2008年10月8日水曜日

田沢投手の勇気に、カンパイ!

朝一番(081008)の新聞記事に、唖然とした。その記事の内容は新聞記事をそのまま転載させていただいたので、確認してください。

その記事の内容に、瞬間ピーンときて、これは可笑しいぞと思いながら、批判的な記事や、批判的なコメントが、聞こえてこないのが、不思議だった。プロ野球を支えていくには興業が成り立たせなくてはならないのは、百も承知だ。古典的経営者のボスの横顔が浮かぶ。巨人、ナベツネとその申し子の滝鼻オーナーの真剣な表情が目に浮かぶ。日本の野球が興隆を極めて、そのお陰で新聞が沢山売れて、テレビの視聴率が上がって、広告収入が増えること、これが経営者の狙いだ。とりわけ、読売新聞は自前の球団巨人の戦果が、発刊数に露骨に影響する。球団経営にモロに影響をくらう。

今回は、ドラフトの目玉になりそうだった新日本石油の田沢純一投手が、ドラフトを拒否して海外のプロ球団と契約したいと宣言したことから、日本の球団は彼が先鞭となって、学校を終えて、社会人野球を経て日本のプロ野球を経験しないまま、海外でのプロ野球を目指そうとする者にケチをつけたのだ。プロに新しく入った優秀な人材を話題にして、自分勝手に、日本でこってり商材にしたっかたのだ。このようにして海外へ渡った選手が、海外でのプロ球団を退団した後に、日本でのプレーを目指しても、一定の期間は、契約することはできません、という規定だ。嫌がらせだ。一旦海外のプロ球団に入団しても、止むを得ない事情で帰国しなくてはならない場合だって発生しかねない。そんな時には、日本のプロ球団は雇ってあげませんよ、だって。数年たったら、雇ってあげますよ。なんじゃ? この根性が気に食わん。日本のプロ野球界は焦っているようだ。こんな焦りが今回の決定につながったようだが、私にはそこまでなりふり構わずヨウやるね、と思った。

スポーツはスポーツとして進化しない限り、興味が惹かない。アスリートは、自分の進化に全身全霊を賭けて、最善を尽くす。時間の経過も大きい問題だ。環境と機会も。進化していく姿に人は感動を受けるのだ。北京五輪の日本野球のダラシナサに、うんざりした人も多かっただろう。イチローや松坂、両松井、黒田、岩村、その他の大リーグで活躍している選手達のなんと!!格好のエエことよ。オジサンは、零細企業の経営者の端くれだ。我々の業界、経済の世界、何もかもが重苦しくて堪らん環境の中で、仕事の束の間、大リーグで頑張っている選手のことが話題になった時は、しばし爽やかな気分になる。挑戦したいという田沢を応援したい。オジサンは、仕事のうえで突破口を開けずに苦悩している。田沢には、夢が、若さが、才能が、勇気がある。ワールドカップFIFAをめざす岡田ジャパンの、アジア予選のこれからの戦いも、楽しみの一つだ。

チャレンジ、可能性を信じてどこまでも努力を続けようとするアスリートを応援したい。アスリートが目指そうとする世界が、今の日本のプロでなくて米大リーグなら、それも大いに結構ではないか。それを嫌がらせのようにする、あなたたちは何者ですか。野球を真に愛する者たちは、今回のプロ野球実行役員会の規約を決めたことに、誰も喜んではいない。役員さん、あなた達は偏狭ですぞ。

私はサッカーを愛しています。サッカーに育てられた者です。日本では、野球に遅れてプロ化したサッカーですが、中学生のことは知らないが、高校生でも海外でプロとして頑張っている選手がいるのです。そして、日本代表の歴代の監督は誰もが、日本選手が海外でのプロチームに所属してプレーすることを勧奨している。

現在の日本のプロ野球の球団関係者、とくに経営者さん、そろそろ、お目覚めが必要なのではないですか。

そして、今朝(081008)、やっぱり、朝日新聞が怒った。吼えた。その記事は昨日の記事の後に転載させていただいた。

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(081007)

朝日朝刊・スポーツ (ダイジェスト)

ドラフト拒み外国球団入り

帰国後2~3年 契約せず/NPB新規約

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プロ野球の実行役員会が6日あり、ドラフト指名を拒否して外国のプロ球団と契約した選手についての規約を決めた。外国球界でプレーした後日本でのプレーを希望した場合でも、高校出の選手は帰国後3年、大学出・社会人からの選手は2年、日本の球団は契約しないことにした。

今ドラフトでの1巡目指名が確実まがらメジャー希望を公表した新日本石油ENEOSの田沢純一投手にも、メジャー入りした場合には適用されるとしている。ドラフト指名に漏れて外国へ行った場合にはこの規約は適用されないが、田沢は事前に12球団に「指名しないで欲しい」と伝えているため、今回指名されずにメジャーに行っても、帰国した場合は2年間、日本のプロではプレーできなくなる。

田沢の一件を受けて、日本プロ野球組織(NPB)が「自衛策をとらざるを得ない」(巨人・清武代表)と有力選手の流出防止策を練っていた。

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(081008)

朝日朝刊・スポーツ

自由自在/「ケチなルール」

〈志方浩文〉

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「海外流出の抑止という意味だから、NPBはケチなルールを作ったとか書かないで欲しい」

プロ野球のドラフトを拒否して海外プロ球団へ行った選手への規約が作られた6日の実行委員会後に、ある球団幹部が話した。規則を作った側も、「ケチなルール」と自覚しているということだ。

海外へ行ってから一定期間は契約しない、という規定なら理解できる。

今回のものは違う。日本に戻ってくる場合、海外球団を退団してから2~3年、契約しないということだ。それは、選手にとってプロではプレーできない空白の期間を作るといううことだ。メジャーで一旗揚げて最後は日本球界での輝きを目指す選手を拒絶することにつながる。

しかも、田沢がメジャー希望を表明してから話し合いを始めて作った規定なのに、田沢にも適用するという。これでは「後だしジャンケン」だ。

今後も、メジャー志望の有望選手は後を絶たないだろう。日本球界が考えるべきは、「向こうに行かせない」ことではなく、そういう選手にいつ日本で活躍して貰うか、ではないか。

今年のドラフトで入る大学・社会人選手は、フリーエージェント(FA)権を取得するのに国内移籍なら7年なのに海外なら9年かかる。22歳の選手なら最短で31歳だ。

「それなら直接メジャーへ」と考えても仕方がない。これが、5,6年で行けるとなれば、日本のプロに入ろうとする選手も増えるだろう。

国外FAの年数を短縮するには、大リーグ球団から今はもらっていないFAに伴う移籍金を取ることも必要だ。そういう交渉を、加藤コミッショナーに託すのはどうだろう。

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田沢「渡米の決意揺るぐな」

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日本プロ野球組織(NPB)がドラフトを拒否して海外のプロ球団と契約したアマチュア選手に対し、海外球団を退団後、日本のプロ入りに一定の凍結期間を設けたことに関し、大リーグへの挑戦を表明している社会人野球・新日本石油ENEOSの田沢純一投手は7日、「決意が揺らぐことはない」と改めて渡米の意志を示した。

田沢は、「内容を詳しく知っているわけではないが、まずアメリカ。日本に帰ってくるまで考えていない」と話した。ただ、「後に続く人に対し、申し訳ないという気持ちはある」と複雑な心境を明らかにした。大久保監督は「早い段階で渡米の意思を公表したのは、ドラフト指名を検討する日本のプロに迷惑をかけないためだったのに、突然ルールを決められるなんて」とプロ側の対応に疑問を呈した。

2008年10月6日月曜日

新聞拾い読み5話

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roger

(080922)

朝日朝刊

その①宮沢賢治賞を受賞した作家・東工大世界文明センター長

ロジャー・パルバースさん(64)

文・写真/大野拓司

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宮沢賢治の名作「雨ニモマケズ」を英語にどう訳するか。すでに出ている英訳本は、どれも「負けず」を否定形に訳している。ところが、この人は「Strong in the rain」と初めて肯定語で表現した。

「賢治は『負けず』に、頑健な肉体と精神への願いと祈りを込めた。それを際立たせたかった」

賢治作品の英訳や、独自分析を加えた日英対訳を多数出版。賢治没後75年の22日、ふるさと岩手県花巻市から第18回宮沢賢治賞を贈られる。

「さらさら、ぽしゃぽしゃ、おろおろ、感性豊かな擬声語や光と風の鋭い描写。動植物も人も星も石ころも、宇宙の存在すべてに温かいまなざしを注いだ賢治のコスモポリタンな寓話ワールドに魅せられた」

米国出身、ハーバード大大学院で政治学を学び、東欧に留学したがスパイと間違われ国外追放。恋にも破れて帰国するとベトナム戦争のさなか。「徴兵なんてまっぴら」と逃避した先が、たまたま日本だった。23歳。最初の晩に立ち寄った東京下町の屋台で初めて覚えた言葉が、ちくわ、こんにゃく、。「注文の多い料理店」ではなかったらしい。

大学で英語を教えながら、独学で日本語を習得。小説や戯曲、翻訳、舞台演出など、活動の幅を広げてきた。32年前に国籍をオーストラリアに移し、以来、日豪を行き来する。

「銀河鉄道に乗って、どこまでも旅を続けたい。「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」

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(0809??)

朝日朝刊(ダイジェスト)

その②ポリティカにっぽん/東京政治から逃げておいで

早野透(本社コラムニスト)

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私は鳥取県で開いた「スローライフ学会フォーラム」にでかけた。鳥取市と周辺の町に会場が分かれた催しの一つ、鳥取県智頭(ちづ)町のシンポジウムを聞く。ここで寺谷誠一郎64歳という異色の町長に出会った。鳥取市との合併に反対して2期の途中で辞職、町長の座を譲り、また今年6月、住民の署名運動で担ぎ出され、返り咲きの3期目というヘンな経験の持ち主である。その話し。

「みどりの風が吹く、疎開の町をめざして」というのが町のスローガンです。町の93%は森、50年杉を伐っても大根1本の値段ですよ。でもね、こんど森を生かして町立病院で「森林セラピー」を始めたい。都会で病んだ人に疎開に来て貰って、野菜をつくったり、森の空気で癒したりしてもらうんですよ。

テーマは森。シンポのパネリスト西村早栄子さんの話。ここにきて2年3ヶ月、「森のほいくえん」をつくりたいと思っているんです。ドイツにはもう400もあるんですよ。園舎はない、こどもたちは雨でも雪でも森で過ごすんです。元気でたくましくなる。いまは、森のお散歩会をしているんですけど、10人、15人ででかけてお弁当を食べて、絵本の読み聞かせをすると、子供たちの目がきらきらする。

緑陰読書のリーダー岸本真澄さん、13戸の集落の農産物加工「知恵工房」で栃ようかんをつくる谷口貴美恵さん。パネリストは人口8千の町で、いきいきと生きるすてきな女性たち。

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unagi

(080923)

朝日朝刊

その③ウナギの故郷、親もいた。

マリアナ諸島の産卵域で捕獲/卵からの養殖へ期待

山本智之

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「ニホンウナギ」の親魚が太平洋マリアナ諸島沖の産卵海域の深海で、初めて捕獲された。水産庁と水産総合研究センターが22日、発表した。この海域ではこれまで誕生直後の幼生しか見つかっていなかった。謎に包まれたウナギの回遊ルートや産卵条件の解明につながると期待される。

ニホンウナギは日本、韓国、中国などに住む。成長すると産卵のため川を下り、海に入る。どこで産卵するのかが長年の謎だったが、東京大海洋研究所の塚本勝巳教授らが05年、同諸島沖のスルガ海山周辺で幼生を見つけ、ここが産卵海域だと突き止めた。しかし、親ウナギが捕まらず、どのくらいの深さで産卵するのかなど詳しい生態はまだわかっていない。

水産庁などのチームは今回、スルガ海山を含む広い海域でトロール網を引き、6、8月に親ウナギ計4匹を捕まえた。捕獲した深さは200~350メートルだった。親ウナギの捕獲は、産卵場所を詳しく知る重要な手がかりになる。

現在のウナギ養殖は、沿岸でとった天然の稚魚(シラスウナギ)を育てて出荷している。近年、稚魚が激減しているため、卵から育てる養殖法の開発への期待が高いが、幼生を稚魚に育てるのが技術的に難しく、普及していない。

東京大海洋研究所の青山潤・特任准教授によると、ウナギは世界に18種・亜種いるが、産卵海域で親魚が捕獲されたのは初めてで、「捕獲場所の水深や水温などは、卵から育てる養殖法を実用化する上で貴重なデータになる」という。

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kiyihara

(081002)

朝日朝刊

その④清原23年、花も涙も

万感の花道に桑田、イチローら/岸和田のヤンチャから、オッサンへ〈ヤマオカ〉

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プロ野球オッリックスの清原和博内野手(41)が1日、23年の現役生活にピリオドを打った。京セラドーム大阪でのソフトバンク戦に、4番・指名打者としてで先発出場。左ひざの手術などで先発は約2年ぶりだった。第3打席に右中間に適時二塁打を放つなど4打数1安打1打点、最後の打席は豪快な空振り三振だった。引退後は未定だという。

試合前、ソフトバンクの王貞治監督(68)から花束を受取った清原の目は、すでに潤んでいた。不思議な縁だ。85年秋。PL学園高(大阪)の清原は、王監督の巨人へ入ることを願った。しかし、巨人がドラフトで指名したのは、この日も姿を見せた同級生の桑田真澄さん(40)。若い頃のわだかまりは、時が解決。そして、同じシ-ズンで2人はユニホームを脱ぐ。

試合後の引退セレモニー。マウンド上の清原に、阪神の金本知憲外野手(40)らから花束が贈られた。巨人移籍後に清原のテーマ曲ともなった歌手の長渕剛さん(52)が作詞・作曲した「とんぼ」を、長渕さん自身が熱唱。満員の観客も一体となった大合唱を、清原はタオルで何度も涙をぬぐいながら聴き入った。

「清原和博のために、そしてオリックスのために来てくださって、本当にありがとうございます」と始まったあいさつ。11年間在籍した西武、9年間在籍した巨人のファンへの感謝の言葉が続く。感極まったのか、しばらく間が空き、「花道を作ってやる」とオリックスに誘ってくれ3年前に他界した故仰木彬元監督やわざわざ駆けつけたマリナーズ・イチロー外野手(34)へのお礼の言葉を語った。

「オリックスのユニホームを着たことを誇りに思い、きょう、引退させていただきます。全国のプロ野球ファンの皆さん、23年間、応援どうもありがとうございました」。場内を一周しファンに別れを告げた。最後は胴上げされ、5度、宙を舞った。

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まれな個性だった

二宮清純さんの話

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挫折と栄光の双方に彩られた、人間臭さ満点の「民衆のヒーロー」だった。これほど起伏ある野球人生を歩んだ選手は少ない。甲子園の大スターとしてプロ入りしたときは、長嶋・王のように正統的ヒーロー像を最後まで貫くと思われた。新人王に輝き、西武の黄金時代の主軸を担った。

ところが、FA移籍した巨人で結果を出せない。「俺は殺人でも起したんか」とぼやいたことがある。そして今の姿に変わる。無精ひげ、日焼け、ピアス。感情の起伏が素直に格好に出て、打席でも若い投手をにらみつける。好青年からこわもてアウトローへ。両極端のシンボルになった、極めてまれな個性だった。

95年に渡米した野茂にイチローが続き巨人を頂点とする野球選手の王道路線は崩れた。それでも清原は巨人にあこがれ、「花の都で一旗揚げたい」と言った。最後の古典的ヒーローだ。これらが幅広い層から支持された理由だろう。

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(081003)

朝日朝刊

俺は、岸和田のダンジリ野郎や(やまおか)

天声人語

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長渕剛さんの名曲「とんぼ」は都会への憧れと挫折を歌う。〈死にたいくらいにあこがれた東京のバカヤローが/知らん顔して黙ったまま突っ立っている〉。花の都に寄せる片思いは多くは裏切られ、意のままにならぬことばかり。でも無様に、無骨に生きてゆく。

長渕さんと、スタンドを埋めた3万人の大合唱に送られ、オリックスの清原和博選手が引退した。華あり、涙あり。23年の現役生活を、「東京のバカヤロー」ではなく、故郷大阪で終えた。

最終戦の相手、ソフトバンクの王監督がかけた言葉は「生まれ変わったら、同じチームでホームラン競争をしよう」。85年のドラフト。王さんが指揮する巨人軍の指名を信じて裏切られた男を、言葉で抱きしめた。同じシーズンにユニホームを脱ぐのも何かの縁だろう。

525本の本塁打を重ねながら「無冠」に終わった。最後の打席は、自身の歴代最多を更新する1955個目の三振。直球を投げ続けた杉内投手に頭を下げた。タイトルより大切なものがあると教える。美しい空振りだった。

「憧れの球団」に移ってからは故障に泣いた。投手がしつこく内角をえぐると、仁王立ちでにらみ返した。だが、そうした人間味や勇気に引かれるファンもまた多かった。インタビューの請け応えにも、飾らない人柄がにじんでいた。

日本のプロ野球は、大リーグへの人材流出で危機にある。清原選手のヒーロー伝説、あるいは反骨の物語を、ここで終わらせるのは惜しい気がする。どうにもならない不運を力にする生き方の、続きを見てみたい。

 

清原は、最後のボールを空振して終わった。その最後のボールを杉内投手に贈ったと聞く。清原の一面を見せられた。

テレビのある番組で、清原のヒザの手術の内容を見て、これは、現役復帰が難しいと直感した。最後の試合の第3打席目で放った二塁打も走るのが精一杯で、やっとのことで二塁ベースにたどり着いたように見えた。あんなヒザで、よく走ったものだ。

5度宙に舞った胴上げも、着地したときに見せた顔の表情は、安らぎの表情でも、歓喜の表情でもなかった。ただ痛みに耐えているだけだった。ヒザの痛みに耐える表情が、私には余りにも痛々しく感じられて、辛かった。

清原のファンでもなかったのに、ここにきて、遅ればせながらのファンの仲間入り宣言をしました。

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その後も清原の記事は続く

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(081009)

朝日朝刊・スポーツ

EYE 祭りのさなか 去った男

編集委員・西村欣也

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この寂寥感は何なのだろう、と思う。セ・リーグの優勝争いが大詰めを迎え、巨人と阪神の優勝争いは最高潮だ。祭りの中で、時代が過ぎていくのを感じている。

清原和博が引退した。彼は、プロ野球の何かを象徴していた。それは昭和の香りではなかったか。村山実が長嶋茂雄をライバルとし、江夏豊は王貞治を宿敵とした。江川卓と掛布雅之の直球だけの勝負も記憶から消えることはない。

清原はその流れをくむ男だった。野茂英雄や伊良部秀輝との勝負。桑田真澄との「Kk対決」。チームの勝敗だけでなく、個人と個人の勝負が観客を引き込んだ。

そんな男が球界から去る。王監督の退任とともに、時代の歯車が大きく動いた。

「無冠の帝王」だと呼ばれた。しかし、通算サヨナラ本塁打12本、サヨナラ安打20本はともにプロ野球記録だ。ファンの心のスクリーンに刻印を残した証明だ。

通算1955三振、196死球もプロ野球最多記録だ。たたえる記録ではないかもしれない。が、打席を投手との決闘の場に選んだ男の勲章でもあるだろう。

よく泣いた。巨人に指名されなかったあの日、87年、巨人を下して日本一になる時は、試合が終わる前から涙があふれた。引退試合では王監督に「来世、生まれ変わったら同じチームで本塁打競争しよう」と言われた。祭りが最高潮であるほど、寂しさがつのっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

eye

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2008年10月4日土曜日

「ええ、意味はありません」

kagawa

(081001)

朝日朝刊

俳優・香川照之

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この俳優さん、香川照之の演技は、映画「ゆれる」で知った。私のこのブログでも、この映画を観た感想を書いたことがある。女性監督の繊細な感性を、俳優として微妙な演技でこなしていた。監督さんの思いには充分応えていたように感じた。

心が微妙に揺れる、吊り橋が文字通り揺れる、考えが静かにそれから激しく揺れる。揺れることの表現を、顔の表情、目、眉、頬、額、アゴ、特に真正面を向ける表情に、後姿の演技に魅入った。

私の心も揺れた。映画を観終わって、駐車場に向かっているときに、映画通の三女から、いい映画だったね、と言われて、私は我に戻った。それまで、アイツ、香川という奴にウツツを抜かされていたようだった。不思議な俳優だ、と頭の中はそのことで一杯だった。

その後、映画のよく知っている友人らにあの香川照之という俳優さんって、知ってる?と聞きまくった。それゃ、知っているよ、と言う人ばかりだったので、私は驚いた。彼の出生までも説明してくれた奴までいた。

そうして今回、香川氏が自分の出演した映画の紹介と、初期の頃影響を受けた黒澤清監督とのことを自ら筆をとった記事を見つけた。なんとまあ、よくもこんなに濃く、影響を受けた監督さんのことやら、自分が出演した映画のことを、述べられるもんだ、と感心した。記事を読んだ私まで、熱くなった。その文章を確保した。

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一九九七年の九月は、私にとって不思議な転換期となった。

「蛇(へび)の道」という小さな映画で、私は黒沢清という男が監督する映画への出演を受けた。黒澤明の親族だと勝手に思った外国人記者も当時何人かいたようだが、残念ながら何の縁故関係もない。

男は同年、「CURE」というホラー作品のヒットで一躍時の人になる。しかし当時の私は、俳優がある演技をする時に「意味」などを監督にいちいち尋ねて「俺は考えているぞ」的姿勢を過度に示す、若者の誰もが迷い込む落とし穴に深く陥っていて、脂がのり、映画の手法を知り尽くしていた黒沢清にとってはひどく厄介な存在に映ったに違いない。

黒沢清はそんな私に実に具体的に指示を出した。いや、出さざるを得なかったと言った方が妥当だろう。

「ええと、ここで三秒経ったらあのドアまで歩いて、そこでしばらくじっとして下さい。で、おもむろにですね、こちらに歩いてきて下さいますか。あ、こっちに来る意味は全然ありません」

この、「意味は全然ない」という言葉を、そのとき私は何度聞いたことか。俳優の動きは「意味」を伴って初めて存在すると信じていたささやかな私の孤塁を、男はものの見事に破壊した。私は言葉を失った。

しかし、である。一つの意味を理屈で懇々と説明されるよりも、「意味はない」と先手を打って言われた方が、俳優という生き物は、非常事態発生とばかりに自分自身の中に自らの行動原理のようなものを急いで探し出し、理屈では到達し得ない直感的動きに瞬時にシフトする場合があることに次第に私は気づき出した。目から鱗(うろこ)だった。私は、今度こそ本当に言葉を失った。

この作品以来、私は、事前に計算した「意味」を、あるいは計算そのものを演技の中に求めることを辞める決心をした。少なくともそう努めようとした。それが、私が黒沢清から貰った宝だ。

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あれから十一年が経つ。私はその間、どうしても黒沢監督に恩返しがしたいと思っていた。この十一年で私が培(つちか)ったものがあるとすれば、すなわち俳優として、下らない「意味」を頭から少しでも追い出した自分を確立し得ていたならば、それを黒沢に不断に示し、広げ、その雄姿をぜひ確認してもらいたいと思っていた。

九月二十七日に封切られた「トウキョウソナタ」という映画は、そんな私が、実に十一年ぶりに黒沢清の演出を受けた作品である。

ああ、この十一年を私はどれだけ待ったことか。現場の私はまるで子供だった。黒沢清という先生に、自分の全てを見ていて欲しいと願う幼稚園児のようだった。感情が、直感が、無意識に横溢した。

「トウキョウソナタ」は、ホラーの名手としてその後揺ぎ無い地位を築いた黒沢清が、初めて普通の家族の物語を描いた意欲作品だ。

黒沢清は、これまでもそのホラー作品の中に、日本の社会性や政治性を陰画(ネガ)のようにひたひたと染み込ませてきた。今回、より分かりやすい「家族」というテーマに、東京の、日本の、いや世界の抱える社会問題を強烈なメッセージとして織り込んだ「トウキョウソナタ」は、その意味では、これまでの黒沢作品の集大成とも言えるだろう。

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果たして、私は黒沢清に恩返しが出来たのだろうか?

十一年を経ても男の「ええ、意味はありません」は健在だった。それを聞いて、私の心は嬉しさのあまり千里の丘を駆け抜けた。今作で家族の父親を演じた私がラストシーンで溢れさせるある感情は、黒沢清という男がこれまで作品の中で貫いてきた映画人としての姿勢に私が心から捧げたオマージュである。あるいはこの男と出会い、再会し、今の私がある十一年という歳月に対する全霊の感謝である。一人でも多くの人に、それを見届けて頂ければ幸いである。

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余談ですが

先日、日曜日の朝、香川照之、本木雅広、小泉今日子さんの三人が対談している番組を観た。そこでの一場面のことだった。俳優さんは、自分の演技に自分流の工夫をこらすことに努力を惜しまない。その努力は、各人個性的なようだ。香川氏は自分の演技についてのこだわりを、ひと通り話し終えた後で、無名塾の仲代達矢さんのことを話したのが面白かったので、ここに追記した。

30人ほどが真っ裸での入浴シーンだった。身につけているのは一本のタオルだけ。陰部?を隠す人もいれば頭に巻きつけて下半身は丸出しの人もいた。演技の最中で、仲代氏が演技論か、何かを話し出したそうだ。ここは、こうなって、あれは、ああなって、と話すこと20分。当の仲代氏は話に夢中になって、自分の下半身が晒(さら)されていることに全然意に介することなく、講釈は続いたそうです。その間、カメラは仲代氏のチンチンを撮り続けていた。演技にこだわる香川氏も、このチン大将には参った、と話していた。香川氏は面白可笑しく話されていたのだが、私の表現ではその面白さが半減したかな。やはり、無名塾を主宰してこられ人だけあって、仲代氏もスゴイ人のようだ。今後も活躍の場を大いに拡げていただきたい。

2008年10月2日木曜日

河野氏と小泉氏

(080929)

朝日朝刊

hata-koizumi

風考計=河野氏と小泉氏

幕を引く「異端児」の因縁

若宮啓文(本社コラムニスト)

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今年8月15日、東京の日本武道館。天皇ご夫妻も出席した全国戦没者追悼式で、河野洋平衆院議長が「追悼の辞」に思い切った中身を盛り込んだ。

「特定の宗教によらない、全ての人が思いを一にして追悼できる追悼施設の設置について、真剣に検討を進めること」を政府に求めたのだ。つまりは靖国神社とは別の追悼施設をつくろう、という意味である。

例年、追悼の辞には思い入れをを込めてきた河野氏だ。少なからぬ人が共感する案だとはいえ、真っ向から反対する人も会場に多いことは百も承知だろうに、ここまで言うとはーーー。議長として最後の機会になると思えばこそと想像はできたが、それにとどまらぬ思いもあったのか。今度の総選挙には立候補しないと明かにしたのは、ひと月後のことだった。

同じ終戦記念日の朝、小泉純一郎氏はモーニング姿で靖国神社を参拝した。首相退陣を控えた2年前、念願だったこの日の参拝を果たした感慨がよみがえったに違いない。小泉氏も河野氏のあとを追うように引退表明に至る。

河野氏71歳。小泉氏66歳。いささか早すぎるふたりの退場は、時代の大きな区切りを思わせる。

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「自民党が時代的役割を果たし終えたとの認敷に立ち、新たな保守政治を創造する悲願を込めて、離党を決意した」

誰あろう、河野洋平氏が読み上げた32年前の声明である。39歳で自民党を飛び出し、新自由クラブを作った時のことだ。

ロッキード事件を機にこの新党が生まれのをドキドキしながら取材した若き日を思い出す。政界再編の走りだったからだが、まだまだ自民党の岩盤は厚く、もがき続けた河野氏は10年後に党を解散して自民党に戻った。

宮沢内閣を官房長官で支え、野党自民党の総裁になると、「自社さ」政権を作って社会党の村山首相をかかついだ。これがハト派の全盛期だったが、自身は首相になれずに終わった。

小泉氏が存在感を示したは、河野氏が党内力学から再選を断念した95年秋の総裁選だった。橋本龍太郎氏に完敗したが、やがて01年に3度目の挑戦を実らせる。旧来の自民党政治に切り込んで「自民党をぶっ壊す」と勇ましかったが、総裁選前に会ったとき、「負けた方が面白くなる」と党を飛び出す覚悟を語っていた。その度胸が勝利の決め手だった。

このとき、河野氏の離党からすでに四半世紀。政治も社会もすっかり変わっていた。小泉氏は5年半、党内の「抵抗勢力」を敵にして首相を続けることになる。

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同じ神奈川県選出で、どちらも「保守の異端児」だった。両氏を水と油の因縁に染めたのはイラクと靖国神社、そして憲法だった。

イラク戦争が迫っていた03年3月、小泉首相が歴代の総裁経験者を招いて「開戦支持」へ理解を求めたとき、河野氏は「憲法の精神」を強調して強く反対。やはり護憲派の宮沢喜一元首相が「はっきり言いましたなあ」と感心したほどだ。巡り合わせの妙か、その秋、河野氏は衆院議長になり、以来5年近くに及ぶ。

中国では反日デモが吹き荒れた後の05年6月、河野氏の呼びかけで5人の首相経験者が議長公邸に集まった。靖国参拝を控えるように意見をまとめて、河野氏が小泉氏に伝えたのだ。しかし、小泉氏はその秋も参拝を繰り返した。

同じ年、結党50年を迎えた自民党は憲法改正案をつくり、党是とされてきた「自主憲法の制定」を形に表す。自衛隊を「自衛軍」にする9条改正も盛り込んだ。

その10年前、結党40年を機に河野総裁の下でつくられた自民党の新宣言は「すでに定着している平和主義」をふまえ、党の改憲方針を棚上げしていた。これを覆してのことである。

小泉氏が日本人の高揚感を背景に人気を保ったとすれば、河野氏は日本人の節度を大事にしようとしてパワーが不足した。宮沢内閣で従軍慰安婦問題の「河野談話」を出し、村山内閣で戦後50年の「村山談話」を支えたが、これらを攻撃してきた安倍晋三氏が政権をとったころ「やっぱり自民党は右の政党だね。僕なんか、よく総裁になれたもんだ」と、ハト派の悲哀を漏らしたものだ。

一方、郵政総選挙の圧勝などであれだけ権勢を誇った小泉氏も、麻生新首相らが「小泉改革」の功より罪に光を当てるなか、悲哀を味わいながらの引き際である。麻生氏が長く河野氏を支えた側近だったのは皮肉な縁ではないか。

しかし、その麻生氏も河野氏の思想を引き継ぐ政治家ではない。外交路線では河野氏よりむしろ小泉氏や安倍氏に近いタカ派とされるのだから、この党は本当にわかりにくい。

麻生氏を首相に指名した衆院本会議で、議長の胸に去来したものは何だったか。自分が届かなかった座を、弟分がついに手にした。しかし、それは自分が理想とする首相像とは遠いーーー。

ひょっとすると、河野氏の引退へ背中を押したのは、この複雑な感慨だったのかも知れない。

2008年9月29日月曜日

質量の謎にせまる

これは、朝日新聞の夕刊の一面に載っていた記事です。なんのことやら記事の内容がさっぱり解りません。この実験候補地に日本も立候補していたことは知っていた。実験場がもたらす経済的効果も狙っていたようです。東北のある県だった。新聞の取り扱い方一つとってみても、なんだか凄いようだ、ぐらいには察しがつく。でも理解できないのが悔しい。だいたい一般紙といわれる新聞は、専門紙とは違って、あまりにも専門的な分野のことを記事にはしないはずだ。ところが、夕刊と言えども、一面の一番見やすい場所に、大きく取り上げているので、えい、や!!と古紙に出すことを躊躇した。

この装置の建設費は5千億円で、日本は170億円拠出したそうだ。日本からの研究者は約100人が参加しているというではないか。

でも、内容の解らない記事をファイルして置いたってしょうがない。さりとて捨てがたい。誰か、私に、モノ解りの悪いこのオッサンに噛み砕いて教えてくれないか。日本一美味しいお好み焼きとビールぐらいは用意させていただきます。

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(080909)

朝日夕刊

質量の謎に迫る

超大型加速器あす始動

ビッグバン直後の宇宙再現

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【ジュネーブ=勝田敏彦】 生まれたばかりの宇宙の状態を地上に再現し、「物質に質量があるのはなでか」など現代物理学に残された謎の解明が期待される世界最強・最大の粒子加速器が10日、ジュネーブ郊外で始動する。約5千億円かけて建設されたもので、170億円近くを拠出した日本からも約100人の研究者が参加している。

この装置は大型ハドロン衝突型加速器(LHC)と呼ばれ、欧州合同原子核研究機関(CERN)が運営する。スイス・フランス国境をまたぐ1周27キロの地下トンネルのリングに世界最大級の超伝導電磁石約1700台を並べ、陽子の集団をほぼ光速まで加速して正面衝突させる。

衝突のエネルギーは現在世界最強の加速器である米国のテバトロンの7倍で、宇宙誕生時の大爆発ビッグバンから1兆分の1秒後の超高温・超高圧状態を再現する。

現代素粒子物理学の「標準理論」では、ビッグバン後、物質に質量を与えたというヒッグス粒子の存在が予言されており、発見が期待される。

また宇宙の質量の約2割を占めるといわれる謎の暗黒物質の候補「超対象性粒子」や、私たちが住む宇宙が、4次元(時間も次元と考えると5次元)以上である証拠が見つかる可能性がある。いずれもノーベル賞級の成果となる。

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やっぱり君にも、京都の風土が

今日(080913土)の朝日新聞の朝刊に沢田研二(60)の記事が出ていた。

その内容は、彼の憲法に込めた思いを歌にして、新作アルバムを作ったということだった。なによ、あのジュリーが、何故憲法なのかヨ、と突然の記事の内容に、読者は驚いたのではないかと思ったので、この稿を起すことにした。彼の思いが、私にも分かるような気がしたのです。

ジュリーは60歳の還暦を向かえて、今まで言いたかったのに、つい言えなかったことを、えい!!言っちゃえと、その気になったようだ。かく言う、私も後10日程で、9月24日に還暦を迎えるのです。そんな同世代,いや同じ年令で、同じ京都という環境で育った者同士の、何か共通点がありそうなので、それを探(さぐ)ってみた。

60歳をむかえた我々は、団塊の世代の中心部にあるのです。終戦直後には日本国憲法ができて、その新しい価値観の大変化に戸惑う多くの大人たちがいた。戦前、戦中派の人々だ。その時の世相を表す数多の文化や芸術や著作物が残されている。終戦後間もなく生まれた私達は、父や母や、先輩達が悩んだり、苦しんだりして学習した憲法のことを、私達に分かりやすく教えてくれた。その教え方は、自分達の実体験を下敷きにしているので、教えて貰った私達には、分かりやすかった。私達は素直に新しい価値観の世界を受け入れることができた。それ故に、新しい価値観が傷つけられたり、疎(おろそ)かな扱いを受けたりしたとき、そのときに示す純心な私達の反応は、激しいものにならざるを得ない。

終戦を挟んでその前後、先輩たちは自立して生きるために、過酷な苦労をされたであろうことは容易に察せられる。この人たちから私達は学習させていただいたのだ。終戦の10年後に、小学校に通いだしたのです。この先輩たちが、私達の周囲に、学校に職場に近所に、親として、友人のオヤジとして、先生としていて、時には自戒を込めながらも、嫌だった戦争の話や、二度と戦争は起してはならないぞ、と教えてくれたのでした。合わせて、日本国憲法のことも。中学では、さらに学んだ。

そして、私は高校生になった。京都府立城南高校だ。美女は生まれても、天才は生まれたことのない、希少な学校だった。そこで、この本題の沢田研二のことに触れていきたい。彼は、中学校は岡崎中学校、高校は京都府立鴨沂(おうき)高校の卒業だ。この高校の前身は1872年(明治5年)に日本で最初の女学校として創立した「新英学校および女紅場」らしい。らしい、と言うのはインターネットによる情報を利用させてもっらているからだ。なかなかの名門校だった。ちなみに、義母の出身学校は堀川女学校だ。これは、現在の京都市立堀川高校です。京都の人でないかぎり、なかなか鴨沂をお~きとは読めない。現在の活躍状況はよく知らないが、私が京都に居た頃は、水球が全国的に強い学校として有名だった。

私達が中学生だった時は1960年。60年安保闘争があった。国会議事堂の周辺には何万かの労働者や学生がデモった。岸信介と弟の佐藤栄作が、どうしたらええもんじゃろうか、とデモを見ながら思案していたそうだ。そのデモと機動隊との衝突で、東大生の樺 美智子さんが、亡くなった。私は子供心に、何故、何のために、あんなことをしているのだろうか、と不思議だった。装備の整った機動隊に対して、無防備でよくもあんなに激しい戦いを挑めるものだなあ、と感心させられた。何かが、あるのだろう。新聞に載った写真を見つめていたら、動悸が荒くなったのは、なぜだったのだろう。アンポハンタイ、安保反対、とリズミカルに叫び、4,5人で掃除用の箒を横にして腰の辺りで両手でしっかり握り、教室や廊下をジグザグデモを繰り返したことを思い出す。

そして私と沢田研二(以後は、ジュリーにした)が過ごした時代の、京都事情を書き記そう。我校のキャンバスは、どうだったかというと、いやジュリーの通っていた学校だってそうだった筈だ。当時、京都府知事は蜷川虎三で、共産党と社会党の支持か推薦だった。その影響もあってか先生たちは、大半が共産党か社会党の支持者だった。メーデーの日は、ことさら先生たちの表情は活気に溢れ、メーデー会場に向かう準備を生き生きとこなしていた。どの先生も、赤い鉢巻を額に巻きつけていた。水を得た魚?状態だった。特に元気だった岡田先生が、チラシを私達に配る。校庭にある国旗や校旗を掲揚するポールに、その日は赤旗が揺れる。校舎の壁にはメーデーを成功させるための標語が書かれた垂れ幕が下がる。メーデー会場に向かうためのバスが横付けされると、生徒たちは一斉に集まって、先生たちをガンバレーと励ました。先生たちの乗ったバスは、大勢の生徒に見送られて行った。ただのヤジ馬も多かったが。でも一部の教室だけは、校長と教頭と、他数人の先生だけは授業を行っていたが、ほとんどの授業は名目、自習だった。そのことをいいことに遊んだ。これらは我が母校、城南高校のことだけれども、きっと鴨沂高校も似たり寄ったりだったと推察できる。

ところでジュリーって奴の過去から今までを検証させていただきましょう。彼の今までの生きざまを、詳細に検証させてもらえば、今、彼がなぜ、日本国憲法なのかよ、という質問には明答が得られるだろう。

ジュリーは高校生の頃、京都の四条河原町にあったダンス喫茶「田園」でアルバイトをしていた。そこで岸部一徳らのグループと知り合って、歌を歌う世界の一歩を踏み出したようだ。その後ロック歌手の内田裕也に認められ、東京の渡辺プロダクションと契約して、その後タイガースというグループ名で一世を風靡した。このタイガースというグループ名は、すぎやまこういちが、彼らは関西から来たんだから、ということで名付けられたそうだ。日本で初めての長髪の男性アイドルとして、もてはやされた。私には、こんな奴等のカッコウ好さが分からなかった。女の級友たちが彼等に浮かれているのが、腹立たしかった。長髪は不良者だと、大半の大人はそう思っていた。同時期に、ビートルズという英国のグループが、世界の若者の心をつかんで大活躍中だった。そんな影響もあってか、日本でもエンターテーナーとしてのいくつかのグループサウンドは、テレビにラジオ、ショーで大受けしていた。私も、彼等の多くの歌を、口ずさんだ。

後に、ジュリーたちは本格的なロックグループを企画したそうだが、ロックは日本では反体制を含むジャンルとしてみなされていたが、ジュリーは本気だった、と聞く。それは何に対して反体制なのかと言うと、まさしく育った時期と環境が同じだった私には分かるような気がしたので、この稿を気を強くして進めているのです。

幼い頃、小学校、中学校で新しい日本国憲法のことを、機会がある度に話は聞かされた。その度に、心が清々した。それらは、国民主権、天皇は日本民族の象徴、戦争放棄、基本的人権の尊重、信仰の自由、表現の自由、男女平等だった。心がわくわくした。当時、子供だった私達には、国という概念はなかなか理解しにくかったが、俺達の国はなかなかいいもんだ、素晴らしいんだ、と思った。

そして、蜷川虎三を支持する社会党や共産党が、機会あるごとに自衛隊は日本国憲法9条に反して憲法違反だということを、声を大にして叫ぶと、私も同じように心のなかで叫んでいた。それから、核を持つな、作るな、持ち込むな、この標語も身についてしまった。長崎県の佐世保に原子力潜水艦が着岸した際には、核兵器が装備されているのではないのか、その核による海の汚染の可能性があるのではないか、そんなことに疑問をもつ人たちが、日本全国から多数が参加した。そんな危険なものが、日本の国に自由に出入りされるようじゃ、堪(たま)ったものじゃないか、と思った。

革新知事は、京都だけではなく、大阪にも東京には福岡にも生まれた。東京都知事は、美濃部亮吉氏だった。私は、革新知事さんの言ううことだけには聞き耳を持った。

それから次々に世界をかき乱す事件が相次いだ。私の身近で起こった一番大きな出来事は、ベトナム戦争だった。このベトナム戦争から、私はいろんなことを学んだ。学園紛争、全学連、私も革マルのヘルメットをかぶってデモった。社会人になった。そうこうしていたら、湾岸戦争が始まった。それからテロだ。9・11、アフガン、イラク戦争へと進んだ。その一つ一つの出来事から、子供から青年、オジサンへ、節、節を刻んで成長したようだ。ジュリーもまた、舞台で、マイクを手にとりながら、私と同じように影響を受けていたことだろう。ベトナム戦争に反対する人々の行動や多くの著作物から、整理して学びとったことが、その後の私の、政治を考える時の原理原則になった。言わば心棒になったのです。

音楽の分からない私だからか、馴染めないショーや舞台で活躍し続けるジュリーとは、肌が合わない変な奴だと思い続けてきたのだが、やっぱり、そういう変な奴ではなくて、私たちが普通に考える仲間だったのだと、安心した。

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そんなこんなで、この稿が進まなくなった、とイヤ気が差し出したたころ、びっくり記事が、朝日夕刊の一面に躍り出た。

米原子力空母が横須賀港に入港したというニュースだ。今まで、原子力潜水艦は度々寄港した。その度に寄港反対のデモにさらされた。米原子力空母ジョージ・ワシントンが25日午前、横須賀港に入港し、米海軍横須賀基地に配備された。1973年に米軍が日本に空母を配備して以来、原子力空母の日本母港化は初めてである。ミッドウェーからは4代目、キティホークと交代した。高濃縮ウランを使う原子力空母は燃料補給が必要としない。

ジュリーさん、日本国憲法九条を守る歌の次には、戦争をなくそうという歌を作ってくださいな。

できたら、ジュリーがヴィジュアル系元祖として、もっと早い時期に、ステージで、日本国憲法第9条が、窮状(我が窮状)だと叫んで欲しかった。

 

追記(080929)

新しく発足した麻生内閣の中山成彬国土交通省が、閣僚就任後たった5日間で辞任した。「成田空港の整備の遅れは『ごね得』」「日本は単一民族」との発言については「言葉足らず」と改めて撤回する考えを示したが、一連の日教組批判については、政治家中山成彬としては撤回したという考えはない、と語った。日教組については、「日教組をぶっ壊せ」と発言した。そろそろ、この稿の〆に入らなくてはならない。ここでは暴言ならぬ確信犯発言をここに羅列できないので、改めて、中山確信犯発言集をまとめよう。

ここで、日教組をなりふりかまわず応援する心算は毛頭ないが、前の文で触れてきたように、私が育った小学校から高校までの間で、この稿のテーマである日本国憲法、第9条のこと、軍隊を認めないこと、戦争をしてはいけないことを、真剣に教えてくれたのは、どういうわけか、日教組バリバリの活動家の先生だった。中学校では、今闘病生活中の体育・吉岡先生、理科・山田先生、社会・森本先生がことあるごとに、高校では岡田先生等が、戦争のない日本のために、私等は頑張っているんだ、お前達もよく勉強して、先生たちの言っているいることをなるべく早いうちに理解してくれ、とどの先生も言っていた。

ジュリーも多分同じような教育環境のもとで育ったのだと思う。

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(080913)

朝日朝刊

還暦に憲法への思いを歌う/沢田研二さん(60)

文・藤森研

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麗しの国 日本に生まれ 誇りも感じているが

忌わしい時代に 遡るのは賢明じゃない

英霊の涙に変えて 授かった宝だ

この窮状 救うために 声なき声を集え

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変わらぬ艶のある声。バラード風の歌は自身の作詞だ。毎年ライブツアーを重ね、新作アルバムを出す。還暦を迎えた今年のアルバムの9番目はこの歌だ。題は「我が窮状」。

耳で聞けば、「このキュウジョウを救うために」となる。

まぎれもない憲法9条讃歌だ。

なぜ今?

「60歳になったら、言いたいことをコソッと言うのもいいかな、と。いま憲法は、改憲の動きの前でまさに『窮状』にあるでしょう。言葉には出さないが9条を守りたいと願っている人たちに、私も同じ願いですよというサインをおくりたい」

平和への関心は昔から強い。ある時、バンド仲間と戦争の話になり、一人が喧嘩にたとえて言った。「攻められたら、守るだろう」

いや、一対一の喧嘩と、国と国の戦争は違う。そう思い至ったときに「少しプチッとはじけた」。戦争には、望まない人まで巻き込まれる。

これまでも「9条を守ろう」という文化人らの意見広告やアピールに時々、目立たないように賛同してきた。大声で呼びかける柄じゃない、と笑う。歌はソフトに終わる。

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この窮状 救えるのは静かに通る言葉

我が窮状 守りきりたい 許しあい 信じよう

新聞拾い読み5話/スポーツ編

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(080917)

朝日朝刊・スポーツ

その①松坂17勝ピンチで本領

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今季17勝をああげ、日本投手のシーズン最多勝利記録を塗り替えたレッドソックスの松坂の武器は、走者を出してからの集中力だ。与四球はリーグワーストタイの90個だが、一方で被安打率2割1分4厘はリーグトップ。要所での粘りが勝ち星につながっている。

見事なのは満塁での冷静な投球術だ。打ち気にはやる打者に対し、切れ味鋭いスライダーを中心に変化球で攻めて、バットの芯を外している。今季は14度の満塁のピンチを招いたが、1本のヒットも許していない。

野茂英雄の最多勝利記録「16」を抜いたことについて松坂は「数字上で勝利を積み重ねただけ。いつかは本当の意味で、野茂さんを超えられるように頑張りたい」

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(080918)

朝日朝刊・スポーツ

その②ナンバー8の経験

〈中川文如〉

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ラグビー日本代表箕内拓郎(32)が、充実のシーズンを過ごしている。すでに開幕したトップリーグではNECで好守に存在感を放し、最年長となった代表でも、ここまで10試合中9試合に出場。一手先を読んだ頭脳的なプレーは日本選手のなかでも群を抜く。

2大会連続の主将として臨んだ07年秋のW杯。1次リーグで敗退して「年齢も年齢。代表を続けるとか退くとか先のことは考えられない」と話した。迎えた08年、カーワン・ヘッドコーチから引き続き主将を託され、腹を決めた。「上から求められ続ける限り、与えられた役割を全うする。先を見ず、一年一年やりきる」。気は早いが、そんな彼に「次の11年W杯も」と期待したくなる。

理由は代表の苦い歴史。身体能力や若さにとらわれた選手選考で、経験という財産を軽んじては痛い目にあってきた。昨秋のW杯もしかり。海外の強豪には、確かな戦術眼でチームを導く30代半ばから後半のベテランがいた。カーワン・ヘッドコーチは大幅な若返り構想を翻し、再び箕内を軸に据えて年齢構成のバランスを重視する方針に切り替えた。

「まだ僕が選ばれるようでは問題ですよ」。3度目のW杯への意欲を聞くと、箕内は笑って返した。が、マッサージや食事など体調管理には年々神経を研ぎ澄ませている。11年に35歳でW杯に出れば日本の史上最年長。体力的に下り坂をたどっても、重ねた経験は何よりも大舞台で生きる。日本ラグビーがそれを生かさない手はない。

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080919)

朝日朝刊・スポーツ

その③なでしこ五輪効果/国内外で人気上昇/親善試合申し込み相次ぐ

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北京五輪で初めて4強入りを果たしたサッカー日本女子代表(なでしこジャパン)の人気が国内外で上昇中だ。

なでしこジャパンの佐々木則夫監督は16日、来年1月に豪州で開かれる国際大会に招待されたことを明らかにした。米国などの強豪が参加し、強化の場となることは確実だ。また、北京五輪が開幕してわずか1週間で、国際サッカー連盟理事を務める日本サッカー協会の小倉純二副会長の元に、米国とチリから親善試合の申し込みがあった。

チリからは10年に開かれる独立記念の女子サッカー大会にアジアの代表として招待されることになった。米国からも日本との親善試合が可能な来年の日程についての問い合わせが来ているという。

国際大会での実績がこれまで乏しかった日本は、欧米の強豪国との国際試合を組むのに苦労してきた。アジアでも競技をしている国が少なく、日本の国際経験が不足していただけに、各国からの招待は願ってもない状況だ。来年から再開される米国の女子プロサッカーリーグでも、「日本の選手が、何人かリストアップされていると聞いている」と上田委員長は話す。

国内でも8月31日に開かれたリーグのオールスター戦に5485人が訪れるなど、人気が高まっている。女子サカーを普及させるために、佐々木監督は「日本で大会を開いて強豪国を呼び、なでしこを見てもらう機会を作りたい」と話す。予算などの問題もあるが、日本協会はスポンサー探しも含め、大会開催を模索する意向だ。

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(080920)

朝日夕刊

その④謝罪・感謝リングで/傷害で罰金刑の坂本選手 22日復帰戦

〈久保弘樹〉

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昨年暮れ、東京・上野駅で男性社員を殴ったとして傷害容疑で逮捕されたプロボクサーが半年間の資格停止処分を終え、22日、後楽園ホール(東京都文京区)での復帰戦に挑む。後悔と謝罪、支えてくれた人たちへの感謝を胸に、リング上に立つ。

坂本大輔選手(27)は、昨年12月21日夜、上野駅で肩がぶつかったことが原因で、男性会社員にえり首をつかまれた。

相手に引きずられ、気づいたときには、右拳が会社員のあごを突いていた。会社員が倒れると、坂本選手は、そのまま立ち去った。「翌月に控えた試合のことだけを考えていて、頭が真っ白になってしまった」と振り返る。

今年1月、警視庁に傷害容疑で逮捕され、50万円の罰金刑を受けた。1ヶ月の重傷を負った会社員も暴行の容疑で書類送検され、起訴猶予処分となった。日本ボクシングコミッション(JBC)は、坂本選手に資格停止6ヶ月の処分を下した。

資格停止から3ヶ月間は自室にこもり、ボクシングや応援してくれる人たちを裏切ったことを悔やみ続けた。高校時代から走り続け、忍耐強さを培った。3戦2勝1分けとデビュー4戦目で日本ランカー挑戦に駆け上がりながら、リング外でのトラブルでは自制できなかった。「持ち前だった我慢強さを再び身につけたい」との一心で、謹慎3ヶ月が過ぎ、また走り始めた。

7月に停止処分を終えると、ジムは復帰戦を組んだ。相手は日本ランク9位。ジムのオーナーから「試合はセミファイナルだが、お前の試合がメーンイベント」と言われた。

謹慎中に74㌔まで増えた体重は、もとのスーパーライト級にようやく出場できる63,5㌔まで調整。日本チャンピオンのタイトルマッチが実現した日には、被害者の男性を試合に招待したいと思っている。「今はボクシングに戻れたことが幸せ。チャンピオンになって、謝罪と感謝の気持ちを伝えたい」と話す。

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(080922)

朝日夕刊・スポーツ

その⑤タイムマシンに乗って

100年前の人とつながる夢/イチローが作る記録

〈西村欣也〉

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彼は、タイムマシンなのだと思う。

01年の秋だったメジャーリーグの記者席はイチローと「シューレス(裸足の)・ジョー・ジャクソン」の話題で持ちきりだった。19年のワールドシリーズで、ホワイトソックスのジャクソンは八百長疑惑をかけられ、球界を追放される。少年が発した「うそだと言ってよ、ジョー」という言葉は有名だ。そのジョーが人々の脳裏によみがえったのは、イチローの記録にによってだった。

それまで大リーグの新人最多安打(1900年以降)は、11年、インディアンス時代のジャキソンが記録した233本だった。この記録をイツローが破ったのだ。

映画「フィールド・オブ・ドリームス」では主人公の農場主がアイオワのトウモロコシ畑をつぶして、野球場を作った時、時空を超えてシューレス・ジョーが現れる。

「フィールド・オブ・ドリーム」の原作「シューレス・ジョー」でW・P・キンセンらは書いた。「君がそれを造れば彼はやってくる」。その声に主人公は導かれ、球場を造った。イチローが、記録を作ったことで、ジョー・ジャクソンがファンの心のスクリーンに再び映し出されたのだ。

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04年もそうだった。10月1日(日本時間2日)セーフコフィールドは異様な熱気に包まれていた。イチローが年間安打数の新記録を樹立したのだ。それまでの記録は1920年にジョージ・シスラーが記録した257本だった。シスラーの娘でセントルイス在住のフランシス・ドラクルマンさんとその息子たちが見守っていた。シスラーの孫のボー・ドラクルマンさんは「祖父は野球に人生をかけていた。イチローもそうだ。そんなイチローに記録を破られて祖父も光栄に思っているのに違いない」

84年ぶりにシスラーに光を当てたのが、イチローだと言える。「94年に日本で210安打したが、あのころは怖さをしらなかった。今回はいろんな怖さを知って自分の技術を確立した上での数字。重みが違う」とイチローはコメントした。

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今年は、タイムマシンを1901年に移動させた。17日(日本時間18日)のロイヤルズ戦で8年連続200安打を達成した。1894年から1901年にウィリー・キーラーがマークした大リーグ記録に107年ぶりに並んだのだ。

「今年はなんとしても200本ははずせない年だった。めちゃくちゃしんどかった。安打を欲しいという気持ちが邪魔をする。できないかもしれない、という恐怖があった」。イチローからはめずらしく恐怖という言葉がこぼれた。外には見せなくても、彼は自分自身と戦い続けていた。「マイナスの空気が皮膚から入ってくる。それを避けるために、僕の世界を作り上げた」

チームは低迷し地元マスコミからはパッシングのような報道をされることもあった。「イチローは打ってもモスキート(蚊)。トレードに出してパワーのある選手を取るべきだ」という論調を掲げる新聞もあった。

しかし、イチローは自分のスタイルを変えることはなかった。「日本時代から年間200本をずっとめざしてやってきた。気持ちが変わっていない自分がいいと思う」

キーラーは「目をあけて、人のいないところへ打て」という名言を残している。107年の時を経て、イチローがそれを継承しているようにもみえる。

「100年以上も前の人とつながる。そのことに夢がありますね」

イチローが作り続ける記録は1世紀単位の記録だ。それは彼が、100年に一人の逸材であることを意味する。「自分にコントロールできることと、コントロールできないことを分ける。コントロールできないことに関心を持たない。そして、できるだけの準備をする」。イチローは繰り返し言ってきた。彼のタイムマシンは、次に我々をどこに連れて行ってくれるのだろうか。