーーー
ハイライト
往路12年ぶり 5区駒野主将奮起の5人抜き
(5区で、山梨学院大・高瀬を抜きにかかる早大・駒野と駒大・安西)
胸の「w」マークを拳でたたき、早大の駒野がゴールを駆け抜けた。「帰ってきたぞ、というのを見せたかった」。エースの不調で、脇役だった一人ひとりが奮起した伝統校が、12年ぶりの往路優勝をもぎ取った。
ずうっと3年生の竹沢におんぶにだっこだった。12月中旬、その竹沢が坐骨神経痛を訴えた。出場さえ危ぶまれた。「自分たちがやらないと勝てないという危機感が生まれた」と話す駒野自身、駅伝主将として、後輩に頼るふがいなさを誰よりも自覚していた。
トップから1分半近く遅れ、6位でたすきを受ける。飛ばした。5キロの通過は、昨年の大会で順大を優勝に導いた今井の区間記録とほぼ同じペース。「ちょっと突っ込みすぎかなと思ったけれど、きつくなかった。そのまま行っちゃえ」。8キロ過ぎに駒大をとらえると、相手の顔をのぞき込んだが、10キロ過ぎに首位に立つ時はあ前を見据えたまま、迷いは消えていた。昨年は8位であった。あっという間に今井に置いていかれた。その時に今井が作った区間記録と、わずか7秒違い。「うちにも『山の神』がいて良かった」と竹沢をうならせた。
起伏があり体に負荷のかかる2区ではなく3区に回った竹沢の踏ん張りも大きかった。スタート20分前に痛み止めの注射を打った。痛みが出るたびにペースを落とし、波が引くと再度ペースを上げ、区間賞を確保した。
総合優勝から15年遠ざかっている。駒大優位は間違いないが、渡辺監督は「駅伝は何があるか分からない。山梨学院大を見ても、逃げるチームには強みがある」。静かに笑った。 ーーーーーーーここまで新聞記事による。
初日の往路(1月2日)は、早大が1位、駒大が1分14秒差で2位。東海大は駒大から3分42秒遅れの3位。こういう結果になった。
ようし、これからは気合いを入れての宴会開始だ。
喜多方が東戸塚駅に着いた。先輩は開口一番、横浜はいい天気だなあ、喜多方は1メートル程雪が積もっているよ、と。このセリフは20年間いつも同じだ。そして、帰り際、我が家を出る時は必ず、あんなところに帰りたくない、とも。この喜多方と、葉山と、私は共に昭和23年生まれの子(十二支)です。年男達です。早稲田大学ア式蹴球部(通称はサッカー部です)の先輩、後輩の仲なのです。ちなみに、慶応大学はソッカー部です。喜多方は現役で入学、葉山は1浪、私は2浪で、年は同じ(今年60歳)なのですが、学年が、私が1年の時、葉山は2年で、喜多方は3年生でした。学年は違えども、生まれて過ごしてきた期間は同じなのと、当然、経験してきた世相も、考えることも、身の回りの環境も大差ない。個人の志(思)向はそれぞれ違うけれども、40年の熱い交流は今も激しく続いています。
喜多方と葉山は、一時札幌で共に過ごしていたことがあった。喜多方は実家が魚屋のため、魚の修行に札幌の中央魚市場に勤めていた。葉山は卒業して勤めたベニアの会社が面白くなく、数ヶ月で転職を考えていた時に、スキー場にコネがあるので働いてみないかと喜多方に勧められて、札幌に行くことになった。ニセコでも働いた。葉山は、大学時代に授業で経験したスキーに熱を上げていたこともあって、その転職は大成功だった。その後も、喜多方の紹介で葉山にある大手企業の保養所で働くことになって、これもうまくいった。そして、私はその保養所を家族や会社のスタッフとともに、あつかましく利用させていただいた。料金もその企業の社員並みで。葉山はその保養所で今の奥さん・オオトモさんと知り合って、結婚した。
私と喜多方との付き合いは、私が1年で喜多方が3年で学年の懸隔はあった。喜多方は、当時サブマネージャーだった。夏の菅平の合宿のこと。午前の練習が終わって、午後の練習が一通り終わって、最後の仕上げがインターバルなのです。このインターバルは、サッカーコートのタッチラインに沿って走るのですが、105メートル程の距離を16秒で走りきって、元のスタートしたラインまで1分で戻るのを、何回も繰り返すのですが、私以外の者は数回だけで終わってお仕舞いなのですが、私には、皆と同じようにお仕舞いというようには許してくれなかった。皆はグラウンドを後に、合宿所に向かう。私以外、練習は終わったのです。それまでの練習で、エネルギーの全てを使い果たしている私には、さあこれから、5回だけキチンと走ってみろ、と言われても、足も、頭も、糞!!タレ、と気合が入らないのです。最初の1回目から16秒に入れていないのだから、これからキチンと走れと言われても、どだい無理だった。やっとのことで、スタートラインに戻ってきたと同時にスタートの笛。息を整える余裕がない。その時に、喜多方が登場するのです。戻ってきた時に、バケツの水を私の頭にぶっ掛けてくれるのです。ぶっ掛けられると、不思議にほんの瞬間だけれども、シャンとなって意識が覚醒されるのです。一人だけのインターバル。朦朧としてくる。目が開けられない。足元は、フラフラでガタガタでジグザグ。多い日には、116回走ったことがあるのです。それに、最後まで付き合ってくれた人が、喜多方なのです。もう終わろう、と言われてグラウンドにへなへなとへたり込む。薄暗がりの空に星がきれいだった。頬をなぜる風に、生まれ故郷の風を思い出した。グラウンドに仰向けになったまま、疲労した体はいつまでも動けない。土の冷たさが気持ちいい。そんな(水かけ不動的?)関係が二人にはあるのです。だから、いつまでも喜多方は私に優しく、私は彼に感謝しているのです。何年経っても、この絆は失せない。
葉山との付き合いは、濃密だ。その歴史は、私が3年で葉山が4年生だった時から始まった。私は合宿所の中でも一番環境の劣悪な部屋に一人で寝起きしていた。陽が射さないどころか昼間でも真っ暗なのです。田舎から送られてきた米を狙ってネズミが横行するのです。チュウと声を出して壁の穴から顔を出す。顔はなかなか愛嬌がある。黙って様子をうかがっていると、身を乗り出してきて私の布団の上を横断、米袋を襲う。余りにも多くのネズミが出没して寝られなくなったので、ネズミの捕獲器をセットした。いとも簡単に、連日、ネズミを捕まえることができました。今や、フジタ工業で頑張っている脇氏が水攻めにして殺すのです。水の入ったバケツに捕獲器ごと浸けて、絶息させるのです。
葉山が酒に酔っ払って、12時過ぎに寮に帰ってくる。門限は12時だ。門限といっても、自主管理です。そして必ず私の部屋に立ち寄って雑談するのです。早速、私は電気ポットで酒を燗する。サッカー部の寮の門限は12時と決められていたのですが、葉山は、葉山なりに独自の解釈をしていたのです。12時を過ぎると、もうその時は次の日になっていて、その日の門限はその日の深夜の12時のことだと。11時が門限ならばそのようなことはないのだが、たまたま12時という今日と明日の境目が、門限時間と同じなので、葉山流の理屈が成り立つのです。大分臭いヘ理屈です。寮内では禁酒、禁煙だったので、酒を飲むなんて許されることではないのですが、門限破りグレーな葉山と私は、禁を破ることには、内緒を前提に認め合っていたのです。
葉山が卒業して、ベニアの会社に勤めてからも、仕事にいまいち気合の入らない日に、房総半島を仕事のフリをしながら、ドライブに連れ出してくれたものです。貧乏学生だった私には、最高のレクレーションでした。それから喜多方との関係で北海道で働くようになってからのしばらくは交流はなかったが、葉山が葉山の大手企業の保養所の管理人になってからは頻繁に会っては酒を、ビールを鱈腹(たらふく)飲んだ。私が結婚してからも、毎週のように、我家に来てくれた。子供が生まれれば、子供を随分可愛がってくれた。子供は嫌がっていたけれども。葉山が結婚してからは、彼の奥さんも参加して、賑やかな宴会は続いている。我家の記念すべき折々の催事において、全て参加してくれている。私にとって、仕事以外の友人としては、大切なお方なのです。
この日も、葉山は酔って眠ってしまった。奥さんの運転で葉山に帰った。喜多方は我家に泊まった。「ヤマオカ!!今晩は、泊めてくれよ。息子の奴なあ、去年、俺が酔っ払って行ったので、風呂に入らないで寝てしまったのだけどなあ、それがイヤだと言いやがるんだ。酔っ払って、風呂なんか入ったら、死んじゃうよなあ。嫁に言われたんだろう。あいつは馬鹿だよ」ということで、息子の家には行かなかった。喜多方の息子が住んでいる家は、我家から車で5分の至近なのだが、喜多方は寄りたがらなかった。彼は、尚言い続けた。「息子のヤツ、嫁の実家の近くに、嫁の親の土地に家を建てやがったんだ。婿に行ったようなもんや」と怒り口調のトーンは上がる。
翌日(1月3日)、喜多方と私と息子は、青島が指導しているサッカーチームの新年会(初蹴り)に顔を出した。喜多方は青島に会いたがっていた。青島には、グラウンドがよく似合う。「富士山に月見草がよく似合う」、あれのことや。どうだ、青ちゃん。元花屋さんだった青ちゃんにはよくわかるよね。表現方法は、私が尊敬する太宰さんから拝借した。私は、このサッカーチームの初代の指導者だった。バブルがはじけて、サッカーの面倒を見ている場合ではなくなったので、青島さんに後のことをお任せした。会社の経営がピンチに陥ったのです。その日、息子は、コブラという上部のチームに入れてもらって試合を楽しんでいた。息子と私がグラウンドで過ごした懐かしい日々を思い出した。コーチと選手の関係だ。息子の立派な成長をみるに、嬉しい思いがこみ上げてくる。目出度い、有難い正月だ。感謝したい。
次女と次女の息子(孫)、三女、私と喜多方が合流して、権太坂に箱根駅伝の復路の応援に行った。ポンタとツバサの犬連合も応援に加勢。私の目の前で、駒大に追い抜かれたけれども、早稲田は良く頑張った。駒大にこそ、称賛の声を上げなくてはならないのだけれども、ここは早稲田のOBなもんだから、駒大関係者殿、許せ。権太坂まで首位できたのは、凄かった。往路で優勝しても復路では5位前後につけられれば、もうそれで十分と思っていたのですが、この力走は力強かった。早稲田の底力を知らなかった私は、軽薄者だった。浅墓さを恥じた。ゴールを2位でしっかり入った。素晴らしかった。トイレに入って、トイレットペーパーで涙を拭った。
毎年のことだけれども、母校の名を声張り上げる度に、涙が出るのはどうしてなんだろう。年を重ねるごとに、涙の量が多くなるのです。「ワセダ、ガンバレ」。
駒大には実力があった。立派でした。
今年は3校が途中棄権となる異例の事態となった。往路の5区順大、復路の9区大東大と10区の東海大だ。アクシデントが有力校に相次いだのも特徴的だ。新聞記事によると、関東学生陸上競技連盟の青葉昌幸会長は「優勝争いが激しくなり、ぎりぎりまで選手を仕上げるなど勝利至上主義の影響が出てきていると思う。監督は健康管理を徹底して欲しい」と話した、と報道された。今後は、医師の意見も聞き給水の回数や中身など対策を協議する方針だそうだ。
2日目(復路)の内容を朝日新聞の記事からーーーーーーー
箱根駅伝 駒大逆転V
(9区、首位争いを繰り広げる駒大・堺と早大・三輪)
3年ぶり6度目 3分超す差「エース軍団」焦らず
「もう少し楽に勝てるかなと思っていた」。駒大の大八木監督は振り返った。逆転の構想は出足でいきなり崩れた。
往路を終えて、首位早大と1分14秒差。「1分半以内なら」というもくろみ通りだったのに、6区の藤井は区間12位。差は3分以上に広がった。車から絶叫する大八木監督。フラフラになりながら、辛うじて中継所にたどり着いた。
しかし、このつまずくが逆に駒大の成長ぶりを際立たせた。それは、7~9区の三人三様の追い方のうまさに表れた。
7区の豊後は、スピードはあるが、スタミナにやや不安がある。約3分差のうちの3分の1だけ確実に縮めた。8区の深津は、大八木監督の「差は詰まっている」という言葉を信じ、早大を忘れて区間新を狙った。「早大のことは追いついてから考えようと思った」
そして、目の前に早大をとらえてたすきを受けた9区の堺は、最初の2キロ半程度で一気に15秒差を追いついて、並んだ。勝負は決まった。
昨年も、今回と8人が同じ顔ぶれ。何が変わったのか。大八木監督は「昨年は精神的に弱かった。今年は6区でああいう状況になっても焦らない」と話す。
「エース不在」と言われるのは、誰もがエース級ということの裏返し。5000メートル13分台の深津ら2年生トリオに刺激を受けた上級生も大幅に記録を伸ばした。4年生に頼りがちだった4連覇したころともひと味違う。強さと速さを手に入れた駒大。黄金時代の再来を予感させる総合優勝だった。
2位早大「来年こそ」
「もっと早く(駒大に)捕まると思っていたが、9区まで粘れたのは収穫です」。早大の渡辺康幸監督は、12年ぶりに2位に食い込んだレースを振り返った。
ここ数年失速していた5,6区の山登り、下りでともに区間賞。早大では75年ぶりの快挙だ。6区の加藤は「早稲田の下りは鬼門と言われないような走りができたと思う」と語った。
今春には秋田国体の5000メートルを制した八木勇樹(兵庫・西脇工)やマラソンの中山竹通・現愛知製鋼監督の長男卓也(兵庫・須磨学園)ら有力選手が入部する。
「来年は駒大と一騎打ちになるのは間違いない」。渡辺監督は第69回大会以来の覇権に向け強気の発言を繰り返す。新主将の竹沢は「いい流れを切らさないようにやっていきたい」と話していた。-----ここまで、新聞記事による。