2015年3月5日木曜日

ボーン・上田賞、朝日新聞の杉山記者に

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(紛争下のマリからニジェールに逃れてきた子供たちと杉山記者=2013年5月、中野智明氏撮影)

 

さすが、朝日新聞報道部!! 

こんな記事を見せてくれるから、”好いこと悪いこと”騒がれ五味三昧(ごみざんまい)”の朝日新聞だけど、好きなんだ。

国際報道で優れた成果をあげた記者に贈られる今年度のボーン・上田記念国際記者賞に、朝日新聞国際報道部の杉山正記者(39)が選ばれた。杉山記者はアフリカで絶えない紛争の最前線に迫り、人々の怒りや絶望、悲しみ、希望といった思いを読者に伝えてきた。

この後は、2015 2月21日朝刊の記事を丸写しだ。

 

 

上田賞に輝いた杉山記者より、「事実に近づくために」

在任中の3年でパスポートの100ページ以上がスタンプで埋まった。紛争現場の取材は20回以上を数える。内戦状態の中央アフリカでは、レイプされた8歳の少女が「叫んだけど誰も来なかった」と言った。ソマリアなどでイスララム過激派組織の戦闘員だった人々にも会った。憎悪と絶望が渦巻く。悲惨な状況を書き、記事が載っても人々の痛みは消えるわけではない。私は複雑な思いを抱えていた。

では、なぜ現場に行くのか。伝聞や間接情報に頼りきれば、本質を見誤る場合がある。自分が見たものを積み重ねて書いていくのが、事実に近づく唯一の方法だと思う。理不尽に命を奪われた人たちの無念家族の悲しみは、遠いアフリカで公表された死者の推計数字では伝えられない。

紛争では場所を変えれば被害者と加害者が逆転することもある。そして、「勝者」が憎悪を決め、ストーリーを作ってしまう。「勝者」と「敗者」のどちらかに偏らない、一つの側面だけではないものを伝えようと思えば、現場取材を重ねるほかないと思っていた。

ただ、どんな取材をしようと、無事に帰れなければ最大の失敗だ。自分だけではない。通訳など一緒に働く現地の仲間の安全が大切だ。危ない場所は日々変わる。地元の信頼できる人たちから最新の情報を集める。通る道、泊まる部屋の位置など細かい点にも気を配り、労力の大半をかけた。そして、焦らない。一定の安全を確保できないと判断し、直前に入るのをやめた現場はたくさんある。

今回、評価を頂いたのは紛争関連の記事だが、そのテーマにとどまらず、国内外で、書かれる側の痛みを考えながら、顔が見える記事を書き続けたいと思う。

 

ボーン・上田記念国際記者賞とは

報道活動によって国際理解に貢献したジャーナリストに贈られる賞。報道を通し日米交流に尽くしたマイルズ・ボーン・UP通信社副社長(当時)と上田碩三・でんつ電通社長(同)を悼んでつくられた。米国のピュリツアー賞にならい、日米ノメディア有志が資金を出し合い、1950年に「ボーン国際記念賞」として始まり、78年度の賞から現在の名称になった。

 

南スーダンなど紛争地取材

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杉山記者は2011年から昨年までアフリカに駐在。等身大の姿を伝えようと、22カ国を訪れた。昨年の記事の内容の一部を紹介する。

1月26日付と28日付の朝刊では民族紛争下の南スーダンの実態を報じた。

激戦地ボルでは無数の遺体が放置され、市民は自動小銃やチタで武装していた。農家のフィリップ・アチャックさん(32)は「家族を守るために銃を持っている(敵対民族)は絶対に許さない」と言った。

市場は破壊され、略奪されていた。洋服店を営むビオル・マシュさん(24)は、叔父を殺され、「ここまでやられて民族の和解などできるものか」=図中①と語った。ボルノニアル・マジャック市長は「人道援助が全く届いていない」(同②)と訴えた。

4月6日付朝刊では、「民族対立で80万~100万人が殺されたルワンダの大虐殺から20年を機に、悲しみを乗り越えようとする人々の姿を報じた。

シャンタルさん(46)は当時、民兵に襲われた。赤ん坊の双子と逃げたが捕まり、一人は棍棒で殴られて死んだ。もう一人は9歳の妹が抱えて守ったが、妹はナタで切られて死んだ。

シャンタルさんは、民兵から次々と性的暴力を受けて妊娠し、女の子が生まれた。夫は「どういうことがあっても自分の子だ」(同③)と言い、「父の子」の意味の「ウワセ」と名付けた。19歳になった学生ウワセさんは6年前、出生の経緯を聞いた。「何度も死のうと思った。しかし、両親の愛情を考えると前に進もうと考えた」(同④)

武装勢力「ボコ・ハラム」による女子生徒らの誘拐やテロが多発するナイジェリア。5月27日付朝刊でおびえる人々をルポした。

北部のカノでは、商店主のスティーブン・ヌウォゴさん(43)が爆破テロで12歳と8歳の娘を失い、「娘たちは勉強が大好きだった。テロが娘たちの、私の未来を奪った」(同⑥)。

別の爆破テロ後に建て直された学校に机はなく、子供たちは床に座って学んでいた。女子生徒ラビ・アラソンさん(15)は「襲撃は怖いが、勉強を続けて家族や社会の役に立ちたい」。

イスラム宗教学者タウフイック・フセイン師は「人々には『ボコ・ハラム』と言うだけで、狙われて殺されるという意識が強い。口に出すだけでも恐怖を覚える」(同⑥」と語った。

(上記に記載された期日は、朝日新聞の東京本社最終版のもの)