2015年12月21日月曜日
夕食は?寄せ鍋だ
自分に才能がないから?って恨むことはない。それって、才能がないといって悲観すべきではない、と言うことだ。才能がないと思うならば、それを習得すればいいのだ/ ニーチェの言葉、『曙光』より
10月の半ばから、我が家の晩飯は寄せ鍋に決まっている。今年、女房の母(義母)と一緒に暮らすようになってから、家庭での食事では余り欲を言わない私だけれど、今夜も定説のまま、三人が美味しく頂けれるメニューなら何だって構わない、この特色を尚、極めた。
私の希望はと言えば、辛いモノ、珍しいモノ、味の濃いモノ、あっさりしたモノ。遠い海辺の漁場から曳き揚げたモノ、近海の浅瀬に居るモノ。深海モノ、細身、太身、重体モノ。味に特色が濃いモノに薄いモノ、時には刺身、煮ることだって、焼くことだって何にでも調理できるのが嬉しい。水から空中に躍り上るのも興を注いで楽しい。繰り返す、私は、旨いモノはこれだということが言えない。だから、食えるモノならばなんだっていいのだ。
先日、一緒に食事した一部上場の会社の社長さんから、弊社のやったことに対するお礼なンだろう、記念品と礼状をいただいた。社長さんも数年前に大病を患われた。その礼状の文章に用行舎蔵(ようこうしゃぞう)の心境で専ら体のコンディションを保ちながら楽しんでいます、とあった。ところで、なんだ? この用行舎蔵とはどういう意味だ、と社員は互いに目を合わせて、知識の無さに赤恥?した。聞いたことがない社員ばかりだった。
用行舎蔵とは、身の振り方をわきまえていること。君主に認められれば世に出て働き、捨てられればおとなしく引退して静かに生活するという意味、だとネットで知った。
寄せ鍋の材料の話は続きます。食材料には、どんな牛肉であろうと、どんな鳥類だろうと、蟹(かに)であろうと海老であろうと、私の舌の反応はかわらない。好(い)いヤツも悪いヤツも、どうでもいいと言われているヤツでも、私の舌や脳には変わり味がない。猪(いのしし)だって、鹿(しか)だって、トカゲであろうとマムシであろうと食えるモノならばなんだって、有難く頂きたい。但し、毒をもっているヤツは断りたい。
こんな時期の我が家の晩飯はどうなるか?と言えば、材料にどうのこうのと構わずに、その場その場で、手に入れたモノをひとつ鍋に入れて煮る、この鍋モノしかない。このひと月、いろんなモノを食ったけれど、体がいたって元気だからだろう、、、、、兎に角、旨いのだ。
毎夜、飯を食うたびに、こんなに旨いモノを食っている家は我が家だけだろう、と思う。品の無い私は、思うだけではなく、大きな声で叫んでいる。
権太坂だけではないぞ、横浜だって、神奈川県だって、我が家が一番旨いものを食っている。