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(080922)
朝日朝刊
その①宮沢賢治賞を受賞した作家・東工大世界文明センター長
ロジャー・パルバースさん(64)
文・写真/大野拓司
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宮沢賢治の名作「雨ニモマケズ」を英語にどう訳するか。すでに出ている英訳本は、どれも「負けず」を否定形に訳している。ところが、この人は「Strong in the rain」と初めて肯定語で表現した。
「賢治は『負けず』に、頑健な肉体と精神への願いと祈りを込めた。それを際立たせたかった」
賢治作品の英訳や、独自分析を加えた日英対訳を多数出版。賢治没後75年の22日、ふるさと岩手県花巻市から第18回宮沢賢治賞を贈られる。
「さらさら、ぽしゃぽしゃ、おろおろ、感性豊かな擬声語や光と風の鋭い描写。動植物も人も星も石ころも、宇宙の存在すべてに温かいまなざしを注いだ賢治のコスモポリタンな寓話ワールドに魅せられた」
米国出身、ハーバード大大学院で政治学を学び、東欧に留学したがスパイと間違われ国外追放。恋にも破れて帰国するとベトナム戦争のさなか。「徴兵なんてまっぴら」と逃避した先が、たまたま日本だった。23歳。最初の晩に立ち寄った東京下町の屋台で初めて覚えた言葉が、ちくわ、こんにゃく、。「注文の多い料理店」ではなかったらしい。
大学で英語を教えながら、独学で日本語を習得。小説や戯曲、翻訳、舞台演出など、活動の幅を広げてきた。32年前に国籍をオーストラリアに移し、以来、日豪を行き来する。
「銀河鉄道に乗って、どこまでも旅を続けたい。「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」
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(0809??)
朝日朝刊(ダイジェスト)
その②ポリティカにっぽん/東京政治から逃げておいで
早野透(本社コラムニスト)
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私は鳥取県で開いた「スローライフ学会フォーラム」にでかけた。鳥取市と周辺の町に会場が分かれた催しの一つ、鳥取県智頭(ちづ)町のシンポジウムを聞く。ここで寺谷誠一郎64歳という異色の町長に出会った。鳥取市との合併に反対して2期の途中で辞職、町長の座を譲り、また今年6月、住民の署名運動で担ぎ出され、返り咲きの3期目というヘンな経験の持ち主である。その話し。
「みどりの風が吹く、疎開の町をめざして」というのが町のスローガンです。町の93%は森、50年杉を伐っても大根1本の値段ですよ。でもね、こんど森を生かして町立病院で「森林セラピー」を始めたい。都会で病んだ人に疎開に来て貰って、野菜をつくったり、森の空気で癒したりしてもらうんですよ。
テーマは森。シンポのパネリスト西村早栄子さんの話。ここにきて2年3ヶ月、「森のほいくえん」をつくりたいと思っているんです。ドイツにはもう400もあるんですよ。園舎はない、こどもたちは雨でも雪でも森で過ごすんです。元気でたくましくなる。いまは、森のお散歩会をしているんですけど、10人、15人ででかけてお弁当を食べて、絵本の読み聞かせをすると、子供たちの目がきらきらする。
緑陰読書のリーダー岸本真澄さん、13戸の集落の農産物加工「知恵工房」で栃ようかんをつくる谷口貴美恵さん。パネリストは人口8千の町で、いきいきと生きるすてきな女性たち。
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(080923)
朝日朝刊
その③ウナギの故郷、親もいた。
マリアナ諸島の産卵域で捕獲/卵からの養殖へ期待
山本智之
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「ニホンウナギ」の親魚が太平洋マリアナ諸島沖の産卵海域の深海で、初めて捕獲された。水産庁と水産総合研究センターが22日、発表した。この海域ではこれまで誕生直後の幼生しか見つかっていなかった。謎に包まれたウナギの回遊ルートや産卵条件の解明につながると期待される。
ニホンウナギは日本、韓国、中国などに住む。成長すると産卵のため川を下り、海に入る。どこで産卵するのかが長年の謎だったが、東京大海洋研究所の塚本勝巳教授らが05年、同諸島沖のスルガ海山周辺で幼生を見つけ、ここが産卵海域だと突き止めた。しかし、親ウナギが捕まらず、どのくらいの深さで産卵するのかなど詳しい生態はまだわかっていない。
水産庁などのチームは今回、スルガ海山を含む広い海域でトロール網を引き、6、8月に親ウナギ計4匹を捕まえた。捕獲した深さは200~350メートルだった。親ウナギの捕獲は、産卵場所を詳しく知る重要な手がかりになる。
現在のウナギ養殖は、沿岸でとった天然の稚魚(シラスウナギ)を育てて出荷している。近年、稚魚が激減しているため、卵から育てる養殖法の開発への期待が高いが、幼生を稚魚に育てるのが技術的に難しく、普及していない。
東京大海洋研究所の青山潤・特任准教授によると、ウナギは世界に18種・亜種いるが、産卵海域で親魚が捕獲されたのは初めてで、「捕獲場所の水深や水温などは、卵から育てる養殖法を実用化する上で貴重なデータになる」という。
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(081002)
朝日朝刊
その④清原23年、花も涙も
万感の花道に桑田、イチローら/岸和田のヤンチャから、オッサンへ〈ヤマオカ〉
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プロ野球オッリックスの清原和博内野手(41)が1日、23年の現役生活にピリオドを打った。京セラドーム大阪でのソフトバンク戦に、4番・指名打者としてで先発出場。左ひざの手術などで先発は約2年ぶりだった。第3打席に右中間に適時二塁打を放つなど4打数1安打1打点、最後の打席は豪快な空振り三振だった。引退後は未定だという。
試合前、ソフトバンクの王貞治監督(68)から花束を受取った清原の目は、すでに潤んでいた。不思議な縁だ。85年秋。PL学園高(大阪)の清原は、王監督の巨人へ入ることを願った。しかし、巨人がドラフトで指名したのは、この日も姿を見せた同級生の桑田真澄さん(40)。若い頃のわだかまりは、時が解決。そして、同じシ-ズンで2人はユニホームを脱ぐ。
試合後の引退セレモニー。マウンド上の清原に、阪神の金本知憲外野手(40)らから花束が贈られた。巨人移籍後に清原のテーマ曲ともなった歌手の長渕剛さん(52)が作詞・作曲した「とんぼ」を、長渕さん自身が熱唱。満員の観客も一体となった大合唱を、清原はタオルで何度も涙をぬぐいながら聴き入った。
「清原和博のために、そしてオリックスのために来てくださって、本当にありがとうございます」と始まったあいさつ。11年間在籍した西武、9年間在籍した巨人のファンへの感謝の言葉が続く。感極まったのか、しばらく間が空き、「花道を作ってやる」とオリックスに誘ってくれ3年前に他界した故仰木彬元監督やわざわざ駆けつけたマリナーズ・イチロー外野手(34)へのお礼の言葉を語った。
「オリックスのユニホームを着たことを誇りに思い、きょう、引退させていただきます。全国のプロ野球ファンの皆さん、23年間、応援どうもありがとうございました」。場内を一周しファンに別れを告げた。最後は胴上げされ、5度、宙を舞った。
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まれな個性だった
二宮清純さんの話
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挫折と栄光の双方に彩られた、人間臭さ満点の「民衆のヒーロー」だった。これほど起伏ある野球人生を歩んだ選手は少ない。甲子園の大スターとしてプロ入りしたときは、長嶋・王のように正統的ヒーロー像を最後まで貫くと思われた。新人王に輝き、西武の黄金時代の主軸を担った。
ところが、FA移籍した巨人で結果を出せない。「俺は殺人でも起したんか」とぼやいたことがある。そして今の姿に変わる。無精ひげ、日焼け、ピアス。感情の起伏が素直に格好に出て、打席でも若い投手をにらみつける。好青年からこわもてアウトローへ。両極端のシンボルになった、極めてまれな個性だった。
95年に渡米した野茂にイチローが続き巨人を頂点とする野球選手の王道路線は崩れた。それでも清原は巨人にあこがれ、「花の都で一旗揚げたい」と言った。最後の古典的ヒーローだ。これらが幅広い層から支持された理由だろう。
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(081003)
朝日朝刊
俺は、岸和田のダンジリ野郎や(やまおか)
天声人語
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長渕剛さんの名曲「とんぼ」は都会への憧れと挫折を歌う。〈死にたいくらいにあこがれた東京のバカヤローが/知らん顔して黙ったまま突っ立っている〉。花の都に寄せる片思いは多くは裏切られ、意のままにならぬことばかり。でも無様に、無骨に生きてゆく。
長渕さんと、スタンドを埋めた3万人の大合唱に送られ、オリックスの清原和博選手が引退した。華あり、涙あり。23年の現役生活を、「東京のバカヤロー」ではなく、故郷大阪で終えた。
最終戦の相手、ソフトバンクの王監督がかけた言葉は「生まれ変わったら、同じチームでホームラン競争をしよう」。85年のドラフト。王さんが指揮する巨人軍の指名を信じて裏切られた男を、言葉で抱きしめた。同じシーズンにユニホームを脱ぐのも何かの縁だろう。
525本の本塁打を重ねながら「無冠」に終わった。最後の打席は、自身の歴代最多を更新する1955個目の三振。直球を投げ続けた杉内投手に頭を下げた。タイトルより大切なものがあると教える。美しい空振りだった。
「憧れの球団」に移ってからは故障に泣いた。投手がしつこく内角をえぐると、仁王立ちでにらみ返した。だが、そうした人間味や勇気に引かれるファンもまた多かった。インタビューの請け応えにも、飾らない人柄がにじんでいた。
日本のプロ野球は、大リーグへの人材流出で危機にある。清原選手のヒーロー伝説、あるいは反骨の物語を、ここで終わらせるのは惜しい気がする。どうにもならない不運を力にする生き方の、続きを見てみたい。
清原は、最後のボールを空振して終わった。その最後のボールを杉内投手に贈ったと聞く。清原の一面を見せられた。
テレビのある番組で、清原のヒザの手術の内容を見て、これは、現役復帰が難しいと直感した。最後の試合の第3打席目で放った二塁打も走るのが精一杯で、やっとのことで二塁ベースにたどり着いたように見えた。あんなヒザで、よく走ったものだ。
5度宙に舞った胴上げも、着地したときに見せた顔の表情は、安らぎの表情でも、歓喜の表情でもなかった。ただ痛みに耐えているだけだった。ヒザの痛みに耐える表情が、私には余りにも痛々しく感じられて、辛かった。
清原のファンでもなかったのに、ここにきて、遅ればせながらのファンの仲間入り宣言をしました。
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その後も清原の記事は続く
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(081009)
朝日朝刊・スポーツ
EYE 祭りのさなか 去った男
編集委員・西村欣也
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この寂寥感は何なのだろう、と思う。セ・リーグの優勝争いが大詰めを迎え、巨人と阪神の優勝争いは最高潮だ。祭りの中で、時代が過ぎていくのを感じている。
清原和博が引退した。彼は、プロ野球の何かを象徴していた。それは昭和の香りではなかったか。村山実が長嶋茂雄をライバルとし、江夏豊は王貞治を宿敵とした。江川卓と掛布雅之の直球だけの勝負も記憶から消えることはない。
清原はその流れをくむ男だった。野茂英雄や伊良部秀輝との勝負。桑田真澄との「Kk対決」。チームの勝敗だけでなく、個人と個人の勝負が観客を引き込んだ。
そんな男が球界から去る。王監督の退任とともに、時代の歯車が大きく動いた。
「無冠の帝王」だと呼ばれた。しかし、通算サヨナラ本塁打12本、サヨナラ安打20本はともにプロ野球記録だ。ファンの心のスクリーンに刻印を残した証明だ。
通算1955三振、196死球もプロ野球最多記録だ。たたえる記録ではないかもしれない。が、打席を投手との決闘の場に選んだ男の勲章でもあるだろう。
よく泣いた。巨人に指名されなかったあの日、87年、巨人を下して日本一になる時は、試合が終わる前から涙があふれた。引退試合では王監督に「来世、生まれ変わったら同じチームで本塁打競争しよう」と言われた。祭りが最高潮であるほど、寂しさがつのっていく。
eye
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