20140504 みどりの日
朝、5時半から、アパートのある弥生台から相鉄いずみ線の「ゆめが丘」駅まで歩いてきた。
道中、富士山が裾野までよく見えた。車の行き交う道路からそれて、畑の中の道を進んだ。畑には色んな作物が栽培中で、田舎育ちの百姓の仔倅(こせがれ)には興味が尽きない。市民農園も多い。牛舎から、懐かしい牛のウンコの匂いがする。どこからか逃げてきたのか、鶏が一羽、こいつものんびり散歩していた。この辺り一帯は、かって山野だったところを、戦後、農耕地の区画整理事業で今のような畑が作くられた。
和泉川沿いの桜並木は、緑の葉の色が濃い。葉が幾重にも重なって、朝の日差しをさえぎっていた。犬を連れて散歩している人を多く見かけた。テニスコートの隣の広場では、昼間は鯉のぼり大会が行われているのだろう、沢山の鯉のぼりが繋がれたまま地面に寝かされていた。売店も閉じたままだ。昼間は大勢の親子連れで賑わうのだろう。お母さんと二人の小さな息子が、その広場を駆け回っていた。
いずみ中央駅を過ぎた辺りでは水際に草が生えていて、大きな鯉が、その草むらや川底の石に向かって、北国で見る鮭の産卵のときのように、あっちこっちで体をぶつけていた。また、鯉同士でもぶつかり合っていた。水温(ぬる)む、産卵でなければ、恋の季節か?
鯉には罪はないが、これほど大きな鯉が大量に群遊していれば、小魚や小さな虫たちにはさぞかし住み辛い環境だろう。鯉の大きな口に吸い込まれてしまったのだろう、小魚の姿が見えない。鯉さんよ、ちょっとずうずうし過ぎるぞ。それとも、大きくなるのが分かっているのに、これほど多くを放流した人を、小魚や小さな虫になりかわって、私が恨(うら)む。
道路っ端(どうろっぱた)や畑の畔(あぜ)道には、色んな花が咲いていた。今、はばをきかせているのは、ツツジ?サツキ? どちらか分からないが、赤、白、紫の花が目立った。
帰りに利用した休日のゆめが丘駅のホームは、地上よりも10メートル以上高いところにあって、周囲には高い建物どころか視線をさえぎる物は何もない。駅の付近にコンビにでもあれば、温かいコーヒーでも飲みたいと考えていたのだが、甘かった。お店も民家も何もないところに、ぽつ~んと駅舎だけがあるだけだ。将来を見越しての投資なんだろう。
利用客の姿は、私がホームに居る間に出会ったのは、2人だけ。日当たりがよく、見晴らしが絶好の休憩場所だった。富士山を背に、ベンチで1時間近く持ってきた新聞を読んだ。目が疲れて、横にゴロンとしたかったが、酔っ払いと間違えられそうだったのでやめた。
午後は、孫と映画だ!!
20140426の朝日新聞/牛にほおずりする小学生時代の知美さん
20140504の午後、横浜市中区のシネマ・ジャック&ベティで、映画・「夢は牛のお医者さん」を孫の晴と観に行ってきた。
この映画の紹介記事が20140426の朝日新聞・第2神奈川版にあった。ゴールデンウイークの貴重な休日を孫と一緒に、何をして過ごそうかと思案中だったので、記事を見つけた瞬間、これだと決めて孫の母親に相談した。
「将来は獣医さんになりたい」。そう言っていた新潟県の少女が夢をかなえ、獣医者として働く様子を25年間にわたって追ったドキュメンタリー映画だ。
今年のゴールデンウイークの孫との貴重な企画だ。
解説
20140426の朝日新聞/子牛の散歩をする小学生時代の知美さん=いずれも「夢は牛のお医者さん」から。TeNY
20140426の朝日新聞の記事を抜粋させてもらった。
宮嶋加菜子
新潟県のローカルテレビ局・テレビ新潟の報道デイレクター、時田美昭さん(53)が撮りためた映像を編集したものだ。
1987年、新潟県松代町(現・十日町市)。新潟の山間にある全校児童9人の小さな小学校に3頭の子牛がやってくる。記者として時田さんは取材に訪れ、その後も足しげく小学校に通うことになる。病気がちな子牛を必死で世話し、出荷時には涙を流す子供たち。当時、小学3年生だった少女・高橋(旧姓)知美さん(35)が「牛のお医者さん」になる夢を抱く。この映画の主人公だ。子牛をいとおしそうにほおずりしたり、牛と一緒に昼寝をしたりする姿が印象的だった。
知美さんはその後、上越市の高校に入学。下宿生活を送りながら「3年間はテレビは見ない」と猛勉強する姿を見た時田さんは「知美さんの夢を一緒に追いかけたい」とカメラを回し続けた。
知美さんは岩手大学農学部獣医学科に進学、獣医師の国家試験に合格し、今は上越市の家畜診療所で働く。2004年の中越地震では、ボランティアとして山古志村(現・長岡市)に牛の救出にも向かった。結婚して子育てをしながら仕事を続ける現在の様子も撮影した。
映画では新潟の豊かな自然の中で、夢の実現を支えてきた家族や地域の人たちの姿も描かれている。
私も、子供のころ学校から帰って夕飯までに、父に頼まれて牛の散歩をよくした。兄たちは草を刈ってきた。だから、牛の性格や扱い方はよく知っている。
映画に戻る。それにしても、その年度には入学生が一人もいなかったからといって、3頭の牛を、よくぞ、新入生として迎えたものだ。発案者が誰だったのだろうか、発案者は相当の人格者で、先生や児童を導く能力や、過重な仕事を厭(いと)わない精神、教育者としての熱情をどれほど強く持っていた人だったのだろう?
そのような激しい人物は映像には現れず、ひたすら、牛と子供たち、それを見守る住民たちがアップされ、先生たちの姿は少ししか映らなかった。
牛たちが予定の体重に達したので市場で売られることになる。そのお別れ会が牛の卒業式で、在校生が卒業牛君に送辞を読み、答辞は卒業牛さんに代わって子供たちが読んだ。
子供たちは涙、涙、別れを惜しんだ。牛たちは、翌日、トラックに乗せられて里を後にした。
それからも、先生たちが偉いんだ。子供たちを牛の競り市に立ち会わせている。卒業牛は一番高く競り落とされた。子供たちからは拍手喝采。3頭一緒に同じ人に競り落として欲しいと言われていたので、結局高くついたけれど、子供たちのことを考えると、それに応えるしかありませんでしたと、競落した人は述懐していた。
そして、この映画の主人公の知美さんが、勉強して、子供の頃の夢を実現させた。獣医になってからは、この競り落とした人の牛も診ている。成長した知美獣医のことを頼りにしていますと酪農家は仰っていた。
この映画から得たことはもう一つ。子供は親の背中を見て育つというが、知美さんには二人の妹がいて、三人ともよく学び、よく働く娘さんたちだった。お父さん、お母さんの日常の頑張りから学んだのだろう。
この一家からも学ぶことは多かった。